シンポジウム「近代日本における弁論・雄弁」

[師岡淳也]

 

 JDAは、去る329日立教大学に於いてシンポジウム「近代日本における弁論・雄弁」を開催した(*1)。当日は、明治後期から大正期における「二度目の弁論ブーム」を研究されている関西国際大学の井上義和氏と雄弁家として知られた永井柳太郎の研究で博士論文を執筆された神奈川大学(現、国立歴史民族博物館)の高野宏康氏に、それぞれの研究テーマを中心にお話しいただいた。研究テーマの概要については、お二人の寄稿文をお読みいただくことにして、ここでは今回のシンポジウムの狙いを簡単に記すことにしたい。

 近年、日本ではディベート教育(もしくは教育ツールとしてのディベート)が注目を浴びているが、その歴史研究は(演説の歴史研究と比べても)極めて手薄なままである。そのため、非常に素朴な歴史観が無批判に受容され、「通説」として広まっている。その通説とは、一言で言えば、ディベートは、福澤諭吉によって討論と訳され、福澤と慶應義塾関係者を中心に日本に導入され、自由民権運動が高揚する明治10年代に隆盛を迎え、明治20代以降はほとんど行われなくなったという見方である。こうした「ディベート(討論)(*2)の歴史」をどこかで読んだり、授業やセミナーで学んだり(または、教えたり)、友人や後輩に語ったりした人もいるだろう。

 しかしながら、こうした歴史記述には十分な根拠があるわけではない。例えば、大正期は一般的には演説や討論の衰退期と考えられているが、明治43年に創刊された雑誌『雄弁』の巻頭辞に「再び雄弁の時代は来らんとしつつある」とあるように、実際には、学校弁論部を基盤に弁論熱が高まった時期なのである。弁論部は演説中心の活動だったようだが、当時の新聞には労働運動討論会や婦人団体による討論会の開催を伝える記事が掲載されている。また、大正9225日付『読売新聞』の寄稿(「討論の妙」)では、演説の名手と名高い尾崎行雄や島田三郎が討論ベタと評される一方で、原敬や犬養毅が「討論の雄」と賞賛されており、討論の重要性もある程度認識されていたと考えられる。

 今回のシンポジウムの目的は、明治後期から昭和初期における弁論・雄弁に焦点を当てることで、近代日本の討論史を「導入→流行→衰退」という段階でとらえる単線的な史観を見直すことにあった。この時期の討論に関する研究はほぼ皆無であり、前述の討論会についても詳細は何も分かっていない。今回のシンポジウムのタイトルを「近代日本における弁論・雄弁」としたのは、講演者の研究関心が主に演説に向けられていたこともあるが、「弁論」「雄弁」「討論」「演説」の関係や位置づけを含めて、まずは広い枠組みで当時の討論のあり方を捉える必要があると考えたからである。

 シンポジウムのもう一つの狙いは、演説や討論の歴史を研究する(または、研究に興味を抱く)人たちが研究成果を共有し、研究上の課題や可能性について意見交換をする場を設けることにあった。演説や討論の歴史研究は、層が薄いだけでなく、歴史学、社会学、コミュニケーション学など学問分野の壁に阻まれ、研究者間の交流があまり行われていない。この点で、長年にわたりディベート活動の普及・発展に努め、近年では議論学の学術会議も主催しているJDAは、演説や討論の研究者を結びつけるハブ的な役割を果たすことが出来るのではないかと考えている。

 一般的には、(明治10年代の一時期を除き)ディベートが本格的に日本に導入されるのは、第二次世界大戦後と考えられている。それが誤りだというわけではないが、ディベートの歴史研究の欠落がディベートの歴史の欠落と混同されがちな現在において、高野氏が提起しているように、歴史の断絶と連続性の両方に目を向けながら、歴史を遡ってディベートのあり方を丹念に検証していく作業が不可欠である。JDAでは、来春予定されているシンポジウム第二弾を含めて、今後も、ディベートの歴史研究の発展に寄与する方法を模索していきたい。

注)

