私とNDT

 

[編 安井省侍郎]


NDTとは、National Debate Tournamentの略で、アメリカで最も歴史のある、ディベートトーナメントの略称です。しかしNDTは単なる大会の略称ではなく、今日行われている、証拠資料を多用した論証を重視するディベートスタイルの別名でもあります。日本の英語ディベートは長く大学のESSが担ってきましたが、本格的にこのNDTのスタイルや理論が導入されたのは80年代はじめ、NAFA(全日本英語討論協会:大学ESSが主体となった英語ディベートの全国団体)が設立された前後であると聞いています。

NDTは、特に80年代前半から半ばにかけてディベートをされていた方に非常に大きな影響を及ぼし、80年代後半から90年初等までも、理論の面では大きな影響を与えていました。しかしながら、現在では、NDTのテープを聴いたり、JAFA(Journal of American Forensic Association)というディベート関係の論文雑誌を読んだりしたことのある人は非常に小数であろうと思われます。

今回の特集は、日本の英語ディベートに及ぼしたNDTの影響というものを古い順に年代別に並べることで、NDTに対する絶対受容から批判的受容へという流れを俯瞰するとともに、現在NDTで試みられている新たな取り組みをNDTの現役ディベートコーチ等からの寄稿で紹介します。今日ではほとんど省みられることもない、しかし、今なお、現在行われている英語ディベートの原典であるNDTについての理解を深めていただき、英語教育としてのディベートという側面からも、NDTを再度評価していただければ、と思います。


 (やすい しょうじろう JDA理事 ニューズレター編集長)



私とNDT

井上奈良彦



私はNDTをこの目で見たことがない。しかし、私がディベートを学んだきっかけは、大学のESSでディベートを始めたからである。その後、ディベーター、コーチ、ジャッジ、研究者としてディベートに関わってきたわけだから、いわゆるNDTスタイルのディベートとの関係は深い。以下、NDTディベートとの出会いを語ることで、私がどのように現在の研究に至ったかや、NDTディベートの意義を考えてみたい。

1976年、私が入学したころの京都大学ESSのディベート・チームは数年前の崩壊から立ち直り、京都地区の大会などで勝てるようになっていた。しかし、ディベートの理論や教科書というものがあるということすら知らなかった。そういうものがアメリカにあるということを教えてくれたのは、当時、関西地区でディベートの指導をしていたCarl Becker氏(現京大教授)であった。早速、私たちは丸善に行き、そこにあったアメリカのディベート教科書三冊を購入、分担して読むことになった。私が手にしたのは Summers, Whan, & Rousse著How to Debate (1963年版)というもので、350ページを超える本ではあるが、政策論争分析については若干の記述があるだけで一般的な論証や反駁の仕方について詳細に書いてある。その後、私のディベート関係書籍、雑誌、テープ類は増えつづけ、現在、研究室の壁の半分程度を占めている。おそらく教科書だけで100冊はあるだろう。

1978年、当時は設立当初のJEFA(Japan English Forensics Association)が運営していた日米交歓ディベート・チームを招いて京都地区でディベート合宿が行われた。参加者は数人しかなく、密度の濃い指導を受け、日米混成チームで試合を経験した。この時のコーチ、マサチューセッツ州立大のRonald Matlon博士の誘いに応じて、同大学の高校生向けディベート夏合宿(Summer High School Debate Workshop)にゲスト参加することになった。私にとっては、この合宿がNDTディベートとの出会いであり、ディベート研究へ進む原点と言えるだろう。合宿は、2週間にわたって、60名の高校生が大学の寮に泊まり、自由に図書館を使うことができた。Workshop、Institute、Campと呼ばれるこのような合宿は基本的には現在も変わっていないと思われる。

講師陣は充実していた。主催のMatlon氏はNDTディベートについての研究もあり、その後リーガル・コミュニケーションを中心に活躍する。Charles Arthur Willard氏は、いまや議論学の重鎮であるが、当時はダートマス大のAssociate Director of Debate、合宿ではディベート理論の講義だけでなく高校生の論題の解説などもしていた。彼の議論学の論文も難解だが、合宿の講義も難解との評判であった。Richard Lewis氏は1969年にハーバード大チームでNDT優勝、決勝の1ACでCIAを裸の王様に喩えたスピーチの「語り」は有名である。当時はベイツ大のコーチで、長髪のヒッピー・スタイル、フォルクスワーゲンのおんぼろバンの中でハツカねずみを飼っていた。講義は抜群に上手であった。寮で私が同室になったのは、ダートマスのStephen Meagher(モアと発音する)、1980年のNDT3位、トップ・スピーカーとなった。このような指導陣が8人、上級・中級各4チーム(Squad)に分かれた高校生に付き、合宿の後半ではトーナメントに向けた準備を手伝う。

