あるべきディベート(権威性評価の側面から)


Date: Fri, 5 Feb 99 00:40:08 JST
Subject: [JDA :5383] =?iso-2022-
 
こんにちは、H.Iです。
 
私とS.Sさん、K.Nさんの立場の最大の違いは「アーギュメント外の事項を考
慮するか」だと思います。K.Nさんのいう権威の評価の話はまた別の問題だと
思います。
 
ディベーターの社会的地位やその主張に同意する人の多少を考慮せず、提出し
たアーギュメントのみに基づいてジャッジすれば、合意の有無にかかわらず
「根拠のない主張は成立しない」というのは、論理的な結論です。アーティ
フィシャルな基準を設けているわけではありません。
 
S.Sさん、K.Nさんが、根拠のない主張も成立することがあるとされるのは、
アーギュメント外の事項を考慮されるからだと思います。
 
たしかに一般の社会では、アーギュメントの内容のみで説得性が判定されるこ
とは少なく、誰が話したか、その意見に賛同する人が多いか少ないかが「説得
性」の有無に考慮されることもあるでしょう(その当否はここでは問題にしま
せん)。
 
しかし、私は、ディベートではアーギュメント外の事項を考慮せず、あくまで
アーギュメントのみに基づいて判断を下すべきだと思います。それは、ディ
ベートは「アーギュメンテーションの優劣を競うゲーム」であると考えるから
です。大学教授と高校生が対戦した場合あれ、多数意見と少数意見が議論され
た場合であれ、論理が上回った方が勝つのが、ディベートの特性であり魅力で
あると考えています。
 
S.Sさん、K.Nさんの立場でもアーギュメントの内容は考慮されるでしょう
が、アーギュメント外の要素も考慮されるなら「論理が上回った方が勝つ」と
は言い切れません。大学教授と高校生が対戦したら、大学教授が有利であるこ
とは否定できないでしょう。
 
もし、ディベートでアーギュメント外の事項も考慮されるとしたらどうなるで
しょうか。論理の通った独創的な意見を述べるより、根拠が薄弱でも多数意見
にしたがった方が説得しやすいかもしれません。また、エビデンスを探すよ
り、ネクタイとシャツを替えた方が効果的かもしれません。
 
このようなディベートは「現実社会に即した」「実用的」なものなのかもしれ
ませんが、アーギュメンテーション能力を身につけるという教育的意義は、大
幅に減少するでしょう。そのようなディベートには、少なくとも私は、あまり
魅力を感じません。
 
 
<中略>
 
 
H.I
 

 
Date: Fri, 5 Feb 99 10:10:42 JST
Subject: [JDA :5384] =?ISO-2022-
 
S.Yです。
 
 
H.Iさんの整理はとてもわかりやすく、かつ、正しいと思います。
 
 
> 私とS.Sさん、K.Nさんの立場の最大の違いは「アーギュメント外の事項を考
> 慮するか」だと思います。K.Nさんのいう権威の評価の話はまた別の問題だと
> 思います。
 
 
なお、多少付け加えるとすると、
 
> このようなディベートは「現実社会に即した」「実用的」なものなのかもしれ
> ませんが、アーギュメンテーション能力を身につけるという教育的意義は、大
> 幅に減少するでしょう。そのようなディベートには、少なくとも私は、あまり
> 魅力を感じません。
>
 
アーギュメント外の事項を考慮するディベートが、必ずしも実用的とは限りません。
日本人の議論下手、あるいは、どこの国でも、実質的な内容のない議論として批判
されるのが、まさに「アーギュメント外の事項で結論が決まる」討論であり、この
ような討論形式は、批判の対象になりこそすれ、推奨すべきものではありません。
 
ディベート教育の意義は、現状の社会で役に立つ技術を磨くという側面より、むしろ、
現状の現実社会における誤った討論形式を正し、議論を尽くすことによって、理性的
で合理的な意志決定を行うことのできる市民と国家(社会)を育てていくことである
と思います。
 
 
S.Y
 

 
Date: Fri, 5 Feb 99 11:42:48 JST
Subject: [JDA :5385] Re: RE:RE:
 
  H.Iさま・K.Nさま・S.Sさま
 
 
> しかし、私は、ディベートではアーギュメント外の事項を考慮せず、あくまで
> アーギュメントのみに基づいて判断を下すべきだと思います。それは、ディ
> ベートは「アーギュメンテーションの優劣を競うゲーム」であると考えるから
> です。大学教授と高校生が対戦した場合あれ、多数意見と少数意見が議論され
> た場合であれ、論理が上回った方が勝つのが、ディベートの特性であり魅力で
> あると考えています。
 
ほとんど全面的にH.Iさんの言わんとしていることには賛成です。
 
だいたいにおいて,私の経験で語るなら,東大の一部の先生がテレビや雑誌での
たまうことや,我が東大の後輩《ディベラー》が試合中に読み上げている擬論よ
りも,学歴なんかとは無縁の私の母親あたりが言うことのほうが,あらゆる見地
から見て soundなargumentであったりすることも多いですからね
 
---
 
ただ,ちょっとだけ懸念があります。
 
> もし、ディベートでアーギュメント外の事項も考慮されるとしたらどうなるで
> しょうか。論理の通った独創的な意見を述べるより、根拠が薄弱でも多数意見
> にしたがった方が説得しやすいかもしれません。また、エビデンスを探すよ
> り、ネクタイとシャツを替えた方が効果的かもしれません。
 
 
一つは,H.Iさんの過去の言動を知っていれば誤解のしようはないのですが,
アーギュメント「内・外」という言い方が一人歩きすると,ディベーターには少
し誤解を誘発するかもしれないでしょうか,という点での感想。
 
つまり取りようによっては,ディベーターが直接語った内容だけが「アーギュメ
ント内」であるという誤った解釈を呼ぶかもしれないと一読した感想としては思
いました。そう受け取った場合,またぞろ馬鹿タブラ的な意見の持ち主や,
「アーギュメンテーションには伝え方は関係ない」などという浅薄なディベート
観の人が悪用するかもしれないという懸念です。
 
もちろんH.Iさんとしては,ジャッジが,ディベーターが伝えることに成功した
内容を解釈し論評するための背景にあるコンテクストなども含めて,「アーギュ
メント(プロセス)内」と語っているのでしょう。ディベーター諸氏は,くれぐ
れも勘違いしないでほしいものです。
 
---
 
もう一つは,「アーギュメント外」的なことであっても,ディベートの教育過程
では評価の対象にすべきケースもあるのではという疑問です。私の想定している
のは,主に「伝え方」に関する点で,「こういうのはやってはだめだ」というネ
ガティブな意味でです。一例を挙げます。
 
今年担当したフェリスでのディベートの授業では,学生同士にお互いのディベー
トを論評させ,それを元に良い議論とは何なのかということを考えてみました。
その中で出た意見に「私はよく知らないのですが,と前置きをおくのはいけな
い」とか「自信なさげにしゃべると,説得力が全くないですね」とか言うものが
ありました。
 
もちろん「堂々としゃべっているからと言って,必ずしも良い議論というわけで
はないんだよ」と注意は加えるにしても,私はその視点を出した学生たちをほめ
ましたし,そうならないようにほかの学生も注意するようになりました。
 
これなんかは,「アーギュメント外」に入ってくる要素かもしれないですが,や
はり注意する,つまりジャッジが論評(採点)の対象にすべきなんではないでし
ょうか。
 
---
 
いずれにせよ,発言者の肩書きなどの属性 attributionなど「良い議論」にとっ
ては無用であるとの,H.Iさんの意見には,全く同意です。偶然,いまの社会で
現実には,発言者の属性がハバを効かせているからと言って,それを現状固定的
に再生産する必要は全くないと思いますよ,K.Nさん。
 
やはりアカデミック・ディベートでは,「通用している議論」でなく「通用すべ
き議論」をやってほしいし,教えてほしいものです。
 
Y.Y

 
 
Date: Fri, 5 Feb 99 15:37:38 JST
Subject: [JDA :5387] =?iso-2022-
 
S.Sです。
Y.Yさんのおっしゃられていることには大賛成ですし、私の立場からでも同じ結論に
なります。
 
>だいたいにおいて,私の経験で語るなら,東大の一部の先生がテレビや雑誌での
>たまうことや,我が東大の後輩《ディベラー》が試合中に読み上げている擬論よ
>りも,学歴なんかとは無縁の私の母親あたりが言うことのほうが,あらゆる見地
>から見て soundなargumentであったりすることも多いですからね
 
 
これは全くおっしゃるとおりです。そもそも「学歴」や「社会的地位」がそのまま説
得力を構成するほど実社会は甘くありません。「学歴」や「社会的地位」のある人に
表面的には従っているようにみえる人はいても、実際にそれを根拠にまともな人間を
説得することは不可能でしょう。「ジャッジが通常行っている判断をディベートにお
ける判断に如実に反映させる」立場は、ジャッジが実社会において合理的な判断を
行っていることを当然の前提にしていますので、その前提を誤解されて批判されても
困ってしまいます。
私の立場から上記のY.Yさんの議論を考えれば、「実社会においても特に専門的な事
項を除いて学歴や社会的地位は経験的に議論の説得力に影響を与えないので、ディ
ベートにおいても同様に考えるべきである」ということになります。
一方、H.Iさんの立場だと、「たとえ実社会において学歴や社会的地位は議論の説得
力に影響を与えたとしても、ディベートにおいては影響を与えないものとすべきであ
る」ということになるのではないかと思いますが、いずれにしてもこの問題に関する
結論は同じです。
 
