積極的に合意された議論どのように評価すべきか


 
Date: Wed, 30 Dec 98 21:20:54 JST
Subject: [JDA :5238] =?iso-2022-
 
S.Sです。要旨を見て興味のある方はどうぞ。フィロソフィーを書くときに参考にな
るかもしれません。
 
(要旨)
1.民事訴訟の世界で相手の主張に対して反論しない(drop)という立場には、次の二
通りがある。
(1)「認める」相手の主張を正しいと認める。この場合、裁判官は主張が立証され
ているか否かを審査しない。
(2)「不知」相手の主張に対して反論はしないが、正しいと認めるわけではない。
この場合、裁判官は、主張が立証されているかどうかを立証責任の原則に基づいて審
査する。
 
2.ディベートでは一口にドロップとして(1)、(2)の区別がなされていないこ
とが多いが、上記の区別を取り入れることはできないか。(提案)
 
(詳説)
1.民事訴訟の世界で、相手の主張に対する対処方法には次の方法があります。
(1)認める
  相手の主張が、公知の事実であり、反論しても意味がない場合、相手の主張が訴
訟の争点とは無関係で別段それを認めたからといって自分が不利にならない場合、相
手の主張がむしろ自分に有利に働くと考える場合等に用いられます。
 
(2)不知
  相手の主張に対し、自分としてはそれに対して反論したり、反証したりするだけ
の情報があるわけではないが、相手の主張がきちんと立証されることを望む場合に用
いられます。
 
(3)争う
  相手の主張に対し、反論、反証を加える場合に用いられます。
 
2.例えば、BさんがAさんから次のような損害賠償請求をされた場合を考えてみま
しょう。 
a)12月XX日の夜、C交差点でAさんのフェラーリと、Bさんのベンツが衝突する事
故があり、Aさんのフェラーリは大破した。
b)Aさんのフェラーリの色は赤だった。
c)Aさんのフェラーリは1000万円で新車を購入してからまだ1年未満であった。
d)本件衝突事故にはBさんに過失がある
よって、BさんはAさんに1000万円を支払うべきである。
 
これに対し、Bさんの対応としては、
(1)a),b)については認める。(事故があったのは警察も認めている明らかな事実
であって、この事実を争っても裁判官の心証を悪くするだけで意味がない。また、
フェラーリの色が何色であっても別にBさんには不利にならない)
(2)c)については不知。(フェラーリの損害額はBさんにとって損害賠償額の基
準となる極めて重要な事実ではあるが、Aさんの車がいくらでいつ購入されたかはBさ
んには知るすべがないため、反論・反証することはできない)
(3)d)については争う。(Bさんには過失はないと主張する)
という対応が考えられます。
 
3.長々と例を挙げましたが、民事訴訟においては、「認める」と、「不知」は別の
ものです。ディベートで一口にドロップといっているものの中にはこれらの両方が含
まれているのではないか、という疑問があります。
 
4.つまり、相手の主張をドロップした場合でも、ドロップした側が自分がドロップ
した事実をそもそも争う意思がない場合と、争う意思はあるが時間的制約その他の制
約によってやむをえずドロップしてしまった場合は、別の扱いをすべきではないか、
ということです。
 
5.前者については、例えば、否定側が肯定側の利益の成立をリンクとして弊害を主
張していて、肯定側も否定側も利益の存在については争いのない場合が考えられま
す。このような場合に、ジャッジが肯定側の利益の立証が不十分であるとして、利益
(そして弊害も)を切ってしまうことは、過度な介入ではないかと思います。
 
6.一方、後者については、相手側のディベーターは認める意思があったわけではな
いので、ジャッジは立証責任の原則どおりに証明がなされてか否かを審査すべきもの
と考えます。
 
 
以上、私の民事訴訟法に関する知識等に間違いがあるかもしれません。御指摘いただ
ければ幸いです。御意見、反論等よろしくお願いいたします。
 
>現在必要なテキストは、H.IさんやK.Nさんが述べておられるような証拠の
>評価の理論や、考えかた、相手の主張とジャッジの知識の関わり方など、民事訴訟
法や、
>刑事訴訟法が扱っているような分野のテキストだと思います。
おっしゃるとおりだと思ったので、叩き台(になるかはともかく)を投稿してみまし
た。
 
 

Date: Thu, 31 Dec 98 03:33:01 JST
Subject: [JDA :5240] Re: =?iso-2022-
 
 T.Tです。
 
 民事訴訟法の立場をそのまま採用する必要はないのですが、少なくとも民事訴
訟法の紹
介としては、S.Sさんの紹介の仕方はmisleadingのように思われます。
 
(要旨)
 1.民事訴訟法は「知らない」と「争う」をパラレルに区別しているわけではない。
 2.dropをどう扱うかはむしろ、「争わない」の解釈についての問題で解決すべきである。
 
 
  該当の条項は、同法159条にありますが、ここではこういっています。
 
 1,相手側の主張した事実を争うことを明らかにしないときはその事実を自白
したものと見なす。ただし、主張、弁論全体の姿勢等から判断して、争っているという風
に解釈できるときは例外である。
 2,「知らない」と言った場合は、争ったものと推定する。
 
 つまり、民事訴訟法では、認める、不知、争うはパラレルではなくて、「争
う」(認めない)、「争わない」(認める)の2種類だけがあって、「知らない」(民事訴訟法は口語化されています)と明示された場合は、それは、「争う」場合にいれましょ
う、と言うことです。
 
 そもそも、dropでは、「知らない」と陳述されているわけでもないですから、
これを当てはめるのは間違っているように思います。
 
 むしろ、民事訴訟法159条1項が「争う」と明らかにしない場合には、自動
的にその事実を採用すると言っておきながら、一方で「弁論の全趣旨により、その事実を
争ったものと認めるべきときは、この限りではない」としているところに注目すべきで
す。つまり、「知らない」ということも含めて明確に争わないときは、その事実をそのま
ま採用してしまうけど、どうも争っているようだなと判断できるときは、争っていると解
釈して良いと言っているわけです。
 
 これをディベートの文脈で言い直すと、dropした(明確に争っていないという
こと)場合でも、judgeから見て、これは争うつもりなのだなと判断出来る場合には、証
明の有無を問題にして良いと言うことです。
 
 事実について、弁護士が「争う」、「争わない」ということを明らかにしない
ケースというのがそれほど実際にあるとは、考えられませんが、一応そういうルールにな
っています。
 
 
 

Date: Thu, 31 Dec 98 05:08:33 JST
Subject: [JDA :5244] =?iso-2022-
 
S.Sです。
私が[JDA5238]で述べたかった内容は、T.Tさんの[JDA5240]のとおりですが、このよ
うな投稿をした趣旨は、
ディベーターが、弁論(スピーチ)の全趣旨に照らしても当該事実を争っていないよ
うなときに、ジャッジが当該事実について審査するのは行きすぎた介入であるという
ことを言いたかったものです。
 
>例えば、否定側が肯定側の利益の成立をリンクとして弊害を主張していて、肯定側
も否定側も利益の存在につい>ては争いのない場合が考えられます。このような場合
に、ジャッジが肯定側の利益の立証が不十分であるとして、>利益(そして弊害も)
を切ってしまうことは、過度な介入ではないかと思います。
 
ということです。
 
 
 

Date: Thu, 31 Dec 98 19:42:04 JST
Subject: [JDA :5247] Re: RE:: 
 
法律素人のT.Kです。
 
> S.Sさん曰く
> >例えば、否定側が肯定側の利益の成立をリンクとして弊害を主張していて、肯定側
> も否定側も利益の存在につい>ては争いのない場合が考えられます。このような場合
> に、ジャッジが肯定側の利益の立証が不十分であるとして、>利益(そして弊害も)
> を切ってしまうことは、過度な介入ではないかと思います。
 
 
「介入」という言葉は否定的なニュアンスがそもそもありますので、ことばをかえて
考えてみました。
 
ジャッジの「解釈」の結果どう考えても成立していない(prima facieでない)メリ
ットを、ディベーター同士がが合意しているからという理由で成立しているとみなす
の立場は、結果として議論の質を下げることにジャッジが寄与してしまう(成立して
ないメリットを成立したとみなしてしまう)ので賛成できないです。
 
 
「解釈」の結果メリット・デメリットを無視して審査したとしても、必ずアファが勝
つわけでもなく、ネガが勝つわけでもないです。ネットのみの審査でことが足り、ネ
ガのオプションはデメリットのみである試合を想定して下さい。
 
例1:
アファがメリットを1つしか提示していないのなら、デメリットを無視したとしても
命題が肯定できていないのでアファが負けることになります。
 
例2:
メリットが2つあり、解釈の結果としてメリット1は成立していないがメリット2は
成立している。メリット1が成立するという条件のもとでデメリットが発生する。こ
の場合は、メリット1とデメリットが成立しないのでメリット2の利益を考慮してア
ファが勝つことになります。
 
 
 
暫定的結論ですが、民事訴訟法の議論の評価をディベートに当てはまるように変えて
いくのはよい試みと思いますが、S.Sさんの提唱しているままでは使えないと思いま
す。各々の議論の質を高めるには、ディベーター同士が合意していても解釈したほう
がいいです。というよりも、解釈は人間がコミュニケーションをする過程で常に行っ
ており、ディベーターの言ったまま、合意したままとることは不可能です。
 
民事訴訟法のド素人の意見としては、こんなものでしょうか。あさっての議論かもし
れないですが、叩き台にして更なる飛躍をはかって下さい。>S.Sさん
 
 
p.s. ちなみに、似たようなことが以前メイルリストで議論されました。[jda:2278]
でH.Iさんが「限定審査主義」/「前面審査主義」ということばを使ってジャッジの
アプローチを説明していますが、この中に民事訴訟的アプローチのディベート審査の
問題が少しだけ言及されています。ご関心のある方はお読みになって下さい。
 
みなさんよいお年を!
 
 

Date: Thu, 31 Dec 98 21:30:52 JST
Subject: [JDA :5248] =?iso-2022-
 
S.Sです。
K.Nさんのメールを読んだ後、JDAメールダイジェストに載っていたH.Iさんの「限
定審査主義」「全面審査主義」の議論を読み返していたところ、ちょうどよくT.Kさ
んのメールが入っていました。
 
理論的な話はまた書きますが、まずは、
「結論に対する素朴な疑問」です。
 
 
>> 否定側が肯定側の利益1の成立をリンクとして弊害を主張していて、肯定側も否
定側も利益1の存在については争いのない場合において、もし、利益1も弊害も成立
していたとしたら、(ジャッジの解釈においては)弊害はすべての利益を上回り、否
定側が勝つという例を考えます。
 
>例2:
>メリットが2つあり、解釈の結果としてメリット1は成立していないがメリット2は
>成立している。メリット1が成立するという条件のもとでデメリットが発生する。こ
>の場合は、メリット1とデメリットが成立しないのでメリット2の利益を考慮してア
>ファが勝つことになります。
 
 
私は素朴な感覚として、このバロットでは否定側は納得しないと思うのですが、この
感覚は間違っているでしょうか。利益1をきっちり立証しなかったのはまさに肯定側
が質の低い議論をしたからなわけですが、その肯定側が質の低い議論をしたがために
勝ってしまうわけです。それではむしろ質の低い議論を評価するジャッジングになっ
てしまうのではないでしょうか。
 
私も、民事訴訟の立場をすべてディベートに応用できるとは考えておりませんし、原
則としてディベートでは全面審査主義(当事者主義の一定の排除)が適当であると考
えていますが、このようなケースについてはかなり議論の余地があるのではないかと
思います。
 
 
 

Date: Fri, 1 Jan 99 06:19:59 JST
Subject: [JDA :5251] RE:=?ISO-2022-
 
S.Sさん、みなさん、こんにちは。K.Sです。
 
民事訴訟法のことは良く分かりませんが(^^ゞ、「政策論題を扱う
アカデミック・ディベート」のプラクティスの点から一言。
こちらもフィロソフィーを考える際に参考にしてください。
 
要旨
1ドロップの区別は、S.Sさんの提案とは違う形で既に為されてい
る?
2S.Sさんの提案は既に何度も議論されてきた誤ったジャッジング
の仕方であり、少なくともnet‐benefitに関しては(1)の立場は
取り得ない・取るべきではない。
(重要なのは2の方です。)
 
>S.Sです。要旨を見て興味のある方はどうぞ。フィロソフィーを書くときに参考にな
>(要旨)
>1.民事訴訟の世界で相手の主張に対して反論しない(drop)という立場には、次の二
>通りがある。
>(1)「認める」相手の主張を正しいと認める。この場合、裁判官は主張が立証され
>ているか否かを審査しない。
>(2)「不知」相手の主張に対して反論はしないが、正しいと認めるわけではない。
>この場合、裁判官は、主張が立証されているかどうかを立証責任の原則に基づいて審
>査する。
>
>2.ディベートでは一口にドロップとして(1)、(2)の区別がなされていないこ
>とが多いが、上記の区別を取り入れることはできないか。(提案)
 
結論から言いますと、S.Sさんの提言とは異なる形でですが、現在
のディベートでも1と2の区別は、きちんと行われていると思いま
す。肯定側プランのTopicalityに関しては、慣習的に1の立場を取
り、肯定、否定双方の政策のNet-Benefitsを計る際には2の立場を
取っているはずです。
試合に提出されたすべての議論に関して2の立場を取ることがディ
ベートのジャッジに求められていることだと考えますが、慣習的に
肯定側のプランのtopicalityに関してだけは、私を含めほとんどの
ジャッジが1の立場、すなわち相手からの指摘が無ければプランは
topicalだと看なす立場を取っていると思います。(この件に関し
ては、以前このメーリングリストでも話し合われたことがあります
ね。)
さて、それでは次に、S.Sさんの例に従って、net-benefitについ
て1の立場を考えて見ましょう。
 
>4.つまり、相手の主張をドロップした場合でも、ドロップした側が自分がドロップ
>した事実をそもそも争う意思がない場合と、争う意思はあるが時間的制約その他の制
>約によってやむをえずドロップしてしまった場合は、別の扱いをすべきではないか、
>ということです。
>
>5.前者については、例えば、否定側が肯定側の利益の成立をリンクとして弊害を主
>張していて、肯定側も否定側も利益の存在については争いのない場合が考えられま
>す。このような場合に、ジャッジが肯定側の利益の立証が不十分であるとして、利益
>(そして弊害も)を切ってしまうことは、過度な介入ではないかと思います。
 
以前のメールにもあったように、「介入」という言葉は適切ではな
いと思いますが、とりあえずここではそのまま話を進めます。
 
上記のような試合の評価の仕方は、所謂「タブララーサ」的であり、
「客観的」で「恣意的な介入」のない理想的なジャッジの立場であ
ると思う人がいるかもしれません。しかし、ちょっと考えて見れば、
この立場が誤りであり、実際には適切な実行が不可能であることが
分かります。
 