*1 参考までに、当日のプログラムを掲載しておく。

14:00-14:05 開会の挨拶 

14:05-14:55 井上義和氏「明治後期・大正期における二度目の弁論ブーム」

14:55-15:45 高野宏康氏「大正?昭和初期における政治演説の特徴?永井柳太郎を中心に」

15:45-16:00 休憩

16:00-16:55 質疑応答・討議・総括

*2 「ディベート」と「討論」を安易に同一視するのは慎むべきだが、紙幅の都合で、ここでは「ディベート=討論」としておく。


発表者からの寄稿

近代日本における演説の変遷と研究方法

[高野 宏康]

オバマ大統領の就任前後から、日本でも演説に対する関心が高まり、演説関連の書籍の刊行が相次いだ。これらは語学の教材としての性格を持つものも多く、必ずしも演説のみが注目を集めた訳ではないと思われるが、小泉政権以降、特に顕著になった政治のポピュリズム化のなかでオバマが登場したことで、政治の語り方や伝え方の重要性が認識されるようになったと言えるだろう。再び、というのは、これまで日本において演説が非常に流行した時期が何度かあったことを意味するのだが、現在ではかつての演説のあり方がほぼ忘れられているといっていい状況にある。

筆者は、戦前の政治家で演説の第一人者とされた、永井柳太郎(1884-1945)の研究に取り組んだことで演説に関心を持つようになった。当時の資料を調べてみると、演説が大きな社会的影響力を持っていたことに驚かされる。貧しい家庭に生まれた永井は、演説のちからで政治的な地位を確立していくことができた。それに対して、現在の日本では政治家の演説をはじめ、言語で主張を伝えるという行為があまり信頼されているとは言い難いように思われる。その原因を考えるために、ここでは近代日本における演説の歴史を遡り、その特徴と研究方法について考えてみたい。

 よく知られているように、演説は明治の初期に福沢諭吉らによって日本に導入された。“演説”という言葉も、福沢によって“speech”の訳語として当てられたものである。訳語の発明以上に福沢が重要なのは、演説が言語によって自分の意志を他者に伝達して合意を形成していく技術として、近代社会にとって不可欠であることを強調したことである。また、注目すべきなのは、福沢がいう演説の範囲は幅広く、政治演説だけでなく、学術講演や、宗教家の説法、テーブル・スピーチなども含まれていたことである。“討論”という言葉も、福沢によって”debate”の訳語として当てられたものであるが、自らの見解を主張する技術である演説に対して、異なる見解について議論し合う技術として、共にその必要性が強調されていた。いまではそれらは別の領域として区別されることが一般的となっている。現在の日本では、政治家の演説に対する信頼性が低く、学生雄弁会・弁論部が転換期を迎えて久しく、ディベートが競技性を強めていることには、それなりの理由があるのだろうが、このような現状を考えると、演説の原点を改めて再検討してみる必要があるといえよう。

 以下、演説の変遷を外観してそのポイントを指摘してみたい。明治8年に、福沢や馬場辰猪らによって公開演説会が開催されると、大きな話題となり、以後、次々に各地で演説会が開催されるようになった。明治10年代には演説は流行現象となり、演説集や評判記、演説の指南書などが刊行されるようになっていた。その背景にはこの時期の自由民権運動の高まりがあり、各地で演説結社が誕生し、雄弁家が多数現れた。この流行によって演説が全国各地へ普及していったのであるが、関心が政治に集中したために上記のような演説の未分化状態から、政談演説が演説の中心とみなされるようになっていったことは注目しておきたい点である。

また、議会が開催されると、議会演説が関心を集めるようになり、街頭演説とは異なる演説のスタイルが形成されていった。一般的な流行現象としての演説は、自由民権運動が終息したことによって転機を迎え、その後しばらくは停滞することになったが、日露戦争後には、学生雄弁会が活発になった。この流れを背景として、明治43年に、野間清治が演説の再興を志して、演説の専門雑誌である『雄弁』を創刊した。創刊号は増刷が相次ぎ、当時としては異例の16,000部を売り上げるほどであり、講談社の出発点となったことは周知のとおりである。大正デモクラシー期には演説が再び大流行するようになった。犬養毅、尾崎行雄らが「演説の神様」と言われるようになり、永井柳太郎や鶴見祐輔らが雄弁家として活躍し、学生雄弁会は隆盛を誇った。この時期は明治の自由民権運動期と並んで演説が流行した時期であったが、明治期の壮士調の演説スタイルとは異なる、雄弁会や弁論部の学生による演説が中心となっていったことが特徴である。ところが、昭和初期頃から演説の社会的位置づけに変化が訪れる。弁論部が学生運動との関わりで弾圧された影響もあるが、演説・雄弁という実践が学生の知的関心に応えられなくなっていったのである。以後、演説は地方青年たちが中心となっていくことになる。戦時期には、演説が戦争を賛美する役割を果たしたことも指摘しておく必要がある。