このような合宿から得たことは、当時盛んになりつつあった理論・戦略・戦術の知識および帰国後の大会で使えた原発関連の膨大なエビデンス(アメリカの高校生の論題もエネルギーであった)だけではなかった。2つの教訓を挙げておく。

教訓1. NDTディベートを外国語としての英語でやるには限界がある。当時、アメリカでは既に高校生の政策ディベートもブリーフを多用した早読みのスピーチであり、Policy-MakingやHypothesis-Testingのパラダイムが導入され複雑な議論が試合の中で展開されていた。エビデンスはHandbookと呼ばれるエビデンス集だけでも膨大な量になり、強いチームはそれを超えていかねばならない。一方、日本のディベート界はまだ、ほとんどESSの中の世界であり、アメリカ人からは外国語でディベートできるなんてすごいと言われても、ディベートの普及・議論の深まりともに限界は明らかであった。今日、英語によるディベート能力の必要性は大きいものの、ディベート教育の中心が日本語に移っていくのは当然の流れであろう(ESS出身者としては寂しいことだが)。

教訓2. ディベートを組織的に教育しないといけない。アメリカ人も訓練しないとNDTディベートはできない。当たり前のことではあるが、当時、合宿トーナメントで初心者のディベートをジャッジさせてもらい、Organizationが悪いなどとバロットに書くことになったのは、新鮮であった。アメリカではディベート教育が組織化されている。当時も、講師は合宿に来た高校生にディベート奨学生として自分の大学に来るように誘っていた。大学にはコミュニケーションやスピーチの学部があり、教育・研究者がいる。ディベーターの一部は専門として理論や指導技術を学ぶ。大学院生はアルバイトでTAをしたりディベートクラブの指導をする。その中から大学に教員として残っていく者がいる。このような組織によってNDTは支えられている。「議論法の実験室」としてのNDTディベートは「専門家」という限られた聴衆を相手にする特殊なディベートという問題を抱えながらも、この教育体制は、一つの理想形である。

批判も多いNDTではあるが、このような体制があるからこそ、優れたディベート・プログラムでは、オーディエンス・ディベートを含む多様なディベートを経験させたり、教育的意義にも気を配ったコーチングができるのであろう。学生を主体にした日本のESSやディベート部は「指導教員のいない実験室」という危険をはらんでいる。日本の大学でも学部・大学院を通じた議論学やコミュニケーション学の教育・研究組織ができ、中等教育・高等教育が連携したディベート指導体制ができることを願っている。私も微力ながら貢献していきたい。

(いのうえ ならひこ 九州大学教授)



三題噺「私・NDT・日本のディベート」

瀬能 和彦


NDTにはすべてがあった

私がNDTを知ったのは、高校2年のときでした。当時、英語に興味を持っていた私は、松本道弘氏の著作を読んで、書かれていた「英語道を極めるには、同時通訳と英語ディベートだ」という主張に感銘し、すぐさま同時通訳関係の書籍とディベート関係の書籍を購入したのでした。その時に買ったディベートの本は、アルクから出版されていた「地上最強の英語 これがディベートだ!」という、今考えても、何とも凄いタイトルの本でした。これは、現代の形式のアメリカのディベートについて書かれた初めての"一般向けに出版された"書籍で、後に日本のディベート界の方向性を決定付けた伝説的な本でした。(その方向性の善し悪しはいろいろ意見の分かれるところですが。)その本を読んで、別売りでアメリカの大学ディベートの決勝戦のテープがあることを知り、値段が高校生には少々高かったものですから、近所の区立図書館に購入を依頼しました。しばらくして、図書館からテープが納入されたとの連絡が入り、早速テープを借りて聞いてみました。

それは、正に衝撃的な体験でした。「速い!とてつもなく速い!」NDTでは、肯定・否定両チームとも入念に準備を行い、試合中には、膨大な数の議論が提出されるため、とても人間業とは思えないスピードでスピーチが行われるのです。NDTのディベートを、一般の日本人に聞かせると、"市場での競り"とか"アメリカの競馬中継"とか言われるくらいです。このある意味"異常なスピード"のスピーチを聞くと、まず"引いてしまう"人がほとんどなのですが、私の場合は、「速い!」という気持ちと共に、「心地よい。これは本当に地上最強の英語だ!」という印象を持ちました。まぁ、普通じゃないですね。(^^)