詳しく考えてみましょう。例の場合、ある利益があり、ジャッジの
評価は、「利益の立証が不十分であるとして、利益を切ってしまう」
と書かれています。Significance(重要性)が無いだけなら不利益
へのリンクはつくはずで問題の主旨に合いませんから、この問題で
はSolvency(解決性)が0という評価なのだと分かります。(ここ
で、「はたして肯定側のプランのSolvencyがまるでない、完全に0
だ」ということがそんなにあるのか、それこそstock issuesジャッ
ジの恣意的な介入じゃぁ無いの?という疑問も湧くのですが、それ
も問題の主旨には関係ありませんから考えないことにします。)
とりあえず当該利益に関するジャッジの評価はsolvencyが0になっ
ています。
問題では、否定側がsolvencyを意図的に争点にせず、この利益の発
生をリンク(発生源)とする不利益を提出したとあります。
この状況でジャッジが取り得る選択肢は最低以下の3つがあると思
われます。
1利益を不成立として、よって不利益も不成立とする。
2利益を成立したことにして、不利益を評価する。
3利益を不成立とするが、不利益は独立に評価する。
 
まず、3番目の選択肢は・・・冗談です。(^^)でも、こういう評価
をするジャッジも時々いますよね。各争点を独立に考え、それら相
互の関係を全く無視してdecisionを下してしまうジャッジの初歩的
なミスです。
S.Sさんは、1番目の選択肢をジャッジの「過度な介入」と呼んで
いますので、2番目の選択肢を選ぶべきであると考えているようで
す。
1番目の選択肢が不当な「過度な介入」であるかどうかに関しては、
このメーリングリスト上で今までに何度も繰り返して議論されてき
たことで、既に不当な介入ではないと結論が出ていると思います。
(疑問があればJDAのホームページでも御覧下さい。アーカイブが
あると思いますので。)
ここで私が疑問なのは、その対案としての2番です。はたしてジャ
ッジが利益を成立したことにして不利益を評価することは可能であ
るのか?私は、それはほとんどの場合不可能だと考えます。
ジャッジは、不利益の大きさを評価するに当たって、リンクとイン
パクトを考えます。インパクトはここでは問題ではありません。リ
ンクが問題です。
実際にジャッジはリンクが無いと考えているのですから、これを曲
げて不利益にリンクを付けるためには、リンクの最初の部分を0か
1かの1と評価するしかないでしょう。(その以外の解釈はそれこ
そ恣意的な「過度の介入」で、この立場を支持するジャッジはいな
い・・・ことを願います。)
例えば次の場合リンクの評価はどうなるでしょうか?
今期のプロポの下でほとんどのチームが利益として経済再建を挙げ
ていました。ジャッジはこの利益のsolvencyが0だと判断しました
が、相手からの反論はありません。それどころか否定側はそれをリ
ンクに経済成長によって環境が破壊されると言う不利益を提出しま
した。さて、S.Sさんの立場を取るとしてジャッジはこの不利益の
リンクの大きさをどう評価すればよいのでしょうか?
このような利益において、solvencyの証明具合などを考慮せずに経
済再建=1と判断することがはたして可能なのでしょうか?また、
その場合1とはどのような評価を言うのでしょうか?経済再建が達
成されるという主張をそのまま取るだけではリンクの大きさは判断
できないと考えますが。
このように私は証明の程度を考えずに利益、不利益を判断すること
はほとんどの場合不可能だと考えます。
そうなるとジャッジが取るべき選択肢は、1番しかないと思います。
これは試合内のすべての議論の評価における整合性、議論をその拠
所とする根拠によって評価するというディベート教育での根本的な
効果を考えて見ても妥当な選択肢だと思います。逆にジャッジが自
分で理解できないシナリオを「成立」したことにして、それを基に
不利益のリスクを評価するという行為こそが、適切なジャッジング
をゆがめ、ディベート自体を意義の薄い、悪い方向に導くものでは
ないでしょうか。
もちろんこのようなジャッジの評価に関して、まだ「相手から議論
が無いのだから不当な介入だ」「争点にされていないのだから、そ
れをジャッジが勝手に評価してしまっては否定側にとって不利にな
るのだはないか」などという意見があるでしょう。
それに対する私の答えは、
1上記のようにそれ以外の評価は有り得ない。
2そもそも否定側はsolvencyを[も]争点とすべきであった。
となります。まぁ、2番が本道でしょうね。
 
追伸
いままでも今回のように法律など他の分野の体系をディベートに取
り入れようという提案がありましたが、あまり成功していません。
多くの場合、歪が発生します。Debate is debate.です。
 
以上長文御容赦。
 
 
 

Date: Sun, 3 Jan 99 16:29:32 JST
Subject: [JDA :5260] =?ISO-2022-JP?B?GyRCTDFBSiRIGyhCZGViYXRl?= (a strict adaptation)
 
 
H.Sといいます。法律家です。
 
(はじめに)
「民事訴訟とディベート」の議論、興味深く読ませていただいていますが、一連のメー
ルでなされている議論は、民事訴訟法159条の応用としては疑問があるように思いま
す。このメールでは、159条を応用するのであればもう少し限定的な形でなされるべき
であることを指摘したいと思います。
 
(議論の流れの確認)
一連の議論の発端となったS.Sさんの問題提起は、「擬制自白」に関する民事訴訟法
159条の考え方を、ディベートにおける"drop"の扱いに応用して、「ディベーターが、
スピーチの全趣旨に照らしても当該事実を争っていないようなときに、ジャッジが当該
事実について審査するのは行きすぎた介入」と考えるべきではないかということだった
と思います。それに対して、それでは質の低い「議論」であっても両当事者が「争わな
い」場合には、judge はそのまま受け容れざるを得なくなり、ディベートの教育的側面
がないがしろにされてしまうのではないかという難点が指摘され(とくに、K.Nさん、
T.Kさん、K.Sさん)、いくつかの仮想事例を素材に、その具体的検討が続いていると
いうことだろうと思います。
 
当初のS.Sさんの議論は、<どのような場合にdropがあったかの判断方法>について、ス
ピーチの全趣旨をみるという159条の考え方の応用を強調されていたようにも思います
が、議論は、「dropされた議論をどう扱うか」という点に重点が移ってきているように思
います。(もちろん、両者は相互作用的な関係に立ちますが・・・) このメールでは、
さしあたって今の議論の流れに身を任せます。また、民訴理論のディベートへの応用可
能性に関する一般論も始まっていますが、さしあたって、T.Tさんのいわゆる「発見の
文脈」(発見のプロセス)に身をおきたいと思います。
 
(本論)
さて、本論です。一連の議論は、159条の射程を広くとりすぎているように思います。
といいますのは、159条は「事実」についての自白擬制に関する規定であって、同条に
基づいて裁判官の判断が排除されるのは、当事者間に争いのない「事実」についてで
す。民事訴訟においても「法律論」について当事者が合意したからといって、裁判官が
それをそのまま受け容れるということはありません。(本当は「権利自白」というのが
あるのですが・・・。)法律論の部分に関しては、民事訴訟における裁判官も第三者に
対するアカウンタビリティを負っているのです。
 
これを、ディベートの文脈に置き換えますと、argumentation の一構成要素たるfact 
(data) に関しては、両サイドに争いがない場合には judge はそれをそのまま受け容れ
るべきだが、総体としての argumentation については judge の審査は排除されない
ということになるように思います。
 
上記を、S.Sさんが[5250]で出された次の例で考えてみます。
>「肯定側の主張」
>所得税の累進課税をやめると、景気がよくなり、経済成長率が5%上がる。
>(証拠資料)税金が嫌いな人は国民の9割を占める
>経済成長率が5%上がると、失業やそれによる自殺を防ぐことができる。(証拠資料
>は省略)
>
>「否定側の主張」
>所得税の累進課税をやめると経済成長率が5%上がるという肯定側の主張は100%
>認める。
>経済成長率が5%上がると、その分地球環境破壊が進み、長い目で見ると人がたくさ
>ん死ぬ。(証拠資料は省略)
 
この例における肯定側は、「税金が嫌いな人は国民の9割を占める」という data と、
「所得税の累進課税をやめると、景気がよくなり、経済成長率が5%上がる」という 
claim を構成要素とする「議論」を提出しています。否定側は「スピーチの全趣旨から
みて」data についても争っていないとします。この場合に、ジャッジの判断が排除さ
れるのは、国民の9割は税金嫌いという data についてだけであって、そのdataが、累
進課税をやめると成長率が5%あがるという claim を warrant しているかどうかは、
依然としてジャッジの判断に服することになるはずです。(私であれば、経済成長率が
5%あがるという議論は成り立っていないとみて、DAも立たないがADも立たないとして否定側にvote します。)
 
このように解すれば、批判説の皆様にも多少は軟化していただけるのではないでしょう
か。(ディベートでは、議論教育の契機と同時に、ゲーム秩序維持のための手続保障の
契機も無視することは出来ないように思います。ジャッジは、しばしば相対立するこれ
らの要請の狭間で悩むことになりますが、「事実」に関してジャッジに無制限の(いわ
ゆる)介入を認めると、ジャッジの個人的知識によって試合の行方が大きく左右され、
手続保障がないがしろにされます。他方、「事実」に関してジャッジの介入を制限して
も、「議論の教育」の契機はそれほど痛手を受けないように思うのです(事実の正確性
には多少目をつぶっても、推論過程の教育は可能という意味です。)。上で示した「あ
るべき159条の応用」の考え方は、議論教育と手続保障のひとつのバランスの取り方と
して、ディベート内在的論理によっても正当化可能のように思います。)
 
 
 
(追伸)
ここから先は全くの補論です。一連の議論(とくに批判説)は、民事訴訟においては当
事者の合意があれば、もはや裁判官の判断は完全に排除されるとの前提にたって、それ
は私人間の私益調整を目的とした民事訴訟の場でしか通用しないと考えられているよう
ですが、民事訴訟でもそのような硬直的な運用がなされているではありません。たとえ
ば、日本の通貨が円であることなどの、公知の事実に反する事実(例、日本の通貨は
ユーロである)を両当事者が合意しても、それは裁判官の判断の基礎にはなりません
(反対説もありますし、「公知の事実」の範囲が問題になってきますが)。また、当事
者は自分の認識に反する事実を主張することは「真実義務」に反するとされますし、裁
判官は当事者にはたらきかけて事案の真相を解明するための「釈明義務」を負っている
などともいわれます。民訴では、159条だけが孤立して存在するのではなくて、こう
いった諸理論とともに弁論過程を制御しているわけです。 余計なことでした・・・。
 
 

Date: Sun, 3 Jan 99 23:16:49 JST
Subject: [JDA :5262] =?iso-2022-
 
こんにちは、H.Iです。
 
「民事訴訟法とディベート」の議論が進んでいますね。私は、K.Sさん、K.N
さん、T.Kさん達と同じく「擬制自白」適用否定派です。
 
アカデミック・ディベート経験者にとって民事訴訟法というのは実に魅惑的な
学問で、ディベートに応用できそうな議論がいろいろ出てきます。しかし、蟹
池さんも指摘されているとおり、民事訴訟とディベートの違いを考慮せずに、
安易に類推することは問題が多いと思います。
 
民事訴訟法の主な目的は私人間の紛争解決であり、判決の内容もできるだけ当
事者の意思を尊重すべきであるため、当事者が争わない事実について裁判所が
異なる認定をする必要はなく、またすべきでないとされます。民事訴訟法159
条で擬制自白を規定し、179条において当事者が自白した事実について証明が
不要とされることも、このような趣旨との関連で理解すべきでしょう。
 
これに対して、アカデミック・ディベートは紛争解決を目的とした弁論ではな
く、ジャッジに対する説得力の優劣を競う競技です。とすると、ジャッジに対
して説得力を持たないような当事者の合意は、ジャッジを拘束しないと考える
べきでしょう。
 
jda-mlダイジェストに掲載されている議論にも関連しますが、民事訴訟のよう
に、当事者間で争いのあるところのみジャッジが判断するという考え方は、や
はりディベートには適切でないと思います。
 
H.Sさんは、S.Sさんの提案を修正した次のような考え方を述べておられます
が、やはり同様の問題があるように思います。
 
>159条は「事実」についての自白擬制に関する規定であって、同条に
>基づいて裁判官の判断が排除されるのは、当事者間に争いのない「事実」に
>ついてです。民事訴訟においても「法律論」について当事者が合意したからと
>いって、裁判官がそれをそのまま受け容れるということはありません。(本当
>は「権利自白」というのがあるのですが・・・。)法律論の部分に関しては、
>民事訴訟における裁判官も第三者に対するアカウンタビリティを負っているの
>です。
>
>これを、ディベートの文脈に置き換えますと、argumentation の一構成要素
>たるfact(data) に関しては、両サイドに争いがない場合には judge はそれを
>そのまま受け容れるべきだが、総体としての argumentation については
>judge の審査は排除されないということになるように思います。
 
 
これは、非公知の事実に関しては、相手が合意した場合に限り、エビデンスを
用いた証明を不要としてもよいということだと思います。しかし、非公知の事
実はエビデンスを用いた証明がなされない限りジャッジに対する説得力がない
ため、この修正案も「説得力のない議論についてジャッジに対する拘束力を認
める」という、S.Sさんの提案の問題点を完全に回避しえていないように思い
ます。
 
また、理論構成のテクニカルな点について述べれば、民事訴訟における「事
実」をdataとし「法律論」を推論(warrant)とする類推が妥当なのか疑問があ
ります。あえて対比させるとすれば、証拠又は間接事実がdataに相当し、論理
則・経験則が推論(warrant)に相当するのではないでしょうか?
 
 
>(ディベートでは、議論教育の契機と同時に、ゲーム秩序維持のための手続
>保障の契機も無視することは出来ないように思います。ジャッジは、しばしば
>相対立するこれらの要請の狭間で悩むことになりますが、「事実」に関して
>ジャッジに無制限の(いわゆる)介入を認めると、ジャッジの個人的知識に
>よって試合の行方が大きく左右され、手続保障がないがしろにされます。他
>方、「事実」に関してジャッジの介入を制限しても、「議論の教育」の契機は
>それほど痛手を受けないように思うのです(事実の正確性には多少目をつぶっ
>ても、推論過程の教育は可能という意味です。)。上で示した「あるべき159
>条の応用」の考え方は、議論教育と手続保障のひとつのバランスの取り方とし
>て、ディベート内在的論理によっても正当化可能のように思います。)
 
 
この議論との関連で言えば、当事者の合意した事実についてエビデンスによる
証明を要求しても、「ジャッジの個人的知識によって試合の行方が左右され
る」結果にはならないと思います。
 
また「事実の正確性に多少目をつぶっても、推論過程の教育は可能」というご
指摘についてはたしかにそうかもしれませんが、そもそもアカデミック・ディ
ベートでは民事訴訟のような「当事者の意思の尊重」の要請がなく、事実の正
確性を犠牲にしてまでこのような提案を採用する理由がないように思います。
(上記の文章では「手続保障」をどのような意味で用いておられるのか、今ひ
とつ不明確ですが…)
 
<後略>
 
 
H.I
 
 

Date: Mon, 4 Jan 99 11:45:03 JST
Subject: [JDA :5267] Re: =?ISO-2022-
 
 
H.Sです。
 
H.Iさん、はじめまして。
メールをありがとうございました。
 
>これは、非公知の事実に関しては、相手が合意した場合に限り、エビデンスを
>用いた証明を不要としてもよいということだと思います。しかし、非公知の事
>実はエビデンスを用いた証明がなされない限りジャッジに対する説得力がない
>ため、この修正案も「説得力のない議論についてジャッジに対する拘束力を認
>める」という、S.Sさんの提案の問題点を完全に回避しえていないように思い
>ます。
 
修正案によった場合には、事実に関してはジャッジの介入(←とりあえずこの表
現を使わせて下さい)が禁止されても、推論過程に関しては介入は禁止されない
わけですから、その点で「議論の質」が確保でき、「説得力のない『議論』につ
いてジャッジに対する拘束力を認める」という問題点は回避できる、ということ
にはなりませんか?
 