一方、Y.Yさんが後半でおっしゃっていた「ディベーターが自信を持って議論してい
た場合」とそうでない場合の説得力の差をとどう評価するかといった点については私
の立場とH.Iさんの立場で違いが出てくるのではないかと思いました。
 
 

 
Date: Fri, 5 Feb 99 17:22:46 JST
Subject: [JDA :5389] =?iso-2022-
 
S.Sです。
S.Yさんの議論の結論(ディベート教育の意義)には全く賛成です。
 
>
>ディベート教育の意義は、現状の社会で役に立つ技術を磨くという側面より、むしろ、
>現状の現実社会における誤った討論形式を正し、議論を尽くすことによって、理性的
>で合理的な意志決定を行うことのできる市民と国家(社会)を育てていくことである
>と思います。
 
だからこそ、ジャッジはディベートでの判断と実生活での判断を一致させるべきだと
考えます。実社会では様々なしがらみがあって「あるべき判断」ができないが、ディ
ベートでは「あるべき判断」をすべきだというのは、一見もっともに聞こえます。し
かしながら、よく考えてみると、実社会でも認識上の「判断」は論理的な説得力に基
づいてなされているはずであり、ただその「判断」に基づいて行動することが「しが
らみ」によってできないだけにすぎません。
実生活とディベートとの違いをことさらに強調して、実生活とディベートとで「二足
のわらじ」を履くように判断の仕方を違えるのは、ディベートを実社会から遊離させ
るだけに終わると思います。
 

 
Date: Fri, 5 Feb 99 18:28:41 JST
Subject: [JDA :5391] RE: =?iso-2022-
 
 T.Tです。忙しく働いています。
 
 
> し
> かしながら、よく考えてみると、実社会でも認識上の「判断」は論理的な説得力に基
> づいてなされているはずであり、ただその「判断」に基づいて行動することが「しが
> らみ」によってできないだけにすぎません。
 
 こういうケースがあることは確かでしょう。しかし、多数だというのは「よく考えてみ
ると」という理由付けだけでは不十分に思われます。
 
 さらに、もしこれが事実ならば、論理的な説得力を育てるディベートは、現実社会への
処方箋ではないことになります。
 というのは、論理的な説得力としがらみが両立するのが現実の世界であるということに
なるからです。ゲームの中でしがらみがなくても、現実では残るでしょう。
 
 その点で、S.Yさんのディベート観なり世界観とはずいぶん違うように見えますが、私
の理解は間違っているでしょうか。
 
 JDAのニュースレターの普及論は、「その1」だそうですから、これからの展開が楽
しみです。
 

 
 
Date: Sat, 6 Feb 99 11:11:41 JST
Subject: [JDA :5392] =?ISO-2022-
 
Y.Yです
 
やさしく書きすぎたので,少し長いですが,ディベート教育の場でジャッジの行
うべき判断について反論し,ディベート教育が育成すべきなのは,「二重の説
得」と議論の送り手の責任を果たしうる議論者であり,それが育成できるような
試合の評価を行うべきだということを論じます。
 
S.Sさんは,H.Iさんに賛成した私の前のメールの結論に賛成のようです。
 
> 私の立場から上記のY.Yさんの議論を考えれば、「実社会においても特に専門的な事
> 項を除いて学歴や社会的地位は経験的に議論の説得力に影響を与えないので、ディ
> ベートにおいても同様に考えるべきである」ということになります。
> 一方、H.Iさんの立場だと、「たとえ実社会において学歴や社会的地位は議論の説得
> 力に影響を与えたとしても、ディベートにおいては影響を与えないものとすべきであ
> る」ということになるのではないかと思いますが、いずれにしてもこの問題に関する
> 結論は同じです。
 
ですが結論が同じだとしても,どうも,このS.Sさんの理由付けは賛成しかねま
す。
 
では,S.Sさんは,仮に「実社会において特に専門的な事項」でなくても「学歴
や社会的地位」が「経験的に議論の説得力に影響を与え」るということこそを反
映させるのが,「合理的な判断」だと思い「通常行っている」ジャッジの場合は,
それをディベートの中でも「如実に反映」すべきだとするんでしょうか?
 
そもそも現実に通用している「合理的」な判断というのは,それこそ何通りもあ
りえます。
 
たとえば「学歴や地位のある人の意見に異を唱えるのは,理屈っぽい奇人だと社
会的に烙印され,村八分にあうなどの不利益をこうむるかもしれないので,まあ
それ以上は問わないでとりあえず受け入れるのが大人というものだ」というよう
な判断も,すこぶる実質的に「合理的」な判断でしょうし,そうした判断は現実
にも行われているでしょう。そうした世間での「合理的」な判断もディベート教
育に反映すべきなのでしょうか?
 
私は,そうした意味での「合理的な」判断をディベート教育において再生産して
ほしいとは全く考えません。同じ曖昧な「合理的」という言葉であっても,ディ
ベート教育は,個人的な保身のための「合理性」などでなく,あくまで公共的な
「合理性」を旨とすべきだと考えるからです。
 
確かに現実の社会で通用している議論と,ディベート教育が目指すべき「良い議
論」とが一致しているケースもあることは認めます。が,現実の社会で通用*し
ている*いうことを理由にして,「ディベートや現実で*通用すべき*議論」を根拠
付けるような,あらゆるロジックには全く賛成しかねます。
 
「通用しているからには,なんか良い点があるはずだ」というのは,全くと言っ
て良いくらい根拠のない先入観ですから。
 
---
 
もっともS.Sさんの周りの「現実」は知りませんが,私の周りの「現実」の社会
では,「楯突くと浮くから」と自らの権威主義を「合理化」しているのなんて
ましな方で,「○○先生が,こう結論しているのだから,まあそうなんだろう」
と根拠まで反省しない判断も,すこぶる相変わらず多いと思います。
 
どう考えても,実社会で通用しているのがベストな議論とする根拠はないように
思えますし,そこで通用してしまっているのの中には大変レベルの低い議論が多
いと思われます。権力関係や打算やらで議論が制約を受けているだけでなく,そ
もそもそれらがなかったとしても,「良い議論」を行えるような個人など限られ
ているのが現状でしょう。(これはT.Tさんが,疑問形の形でS.Sさんにつきつ
けて指摘していることと同じですね,たぶん)
 
---
 
私も,よく「現実の社会に通用する議論をしろ」とディベーターに言っているの
ですが,それは,「レベルの低い現実の社会の議論の状況に*すら*全く通用しな
い議論をして喜んでいるんじゃない,君たちはさらに上を目指さなくてはいけな
いのだ」と言う意味でです。
 
つまり私がディベート教育の目標に置くべきだと考えるのは,二重の意味での説
得をする議論ができる人間の育成です。
 
まず一方で,往々にしてレベルの低い現状の聞き手を,そもそも,現実に*通用
すべき*まともな判断基準を持つように説得的に意識改革させることができ,し
かも他方で,そのまともな判断基準で通用するような説得的な議論ができる
vanguardとしての議論者です。
 
これはとりたて,無理な理想論とは思いません。少なくとも現実には必要とされ
ている能力でしょう。とりわけアメリカの陪審制などで,トレーニングを受けて
いない陪審員を相手に正義を幾分かでも反映させるには,こうした二重の説得が
できないとどうしようもないでしょう。もちろん実際には,論理や事実や法原則
とは関係のない,お涙ちょうだいなどの法廷ストラテジーが横行しているケース
も多数でしょうが,部分的にはこうしたことが実現されていると信じたいです。
 
(逆説的ではありますが,今の大学英語ディベーターは,まともなディベートを
やって試合に勝とうとする限り,まず「ディベートとはこうあるべきなんだよ」
ということを含めた,二重の説得をジャッジに向かって行うことを往々にして要
求されているので,真摯にやりさえすればこうした二重の説得能力は身に付けや
すいかもしれません。 …というのは,少し言いすぎでしょうか。)
 
---
 
 
> 一方、Y.Yさんが後半でおっしゃっていた「ディベーターが自信を持って議論してい
> た場合」とそうでない場合の説得力の差をとどう評価するかといった点については私
> の立場とH.Iさんの立場で違いが出てくるのではないかと思いました。
 
「自信を持って議論をしない」ことや,アイコンタクトを全くしない人間や,明
らかに不快感を催すような喋り方やマナーの人間は,たとえ「アーギュメント
外」であっても,ディベート教育の中ではマイナス材料として判断するべきだと
思います。
 
S.Sさんもこれを支持するのでしょうが,これに関しても,私とS.Sさんでは,
支持する理由が若干違うでしょう。前回のメールではちゃんと書きませんでした
が,私の場合その理由は,二つあります。
 
まず第一には,「私はよく知らないのですが」とか「準備不足ですが」などと断
ったり,明らかに自信を持って議論をしていなかったり,ペンをカチャカチャ言
わせたりして話している人間など,今の社会ではほぼ門前払いであり,ただでさ
えも困難な二重の説得に耳を傾けてもらえることなど,とうていできるようにな
るとは思えないからです。
 