NDTにはすべてがあるとはじめに書きましたが、大学でESS(英語研究会)に入り、ディベートを学び始めて、NDTでは、情報量、議論やディベート理論の多様さ、分析の質と深さ、戦略の巧妙さ、スピードなど、どれをとっても究極まで突き詰めた形で議論が行われることを知りました。NDTは正に"議論の実験室"なのでした。

NDTと日本のディベート
先ほど述べたように、80年代初頭にNDTと同じようなスタイルのディベートが日本の大学英語ディベート界に導入され、それは現在でも大学英語ディベートの源流となっています。(最近では、NDTに関心を示す大学生のディベーターもめっきり少なくなっているようですので、ディベーター本人はその事実を認識していないかも知れません。)しかし、私は、これまでの経験から、NDTと日本の英語ディベート界には、いくつか構造的な違いがあると思っています。そのうちのひとつが、議論の淘汰に関してです。NDTでは、各大学のディベート・チームは、基本的にスピーチ・コミュニケーションやディベートを専門とする大学教員によって束ねられ、指導されています。彼らは大会などではジャッジとして試合の判定とディベーターの指導に当たります。このように、NDTでは、ディベートは単なる部活動に終わらない教育活動という意義付けがきちんとなされているのです。

そういった訳で、NDTディベートでは、"議論の実験室"の中で次々と提出される様々な議論・理論が、その教育的な価値によって判断され、淘汰される傾向にあるのです。比べて日本では、ディベートは大学のサークル活動のひとつとして行われており、ジャッジや指導者でディベートの教育を専門とする者が、徐々に増えてきてはいるのですが、まだまだ少ないというのが現状で、構造的に、教育的な観点からの指導や議論・理論の淘汰が、アメリカに比べると、起こり難くなっていると思います。短期的に指導層にディベート教育の専門家が急増するという事は難しいと思いますので、ディベーターも指導者も、ディベートは教育活動なのだということをお互いに充分に認識して活動を行う必要があると考えています。

(せのう かずひこ JDA理事、都立墨田川高等学校)




NDTディベートの衝撃と反復

ディベートで必要なことは全てNDTから学んだ
All I needed to know in debate I learned through NDT


田村洋一


NDTに出場したこともないのにおかしいかもしれないが、いま振り返ってみると、ディベートで必要なことは全てNDTから学んだ。これは私だけでなく、1980年代前半に日本で英語ディベートを始めた人達の多くがそうだろうと思う。
およそ学習の要諦は衝撃と反復である。NDTディベートは私に衝撃を与えた。そして、私はNDTディベートを反復した。理論や実践を理解するより先に、耳と目とからだで感じたディベートのリズムと躍動感。これが私のディベート観やその後のキャリアを大きく左右したのだ。

最初の衝撃は、『これがディベートだ。地上最強の英語』(アルク社刊 English Journal別冊)に収録された1981年NDT決勝戦の録音テープである。意味もわからずに聴いた。私の周りには反駁のスピーチを丸ごと暗記している人もいた。私自身は暗記しなかったものの、いくつかのフレーズは20年経った今でも口をついて出てくる。おぼえるともなく、身体にしみついてしまった。ほとんどお経のようなものだ。

このテープでもうひとつ興味深いのは、試合終了後のインタビューである。「ディベートは言葉のボクシングですよね」と頓珍漢な問いを繰り返す日本人のインタビュアーに対し、「ディベートは合理的意思決定(rational decision making)プロセスなのです」とクールな返事をしていたアメリカ人コーチ。ただ、その発言の意味を本当に理解するまでには何年もかかった。

ふたつ目の衝撃は、日米交換ディベートで来日したアメリカ人ディベーター達である。1983年に来日したオブライアンとガートナー。彼等のスピーチは洗練されていて、日本人のディベーターのそれとは明らかに異質だった。対戦した日本人選手の方々には申し訳ないが、アメリカ人ふたりの部分だけ抜粋し、編集したテープをウォークマンに入れて繰り返し聴いた。擦り切れるほど聴くうちに、いつしか言い回しやリズムが乗り移っていた。

1985年に来日したレニー・ゲイルは、更に衝撃的だった。ゲイルとそのパートナーのグラントは、日本においてはディベート以外の天真爛漫な素行によって我々の記憶に強く残っている。しかし、特筆すべきは彼のディベートスタイルと技術である。スピードや情報分析ではなく、洞察、表現、戦略的直観において群を抜いたディベーターだったのである。

NDTは分析と情報処理に偏重し、スピードによってコミュニケーションを破壊している、という批判が古くからあった(その昔CEDAが創設されたのも、NDTのアンチテーゼとしてコミュニケーションを復活することが狙いだったのである)。しかし、ゲイルに代表されるトップ・ディベーター達は当然のごとく、スピーチ速度のみならず、戦略的な判断力や意思疎通に卓越した力量を誇っていた。そして、それこそが我々を魅了してやまないNDTディベートの強さの源泉だったのである。