もちろん、「説得力のない『事実』についてジャッジに対する拘束力を認める」
という現象は生じることがあるでしょうが、ディベートの議論教育的価値という
のは、推論過程の教育的価値であるように思いますので(少なくともそこに重点
があるように思いますので)、「『事実』に説得力がない」ということは、ディ
ベートの教育的価値にそれほど打撃を与えないようにも思うのです。
 
実践的に考えても、アカデミック・ディベートの場で、「事実」の正確性を厳密
に確保することは不可能な場合が多いように思いますし、むしろ、厳密な推論過
程を訓練することに重点をおく方が望ましいようにも思います。
 
仮にそうでないとしても、アカデミック・ディベートでは「議論教育」の要請の
ほか、「手続保障」(さしあたっては、素朴に「不意打ち禁止」と考えてくださ
い)の要請もありますので、それらのバランスを考える必要があるように思いま
す。肯定側がある「事実」についてエビデンスを読み、否定側もそれを争ってい
ないのに、たまたまその「事実」についての研究者でもあるジャッジが、最新の
研究ではそのエビデンスが誤りであることが判明しているとして介入するのは、
望ましくない不意打ちのように思います。ディベートでは「事実」の教育をして
いるのではないわけですし。(これに対して、肯定側の議論の「推論過程」を否
定側が争っていない場合、それがジャッジに説得力をもたない場合には、不意打
ちにはなるかもしれませんが、介入は認めてよいように思います。そこでは「議
論教育」の要請が前面に出てきて、この不意打ちはディベーターが予想すべきも
のだから(?)といえばよいのでしょうか。)
 
ただ、次のご指摘にあるような場面はたしかに考慮していませんでした。
 
>この議論との関連で言えば、当事者の合意した事実についてエビデンスによる
>証明を要求しても、「ジャッジの個人的知識によって試合の行方が左右され
>る」結果にはならないと思います。
 
つまり、ディベーターがエビデンスを示さずに、ある「事実」に合意した場合の
ことですね。私の議論の射程は、ディベーターが一応エビデンスは示している場
合に限定すべきなのかもしれません(もし、あまりにも馬鹿げた事実のエビデン
スに両サイドが合意した場合には、それは公知の事実に反するとして介入します
が)。H.Iさんが出されている場面では、ジャッジは「個人的知識に反するから
その事実をとらない」のではなくて、「そもそも何も証明されていない」と判断
することによって対応すべきなのでしょうね。このような場面では、「証拠に基
づいた議論をさせる」という教育的要請が、「手続保障(不意打ち禁止)」の要
請に優先されることになるのだと思います。
 
>また「事実の正確性に多少目をつぶっても、推論過程の教育は可能」というご
>指摘についてはたしかにそうかもしれませんが、そもそもアカデミック・ディ
>ベートでは民事訴訟のような「当事者の意思の尊重」の要請がなく、事実の正
>確性を犠牲にしてまでこのような提案を採用する理由がないように思います。
>(上記の文章では「手続保障」をどのような意味で用いておられるのか、今ひ
>とつ不明確ですが…)
 
この点については、すでに上記のなかでお答えしたことにして下さい。
 
--------------
なお、
>また、理論構成のテクニカルな点について述べれば、民事訴訟における「事
>実」をdataとし「法律論」を推論(warrant)とする類推が妥当なのか疑問があ
>ります。あえて対比させるとすれば、証拠又は間接事実がdataに相当し、論理
>則・経験則が推論(warrant)に相当するのではないでしょうか?
 
(主要事実&間接事実についての)証拠がdataに相当し、論理・経験則が推論(
warrant)に相当するというのは、そうだと思います(法規範の解釈をどう位置づ
けるかというと問題はあるかもしれませんが)。私も、「法律論」と「推論
warrant」をパラレルにおいたつもりはなく、「法律論」(←とりあえず、素朴
に、「事実」、「法規範の解釈」、「法規範の適用」から構成される)と「議
論」(← data, warrant, claim 等々から構成される)をパラレルにおいたつも
りだったのですが・・・。誤解を招いてすみません。
 
<後略>
 
 
 

Date: Tue, 5 Jan 99 08:49:09 JST
Subject: [JDA :5274] =?ISO-2022-JP?B?UmU6GyRCTDE7dkFKPlkbKEo=?=
 
>もちろん、「説得力のない『事実』についてジャッジに対する拘束力を認める」
>という現象は生じることがあるでしょうが、ディベートの議論教育的価値という
>のは、推論過程の教育的価値であるように思いますので(少なくともそこに重点
>があるように思いますので)、「『事実』に説得力がない」ということは、ディ
>ベートの教育的価値にそれほど打撃を与えないようにも思うのです。
>
>実践的に考えても、アカデミック・ディベートの場で、「事実」の正確性を厳密
>に確保することは不可能な場合が多いように思いますし、むしろ、厳密な推論過
>程を訓練することに重点をおく方が望ましいようにも思います。
 
推論行為の訓練が最も重要なことであることには異論はないですが、「事実」と「推
論」というのはそう簡単に分けられるものではないところに、H.Iさんの御意見のポ
イントがあると思います。
 
事実というのは、その辺に転がっていて拾って見せることができるようなものではな
くて、大体の場合、いくつかの言明により示される(表象される)もので、そこでは
不可避的に何らかの推論が伴います。
 
我々の共有している一定の前提の言明に加えて、エビデンスとして読まれる言明を以
てして、当該の言明を事実として認定するに足りるかどうか、これは、「事実」を提
示するに当たり常に伴う問いです。
 
一方がエビデンスを読んで、他方がそれに異議を唱えないからと言って、そのように
して「事実」とされた言明が果たしてその資格があるかどうかはやはり問われるべき
でしょう。
 
 
>仮にそうでないとしても、アカデミック・ディベートでは「議論教育」の要請の
>ほか、「手続保障」(さしあたっては、素朴に「不意打ち禁止」と考えてくださ
>い)の要請もありますので、それらのバランスを考える必要があるように思いま
>す。肯定側がある「事実」についてエビデンスを読み、否定側もそれを争ってい
>ないのに、たまたまその「事実」についての研究者でもあるジャッジが、最新の
>研究ではそのエビデンスが誤りであることが判明しているとして介入するのは、
>望ましくない不意打ちのように思います。ディベートでは「事実」の教育をして
>いるのではないわけですし。(これに対して、肯定側の議論の「推論過程」を否
 
ここから察するに、どうも、曽根さんのおっしゃる「事実」は、実在論的な含意の強
い「事実」だと思われました。
 
そういう「堅固な事実」の教育では、ディベートは当然ありません。その意味で上記
の指摘は妥当と思われます。
 
しかしながら、それとおっしゃるような「事実についての当事者主義」とは又微妙に
異なります。
肯定側がある「事実」についてエビデンスを読み、否定側が争っていない場合、その
「事実」が本当に「事実」かどうかは問わないとしても、そのエビデンスがその「事
実」を最低限確立しているかどうかについては、ジャッジは吟味する必要があるでし
ょう。
 
>合に限定すべきなのかもしれません(もし、あまりにも馬鹿げた事実のエビデン
>スに両サイドが合意した場合には、それは公知の事実に反するとして介入します
>が)。
 
御認めになっているこのケースは、「事実」の示し方についての吟味の一例なのです。
 
Y.K
 

Date: Thu, 7 Jan 99 10:39:14 JST
Subject: [JDA :5286] Re: =?ISO-2022-
 
 
Y.Kさん、T.Kさん、はじめまして。
 
H.Sです。お返事が遅くなって失礼しました。
 
事実と推論は明確には区別できないというお二人のご指摘([5274][5279])は、全く
その通りだと思います。私の前のメールでは、「事実とは何か」という大問題をナ
イーヴに単純化しすぎていたかもしれません。ただ、その点を認めてもなお、私の
述べた考え方は成り立ち*得る*ように思うのです。
 
ご指摘は、言い換えると、トゥールミンの議論モデルにおけるdataの部分は「堅固
な事実」ばかりでなく、推論過程が含まれることがあるということ;つまり、
argument A のdata部分が argument B によって構成されるような「入れ子」構
造になることがある、ということだと思います。その場合には、私の考えでは、た
とえ argument A の data (=argument B) に両サイドが合意していたとしても、
argument B の推論過程はなおジャッジの審査対象に入ってくることになります。
こうなってきますと、これはY.Kさんのおっしゃる:
 
>肯定側がある「事実」についてエビデンスを読み、否定側が争っていない場合、その
>「事実」が本当に「事実」かどうかは問わないとしても、そのエビデンスがその「事
>実」を最低限確立しているかどうかについては、ジャッジは吟味する必要があるでし
>ょう。
 
と同じことでしょうから、overall、われわれがジャッジをした場合にするであろ
う判断は大して違わないことになりそうです。違いがあるとすれば、次の点の「根
拠づけ」でしょうか。
 
>>肯定側がある「事実」についてエビデンスを読み、否定側もそれを争ってい
>>ないのに、たまたまその「事実」についての研究者でもあるジャッジが、最新の
>>研究ではそのエビデンスが誤りであることが判明しているとして介入するのは、
>>望ましくない不意打ちのように思います。ディベートでは「事実」の教育をして
>>いるのではないわけですし。
 
という点には同意していただけたようですが、私が「『事実』についてディベー
ターの合意がある場合にジャッジが介入するのは、ディベートの教育的見地からみ
て過剰介入で、手続保障が不十分になる」というのに対して(「合意の拘束性」や
「当事者意思の尊重」という契約論ないし私的自治論的な発想ではなく、あくまで
も手続保障的観点から発想しています)、T.Kさんは:
 
>「推論過程の訓練」が大事であることは同意いたします。しかし「議論の前提は
>どれほど強固なものであるべきか・どのような類のものであるべきか」というこ
>とは、コミュニケーション学科で教えるディベート教育や、哲学科で非形式論理
>学という名称の下になされているアーギュメンテーション教育では教えています。
>こっちの方「も」日常言語で行われる議論の教育には不可欠だと思います。何を
>前提として用いるべきかという問いにたいする答えですからね。
 
とされて、「議論の前提の要件」論をもって応えられようとしています。このご指
摘は、とても重要だと思います。ただ、このそれこそ大問題にどうやってアプロー
チするかが問題ですよね。ご紹介いただきました哲学やコミュニケーション学の試
みは、いわば「正攻法」ということになろうかと思いますが、正攻法で解決できる
ような問題なのかどうか、私にはどうもよく分かりません。(ちなみに、民事訴訟
法の体系書などでも、「公知の事実」の外延なり基準が明確に画定されているわけ
ではありません。法律家は「ケース・バイ・ケース」というのが結構好きだったり
します。)この正攻法に対して、私の立場はこの大問題を回避する「策」だという
ことになるのかもしれませんが、こちらの方が、少なくとも現時点では使い勝手が
よくないですか?(まるでセールスマン)
 
いずれにしましても、T.Kさんのご指摘は興味深いものだと思いました。とくにコ
ミュニケーション学方面のもの、読んでみたくなりましたので、適切な参考文献が
ありましたらご紹介いただければ幸いです。
 
それでは失礼します。
 
 
 

Date: Thu, 7 Jan 99 15:27:38 JST
Subject: [JDA :5287] =?iso-2022-
 
S.Sです。H.Sさん、はじめまして。
 
質問があります。
 
>私が「『事実』についてディベー
>ターの合意がある場合にジャッジが介入するのは、ディベートの教育的見地からみ
>て過剰介入で、手続保障が不十分になる」というのに対して(「合意の拘束性」や
>「当事者意思の尊重」という契約論ないし私的自治論的な発想ではなく、あくまで
>も手続保障的観点から発想しています
 
「手続保障的観点」とは、「まがりなりにもエビデンスを読み、相手もそれを争って
いないのだから、ディベーターとしては当然ジャッジもそれに納得したものだと期待
するだろう、その期待を保護すべきである」ということだと理解してよろしいでしょ
うか。
 
S.S
 
 
 

Date: Thu, 7 Jan 99 17:31:28 JST
Subject: [JDA :5289] Re: =?ISO-2022-
 
S.Sさん、はじめまして。
 
H.Sです。
 
>「手続保障的観点」とは、「まがりなりにもエビデンスを読み、相手もそれを争って
>いないのだから、ディベーターとしては当然ジャッジもそれに納得したものだと期待
>するだろう、その期待を保護すべきである」ということだと理解してよろしいでしょ
>うか。
 
「相手が争ってくれば、こちらでも反論する用意はあるのに、相手が争
わないから他の論点に力を入れたのに、試合後にいきなりジャッジに介
入されて反論の機会を奪われた」という「不意打ち」を防ぐべきだとい
う観点です。「ジャッジも納得した」ということに対する期待や信頼が
保護されている、というのとは少し違うかもしれません。あえて、何に
対する信頼を保護しているのかというと、手続の正当性・公平性に対す
る信頼の保護ということでしょうか。(←このようなことをいうのは勇
み足のような気がして不安もありますが。)
 
なお、私が「当事者意思の尊重」という考えをとらない、と述べました
ときに念頭においていたのは、民事訴訟法159条や民事訴訟における弁
論主義について通常されている「民事訴訟は私益に関する事柄は当事者
の自治に任せてかまわない」という私的自治論的根拠づけや、「合意
(意思)はそれ自体として神聖なものであって尊重されるべき」という
考え方です。
 
それでは、失礼します。
 
 

Date: Fri, 8 Jan 99 00:27:12 JST
Subject: [JDA :5290] =?iso-2022-
 
こんにちは、H.Iです。
 
 
>私が「『事実』についてディベーターの合意がある場合にジャッジが介入す
>るのは、ディベートの教育的見地からみて過剰介入で、手続保障が不十分にな
>る」というのに対して(「合意の拘束性」や「当事者意思の尊重」という契約
>論ないし私的自治論的な発想ではなく、あくまでも手続保障的観点から発想し
>ています)、
 