それらが出来ることは,確かに「良い議論」の十分条件ではないでしょうが,
少なくとも「良い議論」を普及させていくには,現実的にはまったくのところ必
要条件であるでしょう。
 
それだけでなく,第二に,そもそも私は議論の送り手の側の責任を強く感じてほ
しいと考えており,その責任の中には,そもそも相手に議論を聞いてもらえるよ
うになるということも含まれるべきだと考えているからです。
 
もちろん,全て送り手責任で良いとは思いません。今日だったと思うのですが,
朝日の投稿で「聞き手の責任」を論じている人がいました。確かに医者や教師な
ど,職業上の役割として聞き手の責任が優先される場合があり,それが果たされ
ていない場合が日本でもまだ多いとは思います。また差別的な状況に置かれ,自
分でどれだけ議論を送ろうと努力してもどうにもならないところもあるでしょう。
 
しかしとはいえ,日本の今の現状で,どちらがメインに論じられるべきかと問わ
れれば,圧倒的に議論の送り手の責任が果たされていないことの方だと個人的に
は感じます。
 
今のディベートの試合の仕組みでは,ディベーターがどんなひどい喋り方でも,
どんなつまらない稚拙な議論をしていても,ジャッジに不快感を催されるような
マナーをしていても,ジャッジはとりあえず聞いてくれます。だが,必ずしもそ
うではないんだよ,聞いてもらえるようになるというのも往々にして送り手の責
任なんだよ,ということをディベーターに分からせる機会がもっとなくてはだめ
だなと,最近とみに感じます。
 
 
Y.Y
 

 
 
Date: Sat, 6 Feb 99 13:23:30 JST
Subject: [JDA :5393] =?ISO-2022-JP?B?UmU6ICAbJEJHJzwxJWobKEo=?=
 
<中略>
 
それから、Y.Yさんの学生さんたちへの御指導は、確かにディベータへの指導として
は理に適っているのですが、ジャッジの立場に対する提言としては適切ではないと思
います。
つまり、ディベータに「堂々と話そう」というのは結構なことですが、ジャッジとし
ては、「自信なさげな話し方」や「自信ありげな話し方」と言ったことからの印象
を、議論の帰結の判断とは峻別すべきだと思われます。ジャッジとしては、コメント
等でそういう点は注意するとしても、議論の判断はそれとは全く独立に行うというの
が、Y.Yさんも合意なさっているアーギュメンテーション教育の根幹であると思われ
ます。
 
Y.Yさんは、送り手の責任というのを強調し過ぎかと思われます。議論の送り手と聞
き手とには、別個の規範があり、両者がそれに従う努力をするのは等しく重要です。
両者の努力の収束するところが理想的議論状況と言えるでしょう。送り手は可能な限
り明確な議論をするべく努力し、聞き手は、議論の本質的内容以外を可能な限り捨象
して理解するように理解すべきでしょう。「自信なさげに話されても」、「自信あり
げに話されても」、話された命題的内容が同じならば、同等に扱うことが聞き手の責
任です。送り手としては、聞き手に無用な心理的作用(疑念その他)を起こさないよ
うに、普通に(別に自信たっぷりである必要はない)話すべきでしょう。
 
今の日本では、むしろ聞き手の責任がないがしろにされていると思われます。恫喝的
な程に自信ありげに話す御仁は大勢いらっしゃいますが、人の話を、外見や話し方に
惑わされずに真摯に聞いて的確に判断できる人は少ないように思います。
 
 
ついでに付け加えると、Y.Yさんのコメントは、日本語の言語文化のある一面を見の
がしていると思われます。「私はよく知らないのですが」ということわりは、必ずし
も字義通りに使われている訳ではありません。儀礼的に謙譲の意味で使われているこ
とも往々にしてあります。又、一見自信なさげな話し方は、決定的な判断を下すこと
が困難な事柄についての場合には、誠実さの表現ともとれます。逆に自信過剰な話し
方は、恫喝的になりかねず、日本の社会ではマイナスに受け取られかねないでしょ
う。謙虚な話し方が門前払いというのは、非常に狭い範囲でしか成り立たないと思わ
れます。
 
Y.K

 
 
Date: Sat, 6 Feb 99 14:29:54 JST
Subject: [JDA :5394] =?ISO-2022-JP?B?UmU6IBskQkZzPUUhVyROGyhK?=
 
>たとえば「学歴や地位のある人の意見に異を唱えるのは,理屈っぽい奇人だと社
>会的に烙印され,村八分にあうなどの不利益をこうむるかもしれないので,まあ
>それ以上は問わないでとりあえず受け入れるのが大人というものだ」というよう
>な判断も,すこぶる実質的に「合理的」な判断でしょうし,そうした判断は現実
>にも行われているでしょう。そうした世間での「合理的」な判断もディベート教
>育に反映すべきなのでしょうか?
>
>私は,そうした意味での「合理的な」判断をディベート教育において再生産して
>ほしいとは全く考えません。同じ曖昧な「合理的」という言葉であっても,ディ
>ベート教育は,個人的な保身のための「合理性」などでなく,あくまで公共的な
>「合理性」を旨とすべきだと考えるからです。
 
 
ちょっと、議論が混乱しています。
 
「合理性」の意味自体は、いずれの場合でも異なっていません。
 
いずれも、目的合理性(合目的性)の意味です。異なるのは目的であって、上記で言
われている現実社会での判断は、現実社会での発話内的・外的効果を考慮しての現実
社会での自己の利益の為の合理的判断であり、ディベートで目指されている判断は、
発話内的効果のみを考慮しての、議論の命題的内容の含意に於いて一定の評価(妥当
であるという評価)を得るための合理的判断です。
 
「合理性」に区別がある訳ではなく、発話の目的に違いがあるだけです。
 
ディベートの発話目的と現実社会の発話目的とは異なると、言うべきでしょう。ディ
ベートでは、特殊な状況による発話目的(例、現実社会での発話目的)が捨象され
て、主張を正当化するということだけが目的となっていると言うべきでしょう。これ
は「公共性」とはちょっと違います。
 
 
それから、S.Sさんは、偶然現実に見い出される「ある」判断過程を反映させるべき
だと言っているのではないと思います。我々の判断過程に於いて「普遍的に」見い出
されるような「判断過程」を反映させるべきだと言っているのだと思います。少なく
ともこう解釈した方が彼の発言をより有意義に理解できるとは思います。
 
Y.K

 
 
Date: Sat, 6 Feb 99 15:27:48 JST
Subject: [JDA :5395] =?iso-2022-jp?B?UkU6IBskQiFWRnM9RSFXJE5AYkZAGyhC?=
 
S.S@Y.Yさんの後輩「ディベラー」です。
 
Y.Kさんのわかりやすいフォローもありましたが、正直にいって私の立場とY.Yさん
の立場とでは、現実社会の判断に対する認識には大きな違いがあると思いますが、そ
れ以外の点については言われるほど大きな差は感じません。(一緒にされてはたまら
ないと思われるかもしれませんが)
私の議論が誤解されたのかもしれません(「送り手の責任」が果たされていなかった
のかもしれない)。
以下は反論というよりは私の立場の説明になります。
 
Y.Yさんの「二重」の説得論は、むしろ私の提案の根拠となるものです。
>
>つまり私がディベート教育の目標に置くべきだと考えるのは,二重の意味での説
>得をする議論ができる人間の育成です。
>
>まず一方で,往々にしてレベルの低い現状の聞き手を,そもそも,現実に*通用
>すべき*まともな判断基準を持つように説得的に意識改革させることができ,し
>かも他方で,そのまともな判断基準で通用するような説得的な議論ができる
>vanguardとしての議論者です。
 
>
 
このような「二重」の説得能力をディベートにおいてディベーターが身につけるため
には、ジャッジはむしろ「現状の聞き手」であるべきでしょう。ジャッジが「理想化
された聞き手」であれば、第一段階の説得(意識改革)はそもそも必要がなくなり、
そのような教育はディベートの場では行えなくなります。ジャッジが通常行っている
判断過程が間違っているのであれば、ディベーターはそれを説得的に意識改革させる
能力をつけるべきだということであれば、ジャッジは通常行っている判断過程をもっ
て試合にのぞんだ方が教育効果は上がります。(もちろんジャッジが謙虚にディベー
ターの意見を聞くのは当然の前提です)
 
>では,S.Sさんは,仮に「実社会において特に専門的な事項」でなくても「学歴
>や社会的地位」が「経験的に議論の説得力に影響を与え」るということこそを反
>映させるのが,「合理的な判断」だと思い「通常行っている」ジャッジの場合は,
>それをディベートの中でも「如実に反映」すべきだとするんでしょうか?
 