その後、私はニュージーランドで英国風ディベートに触れ、渡米してCEDA、リンカーン・ダグラス方式など様々なディベートに参加したり、観戦したりしたが、NDTの衝撃を上回る経験をすることはついぞなかった。

数十本持っていたNDTディベートの録音テープは、1986年に大学の後輩だった花野博之に貸与して以来、一度も戻ってきていない。あのテープは、今どこでどうしているのだろうか。

(たむらよういち JDA理事 メタノイア・リミテッド)




私とNDT

佐藤義典



私は当時ディベート修行中の大学生だった。「佐藤、これ聞いておけ」と一言言われて、WESA(早稲田大学英語部)の先輩から渡されたテープとスクリプト(当時(1986年ごろ)にはMDなんかは無かった)。
「何ですか?」
「おまえが目指すべきものだ。とにかく聞いてみろ」
「はあ」
とりあえず聞いてみた。「何じゃこりゃ?」 英語らしいのだが速くて全然わからない。これ本当に英語か、と思った。当時のFEN(今のAFN)のニュースより遙かに速い。ときたま、81、80、76などの数字が聞こえる。これは証拠資料の年代を言っているのだが、聞き取れたのはそれだけだった。スクリプトを見ながらテープを聞いてみた。確かに英語のようだ。

「こんな世界があるんだ! これができれば俺も絶対勝てるはずだ!」
それからは毎日夢中になって聞いた。1試合90分くらいなのだが、それを1日2回聞いた。通学時間中やご飯を食べているときなど、暇さえあれば聞いた。私が愛用したのは、1981年のNDTだ(おそらく日本でも一番有名)。「地上最強の英語」(絶版)では、スピーチの一部しか録音されてないが、先輩からもらったテープには全てのスピーチが収められていた。

最初のうちは、英語を聞きながら、スクリプトを目で追うだけで精一杯だった。私が英語を読むよりはるかに早いスピードで話されるスピーチ。しばらくするとスピードには慣れたが、それでも英語を理解するので精いっぱいだった。しかし楽しかった。聞く度に発見があったからだ。
「英語ではこういう言い方をするのか」
「なるほど、こういう風に言えば、言葉を短くしてしかもわかりやすくできるんだ」
「カードアタックはこうすればいいんだ」
テープを真似して読み練習をしているうちに、自分のスピーチスピードも上がっていった。スピーチを暗記してマネして、自分のスピーチに取り入れただけでもスピーチ力が向上した。当然だ。ネイティブ英語をそのまま使っているのだから。

さらに驚いたのは、その中身を理解したときだ。やっと英語に慣れてきたので、自分でフローを取ってみた。1981年のNDTは否定側第一反駁(1NR)への賞賛を良く聞くが、私の意見は違う。このラウンドのベストスピーカーは肯定側第一反駁(1AR)だ。Negative Blockで出された10以上の議論を、驚くべき論理力でまとめあげて反駁している。例えばこんな調子だ。「否定側は、潜水艦を建造するとまずい、という不利益を出しながら、潜水艦をつくることはできない、という利益への攻撃を同時にしている。従って私たちは潜水艦をつくることはできない、ということは認めよう。そうすれば、潜水艦を建造すると起こる不利益も起きないことになる」と。相手のスピーチの矛盾点を突き、巧みに自分の反駁に利用する、戦略眼。すさまじいまでのスプレッド(議論の拡散)を次々と的確に処理していくコンパクトなスピーチ。そして、それに対処しながら、肯定側第一反駁のわずかな隙をついて、自らの勝利につなげていく否定側第二反駁(2NR)。

それから1983年のNDTの肯定側反駁。ほとんど負けている試合から一縷の勝利への細い細い道筋を見つけだし、肯定側利益をほほ失ったにも関わらず、否定側不利益へのターンアラウンドに集中して勝利を奪い取ったその執念。自分がやっていたディベートとは次元の違う世界だったが、とにかく理解しようとした。聞いているうちに、そういう戦略的な考え方が自分の中にしみこんでいった。

まさにNDTは私のディベートの師匠だった。NDTを聞いて英語を学び、NDTを理解してディベートの勝ち方を学んだ。
時が過ぎて大学4年生になり、就職活動のために、初めてTOEICを受けた。ほとんど試験対策はせずに。リスニング部門の英語がやけにゆっくりに感じられた。そりゃそうだ。ニュース英語の数倍の速度の英語を毎日何時間も聞いていたのだから。結果は830点。ほとんど試験対策せずにだ(ちなみに現在のスコアは975点)。そのかなりの部分はあの超高速英語に慣れたおかげだと思う。