H.Sさんの指摘するジャッジの「介入」の不当性と、ディベーターの「合意」
にどのような効果を認めるかという話は論理的に別であるように思います。
 
エビデンスを用いて事実の証明が十分になされている場合に、ジャッジが試合
で議論されていない自己の知見を持ち込んで判定することは、ディベーターの
合意の有無を問わず、認められないことは言うまでもありません。
 
一方、エビデンスは提出されているものの事実の証明には不十分な場合には、
たとえその事実についてディベーター間の合意があったとしても、ジャッジが
これを証明されていないものとして扱うことは、全く正当なことです。
 
要はジャッジの「介入」の不当性はディベーターの合意の有無とは切り離して
議論すれば足りるのであって、ディベーター同士の合意については、「相手か
ら反論がなされなかった」ということとは別の特別の効果を認める必要はない
と思います。
 
 
----------------------------------
H.I
 
 

Date: Fri, 8 Jan 99 14:46:01 JST
Subject: [JDA :5293] Re: =?ISO-2022-JP?B?UmU6GyRCTDE7dkFKGyhK?=
 
 
H.Iさん、
 
こんにちわ、H.Sです。
 
>H.Sさんの指摘するジャッジの「介入」の不当性と、ディベーターの「合意」
>にどのような効果を認めるかという話は論理的に別であるように思います。
 
はい。私も、両者が論理必然的につながると主張しているわけではないのです。
「教育的介入」の要請と、ゲームとしての公平性を保つための「手続保障」の要
請が衝突するところでの、ひとつのバランスの取り方を論じているつもりです。
(「事実」に関しては「教育的介入」よりも「手続保障」が前面に出てくるが、
「推論」に関しては「教育的介入」の方が大事というふうに。もし、論理的につ
ながりがあるとすれば、事実と推論を区別するという発想にはならないようには
思います。)
 
 
>エビデンスを用いて事実の証明が十分になされている場合に、ジャッジが試合
>で議論されていない自己の知見を持ち込んで判定することは、ディベーターの
>合意の有無を問わず、認められないことは言うまでもありません。
>
>一方、エビデンスは提出されているものの事実の証明には不十分な場合には、
>たとえその事実についてディベーター間の合意があったとしても、ジャッジが
>これを証明されていないものとして扱うことは、全く正当なことです。
 
「証明が十分」「証明が不十分」というのが、Y.KさんやT.Kさんが指摘された
広い意味での「事実」に内包されるところの、「推論」の部分が十分、不十分と
いう趣旨でしたら、[5286]で述べましたように、推論過程に関しては私も皆さ
んと同じ考えですので、H.Iさんがおっしゃっていることには異論がありませ
ん。
 
他方、「証明が十分」「証明が不十分」が、「堅固な事実」の証明の十分、不十
分のことをおっしゃっているのでしたら、少し異論があります。「堅固な事実」
の証明が十分かどうかの判断は、ジャッジの個人的知識に直接的に依拠せざるを
得ませんが、それを全くジャッジの裁量に委ねるのは、手続保障の観点からは危
険なことです。そこで、その裁量に何等かのタガをはめる必要がありますが、小
西さんは「議論の前提の要件」を明らかにすることでそれに対処されようとして
いるのですし、私は「相手が争わない事実」に関してはジャッジの介入を禁止す
る、という方法で対処しようとしているわけです。
 
(蛇足ですが、「堅固な事実」に関して争いがあり、どちらのサイドのいってい
ることが正しいか分からない場合には、証明責任の問題として処理します。)
 
 

Date: Fri, 8 Jan 99 15:51:19 JST
Subject: [JDA :5294] =?iso-2022-jp?B?GyRCO3Y8QiRIP2RPQBsoQg==?=
 
S.Sです。民事訴訟法からは離れるので、タイトルもかえます。
H.Sさん、こんばんは。
H.Sさんがおっしゃる「堅固な事実」がどのようなものを指しているのかがわからな
いので、外しているかもしれませんが(例示していただければと思います)少なくと
もディベートにおいては「事実」の証明には不可避的に推論が伴うので、「事実」と
「推論」を分けるのは不可能ではないかと思います。
 
 
<後略>
 
 

Date: Fri, 8 Jan 99 23:59:11 JST
Subject: [JDA :5296] =?iso-2022-
 
こんばんは、H.Iです。
 
 
1.「事実」の証明について
 
>他方、「証明が十分」「証明が不十分」が、「堅固な事実」の証明の十分、
>不十分のことをおっしゃっているのでしたら、少し異論があります。「堅固
>な事実」の証明が十分かどうかの判断は、ジャッジの個人的知識に直接的に
>依拠せざるを得ませんが、それを全くジャッジの裁量に委ねるのは、手続
>保障の観点からは危険なことです。
 
「堅固な事実」が何を意味するかは必ずしも明らかではありませんが、ジャッ
ジはディベーターの主張が個人的知識に照らして「真実であるか」を審査する
のではなく、用いてるエビデンスの内容、信用性、主張との論理的な関連性を
チェックして、ディベーターの主張に「説得力があるか」を審査するもので
す。したがって、証明が十分などうかの判断が「ジャッジの個人的知識に依
拠」することはないと思います。
 
H.Sさんは、ジャッジは「堅固な事実」と「推論」とで異なる審査方法を用い
ることを想定しておられるのだと思いますが、「事実」の審査において「エビ
デンスと主張との論理的な関連性」があることからもお分かりのように、両者
の審査方法には根本的な違いはありません。S.Sさんが「事実と推論は簡単に
区別できない」と言っているのは、そのような趣旨だと思います。
 
 
 
2.ディベーターの「合意」について
 
H.Sさんがディベーターの「合意」を重視されるのは、「教育的介入」と「手
続保障」のバランス論が背景にあるのだと思います。私は、ディベーターの合
意に特別の効果を認める必要はないと考えていますので、H.Sさんの述べる
「バランス論」についていくつか意見を述べたいと思います。
 
>>H.Sさんの指摘するジャッジの「介入」の不当性と、ディベーターの「合
>>意」にどのような効果を認めるかという話は論理的に別であるように思いま
>>す。
>
>はい。私も、両者が論理必然的につながると主張しているわけではないので
>す。「教育的介入」の要請と、ゲームとしての公平性を保つための「手続保
>障」の要請が衝突するところでの、ひとつのバランスの取り方を論じている
>つもりです。
 
ジャッジが行うのは「教育的介入」ではないように思います。介入とは「ある
者とある者の間に入ること」を意味しますが、ジャッジはディベーター間の対
話に「介入」するのではなく、自分に向けてなされるディベーターのスピーチ
を「審査」するものだと思います。ただし、この審査は主張が「真実である
か」の審査ではなく、「説得力があるか」の審査であることは既に述べた通り
です。
 
 
他方「手続保障」の内容についてH.Sさんはこう述べておられます。
 
>「相手が争ってくれば、こちらでも反論する用意はあるのに、相手が争
>わないから他の論点に力を入れたのに、試合後にいきなりジャッジに介
>入されて反論の機会を奪われた」という「不意打ち」を防ぐべきだとい
>う観点です。「ジャッジも納得した」ということに対する期待や信頼が
>保護されている、というのとは少し違うかもしれません。
 
これは「相手が反論しなかった主張は成立するとのディベーターの期待」を保
護すべきということだと思います。ディベートを「ディベーター間の対話」と
して捉えればこのような期待を保護すべきという考え方もあるのかもしれませ
んが、私はディベートのスピーチを「ジャッジに対する説得」として理解して
いますので、このような期待を保護すべきという考え方には賛同できません。
 
結局、ジャッジにおいて「教育的介入」と「手続保障」のバランスが問題にな
るのではないと思います。問題としてあるのは、ジャッジの判断が妥当なもの
か、不当なものかという一点だけです。H.Sさんが指摘するように、試合で主
張されていない個人的知識を持ち込むジャッジの判断は不当なものだと思いま
すが、それはディベーターの合意の有無とはまた別の話であると考えます。
 
 
H.I
 
 
 

Date: Sat, 9 Jan 99 15:16:21 JST
Subject: [JDA :5297] None

Date: Sat, 9 Jan 99 17:47:31 JST
Subject: [JDA :5299] Re: =?ISO-2022-JP?B?GyRCO3Y8QiRIP2RPQBsoQg==?=
 
 
S.Sさん、H.Iさん
 
こんにちわ、H.Sです。
 
H.Iさんwrote:
>H.Sさんは、ジャッジは「堅固な事実」と「推論」とで異なる審査方法を用い
>ることを想定しておられるのだと思いますが、「事実」の審査において「エビ
>デンスと主張との論理的な関連性」があることからもお分かりのように、両者
>の審査方法には根本的な違いはありません。S.Sさんが「事実と推論は簡単に
>区別できない」と言っているのは、そのような趣旨だと思います。
 
 
S.Sさんの御質問も、同趣旨だと思います。「堅固な事実」というのは、Y.K
さんが[5274]で「実在論的な含意の強い『事実』」のことを指して使われてい
た表現をそのまま使わせてもらっているのですが、たとえば、「○○市の人口
は150万人である」とか、「ここにりんごがある」、「日本の法人税は累進課税
ではない」といった事実のことをいっているつもりです(その内容の真偽は問
いません)。たしかに、お二人のおっしゃるように、その「堅固な事実」を
「証明」するために推論が伴いますが、その事実は事実として(真だとすれ
ば)存在するもののように思います。エビなしで「○○市の人口は150万人」と
いう「堅固な事実」に基づく議論が主張され、相手がその点を争わないのであ
れば、ジャッジはそれをそのまま受け容れるべきではないでしょうか(公知の
事実に反しない限り)。
 
なお、補論しますと、私が「堅固な事実」と「推論」を分けることができると
述べたのは、事実と推論は区別できないから、事実についてのみ民事訴訟法159
条的な考え方をあてはめるのが不可能だという、Y.KさんやT.Kさんの批判に
こたえる文脈でのことで、ポイントは、「事実推論区別論が*論理的に*不可能
ということはない」という点にあります。事実と推論が連続的なものであると
いうことは私もそう思っていまして、実際のディベートでは、「推論を含まな
い堅固な事実」ばかりでなく、「推論を(多少)含む事実」であっても、相手
方が争わない場合には、私はそれをそのまま受け入れることが多いです。逆に
いいますと、推論はすべて審査対象にするということはしていません。むし
ろ、かなり抑制的に介入しているといってよいかもしれません。いつも悩むこ
となのですが、「質の低い議論を跋扈させないための教育的介入」が必要であ
るということは私も賛成するのですが、他方で、やはりディベートは勝敗を決
めるゲームでもあるのですから、教育的介入によって「質の低い議論に反論し
なかったディベーターを利する」ことになるのも、また防がなければならない
と思うからです(「法律家はタブラがお好き」とどなたかがおっしゃってまし
たが)。
 
<後略>
 

Date: Sat, 9 Jan 99 17:50:48 JST
Subject: [JDA :5300] Re: =?ISO-2022-JP?B?UmU6GyRCTDE7dkFKGyhK?=
 
 
H.Sです。
 
H.Iさんのメールの後半部についてです。
 
 
>ジャッジが行うのは「教育的介入」ではないように思います。介入とは「ある
>者とある者の間に入ること」を意味しますが、ジャッジはディベーター間の対
>話に「介入」するのではなく、自分に向けてなされるディベーターのスピーチ
>を「審査」するものだと思います。ただし、この審査は主張が「真実である
>か」の審査ではなく、「説得力があるか」の審査であることは既に述べた通り
>です。
 
これについては了解しました。
 
>これは「相手が反論しなかった主張は成立するとのディベーターの期待」を保
>護すべきということだと思います。ディベートを「ディベーター間の対話」と
>して捉えればこのような期待を保護すべきという考え方もあるのかもしれませ
>んが、私はディベートのスピーチを「ジャッジに対する説得」として理解して
>いますので、このような期待を保護すべきという考え方には賛同できません。
 
スピーチを「ジャッジに対する説得」とみるか、「ディベーター間の対話」と
みるかについては、私も前者だと思っています。ただ、純粋にジャッジが説得
されたか(あるいは合理的なジャッジなら説得されるべきか)ということだけ
では割り切れず、ディベートがゲームの形式をとっている以上、手続保障的観
点も無視できないのではないか、というのが私の考えです。そして、ジャッジ
の判断が妥当か不当かは、その手続の流れにも配慮して判断する必要があるの
ではないかということです。
 
たとえば、「○○市の人口は150万人」という事実が証明を伴わずに提出され、
それを相手側も争わずにラウンドが進行した場合に、ジャッジが「証明が伴っ
ていないからその事実が証明されたとは考えない」として、ディベーターが積
み重ねてきた議論を全く無視するような判断を示すことはおかしいと思われま
せんか? (とくにその事実を前提としてなされた推論には問題がない場合。)
 
 
 

Date: Wed, 13 Jan 99 01:30:28 JST
Subject: [JDA :5309] =?iso-2022-
 
こんにちは、H.Iです。
返答が遅くなりましたが、H.Sさんのメールについて。長文です。
 
 
1.「ディベーターは合意された(又は相手が反論しない)議論は成立するも
のと期待するから、ジャッジもその議論は成立したものとして扱うべき(手続
保障)。しかし、それでは、アーギュメントの質が下がるため、ジャッジは一
定の限度で教育的介入をすべきだ。」H.Sさんの考え方をまとめると、このよ
うになると思います。
 
そしてH.Sさんは、「堅固な事実」についてはディベーターの合意を尊重する
が、「推論」についてはジャッジが介入するという形で「手続保障」と「教育
的介入」のバランスを取ることを考えておられるようです。
 
このような考え方は、結論において「修正されたタブララサ」と相当類似しま
す。ただし、曽根さんが当事者の合意(手続保障)を全面に押し出している点
が、従来のタブララサとの違いだと思います。
 
 
2.もっとも、事実と推論は区別できないというS.Sさんの批判に答える過程
で、H.Sさんはだいぶ立場を変えているようです。
 
>例1の「A」を根拠づけるために「D」のエビを読んだ、という例でお答え
>したほうがよいと思います。つまり、エビを読まずにAを主張し、相手が争わ
>なければそのままAを採用してもらえるのに、Dを読んだばかりにAを認めて
>もらえないということになるのはアンバランスではないか、ということだと思
>います。
>
>私の考えを貫けば、Aの事実を認めてよいように思います。相手方にして
>も、その点を争わなかったのだから文句はないだろうということにはならんで
>しょうか。
 
これは、H.Sさんの立場からしても一貫しないでしょう。ある事実について相
手が争えば、推論まで含めて証明が必要なのに、相手が争わなければ推論の証
明が不要というのであれば、推論についてジャッジが介入(又は厳しく審査)
するとした意味がほとんどなくなります。
 