このような人が多いとは考えたくありませんが、もしジャッジがそのような認識を
持っているのだとすれば、それを説得(意識改革)するのがディベーターの仕事だと
いうのが上記の帰結でしょう。
 
それから、これはY.Kさんもおっしゃっていましたが、「ジャッジが一般社会で行っ
ている判断過程」は、「一般社会でまかり通っている判断過程」と同一ではありませ
ん。一般社会で「学歴や地位」による説得がまかり通っているという現状がたとえ
あったとしても、ジャッジ本人がそれに納得していないのであれば、それは「ジャッ
ジが一般社会で行っている判断過程」ではありません。「ジャッジが一般社会で行っ
ている判断過程」の中身としてはより普遍的なものを想定しています。
 
(追伸)
T.Tさんの質問の特に後半部分については、鋭利な刃物でバッサリ切られたような感
があります。きっちり論理的に答えられるまで少し考えさせてください。

 
 
Date: Thu, 11 Feb 99 20:12:23 JST
Subject: [JDA :5419] Re: RE: =?ISO-2022-
 
T.Oです。
 
 
>> 今は留学中ですが、去年の夏までは大蔵省で仕事をしていました。仕事をする中で、
>> 「正論はそうだが、それじゃ世の中丸くおさまらないんだよ」ということが多いよう
>> に感じたわけですが、
 
こういう、自分の「通用すべき議論」が世間の「通用してしまっている」議論
より劣位に置かれてしまっている、という挫折の記憶=ルサンチマンって、ま
あ軽いものであれ重いものであれ、このML上の論者なら皆持っているんでしょ
うね。その意味で、S.Sさんのこういう正直な吐露は貴重。
 
ただ気になるのは、そのルサンチマンを前にした個人が、
 
* 一方では現実の判断とディベートでの判断が一致するようにすべきだとか、
  シミュレーション論とか、エビデンスの権威の取り扱いの見直しとか、
  「ディベート自身の改革」を唱える人が現れて、
 
* もう一方では、あくまで「通用すべき議論」がディベートでは大事、横行する
 「擬論」がディベートに進入してくることに極端に慎重、それでもって「議論
  のできる市民と国家(社会)を育てていくこと」を目的として、「二重の説得」
  をする「社会の漸進的改革」を唱える人が現れる
 
っていう風にパターンが分かれることです。分かれること説明するに当って、瀧
本さんがいうような帰属共同体を理由に出すのだけじゃ駄目だと思う。
 
この分かれ目って、もっと個別具体的な記憶、具体的にどの場面でどう挫折した
のか、その時に対峙した相手はなんだったのか、負けて全く理不尽と感じたのか、
それとも相手にも学ぶべきものがあると直感的に納得したのか、自分が何歳の時
に挫折したのか、挫折による影響はどういったものなのか、深い瑕として残って
いるのかすでに回復してしまっているのか、ディベートは救いになったのか、逆
に幻滅したのか、とか、なんかそういった、あれやこれやの膨大なディテールと、
そのディテールを救い上げる効果を持った言葉が紡がれないことには、全くもっ
て埋まらないでしょう。これ、確証はないけど信念としてあります。
(自分のことについては、かなり前に書きました。)
 
でこの、埋まらない差を埋めようとすべく、両陣営が繰り出す「ディベートを現
実に」「いや現実をディベートに」という大文字のもの言い、その中で議論の優
劣や体系の緻密さをみるのも嫌いじゃなかったし、自慢じゃないが僕も半ば以上
身入れてやっていたんだけど、なんか最近は食傷ぎみです。トカトントンとか聞
こえてきそう。言葉は悪いがハムスターの共食いを見ているような気持ちになる、っ
てぇのはこちらの性格の悪さか。
 
T.Tさんがいっていた議論の空理性とも通じるのかな。
 
T.O

 
 
Date: Thu, 11 Feb 99 22:24:30 JST
Subject: [JDA :5424] =?iso-2022-
 
 T.Tです。
 
T.ONO san wrote:
 
> っていう風にパターンが分かれることです。分かれること説明するに当って、瀧
> 本さんがいうような帰属共同体を理由に出すのだけじゃ駄目だと思う。
 
 私はこの二つが帰属共同体によって別れるとは主張していません。 ただ、大学におる
実態、日本政府における実態ないし日本政府の自己認識を知っているだけです。それにし
てどういう態度をとるかは、また違う要素によって決まるというのは同意できます。ただ、
ここは知識社会学の研究を目的としていないので、ただ言説の理由付けにのみ着目すべで
しょう。そういう意味で、知識の被存在拘束性をリーズニングに使うのは不当といえまょ
う(実際にはよく見ますが)。
 
 
Date: Fri, 12 Feb 99 00:53:09 JST
Subject: [JDA :5428] =?ISO-2022-JP?B?GyRCOCw+eUUqJEpJPTg9GyhK?=
 
 

 
  YKさま
 
少し間をあけてしまいましたが,何通か返事をします。まずはY.Kさんの一連の
メールを読んでいて,一番面白かった論点について。「謙譲的な表現をディベー
トに使うべきか」という新しい話題についてです。
 
Y.Kさん曰く
 
> ついでに付け加えると、Y.Yさんのコメントは、日本語の言語文化のある一面を見の
> がしていると思われます。「私はよく知らないのですが」ということわりは、必ずし
> も字義通りに使われている訳ではありません。儀礼的に謙譲の意味で使われているこ
> とも往々にしてあります。又、一見自信なさげな話し方は、決定的な判断を下すこと
> が困難な事柄についての場合には、誠実さの表現ともとれます。逆に自信過剰な話し
> 方は、恫喝的になりかねず、日本の社会ではマイナスに受け取られかねないでしょ
> う。謙虚な話し方が門前払いというのは、非常に狭い範囲でしか成り立たないと思わ
> れます。
 
後から言うのも何ですが,日本と英語での言語習慣の差という,まったく筋道が
違った議論も含んでしまうので,前のメールで書かなかっただけで,実はこの点
は自覚してました。
 
確認ですけど,英文科や大学英語ディベートで教えるのであれば,この教え方で
かまわないですし,むしろ望ましいですよね?
 
また念のためお断りしておきますけど,私は「堂々としゃべっている人」にプラ
スの評価をしろと主張したことは一度もありませんし,それが間違いなのはY.Kさ
んに賛成です。ただ「自信なさげにしゃべる人」に,日本であっても,ディベー
トの試合ではマイナスの評価をすべきだとは,自信を持って主張しますよ。(自
信なさげにしゃべることで得することは,ほとんど考えつきません)
 
実際に学生などに指導にあたってみれば分かりますが,「私はよく知らないので
すが」とか「私は準備不足ですが」というのを意図的に(本当はよく知っている
のだが,知っているということを真正面に出すと煙たがれるのでいやだなどと自
覚して)加えている人は,私の体験した範囲では実は少ないです。学生の場合は
特にそうです
 
ある程度意図的に「私はよく知らないのですが」などの表現を付け加える場合も,
誠実さや謙譲の美徳のためなどではまったくなく,自分の主張に十分の根拠を付
け加えないことの「免罪符」にしようとしているか,それとも,あとで自分が議
論が間違っている場合に負担を感じなくてすむように心理的な予防線を張るため
の表現となっているケースが非常に多いと思います。
 
そのような話し方をしている場合には,今の日本でも「門前払い」を食らう確率
の方が高いだろうなとは思いますよ。
 
グローバル・スタンダードなどというチープな用語を持ち出して批判するつもり
は全くありませんが,この日本の言語習慣に関しても,やはり送り手が自らの議
論に負う責任をそぐ意味の方が強いので,少なくともディベート教育の中では改
めることを指導すべきだと考えます。
 
---
 
もっとも,そうした表現自体を全面否定するつもりはありません。こうした表現
が,本当に意味のある場合も確かにあります。例えば,あるトピックに関して,
ある視点を是非とも議論してほしいなと思うのだが,それの詳細を語るのは,自
分よりも専門的知識を持った別の人の方が語る方がうまくいくだろうなと考え
て,その人に発言を促すようなケースです。
 
「私は法律のことはよく知らないのですが,法学に○○の原則というのがありま
すよね。これは検討しなくていいんですか,××さん」などといった表現で,よ
り適格な発言者に意見をフるなんて使い方なら,(特に,相手がすぐれた意見の
持ち主なのだが,意見を言うのには消極的な人に対しての場合など)本当にいい
ですよね。そうしたことは,是非やってほしいです。
 
でも,それは「ディベート」の中で身に付けたりすることができるものとは全く
違う配慮でしょうし,そうした配慮がディベートの試合にでてくるケースは思い
つきません(まあ,それは文部省が最近リキを入れている「道徳」の授業ってや
つにまかせるとしますか)
 
Y.Y

 
 
Date: Fri, 12 Feb 99 00:53:13 JST
Subject: [JDA :5429] Re: =?ISO-2022-JP?B?GyRCIVZGcz1FIVckTkBiRkAbKEo=?=
 
 
  S.S@mof.go.but.not.in.jpさま,Y.K@ac.not.in.jpさま
 
ディベート教育の目標として私が掲げた「二重の説得」についてです。つまりデ
ィベート教育の目標は,現実に*通用すべき*まともな判断基準を持つように説得
的に意識改革させることができ,しかも他方で,そのまともな判断基準で通用す
るような説得的な議論ができる議論者の育成を目指すべきだと論じたことに関し
てです。
 
Y.Kさんは,それは無理な理想だと論じてますし,その理想を掲げるのならばS.S
さん的なジャッジングになると書いてますが,それは教育の実践的な場面に関す
る議論としては,いささか短絡的な結論であることを述べたいと思います。
 