英語でディベートをやっている方、もしくは志している方なら、81年と83年のNDTはぜひ聞いておくべきだ。英語、ディベート両方の意味で、学べることが山のようにある。最初はとっつきにくいかもしれない。しかし、テープとスクリプトさえあれば、これまでとは違った世界が開けてくることを約束する。まずはとにかく聞いてほしい。そして、私がやったように、スクリプトを見ながらでもいいから、フローをとって欲しい。今だから言えるのだが、81年、83年の試合の流れは、それぞれディベートの典型的な勝ちパターンだ。これらを毎日聞けば、英語もうまくなるし、ディベートも強くなれる。
NDTのすばらしさを後輩に伝えるために、私はWESAの新3年生に対しては、81年のNDTの勉強会を行う。英語ディベーターとして最初にやっておかなければいけないことが、これだからだ。今年ももうそんな時期になった。さあWESAの連中を集めようか・・・。

(さとう よしのり ラップコリンズ(株))





NDT:「ディベート教育のフォーラム」か「ディベートの祭典(パーティ)」か。

臼井直人


George W. Ziegelmueller。アメリカのディベーターやコーチたちは彼のことを気さくに''George"と呼ぶ。しかしこのGeorgeはNDTやアメリカでのディベート教育に最も長く関わっている人間のひとりであるアメリカ・ミシガン州のWayne State Universityのコミュニケーション学部のZiegelmueller教授である。どれくらいキャリアが長いかというと私が産まれた1966年にWayneのチームをNDTの決勝へ導いているくらいである。もう40年近くコーチをしているということだ。

私はWayne Stateの大学院に在籍していた1993年から1995年まで、同大学のGeorge率いるディベートチームにアシスタントコーチとして参加し、また修士論文のアドバイザーとしてもGeorgeから様々なことを学んだ。2回NDTにも連れていってもらった。Georgeは「鬼コーチ」というよりは我々コーチ陣にとってもディベーターにとっても「父」のような存在だった。もちろん議論作成などには厳しいアドバイスをするが、自分のチームの大学生ディベーターをまるで実の子供のようにかわいがっていた。NDTに関わるすべての人はGeorgeを愛し、心から尊敬していた。

彼のコーチ哲学は「ディベートの目的は教育である」という事である。議論の内容はもちろん、大会に出場する時のディベーターの服装、スピーチをする際のデリバリーや相手チームやジャッジへのマナーなど、大変厳しく指導をしていた。また大会期間中の飲酒(ましてや非合法ドラッグの使用)の厳禁なども、チームのルールとしていた。ディベートの競技はもちろん楽しい。しかし大学でそれをやる以上、なんらかの教育目的がなくてはならない。そんなGeorgeはWayneの、そしてディベート界全体の良心であった。

アメリカの競技ディベートにおいて、NDTはディベーターなら誰でも憧れる伝統と権威のある大会である。優勝トロフィーには半世紀をこえる優勝ディベーターたちの名前が刻まれている。大会もベスト8の試合からは国内有名ホテルなどで行われ、予選試合日の2日前には公開ディベートなどの行事やホテルにおいて晩餐会が行われる。この晩餐会は国会議員の基調演説があったり、功労賞の授与式が行われたりするフォーマルな形のパーティである。私も初めてNDTに参加した時に、大会前のこれらの行事が大変印象的だった。行われる試合も、ベスト8以降などは非常に高度な内容の議論が戦わされ(ていると思う。私には理解不能なくらい難解で早口である)、決勝戦が終わって判定が出るのに1時間以上もかかったりするほどである。まさにそこにはディベートというartが存在し、そこで知的に磨かれていくトップクラスの学生達の「教育のフォーラム」が存在するようであった。