 
3.しかし、事実と推論をどこで区別するかが問題の本質ではないと思いま
す。ディベーター間で争われなかった「事実」は証明不要とする以上、事実と
推論をどこで区別しようと、事実に関するアーギュメント(事実を証明するプ
ロセス)の質の低下は避けられません。とすると、そもそも、事実についてで
あれ、推論についてであれ、ディベーター間の合意をジャッジは尊重すべきな
のか、という点が問われるべきです。
 
H.Sさんは次のように述べています。
>たとえば、「○○市の人口は150万人」という事実が証明を伴わずに提出さ
>れ、それを相手側も争わずにラウンドが進行した場合に、ジャッジが「証明が
>伴っていないからその事実が証明されたとは考えない」として、ディベーター
>が積み重ねてきた議論を全く無視するような判断を示すことはおかしいと思わ
>れませんか? (とくにその事実を前提としてなされた推論には問題がない場
>合。)
 
「自分の主張について討論の相手方すら認めている(争わない)場合にも、第
三者であるジャッジが出てきて「その議論は証明されていない」として取らな
いのはおかしいのではないか」H.Sさんの主張の背景には、このような考え方
があると思います。
 
しかし、この考え方が成立するのはディベートを「対戦相手を説得するゲー
ム」と捉えた場合のみです。ディベートは「ジャッジを説得するゲーム」であ
るという立場に立てば、対戦相手が認めたか否かは、ジャッジに対する説得力
には無関係です。
 
H.Sさんは「ディベートがゲームという形式を取る以上、手続保障も重視すべ
き」とされますが、ディベートがゲームの形式を取ることと、相手が争わない
主張を取ることは論理的に結び付きません。ディベートのジャッジは、相手を
言い負かしたかどうかで勝ち負けを判定するのではなく、どちらの議論がより
説得的かを自ら判断して勝ち負けを判断するのです。たとえて言えば、ディ
ベートのジャッジは、ボクシング(!)や腕相撲のジャッジよりは、新体操や
フィギュアスケートの審査員に近いのです。もちろん、この立場はディベート
のゲーム性とは矛盾しません。
 
このようなディベートのジャッジの性質を考えると、事実についてであれ、推
論についてであれ、ディベーター間の合意は証明の程度になんら影響しないと
言うべきです。(なお、「アーギュメンテーションの教育論」を根拠に同じ結
論を導く方もいらっしゃいますが、この問題に関しては、私は「アーギュメン
テーションの教育」論を直接の根拠としていない点で、その立場とは若干意見
が異なります。)
 
 
 
<後略>
 
H.I
 
 

Date: Thu, 14 Jan 99 15:53:56 JST
Subject: [JDA :5314] Re: =?ISO-2022-JP?B?UmU6GyRCTDE7dkFKGyhK?=
 
こんにちわ、H.Sです。
 
<中略>
 
 
さて、H.Iさんのメールについてです。
 
>2.もっとも、事実と推論は区別できないというS.Sさんの批判に答える過程
>で、H.Sさんはだいぶ立場を変えているようです。
>
>>例1の「A」を根拠づけるために「D」のエビを読んだ、という例でお答え
>したほうがよいと思います。つまり、エビを読まずにAを主張し、相手が争わ
>なければそのままAを採用してもらえるのに、Dを読んだばかりにAを認めて
>もらえないということになるのはアンバランスではないか、ということだと思
>います。
>>
>>私の考えを貫けば、Aの事実を認めてよいように思います。相手方にして
>も、その点を争わなかったのだから文句はないだろうということにはならんで
>しょうか。
>
>これは、H.Sさんの立場からしても一貫しないでしょう。ある事実について相
>手が争えば、推論まで含めて証明が必要なのに、相手が争わなければ推論の証
>明が不要というのであれば、推論についてジャッジが介入(又は厳しく審査)
>するとした意味がほとんどなくなります。
 
 
これは、おっしゃる通りかもしれません。上で述べた「アンバランス」という
付加的な要因を考慮して、本来の筋を曲げた、ということになると思います
が、これではかえっておさまりが悪いでしょうか。この「アンバランス」は、
ディべーターがエビ「D」を読んだ以上、ジャッジの審査対象たる「推論」と
して提出したのであり、そのディベーターはジャッジの介入を甘受すべきだと
した方がよかったのかもしれません。悩むところです。
 
なお、「事実」と「推論」を区別するなどと言い出すからこういう悩みがでて
くるのですが(したがって、また上記「アンバランス」は全然付加的ではない
のかもしれませんが)、逆に、その区別をしないで全面審査するという立場を
とられる方は、「○○市の人口は150万人」という「堅固な事実」を、エビなし
でディベーターが前提としてラウンドを進めた場合に、ジャッジは説得されて
いないとしてそれを切ってしまうことに悩みは感じませんか? これは次に述べ
ることとも関連しますので、項を改めます。
 
-------------------
 
>H.Sさんは「ディベートがゲームという形式を取る以上、手続保障も重視すべ
>き」とされますが、ディベートがゲームの形式を取ることと、相手が争わない
>主張を取ることは論理的に結び付きません。ディベートのジャッジは、相手を
>言い負かしたかどうかで勝ち負けを判定するのではなく、どちらの議論がより
>説得的かを自ら判断して勝ち負けを判断するのです。たとえて言えば、ディ
>ベートのジャッジは、ボクシング(!)や腕相撲のジャッジよりは、新体操や
>フィギュアスケートの審査員に近いのです。もちろん、この立場はディベート
>のゲーム性とは矛盾しません。
 
H.Iさんは、「ディベートがゲームの形式を取ることと、相手が争わない
主張を取ることは論理的に結び付きません」とされますが、「論理的に結びつ
かない」というのは、「矛盾する」という意味ではなくて、「一対一対応では
ない」ということですね。われわれが議論しているのは、ディベートという
ゲームの制度設計なのですから、ここで考えるべきなのは、そのような論理的
一義性ではなく、論理的にはいくつも選択肢があるなかから、目的に最も適合
的なのはどれか、ということのように思います。
 
そして、《Resolution が支持されたか否かで勝敗が決まるというディベー
ト》を前提とする限り、やはり、私が問題としているような手続保障の考慮は
どうしても入ってこざるを得ないように思います。(もちろん、具体的にどの
程度・内容の手続保障をするかについては、様々な考え方があるでしょう
が。)そして、H.Iさんの「新体操の審査員」という形容は、このようなディ
ベートを前提とした場合には不適切なように思うのです。
 
たしかに、「新体操の審査員」のようなジャッジが要請されるディベートもあ
ると思います。それは、resolutionの支持・不支持ではなく、「議論の質」の
みに着目して勝敗を決するというディベートです。Resolution の net 
benefit がプラスになっても、否定側の議論の質の方が高いということはある
と思いますし、net benefit がマイナスでも肯定側の議論の質の方が高いとい
うことはありえます。つまり、バロットシートのポイントの高い方を勝者にす
るというディベートもありえます。実際、このような形の議論教育は実在しま
す。たとえば法学教育の一環で「模擬裁判」というものがあります。日本で行
われている模擬裁判は、多くの場合にはシナリオのある「裁判劇」ですが、た
とえばアメリカのロースクール等で行われている模擬裁判(moot court)は、参
加者が原告と被告側に別れて弁論をしたうえで、勝敗が決せられるゲームで
す。しかし、勝敗は、原告の請求が認められるか否かという「議論の結果」に
よってではなく、どちらの「議論の質」が高いかによって決せられます。した
がって、原告の請求は認められるが、模擬裁判の勝者は被告側、ということ
が、いくらでもあります(*注)。このようなゲームだと、私がいっているような
手続保障は問題にならず、H.Iさんのおっしゃる「新体操の審査員」的な
ジャッジングが要請されることになりそうです。しかし、それはわれわれの
やっているディベートとは違うゲームです。
 
H.Iさんが、ディベートを「ジャッジ説得ゲーム」ととらえた場合には、
「ジャッジへの説得力」がすべての決め手になるとお考えなのかどうかわかり
ませんが、私の考えは、ディベートは「ジャッジを説得する(というフィク
ションで行う)ゲーム」であるが、勝敗は「議論の質」ではなくて「議論の結
果」で決まる以上、手続保障が要請されるということです。
 
 
<後略>
 
 
 

Date: Fri, 15 Jan 99 18:10:55 JST
Subject: [JDA :5320] =?iso-2022-
 
こんにちは、H.Iです。
 
>たしかに、「新体操の審査員」のようなジャッジが要請されるディベートも
>あると思います。それは、resolutionの支持・不支持ではなく、「議論の質」
>のみに着目して勝敗を決するというディベートです。Resolution の net
>benefit がプラスになっても、否定側の議論の質の方が高いということはある
>と思いますし、net benefit がマイナスでも肯定側の議論の質の方が高いとい
>うことはありえます。つまり、バロットシートのポイントの高い方を勝者にす
>るというディベートもありえます。
 
「新体操の審査員」という例えがミスリードだったかもしれません。誤解を正
しておく必要がありそうです。私の立場は、スキルジャッジではなく、通常の
クリティック・ジャッジです。論題のnet-benefitを基礎付ける個々のアー
ギュメントの成否について、「相手が反論しなかったか」ではなく「十分な証
明がなされたか」によって判断しようとするものです。
 
 
>H.Iさんが、ディベートを「ジャッジ説得ゲーム」ととらえた場合には、
>「ジャッジへの説得力」がすべての決め手になるとお考えなのかどうかわかり
>ませんが、私の考えは、ディベートは「ジャッジを説得する(というフィク
>ションで行う)ゲーム」であるが、勝敗は「議論の質」ではなくて「議論の結
>果」で決まる以上、手続保障が要請されるということです。
 
1.H.Sさんがいう「議論の結果」とは、おそらく「相手が反論したかどう
か」が考慮されるのだと思います。ジャッジが説得されたかどうかで勝敗がす
べて決まるのなら、試合の中のディベーターの議論、特に相手の主張に対する
反論は、無意味なものになってしまうのではないか、そのように考えておられ
るのかもしれません。
 
もちろん、そのようなことはありません。ディベーターが、エビデンスなどに
より証明されたアーギュメントを提出した場合は、ジャッジは、試合で論じら
れていない個人的知識を持ち込んでこのアーギュメントを排斥することはでき
ませんから、ディベーターの主張と反論という「議論の結果」によって、その
アーギュメントの成否が決まります。
 
つまり、上手なディベーター同士の試合など、すべてのアーギュメントが十分
に証明されているような試合では、タブララサで(又はディベーターの合意を
尊重して)ジャッジしても、クリティックでジャッジしても、さほど結果は変
らないのです。
 
 
2.H.Sさんの立場と私(というより一般のクリティック・ジャッジ)の立場
との違いが出てくるのは、「証明されていない主張が提示されている試合」な
のです。
 
この場合、H.Sさんの考え方だと、相手からの反論がなければ(又は合意があ
れば)「事実」に該当する一定の範囲の主張は成立するのに対して、クリ
ティックジャッジの立場では、相手の反論・合意の有無にかかわらず、このよ
うな主張は成立しません。
 
そもそも、このような主張は「議論」(アーギュメント)のレベルに達していな
いので、それを取らなかったとしても、「議論の結果」を考慮していないとは
言えないでしょう。のみならず、「証明されていない主張」を成立したものと
して扱うことは、H.Sさんもお気づきのように、アーギュメントの質の低下と
いう、大きなコストを支払わなければなりません。
 
「議論の結果」がジャッジングに反映されるのは当然としても、反映されるの
はあくまで「議論」のレベルに達したものに限るべきです。
 
 
<後略>
 
H.I
 
 
 
 
 

Date: Fri, 15 Jan 99 22:07:19 JST
Subject: [JDA :5323] =?ISO-2022-JP?B?UmU6IBskQj5aTEAkNSRsGyhK?=
 
この問題は、やはりどう見ても、T.Kさんの言うところの「議論の前提の要件」に帰
着することですが、その観点から見ると、H.IさんとH.Sさんとの対立は、一般的な
証明要求の違い(御当人は意識されていないかも)に還元されるのではと思われま
す。
 
H.Sさんも、H.Iさんも、基本的には割と強い証明要求をしているようであり、それ
故に、H.Sさんの提起する「不意打ち」問題は出ていると思われます。そして、それ
に対するH.Sさんの解決策が、逆にH.Sさんが要求する一般的証明規準を下げること
を含意しています。
 
 
先ず、議論での所与となるような事実主張を真であるとみなす規準(又は事実主張の
証明の程度の規準)を分類します。
 
1. ディベータの当該の(事実)主張が一見して「真であると証明されている」と判
断されるものである。
2. ディベータの当該の(事実)主張が一見して「真である」と判断されるものであ
る。
3. ディベータの当該の(事実)主張が一見して「偽ではない」と判断されるもので
ある。
(3.は実は、1,2に対応して二分されますが、余り差が出ないので一括します)
 
 
(注:S.Sさんの[JDA5322]に答える形で、1,2を説明すると、1.では、議論の中で出
された前提(及び共有された補助的な前提)から、当該の事実主張を真であるという
結論に導く過程が明示されていますが、2.では、そのような過程が明示されていなく
ても、ジャッジがその事実主張を真であると認識している場合も含まれます。)
 
 
さて、「不意打ち」が成立するには、ディベータによる証明の程度とジャッジの規準
との間にギャップがある必要があります。一致しているならば、不意を打たれても何
の問題もありません。
 
公知の事実に反する主張については、ジャッジが吟味するとどの立場の方もおっしゃ
っていることからも伺い知れるように、少なくとも偽でないと判断される次元まで証
明がなされていないと、「不意打ち」と正当に主張することはできないように思われ
ます。
 
そうすると、1を要求する場合には、「不意打ち」が起こる可能性が最も高く、3を要
求する場合には「不意打ち」は原理的になくなります(ディベータの「不意打ち」を
主張する最低証明条件とジャッジの要求する最低証明条件が一致する)。
 
 
H.Iさんは、1の立場です。ですから、H.Sさんが御指摘のように、不意打ちを生じ
るという問題が出ます。
 
H.Sさんは、1での不意打ちを回避するために「合意を真とする」というルールを設
定されることを提唱なさっていますが、御自身は、どうも2のようです。というの
は、
 
>分のことをおっしゃっているのでしたら、少し異論があります。「堅固な事実」
>の証明が十分かどうかの判断は、ジャッジの個人的知識に直接的に依拠せざるを
>得ませんが、それを全くジャッジの裁量に委ねるのは、手続保障の観点からは危
>険なことです。そこで、その裁量に何等かのタガをはめる必要がありますが、小
>西さんは「議論の前提の要件」を明らかにすることでそれに対処されようとして
>いるのですし、私は「相手が争わない事実」に関してはジャッジの介入を禁止す
>る、という方法で対処しようとしているわけです。
 
とあるからです。ここで「証明」とおっしゃっているのは、「真であることの根拠」
と思われ、真理と証明という区分で考えると真理の側に入ることと思われます。証明
は、主張と結論との間の関係の問題ですから、余りジャッジの個人的知識には依存し
ない場合が多いでしょう。
 