T.Oさんは食傷気味かもしれませんの話題だと思いますが,私は教師の端くれと
して,やはりディベート教育が教える内容とその手段には,責任を持って欲しい
と思いますので,時間的には飛んでしまいましたが,S.Sさんとかに池さんには
反論しておきます。
 
---
 
まずはS.Sさん曰く
 
> Y.Kさんのわかりやすいフォローもありましたが、正直にいって私の立場とY.Yさん
> の立場とでは、現実社会の判断に対する認識には大きな違いがあると思いますが、そ
> れ以外の点については言われるほど大きな差は感じません。(一緒にされてはたまら
> ないと思われるかもしれませんが)
 
本当ですか? 現実社会の議論の状況に関する認識の違いは,ディベート教育の
目的に関して根本的なほどの差をもたらすと思います。現状で「良い議論」が行
われているのなら,あえて「ディベート教育」をする意味はどこにあるのでしょ
うか
 
要するにレベルの低い「通常行っている議論に関する判断」を再生産することは
S.Sさんの意図ではないんですよね? それは最終的にはあくまで駆逐すべき対
象なんですよね? そのことが確認できたのなら,教育手段論だけの違いで,あ
まり差がないといえますけど。どうも目的からして決定的な溝があるように感じ
ます
 
 
> このような「二重」の説得能力をディベートにおいてディベーターが身につけるため
> には、ジャッジはむしろ「現状の聞き手」であるべきでしょう。ジャッジが「理想化
> された聞き手」であれば、第一段階の説得(意識改革)はそもそも必要がなくなり、
> そのような教育はディベートの場では行えなくなります。
> 判断過程が間違っているのであれば、ディベーターはそれを説得的に意識改革させる
> 能力をつけるべきだということであれば、ジャッジは通常行っている判断過程をもっ
> て試合にのぞんだ方が教育効果は上がります。
 
S.Sさんが,「二重の説得」というゴールに関して賛同をいただけたのは喜ばし
いですが。でもその教育手段に関しては,やはり全く同意できないです
 
あえてジャッジが,「理想化され」ていない,レベルの低い聞き手の役を演じて
「反面教師」にならなくては,「良い議論」の教育が出来ないなんてのは,やは
り教育手法としては全く機能することが保証されていない,突飛な教育論と言え
ましょう。日本ではRとLの発音を区別できる人が多くないからといって,あえ
て区別しないで英会話を教えた方が,結果としてよい発音を教えられるなどと言
っているのと同じで,全く妙な教育観にしか聞こえません。
 
Y.Kさんが,
> S.Sさんの反論はまさにその通りですが、
とこれに同意してますが,そうした反面教師的教育論のほうがうまくいくという
経験的な証拠でもあるのでしょうか。実例をあげていただければ納得しますが。
 
結局のところ,「現状の聞き手」をジャッジがエミュレートした時点で,ディ
ベーラーはそのレベルにあわせたディベで勝てるようになり,それ以上進まない
ケースが多いでしょう。例えば,東大ディベラーなら,北朝鮮のプロポの際に
「認識リスク派ジャッジ」にあたったら,は「エビデンスは集めませんでした
が,私は東大の法学部で,将来外交官になる人間ですが,相手はそうではありま
せん。そのことをよく考慮に入れてジャッジしてください」とか繰り返すとか
しかねません(くれぐれも,そんな馬鹿げたことやるなよ。長尾くん)
 
どこに,ディベーターがディベートの試合の中で,ジャッジを「意識改革」しよ
うとする面倒な方向に向かう契機が保証されているんでしょうか。実際には,そ
んなことは保証されず,そのレベルの低いジャッジングの枠内で勝とうとする楽
な方向に向かうからこそ,現状の大学英語ポリシー・ディベートの惨憺たる状況
があるのだと思います。
 
---
 
確かにジャッジたるもの,単に「あるべきディベート・セオリー」なるものを形
式的に振りかざすだけでなく,レベルの低い現実の社会の「現状の聞き手」の現
状をよく認識したうえで,それとの差を常に自覚しつつ試合の判定をだし,何故
現実の社会のような討議のままではだめであり,どうすれば越えられるのか,根
本まで遡ってディベーターに分からせられるように,ディベートの試合やレクチ
ャーなどを活用すべきでしょう
 
そうした手法によってこそ,現状の聞き手をも変える理論を武装した,二重の説
得を行えるディベーターが育てられるのだと思います。現実社会の判断のエミュ
レーションなど全くの逆効果です
 
なお最後にY.Kさんの,
 
> S.Sさんの反論はまさにその通りですが、現状を考えると、私としては二重の説得は
> 高すぎる理想のような気がします。それ故に、S.Sさんのようなジャッジ像も現状で
> は適切でないと思われます。
> 
> 先ず、あるべき議論を行えるようになることが第一で、それさえも往々にして達成で
> きないのですから、ましてやその次の段階にはなかなかいけないと思います。
 
これは,いま現にはびこっているジャッジの現実を目にしているのなら,適切で
ない結論だと思います。やはり二重の説得という高めの目標をジャッジのみなさ
んに持ってもらうことが,現状のジャッジ教育の一つの処方箋になると思います
 
実際に大学英語ディベートで見るジャッジの生態としては,ディベーターに「こ
こではエビデンスをよまなくちゃいけない」と表面的には適切なこともある(し,
不適切なこともある)指導をしたとしても,何故読まなくてはいけない(読むべ
きなのか)を全く説明しようとしないか,そもそも説明できないケースが多々あ
ります。それがルールだからと説明したりするケースすらあります
 
こうしたケースをなくしていき,より根拠を持ってディベーターに指導をおこな
ってもらうためにも,ジャッジに二重の説得の行える教育者を育てるという目標
意識を持ってもらい,自らが教える内容に原理的にまで遡り責任を持ち,それを
教えられるようになってもらうことが,教育実践的な方策としてより有効だと,
やはり思って提案しています。
 
Y.Y
 
 
<中略>

 
 
Date: Fri, 12 Feb 99 01:16:35 JST
Subject: [JDA :5432] =?iso-2022-jp?B?GyRCIVZGcz1FIVckTkBiRkAbKEI=?=
 
 T.Tです。
 
> S.Sさんが,「二重の説得」というゴールに関して賛同をいただけたのは喜ばし
> いですが。でもその教育手段に関しては,やはり全く同意できないです
>
> あえてジャッジが,「理想化され」ていない,レベルの低い聞き手の役を演じて
> 「反面教師」にならなくては,「良い議論」の教育が出来ないなんてのは,やは
> り教育手法としては全く機能することが保証されていない,突飛な教育論と言え
> ましょう。日本ではRとLの発音を区別できる人が多くないからといって,あえ
> て区別しないで英会話を教えた方が,結果としてよい発音を教えられるなどと言
> っているのと同じで,全く妙な教育観にしか聞こえません。
 
 たぶん、これはS.Sさんが「二重の説得」論は、ディベーターが「聞き手は合理的に論
を把握すべきという説得」をした後、「私の主張は正しいという説得」の両方をすべきと
いう意味と解したことによる誤解でしょう(原文はそう解釈することも十分出来ます)。
  そう考えると、「RとL」の例やへぼな議論が跋扈するという主張は(ジャッジを性
的にすることに失敗したから負けになるのかな)的外れなのでしょう。
 
 しかし、今回のY.Yさんの主張からするとディベートというプロセス全体が、主にジッ
ジのイニシアティブによって、ディベーター及び聞き手に対して、「聞き手は合理的に論
を把握すべきという説得」を行う趣旨のようです。
 そうなると二重の説得のそれぞれの説得は、パラレルでなく、誤解を生みやすいよう思
われます。
 
 

 
 
Subject: [JDA :5436] =?iso-2022-jp?B?UmU6IBskQiFWRnM9RSFXJE5AYkZAGyhC?=
 
拝啓 Y.Y様
 
Y.Kさんから「二重の説得」という教育目標自体に対する批判も出ていますが、ここ
では「二重の説得」が教育目標であるという「合意」に基づいて確認します。
 
私の理解したところ、Y.Yさんの「二重の説得論」は、”レベルの低い現実の議論状
況で「のみ」通用するような議論は問題外であるが、逆にレベルの低い現実の議論状
況で「すら」通用しない議論も意味がない”ということではないかと思います。
 
ジャッジが「現状の聞き手」であると、レベルの低い現実の議論状況で「すら」通用
しない議論も排除されるかわりに、レベルの低い現実の議論状況で「のみ」通用する
議論が跋扈する結果になるというのが結論だと思います。
 
逆にジャッジが「理想的な聞き手」であると、レベルの低い現実の議論状況で「の
み」通用する議論は排除されますが、レベルの低い現実の議論状況で「すら」通用し
ない議論も採用されてしまうはずです(これは前のメールで述べました)。例えば自
信のない表現で議論の伝え方には問題があるが中身は論理的に通っている議論など
は、「理想的な聞き手」であればその意味するところを汲んで採用してしまうでしょ
う。
 
とすると、理想的なジャッジ像は、「レベルの低い現実の議論状況で「のみ」通用す
る議論」に対しては理想化された第三者として排除しつつ、「レベルの低い現実の議
論状況で「すら」通用しない議論」に対しては(ジャッジが認識したところの)現実
の議論状況を踏まえてやはり排除する、ということになるでしょう。
 