このような権威ある大会としてのNDTがある一方、この大会は年に1度のディベートの「祭典(パーティ)」なのである。広大なアメリカ全土に広がるトップディベーターやコーチたちはディベートを通じて強いつながりを持っており、NDTはそのような人々が一年に一度一同に会する「祭」なのである。久しぶりに会った仲間であれば、当然夜は再会を酒で祝いたくなるもの。コーチ陣は毎晩バーに集い、そして一部のコーチの間ではマリファナやそれ以上のハード・ドラッグも普通にやり取りされている。そして先述の通りベスト8からはホテルで行われ、決勝戦が行われるのは夜9時過ぎというのも普通である。そして決勝戦はそのような祭典としてのNDTが最高潮を迎える時である。会場となる大宴会場では決勝戦が行われる一方で、客席に目をやれば決勝戦にコマを進めた2チームのコーチや補助で参加している学生たちは安堵の表情でビールをあおり、それ以外のチームの人たちも酒を飲んでいる。試合後にジャッジが判定を出す長い時間の中では決勝会場は大パーティルームと化す。酔っぱらっている人々が入り乱れ、ドラッグでハイになっているコーチが会場を徘徊する。そこに見られるものは別段驚くにたらない。私の大学の近くの居酒屋で普通に見られる大学生達の「飲み会」である。一度、決勝の晩の翌朝早くその会場となった部屋へ戻ってみた。そこで私が見たものはおびただしい数の空きビール瓶と缶の山であった。この乱痴気騒ぎを一番嫌っていたのはGeorgeだったに違いない。「ディベート大会は教育の現場なのである。」そう信じる老コーチの嘆きを私は直接感じることができた。

また権威ある競技ディベートの祭典のために費やされるものはディベーターやコーチの大きな知的努力だけではない。莫大な「金」もNDTの勝利に直結する。ディベートチームの活動予算規模は各チームによって様々である。Wayne Stateの場合はGeorgeがなんとかディベートを行える環境と整えるべく、コーチングで忙しい中でもチームの卒業生などに声をかけ寄付集めに奔走していた。今でもディベートチームの作業場にあったフィーダーやソーターもない、1枚コピーを取るのに5秒ほどかかる小さなコピー機が、大会前に膨大な量のブリーフをコピーするのに悲鳴をあげていたのを思い出す。一方大企業からスポンサーシップを受けているチームはそうでないチームに比べて潤沢な資金を使ってリサーチができる。アメリカではリサーチはLEXIS/NEXISといった商用オンラインデータベースなどを使うものが主流になってきており、NDTの会場では参加校分の端末が用意され、試合と同時進行でデータベースによるリサーチをどの学校でも行う。しかし潤沢な資金を持つチーム、すなわち「NDT常勝チーム」は、それ以上のことを行い、他チームよりも抜きん出ようとする。私が参加したジョージア州のある小さな町で行われたNDTでは、ある常勝チームがヘッドコーチ、大会会場のLEXIS/NEXISを扱うリサーチ係、同じ州にあるEmory Universityという大きな大学の図書館にいるリサーチ係を、当時はまだ珍しかった携帯電話でつなぎ、新出議論があるとすぐに連絡を取りリサーチを始め、Emoryからはブリーフを会場にfaxで送るという方法でアーギュメントを供給していた。「それだけやれば負けるはずはないわよね」と一人のWayneのディベーターは呆れていた。そして大会終了時、あの温厚で寛大なGeorgeが「こんなにも金がものをいうディベート大会とはいったなんなんだ?だからいつも上位に行くチームが固定されてしまうんだ」と本気で嘆いていたのを、私は鮮明に覚えている。競技ディベートなのだから当然勝ちたい。しかし「勝つためならどんな手段でも取る」というように考え出す人が出てくるのは、洋の東西を問わず共通である。

Georgeは最後まで「教育」にこだわった。National Debate Tournamentはその権威ある最高の教育フォーラムであると信じていた。野球帽をかぶり、髪の毛や髭を伸ばし、Grateful DeadのTシャツに短パン姿で、時に椅子に座ったままスピーチをする。相手の準備時間中に部屋の外へ出て喫煙をする。そんなディベーターが普通になってきている中、Georgeは自分のチームのディベーターにネクタイ着用、起立してのスピーチを義務付けた。アメリカの多くのディベーターは高校からディベートを始め、大学生になるころにはかなり経験を積むことになる。そして強剛チームの中にはトップクラスのディベーターを育てることに集中するために高校ディベート未経験で初めて大学からディベートを始める新人ディベーター(novice)を育てることをしないことがあるが、Georgeはnoviceの大学1年生を、3年生の時にNDTでベスト8の一歩手前まで進む程のディベーターに育て上げた。NDTの「教育フォーラム」としての側面と「祭典」としての側面のはざまで、Georgeの存在はその両者のバランスを、少なくともWayne Stateのディベートチームの中ではとっていたと思う。高齢のGeorgeはいずれNDTから完全に引退するときを迎えるだろう。そのときにこの「権威ある」ディベート大会はどのような方向に流れていくのであろうか。しかしどのような方向に流れていくとしても、私はGeorgeが存在し活躍していた時代のNDTの姿とGeorgeの魂を忘れない。そしてこれからも私が日本においてディベートに関わっていくならば、私はGeorgeの「息子」であり続けるであろう。

(うすい なおと JDA理事 神田外語大学講師)