戦後、学生弁論部は再興され、ディベートが導入されるようになるなど何度も変化していくが、ここで指摘しておきたいのは、現在、演説や弁論という同じ言葉で表現されていても、そのあり方は大きく変化しており、断絶/連続している部分を検証することが重要だということである。演説の研究は、言語文化論やレトリック学の観点から、内容や表現技法等について蓄積されつつあるが、演説のあり方を歴史を遡って考察することはほとんど行われていない。雑誌『雄弁』の研究論文が全く存在しないことはその現状をよく示している。今後の課題として追求していく必要のある領域であることを強調しておきたい。



なぜ日本に雄弁は定着しなかったのか?

[井上義和]



「雄弁青年はどこに消えてしまったのか」――これは私が雄弁に研究関心を向けるきっかけとなった問いである。日本の近代化過程のある時点では、確かに雄弁青年は層として存在していた。明治のはじめに福澤諭吉が海外の演説文化を日本に翻訳紹介し、明治10年代の自由民権運動とともに弁論ブームが到来するが、思想内容とは切り離して演説作法が洗練されていくのは、明治40年代(19071916)の二度目の弁論ブームのときだった。このとき、政治青年とも文学青年とも異なる、雄弁青年が誕生した。演説の技術を磨き、内容を練り上げ、聴衆に向かい獅子吼する。その雄姿に憧れる少年たちがいた。

この時期に、思想内容とは切り離して演説作法が洗練されていった背景には、次の3つの条件が重なっていた。第1に、二度目の弁論ブームが学校弁論部を基盤としていたこと。戦前の旧制高等学校32校のうち31校に弁論部があった(文部省教学局『学内団体一覧』1940)。旧制中学校や大学にもあったから、雄弁青年はここで再生産された。第2に、弁論専門誌が定期刊行されたこと。月刊誌『雄弁』(191041)は東京帝大法学部緑会弁論部の発会式の演説速記原稿をもとに野間清治の大日本雄弁会(後の講談社)から創刊された。それまでのバンカラな政治青年(壮士)のイメージを払拭し、最高学府と結びついて高踏的・進歩的なイメージを広めるのに役立った。第3に、本格的な学生運動が始まっていなかったこと。東京帝大新人会(1918設立)をはじめとする初期の学生運動の多くは弁論部を母体として始まり、また合法的な活動場所としても活用されるようになるが、それ以前は特定の社会思想や実践運動とは一定の距離を保つことができていた。

 しかしながら、これらの条件は、同時に、雄弁青年の存在を特殊なものにとどめるものでもあったのではないだろうか。第1に、学校弁論部を基盤とした人的な再生産は、弁論を学生なら誰もが身につけるべき教養としてではなく、同好の士が集まるサークル活動に押し込めてしまわなかったか。旧制高等学校で規範的に作用した教養主義が文芸部を超えた普遍性を持ちえたのとは対照的である。第2に、雑誌『雄弁』は次第に『中央公論』型の高級総合雑誌を標榜するようになるが、大正後期からは社会思想の影響を排除すべく弁論専門誌としての原点回帰を図ると同時に、想定する読者層も地方の教員や勤労青年へとシフトしていく。第3に、そうした弁論の通俗化・大衆化路線と相まって、昭和初期にはすでに雄弁的なものは一般学生から時代錯誤とみなされるようになった。

 雄弁青年が実際に消えてしまったわけではない。戦後の新制の大学や高等学校にも弁論部は引き継がれた。しかし、演説作法や雄弁文化が、将来指導的役割を果たそうとするエリート予備軍の必須科目として定着することはなかった。読書を通じた人格的向上を目指す教養主義が、旧制高等学校の「隠れたカリキュラム」として、文芸部の存在と関係なく影響力を発揮し、その衰退がしばしば問題にされるのとは大きな違いである。

 

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