理想としては賛成しますが、一人のジャッジが「ジャッジングの一貫性を保ちつつ、
矛盾なしに」あるときは「理想的な第三者」を演じ、あるときは「現状の聞き手」を
演じるのはなかなか難しいと思います。ジャッジにそこまでの役割を期待するのはか
なり酷です。また、ジャッジの能力的制約だけではなく、ディベートでは一方の議論
を排除することは相手側の有利になりますので、「レベルの低い現実状況で「すら」
通用しない議論」を排除した結果、「レベルの低い現実状況で「のみ」通用する議
論」に加担してしまうということもあると思います。
 
Alternativeとしては、いろいろなレベルのジャッジがいることではないかと思いま
す。理想的な第三者からレベルの低い現状の聞き手まで、いろいろなレベルのジャッ
ジを同時に説得できる議論が真に強い議論だと思います。
 
私の理解に誤りがあればご指導下さい。
 

 
Date: Fri, 12 Feb 99 13:42:23 JST
Subject: [JDA :5443] JDA
 
ツクバのY.Kです。
あんまりちゃんと議論をフォローしていないので、トンチンカンな意見かもしれませ
んが…
 
>でこの、埋まらない差を埋めようとすべく、両陣営が繰り出す「ディベートを現
>実に」「いや現実をディベートに」という大文字のもの言い、その中で議論の優
>劣や体系の緻密さをみるのも嫌いじゃなかったし、自慢じゃないが僕も半ば以上
>身入れてやっていたんだけど、なんか最近は食傷ぎみです。トカトントンとか聞
>こえてきそう。言葉は悪いがハムスターの共食いを見ているような気持ちにな
る、っ
>てぇのはこちらの性格の悪さか。
>
>T.Tさんがいっていた議論の空理性とも通じるのかな。
>
>T.O
 
これには納得です。まさにともぐいですね。。。
 
例えば、「最終的に説得させる」ことが目的で、用いる手段がオラルコミュニケー
ションであるとき、ディベートが受け入れられるような相手であれば、ディベートと
いう手法を「現実」に応用し成果をあげられるかも知れません。
そのとき、相手の人が東大が好きならば、東大の先生の書いた本でも引用すればいい
んだし、それは柔軟に。
もしディベートきらーいっていう人ならば、感情的に訴えるとか、別の方法を考えれ
ばいいんだし、すべての人に通じる手段なんて、人によってあたまの中身が違う以上、
考えられないと思いませんか。
もし、そんなのあったら、逆に怖い。
 
>「ディベートを現
>実に」「いや現実をディベートに」
 
これは、「ディベートが現実の場面で有効である場合もあるし」「現実にディベート
という手法を持ちこむと有効である場合もある」っていうことであって、どちらもど
ちらを否定するとかそういうことじゃないと思います。
 
コミュニケーションの手段のひとつとしてディベートがあって、それがより現実の世
界で有効(=より普遍的、洗練された、ってことでしょうか??)にするために努力
をする事が必要だということは賛成ですが、あくまでも手段のひとつとして位置付け
るのが、建設的な(=当たり障りのない?!?!)とらえ方と思うのですが、
いかがなもんでしょうかねえ。。。。
 

 
Date: Sat, 13 Feb 99 23:11:50 JST
Subject: [JDA :5471] Re: JDA
 
 
> もしディベートきらーいっていう人ならば、感情的に訴えるとか、別の方法を考えれ
> ばいいんだし、
> すべての人に通じる手段なんて、人によってあたまの中身が違う以上、考えられない
> と思いませんか。
> もし、そんなのあったら、逆に怖い。
 
 うん。そう考えることもできるけど、最初に理性的に考えるべきってことを説得して
(しかもそれを理性的に説得できる人にだけ説得するという意見もある)、そのあとディ
ベート的に説得したらどうだろうという、人の頭の中身をそろえる主張も行われているよ
うですよ。
 
T.T.
 

 
 
Date: Fri, 12 Feb 99 15:03:06 JST
Subject: [JDA :5447] =?ISO-2022-JP?B?UmU6IFtKREEgOjU0?=
 
どうも、Y.Yさんの言う二重の説得が今一つ明確にされていなかったような気がしま
す。一体、どのようなプロセスでそれが行い得るのかについてが、最初の投稿では不
明確でした。
 
>Y.Kさんが,
>> S.Sさんの反論はまさにその通りですが、
>とこれに同意してますが,そうした反面教師的教育論のほうがうまくいくという
>経験的な証拠でもあるのでしょうか。実例をあげていただければ納得しますが。
>
>結局のところ,「現状の聞き手」をジャッジがエミュレートした時点で,ディ
>ベーラーはそのレベルにあわせたディベで勝てるようになり,それ以上進まない
>ケースが多いでしょう。例えば,東大ディベラーなら,北朝鮮のプロポの際に
>「認識リスク派ジャッジ」にあたったら,は「エビデンスは集めませんでした
>が,私は東大の法学部で,将来外交官になる人間ですが,相手はそうではありま
>せん。そのことをよく考慮に入れてジャッジしてください」とか繰り返すとか
>しかねません(くれぐれも,そんな馬鹿げたことやるなよ。長尾くん)
>
>どこに,ディベーターがディベートの試合の中で,ジャッジを「意識改革」しよ
>うとする面倒な方向に向かう契機が保証されているんでしょうか。実際には,そ
 
ディベータが本来あるべき議論について理解しているならば、そういう契機は与えら
れるでしょう。
逆に、ジャッジが「理想的な聞き手」である場合、一体どうやって、現状の聞き手を
改革する訓練ができるのか全く不明です。
単にジャッジの結果(判定と判定理由)によってのみだとそういう訓練はできないと
思われました。
 
 
>確かにジャッジたるもの,単に「あるべきディベート・セオリー」なるものを形
>式的に振りかざすだけでなく,レベルの低い現実の社会の「現状の聞き手」の現
>状をよく認識したうえで,それとの差を常に自覚しつつ試合の判定をだし,何故
>現実の社会のような討議のままではだめであり,どうすれば越えられるのか,根
>本まで遡ってディベーターに分からせられるように,ディベートの試合やレクチ
>ャーなどを活用すべきでしょう
>
>そうした手法によってこそ,現状の聞き手をも変える理論を武装した,二重の説
>得を行えるディベーターが育てられるのだと思います。現実社会の判断のエミュ
>レーションなど全くの逆効果です
 
ここでやっと、Y.Yさんの言いたいことが分かりました。
 
勿論、このような形で指導すること自体には異義はありません。
 
 
にも関わらず、
 
私としては二重の説得は高すぎる理想のような気がします。
 
という結論はそれ程変わりません。理由の一つは、前にも書いた、
 
>> 先ず、あるべき議論を行えるようになることが第一で、それさえも往々にして達成で
>> きないのですから、ましてやその次の段階にはなかなかいけないと思います。
 
です。
 
>実際に大学英語ディベートで見るジャッジの生態としては,ディベーターに「こ
>こではエビデンスをよまなくちゃいけない」と表面的には適切なこともある(し,
>不適切なこともある)指導をしたとしても,何故読まなくてはいけない(読むべ
>きなのか)を全く説明しようとしないか,そもそも説明できないケースが多々あ
>ります。それがルールだからと説明したりするケースすらあります
>
>こうしたケースをなくしていき,より根拠を持ってディベーターに指導をおこな
>ってもらうためにも,ジャッジに二重の説得の行える教育者を育てるという目標
>意識を持ってもらい,自らが教える内容に原理的にまで遡り責任を持ち,それを
>教えられるようになってもらうことが,教育実践的な方策としてより有効だと,
>やはり思って提案しています。
 
そういう説明をきちんと行う上で、二重の説得の理想は不要です。あるべき議論のや
り方を本当に理解しているならば、そういう説明はできるはずです。
 
さらに、言えば、あるべき議論を本当に理解しているならば、二重の説得という目的
理念自体は、必然的に付帯してくるとも思います。
 
 
二重の説得が高すぎる理想という第二の理由は、
 
人の概念的枠組/世界観はそんなに簡単には変わらない。
 
ということです。
 
 
一体Y.Yさんがどういう状況での「二重の説得」を考えているのか分かりませんが、
Y.Tさんの言うところの
 
>「思考の前提が合理的でないために全体として合理的な意思決定ができない」
 
人を相手にしての話なら、まあ分かります。その場合にはそれ程異論はないです。
 
(その場合でもその人が合理的説得を受け入れるという性善説的な合理的人間観を前
提してのことですが。)
 
だとしたら、ディベータへの聞き手としての教育も等しく重要であると付け加えてお
きます。
 
 
しかしながら、あるべき議論のやり方を分かっていても、合理的議論を受け入れない
ことはよくあることで(科学の歴史がこれを如実に示している)、これは目的論的前
提や形而上学的前提やその他の諸々の前提によるもので、こういう場合での二重の説
得−この場合最初のステップ(概念枠についてのもの)−は極度に困難になります。
 
基本的に人は、合理的足り得るものの、その基本的立場の決定については、非合理的
であるというのが私の見方です。
 
 

 
Date: Fri, 12 Feb 99 21:20:04 JST
Subject: [JDA :5453] Re: RE: =?ISO-2022-JP?B?GyRCJUclIyVZITwlSDY1GyhK?=
 