NDTの残したもの

小西卓三


がディベートを始めた1990年初頭は、もうNDTを聞いて直接まねるという時代ではなかった。周りでNDTを聞いている人もそれほど多くなかった。とはいえ『地上最強の英語』(アルク社、絶版)はまだ手に入ったし、NAFAの講座でNDTのスクリプトを使っている方もいた。見聞きした感じでは、80年代後半ほどではないものの、NDTは学ぶ(まねる)べき一つのモデルとしての役割を果たしていたと思う。

もうスクリプトすら発行されなくなったNDTだが、日本の競技ディベート(除くパーラメンタリー形式)には、日英語を問わずその影響は無視できないものとして今も存在していると思う。資料の重視、母語話者でも理解できない早読み、専門化された審査員など。日本語ディベートの場合直接影響を受けたとはいえないかもしれないが、NDTを一つのモデルとしてとらえていた英語競技ディベートの出身者がかかわっている事を考えると、多少なりとも間接的な影響はあったのだろう。

 「NDTからの日本の競技ディベートへの直接・間接の影響はよいものだったのか?」正直なところ、私は自信を持って「よい」とはいえない。会場に行ったときに目の前で繰り広げられることの多い、システム分析・偏狭化された功利主義に基づくディベートを見るにつけ、その起源であるNDTに考えを及ぼさずにはいられない。学ぶべきディベートであったNDTから、自分を含むディベート界の人間が意識的・無意識に再生産してきた結果としての現状を見ると、残念な気持ちがある。行為の結果を見る方法論(システム分析・功利主義)と引き替えに価値の分析がなおざりにされていることは、「ディベートと社会のつながり」を考えた場合問題だと思う。社会でディベートが行われる場合には事実のみならず価値についての議論が起こることをふまえると、競技ディベートをしても社会でディベートができるようにならないということもあり得る。こういったNDTが残した負の遺産をみると、「NDTはよい(よかった)」とはいえない。よい部分はあっただろうが、それでも心の中にはひっかかるものがある。

NDT的ディベートをあがめず、ディベート自体を見つめていくこと(命題の肯定・否定にはどのような方法があるのか、どのような価値の比較方法があるのかなど)で現在のディベートはまだまだよくなると思う。ディベート自体に帰り、そこから新しく道を作っていくこと。教育者として、競技ディベーターでない学生の前に立ってディベートを教える機会にも恵まれている自分に課せられた一つの使命なのだろうと考えている。

(こにし たくぞう JDA会員 東海大学講師)



Lingua Frankly;

Debate as a democratic process

Takashi Suzuki


How can one tell if any given nation is truly democratic? One clue is whether the nation conducts public debate and discussion on crucial issues. Citizens committed to democratic ideals should participate in public conversation by generating arguments for and against proposed programs.

This idea churning can contribute to more informed and legitimate collective decisions, while also contributing to the vitality of a debating public. The controversy in Japan over the computerized resident registry network is one recent example of how citizen debate can enrich public understanding of issues and shape the course of government policy.

On Aug. 5, I invited Gordon Mitchell, associate professor of communication and director of debate at the University of Pittsburgh, to Tsuda College, Tokyo. Mitchell's visit was part of a public debate project funded by a grant from the Japanese Academy of Science. As explained in my column titled "Public debate in Pittsburgh" (Dec. 28, 2001), public debate can be an effective educational tool in society. Since Mitchell has convened numerous public debates in the United States, I believe it worth reporting on his lecture titled "Critical Thinking, Education and Public Debate."

Mitchell differentiates three spheres of argument. One is the private sphere, where each individual makes decisions about his or her private life--when to wake up, what school to attend, or where to live. Another is the technical sphere, where experts make highly sophisticated decisions in specialized realms such as science, medicine and the military. A third is the public sphere, where citizens come together to deliberate on pressing matters of collective importance.

The public sphere is a site for public opinion formation, where tentative agreements on issues can evolve into a consensus, or conversely, where the terms of disagreement can be sharpened and better understood. In some respects, an active Japanese public sphere is at odds with the spectator approach to politics currently taken by many Japanese citizens.

Mitchell suggests that students and teachers of argumentation can play significant roles in promoting public discussion, since certain types of academic debates open up space for citizens to interact in the public sphere. However, not all academic debate exercises are designed for this purpose. Mitchell emphasizes important distinctions between tournament competition and public forum debate models.

Initially, he contends that while the primary purpose of tournament competition is to develop students' skills, the main aim of the public forum model is to inform general audiences and provide citizens with space for political participation. Also, competitive debate tournaments are limited to the classroom, whereas public forum debates are held in civic venues where citizens regularly gather.