2の場合にも、不意打ちはやはり成立可能であり、又、真であるという認識は、まさ
しくジャッジの個人的知識に全面的に依存しますから、合意ルールが強く支持される
のでしょう。
 
 
ここで、H.Sさんの御提案についてもう一度見て見ると、それは実は、3の規準の十
分条件に該当することが分かります。
 
3の規準は、「一見して偽でない」と判断されるということですが、「公知の事実に
反さず且つ相手からの反論がない」ならば、「一見して偽ではない」と判断されま
す。
但し、「一見して偽ではない」から「公知の事実に反さず且つ相手からの反論がな
い」は、導かれませんが(一見して偽ではないが反論があることはある)。
 
そうすると、H.Sさんは、2を採ると、不意打ちが起こるから、3を採ろうと主張なさ
っているということが含意されてしまいます。
 
Y.K
 
 
 

Date: Sat, 16 Jan 99 16:48:18 JST
Subject: [JDA :5327] Re: =?ISO-2022-JP?B?GyRCPlpMQCQ1JGwkRiQkGyhK?=
 
 
こんにちわ、H.Sです。
 
長くなりますが、H.Iさんのメールを中心に。
 
H.Iさん wrote:
>1.H.Sさんがいう「議論の結果」とは、おそらく「相手が反論したかどう
>か」が考慮されるのだと思います。ジャッジが説得されたかどうかで勝敗がす
>べて決まるのなら、試合の中のディベーターの議論、特に相手の主張に対する
>反論は、無意味なものになってしまうのではないか、そのように考えておられ
>るのかもしれません。
 
すみません。私が「議論の結果」という表現をきちんと定義せずに使ってしまっ
たために、誤解を招いてしまったようです。私が「『議論の結果』で勝敗が決ま
る」で意味していたのは、「『resolution が支持されたか否か』で勝敗が決ま
る」ということです。そのようなゲームだから手続保障が必要だ、ということを
いいたかったのです(詳しくは後述します)。
 
また、
>「新体操の審査員」という例えがミスリードだったかもしれません。誤解を正
>しておく必要がありそうです。私の立場は、スキルジャッジではなく、通常の
>クリティック・ジャッジです。論題のnet-benefitを基礎付ける個々のアー
>ギュメントの成否について、「相手が反論しなかったか」ではなく「十分な証
>明がなされたか」によって判断しようとするものです。
 
私もクリティック・ジャッジを念頭においていたつもりですが、比喩が適切か否
かにこだわるのは生産的ではないので、それはやめましょう。いいたかったポイ
ントは、「手続保障」に配慮しなくてよいのは「議論の質」にのみ着目して評価
をする場合だけであるということです。そして、ここで「議論の質」といってい
るのは、H.Iさんのおっしゃる「ジャッジが説得されたか否か」という「説得力
の強さ」も基準を含めているつもりです。K.Nさんから、「議論が収束しない」
とのお叱り(?)を受けましたので、収束に向けた努力とともに、以下で少し敷
衍します。
 
----------------------
H.Iさんは、H.Iさんと私の立場の違いを
>2.H.Sさんの立場と私(というより一般のクリティック・ジャッジ)の立場
>との違いが出てくるのは、「証明されていない主張が提示されている試合」な
>のです。
 
と述べておられます。現象としてはたしかにそうなのですが、むしろ、本当の対
立は、より根源的に、ディベートというゲームにおいて(不意打ち防止という)
「手続保障」を必要と考えるか否か、という点にあると思います。ディベート
が、議論教育という目的のための手段である、ということはH.Iさんとの間に合
意(!)があると思いますが、だとすれば、問われるべきは、H.Iさんのように
「手続保障不要」とすることが目的達成の手段として有効なのか、私のように
「手続保障必要」とすることが目的達成手段として友好なのか、ということだと
思います。
 
1.まず、「ディベートが議論教育のための手段である」ということは、「議論
の質」の向上がめざされなければならない、ということを意味します。したがっ
て、「介入」による指導が必要になってきます。ここまでは異論がないと思いま
す。
 
2.ところが、われわれがやっている《ディベート》では、「議論の質」の向上
はたしかに最重要の要請ですが、それに多少目をつぶって「手続保障」にも配慮
せざるをえない(つまり両者のバランスを考える必要がある)構造をもっている
ように思います。その構造は、普段は意識することのないことですが、議論教育
のために《ディベート》という手段を選択したことのインプリケーションを考え
るうえで、大事なことのように思います。3点あげます。
 
(1) われわれがやっている《ディベート》では勝敗を決します。
勝敗を決さずにジャッジが「コメント」だけをするという形態も十分に考えられ
ます(実際、練習試合ではそういうことがあるのではないでしょうか)。そのよ
うな教育方法であれば、手続保障は重要ではないでしょう。これに対して、われ
われが勝敗を決するという選択をしているのは、ディベートを勝敗を決するゲー
ムにすることによる、教育上のインセンティヴ効果(動機付け、やる気を与え
る)に期待しているからだと思います。このことは、《勝敗を決めるゲームによ
る教育上のインセンティヴ効果》にわれわれは配慮しなければならないことを意
味します。
 
「不意打ちが防止されなければならない」という要請は、ここから導かれるよう
に思います。つまり、「不意打ち」を許すことは、そのゲームに参加している
ディベーターが積み重ねてきたのではない事項で勝敗を決することになります。
教育上のインセンティヴ効果を考えれば、「ディベーターが議論したこと」を評
価の対象にしてあげるべきだということになりそうです。ディベーターが議論し
ていないことを勝敗の決め手にするのは、それなりの「ショック療法」にはなる
かもしれませんが、一般的には「やる気」を削ぐことになるのではないでしょう
か。
 
 
(2)次に、われわれの《ディベート》では、勝敗は resolution が支持された否
かという「議論の結果」で決せられます。
これは前のメールでも書いたことですが、「議論の質」で勝敗を決めるのであれ
ば、反論の機会が奪われて不意打ちがなされても、「議論の質」はそれはそれで
評価できますので、かまわないでしょう(手続保障は不要)。しかし、「議論の
結果」が評価対象になるのであれば、それはディベーターが到達した「議論の結
果」を評価対象にするのが(1)に述べた意味で教育的だと思います。
 
ちなみに、タブラ・ジャッジも「議論の結果」を評価する場合(つまり勝敗を決
する場合)には、意識的か否かはともかく「手続保障」に厚い(むしろ過剰な)
わけですが、そのタブラも、バロットの得点欄を書くときには、「議論の質」に
着目しているから「介入しまくり」ですよね。
 
(3)われわれの《ディベート》では、ジャッジは基本的にラウンド中は受け身で
す。
ジャッジがラウンドの最中に「介入」して、論証の不十分な点を指摘して、その
点の論証を促すことが認められるのであれば、介入は予告に基づいて行われると
いう方法で手続保障がなされることになると思います。むしろ、そういうゲーム
の方が議論教育という観点からは効果的かもしれません(ちなみに、前に紹介し
た模擬裁判はそういうゲームでもあります)。しかし、残念ながらわれわれの
《ディベート》はそういうゲームではありません。ジャッジはラウンド後にしか
介入できませんので別の形で「不意打ち」を回避する必要があると思います。
 
3.うえで述べたことをまとめると、われわれのやっている《ディベート》の目
的および構造からは、「介入によって議論の質を高める」という要請と同時に、
「不意打ちを防止するという手続保障」の要請も存在するということです。この
バランスをどうとるかには、さまざまな考え方があるでしょうが、バランスが問
題になるということは否定できないように思います。H.Iさんは、「ジャッジが
説得されたか否か」が大事なのであって、「手続保障」の要請は不要だとお考え
のようですので、この点が私の考え方との根本的な分岐点のように思います。
 
4.なお、H.Iさんが、スピーチの目的は「ジャッジの説得」にあるとおっしゃ
るのは私もその通りだと思いますが、ただし、それはフィクションにすぎないよ
うに思います。「スピーチの目的はジャッジの説得だ」というのは、ディベー
ターに対して、そういう設定でロールプレイングゲームをしなさい、といってい
るだけの約束事で、私は実際にディベーターに「説得された」ことはほとんどな
いように思います。また、「ジャッジの説得」は個々の「スピーチ」の擬制的な
目的ではあっても、「ディベート」の目的ではないように思います。
 
かえって、議論の収束を妨げてしまったでしょうか。心配です。
 
 
 
 
 
 

Date: Sun, 17 Jan 99 18:16:41 JST
Subject: [JDA :5334] =?ISO-2022-JP?B?UmU6IFtKREEgOjUz?=
 
[JDA 5323]では、敢えてこの論争についてのimplicationを余り明確にしませんでし
たが、K.Nさんの催促もあるので、一応試してみます。
 
<中略>
 
それぞれ、事実主張に関しては、
 
1.「真である」という結論を持つ証明を要求。
2.真であることがジャッジに認識されればよい。
3.偽でないことがジャッジに認識されればよい。
 
前回最終的な結論を出さなかったのは、私自身迷うところがあったからでした。一般
的に言って、1が妥当に思われがちですが、現実の事例についての直観で言うと、曽
野さんの考え方(3)も、捨て難いようにも思われたからです。
 
それは、ディベートが議論での規範の教育であれば、原始的な(つまり、当該の試合
での全議論の最初の出発点となっているような)事実主張については、偽でないこと
が示されていればよいのではないかという気もするからです。
 
これは、そういう事実主張を規定による公理又はある証明での所与の前提の類推で考
えたくなるからです。
 
 
しかしながら、この考えは、大きな見落としをしています。
 
つまり、論理体系の公理は、どのように設定しても構わない(帰結によってしか是非
は判断されない)のに対して、経験的な事柄についての議論での前提は、そうはいか
ないからです。つまり、経験との一致が要求されます。そうすると、少なくとも、2
は要求されます。
 
そうすると、手続き保障という議論は、不意打ちを原理的に防止するというその帰結
によっては正当化できなくなります。
 
 
ところで、脱線しますが、不意打ちというのは、広義には、ジャッジとディベータと
の認識のずれにより、どのような場合でも生じるのであり、議論が交されている論点
の場合には、出された議論との連関で不意打ちかどうかが判断されます。そうする
と、この規準を延長すれば、議論が交されていない(合意のある)論点でも、片方の
議論との関連は確かにあるので、不意打ちはそれほどないことになるのではと思いま
す。
 
 
それでもなお、今度は、2の規準の場合の認識の程度により、H.Sさんのおっしゃる
ことは擁護できるかもしれません。
つまり、真理的な扱い(証明されたものとしての扱い)を受けるために必要なこと
は、談話の参加者の共同体の共有信念及び当該の談話の目的に依存する、と言うこと
もできるでしょう。
例えば、哲学者が哲学的含意を考えるという目的で生物学の議論を参照するとき等、
生物学者が行う議論程詳しい議論は要求されません。哲学者を法学者に変えて、生物
学を哲学に変える等お好きなように変えても同様でしょう。
そうすると、アカデミック・ディベートでは、議論の規範を実践的に学ぶことを目的
とする以上、厳密な論証は要求されないので、同意のある議論はそのまま受け入れて
もいいではないかと思われるかもしれません。
ここでは、真理認識と議論の不在という本来独立な事柄が混同されています。よっ
て、この道もだめです。
 
S.Sさんの議論も実はこれに近いものです。
 
>それに対し、両者が合意した場合には、相反する双方の立場から合意されたものです
>ので、どちらかが「自分に有利な事実」をでっちあげた可能性はかなり低いと考えら
>れます。このため、このような「事実」は、ジャッジからみてより確からしいと考え
>ることができると思います。
 
ディベータの合意は、単に両者の誤解(どちらも当該の命題が争い得ないことと信じ
ている)によって生じたものかもしれません。あるいは、両者が、それぞれの考えで
自分の有利のために故意に間違った前提を出すことだってあるでしょう(どちらもそ
の間違った前提が自分に有利と信じている)。
そうすると、合意という事実は、ジャッジの真理認識の可能性を高めているとは言え
ないでしょう。
 
たばこ会社の例でも、実は肺癌よりも恐ろしい帰結を隠すために、たばこ会社が肺癌
との因果関係を認めるということすらあり得ます。
 
被告人の自白も同様。
 
 
エビデンスの話は又別です。一行エビデンスは、論証の結論だけを引用することで、
引用されていない部分でそれなりの根拠が出されているという共有された前提の下で
信用を得ているのであり、ディベータの意図からの独立性とは関係ありません。
 
 
 
 
このように考えると、やはり、2は少なくとも必要と思われます。それでは、1はどう
でしょうか。私は、事実主張に関しては、1まで要求することもないと思います。こ
れは、ディベートという活動の目的を考慮してのことです。
 
それでも、合意による真ということは、上記のように却下されることには変わりはな
いですが。
 
 
<後略>
 

Date: Tue, 19 Jan 99 13:47:12 JST
Subject: [JDA :5336] Re: =?ISO-2022-
 
こんにちわ、H.Sです。
 
お返事が大変遅くなってしまいましたが、Y.Kさんのメールについてです。
 
 
>先ず、議論での所与となるような事実主張を真であるとみなす規準(又は事実主張の
>証明の程度の規準)を分類します。
>
>1. ディベータの当該の(事実)主張が一見して「真であると証明されている」と判
>断されるものである。
>2. ディベータの当該の(事実)主張が一見して「真である」と判断されるものであ
>る。
>3. ディベータの当該の(事実)主張が一見して「偽ではない」と判断されるもので
>ある。
[snip]
>ここで、H.Sさんの御提案についてもう一度見て見ると、それは実は、3の規準の十
>分条件に該当することが分かります。
>
>3の規準は、「一見して偽でない」と判断されるということですが、「公知の事実に
>反さず且つ相手からの反論がない」ならば、「一見して偽ではない」と判断されま
>す。
>但し、「一見して偽ではない」から「公知の事実に反さず且つ相手からの反論がな
>い」は、導かれませんが(一見して偽ではないが反論があることはある)。
>
>そうすると、H.Sさんは、2を採ると、不意打ちが起こるから、3を採ろうと主張なさ
>っているということが含意されてしまいます。
 
 
Y.Kさんのご説明をきちんと理解できているかどうか自信がありませんが(とくに
「一見して」というのは、どういう意味ですか? prima facie ?)、私がY.Kさん
の分類による3の立場だというのは、結論的にはそうなのだろうと思います。ただ、
「公知の事実に反さず」且つ「相手からの反論がない」→「一見して偽ではない」と
いう考え方かというと、少し違うように思います。私が考えていたのは、というのは
「公知の事実に反しない」ということから直接「一見して偽ではない」が導かれ、
「相手からの反論がない」というのは、その事実の真偽をそれ以上の「審査対象から
外す」ということのみを要請するということでした。(なぜ「審査対象から外す」か
については、[5327]を御参照ください。)
 
