巻頭言
今までの20年,これからの20年
会長 矢野善郎
これまでのJDAは,ディベートが目に見えて日本で広まっていった時代の中にありました。今やディベート授業の全くない大学はむしろ少数になり,中学・高校でもディベートは広く行われ,今年の12月には岐阜県で高校英語ディベートの全国大会も初めて開かれることになっています。そのうちパーラメンタリーディベートの世界大会も,日本で開催されることでしょう(むしろディベート界で最も元気がないのは,私も含めJDAの初期理事がやっていた大学英語ポリシーディベートかもしれません)。
少し大きく,これまでの20年を特徴づけるとすれば,脱冷戦秩序とグローバル化,そして日本的な雇用・商慣行が少しずつ揺らいできた時代でした。そうした中,ディベートというのは,ある意味では古い「日本的なしがらみ」を抜け出すためのキャッチフレーズとなっていたようにも思えます。ディベート能力さえ身につければ,「あなたは国際ビジネスでも成功できる」という具合に,個人を自己啓発するツールとして宣伝され,それが受けたのでしょう。
こうした中,JDAが貢献できたことは何でしょう。私は,日本のディベート界が,「井の中の蛙」になることに,常に待ったをかけようとしてきたことにあると考えております。教組のような人物が,自己流のディベート術を振りかざすこともなく,特定のディベートの流儀のみを教えたりすることもない。英語・日本語そして高校・大学・社会人の垣根を払い,しかも日米交歓ディベート・国際議論学会議などの国際的な交流にも力を注ぐ。こうした努力を通して,ローカルで独善的なディベートが広まることが少なからず抑えられてきたのは間違いありません。
これからはどうすべきでしょう。20年先を予測するのは難しいので,少し夢想してみましょう。グローバル化・情報化は進むでしょう。それは国際ビジネスなや交流なども加速させますが,同時に排他主義や独善主義を生み出すという皮肉な側面もあります。既に日本でもいたずらに中韓や在留外国人を敵視したりする傾向が見られますが,グローバル化のなかで今ひとつバスに乗りきれなかった人々などが,周りにいる「他者」を手頃な憎しみのターゲットとして独善的に行動しまうことは良く指摘されています(高齢化・地域格差の拡大はきっとこれに拍車をかけるでしょう)。
こうした悪い夢想があたって欲しくはないので,JDAとしてはこれからはさらに「他者との共生のためのツール」と言う点を強調したディベート活動を展開していくべきかもしれません。ディベートは,他者と積極的に意見を交わすことで,翻って自分自身に対しても批判的な人間を育てるためにも使えます。今までは,「利己的・生存競争のためのディベート」を強調する時代だったかもしれません。これからは,より「共生のためのディベート」にシフトすべきターニングポイントにあるかもしれません。
いずれにせよ独善的な方向にディベートが使われ,排他的な「井の中の蛙」を増やさないための理性的な対抗重力として,今後もJDAが出しゃばりすぎず,いぶし銀のような存在感を発揮できるように,皆様のお知恵とお力を拝借できれば幸いです。
(やの よしろう 中央大学助教授)