Finally, tournament competition is, by nature, simulation or practice, while public forums intend to energize public dialogues that bear directly on impending collective decisions facing communities.

Mitchell argues that tournament competition is a protected, safe space, since the debaters are merely playing the role of advocate. On the other hand, public forum debate involves certain risks, because it can take place at a library, firehouse, or city hall, where students present arguments directly to public audiences.

There has been much discussion in the United States about the relative merits of the tournament competition and public forum models of academic debate, with the two approaches often pitted against each other.

However, Mitchell suggests that they may be complementary. In particular, he notes that many of the skills developed in preparation for competitive debate tournaments carry over well to public debate settings.

Tournament debaters must prepare by anticipating a wide variety of arguments from their opponents. This ability to survey controversy panoramically can help public debaters isolate key points for public judgment.

Next, tournament debaters work hard on honing rebuttal and refutation skills. These same skills can enact the productive clash of argument in public settings. Furthermore, the sophisticated research skills that competitive debaters refine to achieve tournament success can be used to enter important information into the public record during public debates.

Finally, the lively give-and-take that occurs during the cross-examination periods of tournament debates serves as a model of active listening that can enrich conversation in public forums.

Mitchell emphasizes that these potential points of synergy can be tapped to replenish public deliberation, the lifeblood of democracy. For this to occur, however, he points out that students and teachers of argumentation need to recognize the value of participating in both tournament and public forum models of debate.

I couldn't agree more with Mitchell in that the Japanese people must realize both their rights and responsibilities as public citizens in a democratic society.

Reprinted by permission of the Daily Yomiri
(Suzuki is an associate professor of Speech Communication at Tsuda College)




The joint Pitt-Tsuda program

Gordon R. Mitchell


For years, the WPDU has attracted attention of other debate societies with its unique blend of competitive intercollegiate policy debate and public debating activities. Last summer, Director of Debate Gordon Mitchell received two invitations to share the WPDU philosophy with international audiences. One invitation came from Kenneth Broda-Bahm, Professor of Communication at Towson University. Professor Broda-Bahm sought out Dr. Mitchell to help develop curriculum for the Southeast European Youth Leadership Institute (SEEYLI), a summer workshop focusing on public debate. A second opportunity for Dr. Mitchell to interact with international audiences last summer came as part of an ongoing public debate project developed jointly by the University of Pittsburgh and Tsuda College.

The Southeast European Youth Leadership Institute, held in August 2002 at Towson University in Baltimore, Maryland, was designed to provide 78 high school students from Bulgaria, Kosovo, Romania, Serbia, Macedonia and Montenegro an opportunity to study civic culture and engage in public debating activities. Dr. Mitchell played a central role not only in creating but in executing the public debate curriculum for the program, which focused on development of student skills in critical thinking, oral communication, research, refutation, as well as public debate organizing and promotion acumen. The rich history of public debating activity at the University of Pittsburgh proved to be a very useful pedagogical resource for the institute, as students honed their own public debate projects by studying the formats, transcripts, and promotional materials from several WPDU public debates conducted in Pittsburgh during the past few years.

SEEYLI was made possible by a unique partnership between the United States State Department Bureau of Educational and Cultural Affairs and the Open Society Institute, a non-profit foundation dedicated to promoting the development and maintenance of open societies around the world. Dr. Mitchell's article on SEEYLI, "The Blooming of Balkan Public Debate," appears in the latest issue of Controversia: An International Journal of Debate and Democratic Renewal. More information on SEEYLI can be found online at http://www.idebate.org/seeyli/.

Also in August 2002, Dr. Mitchell traveled to Tokyo, Japan for a similar public debate project designed to bring the energy of public deliberation to students and faculty at Tsuda College. This project, funded by a grant from the Japanese Ministry of Education, brought student debaters together with university teachers and members of the public for a series of meetings to discuss pressing issues facing the community. Topics covered during such events included a debate on citizen eligibility standards for children of Japanese immigrants and a discussion of the proposed computerized resident registry in Japan. These debating activities received coverage in the English version of the Daily Yomiuri, one of Tokyo's highest-circulation newspapers. Together, Dr. Mitchell and Takeshi Suzuki, Associate Professor of English at Tsuda College, plan to publish proceedings of these activities and pursue renewal of the current Japanese Ministry of Education grant that will enable follow-on international visits connecting the intellectual communities at Tsuda and Pittsburgh.

Reprint from the Pitt newsletter
(Mitchell is an associate professor of communication and a director of debate at University of Pittsburgh.)



Go to Top Page

(注)このページに掲載されている情報の著作権はJDAにあります。無断での複製、転載を禁じます。