ですから、
>H.IさんとH.Sさんとの対立は、一般的な
>証明要求の違い(御当人は意識されていないかも)に還元されるのではと思われま
>す。
 
というのは、少し違うように思います。私が意識していないだけなのかもしれません
が。ご教示ください。
 
 
 
なお、一点だけ質問させていただきたいのですが、Y.Kさんは、
 
>ディベートが議論での規範の教育であれば、原始的な(つまり、当該の試合
>での全議論の最初の出発点となっているような)事実主張については、偽でないこと
>が示されていればよいのではないかという気もするからです。
 
として、3の立場も捨て難いとして下さいながら、これには「大きな見落とし」があ
るとされ、
 
>つまり、論理体系の公理は、どのように設定しても構わない(帰結によってしか是非
>は判断されない)のに対して、経験的な事柄についての議論での前提は、そうはいか
>ないからです。つまり、経験との一致が要求されます。そうすると、少なくとも、2
>は要求されます。
 
とされます。「経験との一致が要求される」という点は同意いたしますが、「経験と
の一致」は、「公知性」のチェックでさしあたっては(一見して?)確保されている
ように思うのです。ですから、決して「見落とし」ではないように思うのです
が・・・。
 
もしそうだとすると、
>このように考えると、やはり、2は少なくとも必要と思われます。それでは、1はどう
>でしょうか。私は、事実主張に関しては、1まで要求することもないと思います。こ
>れは、ディベートという活動の目的を考慮してのことです。
 
とあわせると、結局3がベスト!ということになりはしないでしょうか。
 
 
 
 

Date: Wed, 20 Jan 99 00:19:12 JST
Subject: [JDA :5338] =?iso-2022-こんにちは、H.Iです。
 
H.Sさんの一連のメールにはコメントすべき点が多々あるように思うのです
が、ml上で長々と論じるのは迷惑でもあり、また焦点もぼやけるでしょう。こ
こでは、本質的な点に絞ってコメントします。あわせて、S.Sさん、Y.Kさん
のメールにも若干触れます。
 
1.議論の質の確保はディベーターの合意に優先する
 
H.Sさんは、ディベーターの合意を尊重すべき理由として、(1)ディベーター
が議論していないことを勝敗の決め手にするのは、ディベーターのやる気を削
ぐ、(2)ジャッジは試合中は受け身であるため、不意打ち的な判定は避けるべ
きという点をあげます。
 
この点には私は異論があるのですが、それを述べることは控えます。ここで
は、仮に「不意打ち的判定」を避けるべきであるとしても、それは絶対的要請
ではなく、ディベーターの合意よりも、ディベートの議論の質を高めることが
優先されるべきであることを指摘しておきましょう。
 
これは、H.Sさんも前提としていることです。H.Sさんは、公知の事実に反す
る主張や不合理な推論については、たとえディベーターの合意があっても、
ジャッジが審査してこれを排除するとしています。しかし、これも「ディベー
ターが議論していないことを勝敗の決め手にする」ことであり、「不意打ち的
判定」であることには変わりありません。にもかかわらず、H.Sさんがこのよ
うな立場を取るのは、ディベーターの合意より議論の質の確保を優先している
ことに他なりません。
 
とすると、問題は、「証明されていない事実の主張」が、質の高い(説得力の
ある)議論といえるかということになります。
 
 
2.非公知の事実の証明は、説得力のある議論に不可欠の要素である
 
H.Sさんは、ディベートでは「推論過程の教育」が重要であり、事実の正確性
については多少目をつぶって、ディベーターの合意を優先させても構わない、
と考えておられるようです。
 
私はそうは考えません。非公知の事実は、信頼できる情報源(ディベートでは
エビデンス)により確認することは、説得力ある議論の形成及びアーギュメン
テーション教育に不可欠の事項だと考えます。
 
議論の前提となる事実がいかに重要かは、社会で行われている議論を見ても明
らかです。実際の経済統計に基づかない経済論争は無意味ですし(マスコミに
出ているエコノミストにはそういう人は多いですね)、実験データに基づかな
い科学論争は無意味です。
 
前提が真であることが確認できなければ、推論過程が正しくても、結論が真で
あることは確認できません。その意味で、いくら推論過程が正しくても、確認
されていない事実に基づいた議論は説得力のある議論とはいえません。そし
て、ディベートは、事実を確認せずに議論することを教育する場ではありませ
ん。
 
結局、「合意があれば、証明されていない事実の主張も成立する」という立場
は、取ることができないと言わざるを得ません。
 
 
3.議論の説得力と「合意」は無関係
 
S.Sさんは、ディベーターの合意があれば、真実の蓋然性は増すと述べていま
す。これについては既に述べましたが、次の点を補足します。
 
確かに、合意された主張は「真実の蓋然性が増す」ように見えることがありま
す。しかしそれは、一方の主張が確かな根拠に基づいているときは、相手方も
合意するケースが多いからです。
 
すなわち、主張の「真実の蓋然性が増す」のは、その確かな根拠が提示された
からであって、「合意」がなされたからではありません。合意によって真実の
蓋然性が増すという考え方には、同時に起こる事象と因果関係の混同があるも
のと思われます。
 
S.Sさんが挙げるタバコの例もその一例です。タバコと肺癌の因果関係が繰り
返し報道され、タバコ会社がそれを認めたときに「真実の蓋然性」が増すよう
に見えるのは、報道が相当の根拠を有していたときのみです。
 
これは、根拠がない主張について合意がなされた例を考えると明白でしょう。
例えば、小渕首相の政策の是非をめぐって論争がなされていたとき、片方が
「小渕首相はニャントロ星人である(!)」と主張し、もう一方がそれを認めた
場合には、「真実の蓋然性」は全く増加しないことは明白でしょう。
 
 
4.ディベートでは真である事実にも証明を要求すべき
 
Y.Kさんは、事実主張に関しては、「真である」という結論を持つ証明を要求
する必要はなく「真であることがジャッジに認識されればよい」としていま
す。両者の違いは、証明されていない事実主張につき、たまたまジャッジが真
実であることを知っていた場合に、これを取るかどうかだと思います。
 
議論の前提となる事実が非公知の事実である場合、その事実は信頼できる情報
源により確認すべきということは既に述べました。この立場からすると、証明
の省略を認めることは、たとえジャッジが真実であると知っている事実でも、
妥当性を欠くように思われます。
 
実際の適用を考えても、ジャッジがたまたま真実であることを知っているかど
うかで判定が変わるのはバランスを失しますし、ジャッジの個人的知識を試合
に持ち込むべきでないという見地からも、妥当とはいえないでしょう。
 
 
H.I
 
 
 

Date: Fri, 22 Jan 99 14:29:02 JST
Subject: [JDA :5340] =?ISO-2022-JP?B?UmU6IBskQj5aTEAkNSRsGyhK?=
 
先ず、「証明」(proof)という概念について一言。
 
「証明」というのは、日常的にはかなり幅広い意味で使用されるようですが、私はこ
の言葉を、日常よりは限定されているが、(日常的用法に配慮して)論理学で用いる
よりはゆるやかな意味で使っています。
 
一定の所与の前提及び使用を認められた前提から、認められた規則に従い、帰結へと
導く議論の全体と言う意味です。
 
因に、前提の範囲を明確にしないで、ある主張を真と信じさせるに足る根拠を挙げる
ことは、「論証」(demonstration)と言います。
 
論証された議論は必ずしも証明されているとは限りません。恐らく、論証された議論
は証明可能であることは多いでしょうが。
 
証明には、前提、帰結、とそれらを結ぶ過程が明確にされていることが必要です。
 
従って、日常の議論では、証明の程度が不十分でも、その主張を真だと我々が認識す
ることはあり得ます。ディベートで行われれている議論のかなりの部分はこの類でし
ょう。
 
上記のような「証明」概念の範例としては、数学での「証明」を考えて頂ければよい
かと思います。
 
どうも、H.Iさんは、「証明」を「論証」の意味で使っているようです。
 
 
 
>>1. ディベータの当該の(事実)主張が一見して「真であると証明されている」と判
>>断されるものである。
>>2. ディベータの当該の(事実)主張が一見して「真である」と判断されるものであ
>>る。
>>3. ディベータの当該の(事実)主張が一見して「偽ではない」と判断されるもので
>>ある。
>[snip]
>
>Y.Kさんのご説明をきちんと理解できているかどうか自信がありませんが(とくに
>「一見して」というのは、どういう意味ですか? prima facie ?)、私がY.Kさん
>の分類による3の立場だというのは、結論的にはそうなのだろうと思います。ただ、
>「公知の事実に反さず」且つ「相手からの反論がない」→「一見して偽ではない」と
>いう考え方かというと、少し違うように思います。私が考えていたのは、というのは
>「公知の事実に反しない」ということから直接「一見して偽ではない」が導かれ、
>「相手からの反論がない」というのは、その事実の真偽をそれ以上の「審査対象から
>外す」ということのみを要請するということでした。(なぜ「審査対象から外す」か
>については、[5327]を御参照ください。)
>ですから、
>>H.IさんとH.Sさんとの対立は、一般的な
>>証明要求の違い(御当人は意識されていないかも)に還元されるのではと思われま
>>す。
>
>というのは、少し違うように思います。私が意識していないだけなのかもしれません
 
「一見して」は、prima facieです。
 
「公知の事実に反さず」且つ「相手からの反論がある」と、「一見して偽ではない」
と言えないでしょう。
 
それから、前回はこの事については余り触れませんでしたが、「一見して偽でない」
規準をとる場合には、「不意打ち」が原理的になくなりますから、「審査対象から外
す」ということは、redundantになってしまいます。従って、「一見して偽ではな
い」規準をとれば、合意についての規則を設定する必要はなくなります。別の面から
これを見ると、「一見して偽ではない」規準とH.Sさんの規準との間には、外延的な
差がなくなります。
 
 
>>つまり、論理体系の公理は、どのように設定しても構わない(帰結によってしか是
>>非は判断されない)のに対して、経験的な事柄についての議論での前提は、
>>そうはいかないからです。つまり、経験との一致が要求されます。そうすると、
>>少なくとも、2は要求されます。
>
>とされます。「経験との一致が要求される」という点は同意いたしますが、「経験と
>の一致」は、「公知性」のチェックでさしあたっては(一見して?)確保されている
>ように思うのです。ですから、決して「見落とし」ではないように思うのですが・・・。
>
>もしそうだとすると、
>>このように考えると、やはり、2は少なくとも必要と思われます。それでは、1はど
>>うでしょうか。私は、事実主張に関しては、1まで要求することもないと思います。
>>これは、ディベートという活動の目的を考慮してのことです。
>
>とあわせると、結局3がベスト!ということになりはしないでしょうか。
>
 
「経験との一致」は、「公知性」のチェックでは確保されないでしょう。「公知の事
実に反しない」ということは、公知の事実と矛盾しないということだけしか意味しま
せんから、必ずしもそれが「(公知の事実がその一部についての知識であるところ
の)経験と一致している(つまり、真である)」とは限りません。
 
 
非実在論的な立場をとり、真理の整合説で考えるとしても、公知の事実をどうとるか
によっては、経験的信念との一致が、公知の事実との無矛盾性で確保されるとは限ら
ないでしょう。
 
 
つまり、公知の事実と議論での合意とが、「経験との一致」を確保するのに十分かど
うかという問題にこれは帰着します。
 
公知の事実を規定する共同体が狭ければ(公知の事実が広ければ)3でよいかもしれ
ませんが。ディベートで扱う事実の領域と、ジャッジがディベートのジャッジングで
公知の事実として見なす知識(これはジャッジの個人的知識の総体でない場合もある
−専門的知識は敢えて知らないふりをすることはある)の領域との重なり合を考える
と、必ずしも、(整合説的な真理観をとる場合でも)公知の事実と議論での合意によ
り、「経験との一致」を確保するには至らないような気がします。
 
 
<中略>
 
 
 
さて、今まで問題になっているのは、ディベートで所与として扱われるような事実の
主張です。
 
どうも、H.Iさんは、公知の事実以外は所与として認めないと考えているようです。
H.Sさんは、そうではなく、争われない事実をそれに加えてもよいと考えているよう
です。
 
私としては、公共的知識に一致するような事実主張は真とみなしてよいという考えか
ら、公共的知識に鑑みて「真であると認識」できればよいと思います。
 
公共的知識との一致というのをどう示す(論証する)かが問題ですが、そもそも、事
実の主張というのは、厳密な意味で証明することは非常に時間がかかり、又困難なこ
とも多いものです。
事実の主張での論証の問題は、どこまで不十分な証明を、事実を「示す」ものとする
かということが鍵となります。
 
その線引きは非常に困難で、最終的に、ジャッジが主張を真と判断できるかどうかに
依存するしかないように思われます。これは、一つには、事実主張については「証
明」の手続きが余り明確でないということにもよります。
 
 
 

Date: Sat, 23 Jan 99 12:42:08 JST
Subject: [JDA :5342] Re: =?ISO-2022-JP?B?GyRCPlpMQCQ1JGwkRiQkGyhK?=
 
こんにちわ、H.Sです。
 
順序が逆になりますが、まずY.Kさんのメールについて。
 
「(公共的)経験との一致」を「公知性」でチェックできると私が述べた
のに対して、Y.Kさんは、
 
>「経験との一致」は、「公知性」のチェックでは確保されないでしょう。「公知の事
>実に反しない」ということは、公知の事実と矛盾しないということだけしか意味しま
>せんから、必ずしもそれが「(公知の事実がその一部についての知識であるところ
>の)経験と一致している(つまり、真である)」とは限りません。
 
とおっしゃいます。
 
たしかに、「公知の事実に矛盾しない」ことから、「経験との一致(つまり
「真」)」は必ずしも導かれません。この点、前回の私のメールは迂闊でし
たので訂正させて下さい。私がいうべきだったのは、「公知の事実に矛盾
しない」ことから「経験と不一致ではない(つまり「偽ではない」)」と
いうことは導かれるが(*1)、それで十分ではないか、ということでし
た。たとえば、「パロアルト市の人口は10万人以上」という事実は、少な
くとも今の私にとって、積極的に「経験と一致する」とまではいえません
が、「そうかもしれない」(つまり、「経験と不一致ではない」「一見し
て偽ではない」)とは思います。この事実を相手が争わずにディベートが
進んだ場合、私はそれを受け容れますが、Y.Kさんはそれでは問題だとお
考えですか?
 