Y.Tです。
 
>できます。S.Sさんは、日本政府ないし大手金融機関におつとめなのでしょうか。だとる
>と、それも良く理解できます)。 しかし、これをこのメーリングリストで確認するこの
>value addedはそれほど大きくないと思っています。
> イシューはこのメーリングリストを読んでいない人に、このメッセージをどうコミュー
>トするかなのだと思っています。
 
おわかりいただけていないような気もするのでもう一度書きますが、テーマは
ディベートの価値をどう理解するかということです。「布教活動」は良いので
すが、どんな価値を「布教」するのか、についての理解は、このメーリングリ
ストを見ただけでも、人によってばらばらです。ばらばらであること自体は構
いませんが、あたかも「メッセージ」は決まりきっていて、後はそれをコミュ
ニケートすることだ、と考えるのは早計だと思います。Communication より先
に cognition の問題を扱う必要があります。
 
商品を市場に問うときに、その商品の価値は何か、を正しく理解しているか。
意外と「わかったつもり」になっていることが多いものです。
 
そのコンテクストにおいて、
 
「思考の前提が合理的でないために全体として合理的な意思決定ができない」
 
という問題に対するひとつの解答がディベートから得られるということを言い
ました。「合理的判断はできるけど、(いろいろしがらみがあって)行動でき
ないだけだ」と思っている人は、実は、行動できないと思い込んでいるだけの
場合が多い。その思い込みを解きほぐしてやることができるか。
 
ディベートを詭弁術、頭の体操、スピーチ大会の一種、などと思っている世の
人には、ディベートが mental model の問題に関して実践的に役立つことなど
はなかなか理解できないでしょう。
 
Y.T 

 
 
Date: Sat, 13 Feb 99 19:17:52 JST
Subject: [JDA :5460] =?iso-2022-
 
T.T.です。
 
 Y.Tさんの命題は、繰り返し、繰り返し言われてきましたよね。もうこの命題をより
精緻にするのはそれこそ「100分の1の技術を1000分の1の技術」にするってこ
とであって、ユーザから見れば違いがないと(saturated!)。
 
 この命題をわかりやすく、定式化することにvalue addedがあるのであって、「ディ
ベートを詭弁術、頭の体操、スピーチ大会の一種、などと思っている」人はこの中メー
リングリストにはほとんどいなくて、よそにたくさんいるのであれば、どちらにこの問
題を問う方が重要でしょうか。そういう意味では、Y.Yさんのスタンスは非常に尊敬で
きますし(両方あるから)、T.Oさんの「ハムスターの共食い」も良く理解できます。
 
 逆に、Y.Kさんクラスまでやるのであれば、それはまた別の価値が生じるでしょう。
 
 audienceに対する付加価値というのを考えると、結構袋小路に入っているのかなというのが私の感想です。
 
> 「合理的判断はできるけど、(いろいろしがらみがあって)行動でき
> ないだけだ」と思っている人は、実は、行動できないと思い込んでいるだけの
> 場合が多い。その思い込みを解きほぐしてやることができるか。
>
 これも論証が必要ですね。S.Sさんに対するのと同じ疑問を感じます。 「しがらみ
も含めて合理的に判断」する「実務家」論か、「しがらみを理由に思考を停止をしている」
論は、成り立つけど「判断、行動二元論」者にもディベートは有効というのは楽観的すぎ
ますね。
 
 そもそも、意思決定のプロセスとコミュニケーションストラテジーを、最終形態は別
として、実際の普及のコミュニケーションストラテジーにおいて同一視するのは、さら
に大胆な「3重の説得論」を前提にしていることになるでしょう(つまり合理的に判断
すべきであることの受け入れを合理的に判断すべきだと説得している。これは「信者」
同士の「信仰告白」にのみ有効でしょう。Y.Yさんの信者も一枚岩ではないという議論
も納得できますが)
 
 

 
Date: Sat, 13 Feb 99 20:56:49 JST
Subject: [JDA :5464] How to convey value of debate
 
Y.Tです。
 
ディベート活動の価値をいかに他人に伝えるか。うまく伝えるためにはその
価値自体をよく理解している必要がある、という当たり前のことを述べてき
ました。ではどのように伝えるかについて、述べたいと思います。
 
セミナーをやる、本を出す、テレビで話す、などといろんな方法については
それぞれメリット、コストがあります。私が推奨するのは、ディベート経験
者が体得した思考スキルを日々の行動に織り込んで活かしていくことです。
 
仕事や生活の困難な場面で、迅速に合理的な分析をしていく。意見の通じな
い相手の mental model を理解する訓練をする。仮説(ケース、argument)
を打ち立てて、検証していく。大量の証拠資料や論点を短時間に処理して、
decisionを出す。その reasons for decision を論理的に整理して他人に伝
える。あるいは、別の仮説、論題を打ち立てて、戦略的にシナリオを描いて
いく...
 
そういう思考スキルの実践が優れた結果を生み、他人の注目を集めることも
ときどきあります。「あなたのやり方は、ビジネススクールで学んだもので
すか。それともコンサルティングの手法ですか」などと聞かれることも。そ
ういうとき、「どちらもありますが、基本的にはディベートで学んだことで
す」などというと、ディベートを弁論術だと思っている相手は不思議そうに
します。「ディベートというのは相手を言い負かすゲームじゃないのか」と
いうわけです。そうなれば、ディベートが議論の技術と同時に思考の技術を
教えてくれるものだ、ということを伝えることができるでしょう。相手が興
味を持ってくれるからです。(興味のない相手に「あなたはディベートにつ
いて無理解だ」などと言っても、聞いてもらえません)
 
「そんなことはもうやってる」という人にはこれ以上言うことはありません。
 
 
読者諸兄のご意見、ご批判を頂ければ幸いです。このメーリングリストには
ディベート関係者・経験者以外の読者もいらっしゃいますから、その意味で
も貴重です。個人的なメッセージについては tamura@rigid.com 宛にお送り
ください。
 
 
以下はT.Tさんのお返事へのお返事です。ご興味のある方はお読みください。
 
> Y.Tさんの命題は、繰り返し、繰り返し言われてきましたよね。もうこの命
題をより精緻にするのはそれこそ「100分の1の技術を1000分の1の技
術」にするってことであって、ユーザから見れば違いがないと(saturated!)。
 
おっしゃる通り、私はいろんなところで同じことを繰り返し述べています。
Acknowledge していただいて恐縮です。しかしメッセージが理解されている
かどうかは別の話です(伝え手の技量の問題もあれば、聞き手の受容度の問
題もある)。
 
また、誤解されているようですが、このメッセージを精緻にしようという趣
旨ではありません。私は極めて単純な意見表明に徹しているし、前にも言っ
たように「外」の世界に訴えていくことにも積極的です。その場合メッセー
ジはシンプルな方がいいのです。
 
> この命題をわかりやすく、定式化することにvalue addedがあるのであって、
 
わかりやすく定式化することにぜひ力を貸してください。私も努力している
つもりですが、力不足のようですし。
 
>「判断、行動二元論」者にもディベートは有効というのは楽観的すぎますね。
 
そうかもしれません。私はもともと相当な楽観主義者で。。。 とはいえ、
ディベート活動から十分な答が出る、とは思わないし、言ってもいません。
部分的な助けになる、と言っています。ただし重要な部分について、です。
 
> そもそも、意思決定のプロセスとコミュニケーションストラテジーを、最終
形態は別として、実際の普及のコミュニケーションストラテジーにおいて同一視
するのは、さらに大胆な「3重の説得論」を前提にしていることになるでしょう
(つまり合理的に判断すべきであることの受け入れを合理的に判断すべきだと説
得している。
 
これはたぶん straw man だと思います。そのような同一視はしていません。
私の表現が誤解を招いているのだと思いますが、今回のメッセージを読んで
いただければ誤解がとけるかもしれません。
 
 
Y.T

 
 
Date: Sat, 13 Feb 99 22:23:02 JST
Subject: [JDA :5468] How to convey value of debate
 
 T.Tです。これで最後にしましょう。
 
> ディベート活動の価値をいかに他人に伝えるか。うまく伝えるためにはその
> 価値自体をよく理解している必要がある、という当たり前のことを述べてき
> ました。ではどのように伝えるかについて、述べたいと思います。
 
 これは当たり前ではありませんね。それはactual valueとperceived valueが違う
ことや、同じ商品でもpositioningを変えることが出来ることを捨象しています。 本
質的には、AかBか論争がつきないけれど、Cは全くの誤解だからおいておいて、D
ということで位置づけて、実はAかBかあとで自分で考えさせると言うこともあるで
しょう。
  Y.Tさんの議論は合理的な採用者を前提にしている点において、S.Sさんと同軸
であり、「三重の説得」なのです。
 
> 仕事や生活の困難な場面で、迅速に合理的な分析をしていく。意見の通じな(以下
> 略)
 
 感動的な事例で、明日にでも実践可能な事例で、印象深い事例です。私も、同じ様
な経験はあります。
 しかし「じゃあディベートをやってみよう」ということにはなかなかならないので
はないでしょうか。
 そもそも合理的な意思決定であればディベート以外にもいろいろあるでしょうし、
Y.Tさんの説明はover expectationを引き起こすようにも思います。
 