 
 
>どうも、H.Iさんは、公知の事実以外は所与として認めないと考えているようです。
>H.Sさんは、そうではなく、争われない事実をそれに加えてもよいと考えているよう
>です。
>
>私としては、公共的知識に一致するような事実主張は真とみなしてよいという考えか
>ら、公共的知識に鑑みて「真であると認識」できればよいと思います。
 
私の考えをまとめますと、所与の事実(証明なしで受け容れていよい事
実)として、私が考えているのは、「公知の事実」+「争われない事実
(ただし、公共的知識に不一致のもの、一見して偽のものは除く)」とい
うことになろうかと思います。
 
 
<後略>
 

Date: Sat, 23 Jan 99 13:04:16 JST
Subject: [JDA :5343] Re: RE: Re: =?ISO-2022-JP?B?GyRCPlpMQCQ1GyhK?=
 
H.Sです。
 
H.Iさんのメールについてです。
 
>1.議論の質の確保はディベーターの合意に優先する
 
「議論の質の確保」が重要であることには全く異論がありません
が、H.Iさんはそれを絶対的要請と考えられ、私はゲーム性からく
る制約(手続保障)があると考えるわけで、ここが違いですね。私
としては、手続保障は(程度は別として)当然のことだと思い込ん
でいたので、今回の議論で、必ずしもそれが一般的な理解ではない
ということを発見できたのは収穫でした。
 
>2.非公知の事実の証明は、説得力のある議論に不可欠の要素であ
る
 
事実の証明が議論教育にとって重要であることも全く異論がありま
せん。私の一連の発言では、この点、違った印象を与えてしまった
のかもしれませんが、私も事実の「証明」ないし「論証」過程には
「介入」するとしていますので、その点は御了解ください。
 
ただ、問題はディベートの枠内でどこまでの証明を求めるかという
ことだと思いますので、何等かの制約原理が必要になってくるよう
に思います。T.Kさんの「議論の前提」論はまさしくその問題を
扱っているのだと思いますし、Y.Kさんの「真であるとの認識」
論、私の「手続保障」論も不十分ながらそこを狙っているわけで
す。(もっとも、私の議論はY.Kさんによって、手続保障論でもな
んでもなくて、「一見して偽でない」レベルの証明を求めているだ
け、ということが暴かれてしまったようで、これはまた考えてみた
いと思います。)
 
 
 

Date: Sat, 23 Jan 99 22:40:10 JST
Subject: [JDA :5344] meibo 99.01.23

Date: Sun, 24 Jan 99 02:31:17 JST
Subject: [JDA :5346] =?ISO-2022-
 
H.S様
 
素朴な疑問を一つ。
 
 
 一見明白に証明がなされていない主張を採用しなくても、不意打ちには
  ならないのでは?
 
prima facieを満たしていない主張は採用しない旨をフィロソフィーに入れていれば、
「一見明白」に証明が不足している(最低限の証明をしていない)主張は、誰から
見ても(ディベーター本人も)「一見明白」に採用されないことがわかるはずで、
それを採用しなくてもなんら不意打ちではないでしょう。
 
ディベーターは、その議論が採用されないことを十分予想できるはずで、それにも
かかわらず、その議論が採用されると思いこんで議論を進めるのは、単にディベー
ターの過失に過ぎません。(予測可能性の議論)
 
オフサイドのルールを知っていて、かつ、客観的にオフサイドの要件を満たしてい
る場合で、相手側もオフサイドであるというアピールをせずに試合を続行してゴー
ルを決めた後に、審判に突然オフサイドであることを判定されて、ゴールの無効を
宣告されても、それを「不意打ちだ」という人はいないでしょう。
(オフサイドの要件を満たしていないという抗議はありえるが)
 
これと同様に、「ルールを事前に示す」「その基準を客観的かつ明白にする」
「判定を客観的に行う」ということが為されていれば、手続き保証はなされている
と思いますが、いかがですか?
 
なお、予想できない判定というのは、証明がなされているかどうかが万人から見て
「一見明白」であれば、存在しないはずです。
 
もし、H.Sさんの意見として、その「一見明白さ」を客観的に確保しがたいというこ
とであれば、それは、その「一見明白さ」を厳密に取り扱う(基準を明確にする)こ
とで解決すべき問題であり、合意を優先するというH.Sさんの主張に結びつける論理
的必然性はないでしょう。
 
 
 
S.Y
 
 

Date: Mon, 25 Jan 99 00:00:18 JST
Subject: [JDA :5347] =?iso-2022-
 
こんにちは、H.Iです。
この話題についてもほぼ収束したかとは思いますが、Y.Kさんのメールを踏ま
え、前回のメールにつき若干補足したいと思います。
 
 
一連のメールで、私は「非公知の事実についても証明すべき」と述べました。
これは、主に「信頼できる情報源により確認する」という意味であり、必ずし
も「所与の前提から論理的に導く」ことを意味しません。したがって、Y.Kさ
んのご説明にしたがえば、私の言う「非公知の事実の証明」とは、主に「論
証」を意味することになります。
 
>事実主張の「証明」としては、十全でなくても、ディベータの出した議論及
>びその他の公共的知識(これはたまたまジャッジが持つ知識の総体よりも狭
>い)に鑑みて、それが真であると判断できる場合はあります。
>実際のところ、H.Iさんがお考えの、ディベータによる事実主張の<証明>
>(論証)の中には、こちらに属するものもかなりあると思います。
 
たしかに、非公知の事実について「証明」が十分でなくても、一定の「論証」
がなされれば、ジャッジは真であると判断してもよいということになります。
そして「公知の事実はエビデンスに基づく証明不要」とされることとの関連で
言えば、ディベーターの出した合理的な議論又は公共的知識に基づく事実につ
いても、エビデンスがなくても「論証」が成立することがあることにも異存は
ありません。
 
とすると、私の立場とY.Kさんのお考えとはそれほど差はなさそうです。
 
いずれにせよ、ディベートにおける事実の主張は、公共的知識と一致するか、
又は信頼できる情報源により確認されなければ、成立しないとすべきというの
が、私の立場です。
 
 
話がずいぶん展開したので、ここで、今回の一連の議論を簡単に振返ってみた
いと思います。
 
ジャッジングに関して「ディベーターの合意事項はそのまま取るべき」という
考え方は、根強くあるようです。「私は、ディベーターが合意しなかった事項
についてのみ<介入>して判断します」とフィロソフィーに書いてあるジャッジ
も相当数います。おそらく、これらのジャッジの根拠とするのは、ディベー
ターの合意の尊重と不意打ちの防止でしょう。
 
しかし、これまでこの立場は有力に主張されることはなかったように思いま
す。ディベーターが合意すれば、ジャッジは不合理な主張であってもそのまま
取るべきという結論は妥当性を欠くと受け取られるからでしょう。この議論の
初期の段階で、民事訴訟法の擬制自白の規定をディベートに適用しようという
提案がありましたが、幾人かの方々からそのような批判があったように思いま
す。
 
H.Sさんの提案は、合意の拘束力を「前提となる事実」に限定することで、
ジャッジが不合理な主張を取ってしまうことの問題点を回避しようとしたもの
だと思います。これまでと異なり、この提案が簡単に退けられないのは、「前
提となる事実」について証明されていなくてもアーギュメントとしては一応完
成している上、一般的には合意された事実は真実性が高いように見えるからで
しょう。
 
これについて、私は、ディベートはディベーター間の対話ではなく、ジャッジ
を説得するゲームであるから、合意の尊重・不意打ちの防止は本質的な要請で
はないことを述べました(不意打ちに関しては、S.Yさんが指摘するように、
フィロソフィーにその旨明示しておけば原理的には防げるでしょう)。
 
またそれとは別に、(1) いくら推論過程が正しくても、前提となる事実が真で
あることが確認(論証)されていなければ説得力ある議論とはいえない、(2) 一
般的には合意された事実は真実性が高いように見えるのは、真実性が高いから
合意されているのであって、合意されているから真実性が高いのではない、と
いう2点を指摘し、「前提となる事実」も、ディベーターの合意の有無にかか
わらず証明(論証)が必要であると述べました。
 
H.Sさんの提起した問題には、ディベートにおける「合意」をどう扱うかとい
うことと、どのような要件を満たしたら「前提となる事実」の主張が成立する
かという、2つの問題点があるように思います。
 
前者は古くからある問題ですが、後者はこれまであまり論じられてなかったこ
とは確かですね。Y.Kさんの説明された「証明」と「論証」の相違点などは、
私も勉強になりました。
 
 
H.I
 

Date: Mon, 25 Jan 99 08:45:50 JST
Subject: [JDA :5349] =?iso-2022-jp?B?GyRCOHg2JkUqQ048MRsoQg==?=
 
S.Sです。
主にH.Iさんのメールについてですが、S.Yさんのメールにも触れます。
 
>いずれにせよ、ディベートにおける事実の主張は、公共的知識と一致するか、
>又は信頼できる情報源により確認されなければ、成立しないとすべきというの
>が、私の立場です。(中略)
>(不意打ちに関しては、S.Yさんが指摘するようにフィロソフィーにその旨明示し
ておけば原理的には防げるで>しょう)。
 
 
「公共的知識」の中身が一義的に明白であれば不意打ちは防げるでしょうが、実際に
はそうではありません。
 
ディベートにおいて何が「公共的知識」(公知の事実)であるかは原理的にはジャッ
ジがある事実についてそれが「公共的知識」であると判断することに依存します。つ
まり、ジャッジが、「こんなことはみんなが知っていることだ。こんなことは知って
いて当たり前」と判断すれば、それは「公共的知識」であるが、ジャッジが「こんな
ことは知らなくて当たり前だ」と判断すれば、それは(H.Iさんの立場によれば)証
明を要する事実である、ということになります。
 
日本のように均質な社会では、「公共的知識」の範囲は人によって異なるものの、か
なりの部分は一致するであろうとは思います。しかし、本質的には「公共的知識」の
範囲はジャッジが存在するコミュニティに依存し、ジャッジによって異なって当然の
ものです。(またディベーターが予測する「公共的知識」とジャッジの考える「公共
的知識」も当然異なってくる)
 
「大阪市の人口は100万人以上である」という事実は日本では「みんなが知ってい
て当たり前」の事実ですが、アメリカでは知っている人の方が少ないです。
 
ですから、ジャッジが「公知の知識でない事実については合意があっても証明を要求
する」とフィロソフィーに書いても、「公知の知識」の範囲を明確にする(それは不
可能でしょう)ことができなければ、やはり、「不意打ち」は回避されません。サッ
カーの例は、「オフサイド」の範囲が客観的にかなりの程度明確であるから成り立つ
わけで、そのまま適用するのは難しいと思います。
 
「真であると証明(論証)された事実、又は公共的知識」という基準が、原理的に
「不意打ち」を回避できるとは言いきれません。「不意打ち」があってもなお、「教
育的効果」が優先するという趣旨の御意見は納得できますが、これは各ジャッジの
ディベート観にかなり依存する問題で結論は出しにくいでしょう。
 
<後略>
 
 
 

Date: Mon, 25 Jan 99 18:34:56 JST
Subject: [JDA :5353] =?ISO-2022-
 
こんにちわ、H.Sです。
 
H.Iさんがおっしゃるように一連の議論も一応の終わりにしてよい
ポイントに達したように思います。
 
H.Iさんと私の考えの違いは明確になり、agreement to disagree 
が達成されたように思います。ただ、一点だけ確認させていただけ
れば、私を「合意による真」論者とされているのは言葉の綾だと思
いますが、正確には「相手が争わない場合には審査対象としない」
論です。結論は同じでしょうが、「合意による真」論とは考え方の
筋道が異なりますので・・・。
 
また、Y.Kさんの議論との関係では、私ももう少しゆっくり考えて
みたい心境になっています。(Y.Kさんの「一見して真」基準は
「経験的な事柄についての議論の前提は、経験との一致が要求され
る」ことを論拠のひとつとされているわけですが、私の「一見して
偽でない」基準でも「経験との不一致は回避できる」ように思わ
れ、それで十分ではないかと思っているわけですが、不意打ち防止
という手続保障を議論するうえでは、この対立は本質的ではないの
かもしれません。)
 
そこで、S.Yさんからのご質問がありましたので、それにお答えし
て、千秋楽ということにさせていただければと思います。(昨日の
千代大海、すごかったですね。) それにしても、勉強になりまし
た。皆様、ありがとうございました。
 
---------
 
> 一見明白に証明がなされていない主張を採用しなくても、不意打ちには
>  ならないのでは?
 
「一見明白な証明」がH.Iさんの基準のことをさしているのか、そ
れとも、Y.Kさんや私の基準も含めておっしゃているのか分かりま
せんが、一般論として、一定のレベルに達していない事実主張を採
用しなくても、それが認められる(「不意打ちにはならない」また
は「許される不意打ちである」)ことには、異論はありません。
 
一連のメールで問題となっていたのは、ご質問のような場合ではな
くて、一定のレベルに達している事実主張への介入が許されるか否
かという問題です。「一見して偽でないと認識される事実」に介入
するのは不当とするのが私、「一見して真と認識される事実」に介
入するのは不当とするのがY.Kさん、「一見して真であると証明さ
れている」ことまで要求し、不当な介入はない(恣意的なものは当
然除かれるでしょうが)とされるのがH.Iさんということになろう
かと思います。
 
 
>「ルールを事前に示す」「その基準を客観的かつ明白にする」
>「判定を客観的に行う」ということが為されていれば、手続き保証はなされている
>と思いますが、いかがですか?
 
この点については、S.Sさんからも反論がありましたが、それに付
け加えて、そもそも、S.Yさんがおっしゃていることは言葉の定義
の問題のようにも思います。予め示された方針に即した処理を行う
という意味での手続保障は確保されるかもしれませんが、私が言っ
ている意味での手続保障(争いのない事実にジャッジが介入して
「反論の機会が奪われる」ことの防止)は、たとえばH.Iさんのよ
うな立場が予め示されていても確保されません。これまでの議論
は、この反論の機会を奪うことが適切か否か、ということだったと
思います。
 
介入することが予め宣言されていれば、反論の機会はあるとおっ
しゃるかもしれませんが、ディベーターは一定のレベルに達してい
ると考えて事実を提示しているわけで、その場合に「介入」(←す
みません、S.Sさんのメールをきちんと踏まえていません)がある
ことはやはり予測していないのではないでしょうか(相手から反論
があれば再反論が準備してあったかもしれませんし)。それに、ス
ピーチの時間が限られている以上、ディベーターは議論を取捨選択
しなければならないわけですが、一定のレベルに達している事実主
張を相手が争わない場合には、それについてさらに証明を要求する
のもどうかと思います。(最後の点は、H.Iさんに対するニュー
アーギュメントでした。失礼。)
 
 
>もし、H.Sさんの意見として、その「一見明白さ」を客観的に確保しがたいというこ
>とであれば、それは、その「一見明白さ」を厳密に取り扱う(基準を明確にする)こ
>とで解決すべき問題であり、合意を優先するというH.Sさんの主張に結びつける論理
>的必然性はないでしょう。
 
それはそうです。T.Kさんの「議論の前提」論が正攻法であるこ
と、しかし、そのアプローチから具体的な基準が現時点では提示さ
れていないこと、その穴を埋めるための彌縫策である私の主張も論
理必然的なものではなくてバランス論にすぎないものだということ
は、私も述べてきたつもりです。
 
 
S.Yさんの御質問を誤解していましたら、ご容赦ください。
 
 
 
 
 

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