 「argumentation教育」というコンセプトをいかにわかりやすくするかは、私自身
の一番の課題です。
 その点をY.Tさんと共有できたのは嬉しく思います。
 

 
 
Date: Mon, 15 Feb 99 05:50:40 JST
Subject: [JDA :5477] Re: How to convey value of debate
 
<中略>
 
ディベートを、合理的思考/意思決定の訓練として、つまり情報処理の一技術として
みなし、そこに意義を求めること自体は、T.Tさんの言うように幾度と繰り返されて
言われてきたことであり、それのみをディベートの意義とするならば、確かに、それ
をここで今さら確認することにはポイントはそれ程ないでしょう。
 
細かいことを言えば、
 
>> ディベート活動の価値をいかに他人に伝えるか。うまく伝えるためにはその
>> 価値自体をよく理解している必要がある、という当たり前のことを述べてき
>> ました。ではどのように伝えるかについて、述べたいと思います。
>
> これは当たり前ではありませんね。それはactual valueとperceived valueが違う
>ことや、同じ商品でもpositioningを変えることが出来ることを捨象しています。 本
>質的には、AかBか論争がつきないけれど、Cは全くの誤解だからおいておいて、D
>ということで位置づけて、実はAかBかあとで自分で考えさせると言うこともあるで
>しょう。
 
とありますが、Y.Tさんは、T.Tさんが指摘しているようなことも含めて、「理解」
と言っているのだと思いますよ。
 
 
 
このY.Tさんの発言に関連して言わせて頂くと、ここでディベート活動の価値と言わ
れていることは、どうもディベート活動のセールスポイントという風に受け取られま
す。特にT.Tさんはそういう風に理解しているように見えます。
 
確かに、セールスポイントとしては、情報処理の技術という側面は有効でしょう。(
その伝え方は難しいとしても)
 
そして、それを伝える場合には、その実益を訴える等々の手段による(他には例えば
「刷り込み」等)ことになるでしょう。
 
Y.Tさんの挙げた伝え方は、「三重の説得」を必要としないでしょう。「合理的に判
断すべき」ということを受け入れる上で素朴な(必ずしも合理的で無い)判断に訴え
ているととれますから。つまり、実利という最も分かりやすい(最低限の合理性しか
必要としない)もので釣ろうという訳ですから。
 
 
 
「n重の説得(n>2)」は一般に不可能でしょう。二重の説得が効かない相手、つまり方
針として「合理的に判断しない」相手に「合理的に判断するよう合理的に判断(する
ように…判断)しろ」と言っているのですから。どこまで行っても無駄です。
そういう説得が必要な相手に対しては、恐らく、言葉は悪いですが「刷り込むか」、
「威嚇するか」、「相手が淘汰されるのを待つか」、「相手の判断基準(感情的その
他何でもあり)に基づいての優位性を示す」以外に手段はないでしょう。
つまり、合理性を受け入れるかべきかどうかは、合理的に示しようがない。
理想的には相手の判断基準に基づいての優位性を示す(例、実利が相手の判断基準に
入っている場合、実利で釣る)のがいいのでしょうが、最も効率的なのは、相手が気
が付かない中に刷り込むことでしょうね。
現実に(歴史的に)このような局面で最も働いてきたのは、「淘汰待ち」だと言う人
もいます(例、フロギストン理論から酸化理論への移行等の科学史上のパラダイム転
換)。
「威嚇」というのは、一時しのぎにしかならない最低の戦略。
 
さらに脱線しますが、今のディベータは知らないだろうけど、日本でのアカデミック
ディベートが今のような形態に変わるときには(昔はスピーチ大会に毛が生えたよう
なディベートだった)、「刷り込み」と「淘汰(待ち)」が働きました。淘汰された
方は、「威嚇」で対抗していたんですが。(日本のディベートコミュニティーは、決
して合理的判断に基づいて今のような形態を選択したのでは無い。)
 
 
 
さて、情報処理技術訓練の宣伝についてはさておいて−これはT.Oさんの問いかけへ
の私の答えでもありますが−私としては、それだけをディベートの価値としては見て
いません。
いや、むしろ、情報処理技術(の訓練)としては、その他の手段に対して際立ったも
のではないと思います。
 
つまり、ディベートをやらなくても、Y.TさんやT.Tさんが御考えのような能力は身
に付くということであり、ディベートがそれへの唯一の有効な方途ではもちろん無い
し、際立って有効かどうかも、「私には良く分かりません」(^^;)。
 
 
 
これは以前ここで書いたことですが、私は、ディベートの意義をある種の規範を定着
させることにあると思います。
 
今回の流れの中で言い変えれば、二重の説得を不要にすることです。
 
つまり、行為を議論に従わせるという、合理的意思決定そのものではなくそこに於け
る規範を、最終的には社会一般に植え付けるということです。T.Tさんが、ディベー
ト普及を宗教になぞらえていましたが、まさに、ディベートを普及させることは、ギ
リシア以来の一つの「イデオロギー=宗教=生活形式」としての、行為の<言葉=論
理=ロゴス>への従属という信念/規範の普及の一つの手段として捉えられるべきだ
と私は思います。
そのようなロゴス中心的規範は、自由民主主義社会体制の根幹をなす「正義/公正の
実現」の為には不可欠だと私は思います(これについてはまたいずれ。前に一度書い
たし)。
プラトン以来、西洋では哲学者たちがこの宗教の中心にいました。日本では、哲学の
伝統もなく、こういう規範の伝統もありません。最近では、ロゴス中心主義を批判す
る哲学者もいますが、だからと言って、それを日本の状況に当てはめるのは早計だと
思います。
 
もちろん、ディベートはこの<生活形式>の一翼を担うものに過ぎませんが、最も実
践に結びついているだけに、私はこれを非常に有効な手段と見ています。
 
ディベートを通しての聞き手教育が重要だと考えるのもこれによります。
 
 
T.Oさんの分類に従えば、私は最もラディカルな改革主義者でしょう。
 
二重の説得をする者を育てるのも重要だし、情報処理技術なり、なんなりとして、デ
ィベートをやってもらって、上記の生活形式を刷り込むのも重要です。
 
ロゴス中心主義自体は、ロゴスには基づいていない。これはデリダの言う通り。しか
し、だからといってロゴス中心主義を捨てるべきとは言えない。
 
 
注意しておきますが、今回書いたことは、ディベート論として、アカデミックディベ
ートの大義名分論としてのことです。
 
Y.K

 
 
Date: Mon, 15 Feb 99 12:52:44 JST
Subject: [JDA :5478] Re: How to convey value of debate
 
 T.Tです。 
 フォローいただき恐縮です。
 
> とありますが、Y.Tさんは、T.Tさんが指摘しているようなことも含めて、「理解」
> と言っているのだと思いますよ。
 
 だから、本当の価値の問題と見せ方の問題を混同しているというようにいっています。
 そして、本当の価値の問題としては陳腐だし、見せ方の問題としては洗練されていない
と考えています。
 
 たぶん、本当の価値とかいうとそれこそ「ロゴス中心主義」(これって批判的な文脈で
主に使われるから別の表現を用いたいのだが。とりえあえず全国教室ディベート連盟はそ
れを「議論の文化」と呼んでいますが)とか「大文字」の話になるわけで、それをどう見
せるかについてのみ、議論があり得るんだと思います。
 
> いや、むしろ、情報処理技術(の訓練)としては、その他の手段に対して際立ったも
> のではないと思います。
 
 私もそう思います。これは究極的にはわかりやすい提供価値でしかないと思います。
 

 
Date: Mon, 15 Feb 99 14:18:45 JST
Subject: [JDA :5479] Re: How to convey value of debate
 
皆さんこんにちは、Kです。
 
アーギュメンテーション教育の意義について(共食いにならないことを祈りつつ。)
Y.Kさんのメイル [JDA :5477]を読んで思ったことを少し書きます。
 
 
Y.Kさん曰く
> もちろん、ディベートはこの<生活形式>の一翼を担うものに過ぎませんが、最も実
> 践に結びついているだけに、私はこれを非常に有効な手段と見ています。
>
> ディベートを通しての聞き手教育が重要だと考えるのもこれによります。
>
 
聞き手教育の重要性には同意します。しかし、現在のディベート教育
(大学英語アカデミックディベート)において、ジャッジ/オーディエ
ンス教育はかなり軽視されている気がします。まずはディベーターとし
て議論することから始まりますからね。(サークルによりけりでしょうか?)
 
個人的には聞き手の議論上の規範と話し手の議論上の規範は違うという
Y.Kさんの意見に賛成ですが、議論をさせる前に議論を批評する・審査する
ことに特化した教育をした方が二重の説得の一つを不要にするためには効率
がいいと思うのですがどうでしょう。聞き手教育の場合、ディベート審査に
限らず、新聞の社説を批評(評価)したり、国家の政策を批評(評価)した
りして規範について教えてもいいでしょう。
 
ディベートというよりも広くアーギュメンテーション教育ととらえて書いた
ため、大学ディベート界よりは授業におけるアーギュメンテーション教育上の
意見なのかもしれません。実際に授業などで教えていらっしゃる方々を含め、
皆様はどのようにお考えでしょうか?ご指導ご鞭撻よろしくお願いします。
 
K
 
 
 
 
 
 
 

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