「リスク」の認識と、判定への反映について


 
Date: Tue, 26 Jan 99 01:30:52 JST
Subject: [JDA :5355] =?ISO-2022-JP?B?GyRCRyc8MSVqJTklL0dJJE41VT0xGyhC?= 
 
K.Nです。
 
<中略>
 
一言だけ。
非公知の事実、例えば*市の人口は*万人等、を証明するに当り、教授が述べるオ
ーソライズと、一般の主婦が述べるオーソライズとは、信頼度は格段に異なるわけ
ですが、主婦のオーソライズもゼロの価値とは言えませんし、教授のオーソライズ
を絶対とも思いません。単なる程度の問題だと思ってます。
同様に、高等教育を受けた大学生が単独で主張し、または双方で合意がなされ、合
意を以って証明の強化が主張された場合、僕はその声を無視はできません。相当減
価は致しますが、どちらか単独のアサーションもゼロ価値とは思いませんし、合意
があればなおダブルの効果があるものと感じます。
程度の問題では、主婦の声より、あるいは東大生の声のほうが信頼できるかもしれ
ません。
 
むろん自分に有利になるように、うそをつく可能性があるのでは、という色眼鏡の
分だけ、相当に減価すべきかもしれませんが、でもパーラとか、エビなしで廻して
るわけだし。。。ディストーション審査の対象外ということで、無法地帯になる恐
れも否めませんが、それだけでゼロになるとも思えません。今はディストーション
審査も廃止されたことだし。
なんでもかんでもエビがないとだめというのも。。。
 
 
 

Date: Thu, 28 Jan 99 01:40:10 JST
Subject: [JDA :5367] =?iso-2022-
 
こんばんは、H.Iです。
 
一連の議論の後はしばらく発言は控えようと思っていましたが、最近の「認識
リスク派」の方々のメールには到底納得しかねるものがあり、しかも(不思議
なことに)反論がなされないようなので、いくつかコメントします。
 
 
[JDA:5355]認識リスク派の逆襲
>非公知の事実、例えば*市の人口は*万人等、を証明するに当り、教授が述
>べるオーソライズと、一般の主婦が述べるオーソライズとは、信頼度は格段に
>異なるわけですが、主婦のオーソライズもゼロの価値とは言えませんし、教授
>のオーソライズを絶対とも思いません。単なる程度の問題だと思ってます。
>同様に、高等教育を受けた大学生が単独で主張し、または双方で合意がなさ
>れ、合意を以って証明の強化が主張された場合、僕はその声を無視はできませ
>ん。相当減価は致しますが、どちらか単独のアサーションもゼロ価値とは思い
>ませんし、合意があればなおダブルの効果があるものと感じます。
>程度の問題では、主婦の声より、あるいは東大生の声のほうが信頼できるか
>もしれません。
 
 
ここでは、証言の信頼性の問題と、アーギュメントの説得性の問題が混同され
ています。
 
その人が体験した事実や、専門分野について述べる証言では、話者の知識や信
用性が、証言の信頼性に影響します。K.Nさんが、他社の人からその会社の状
況について話してもらう場合も、同様でしょう。
 
しかし、ここで問題になるのは「証言の信頼性」ではありません。そもそも、
ディベートでは本人の証言は証拠として認められていません。ディベーターが
根拠に基づいて(あるいは基づかずに)組み立てたアーギュメントの説得性が
問題になっているのです。
 
この場合、アーギュメントの説得性の有無は、その根拠の有無や推論の正しさ
によって判断されるべきであり、話者の知識や人格はアーギュメントの説得性
になんら関係がありません。言い換えれば、K.Nさんの論理は、アーギュメン
ト外の事項でアーギュメントの説得性を判断しようとしていることに他なりま
せん。
 
ディベートでは「社会的地位のある人の意見であっても、根拠がなければ説得
的とは言えない。他方、高校生の意見でも相応の根拠があれば説得的である」
ということを教えるものであると、私は思っていました。JDAディベートで
は、社会人と高校生が対戦して高校生が勝つこともあります。年齢、地位に関
係なく、どちらの論理が優れているかだけが勝敗を分けるのであり、それが
ディベートの醍醐味の一つです。
 
ところが、ここでK.Nさんが述べているのは全く逆のことです。いわく「高等
教育を受けた東大生の意見は、根拠がなくても真実性が高い」と。そういう権
威主義を教え込むのが、ディベートの役割ですか?
 
 
H.Sさんの議論も、基本的には同じです。アーギュメントの説得性はそれ自体
の根拠の有無や推論の正しさによって判断されるべきであり、同意の有無は、
アーギュメントの説得性となんら関係がありません。
 
これに対して、H.Sさんは次のようにも述べています。
 
>しかしながら、「合意された事実は真実性が高いように見える」のであれ
>ば、賢人でない一般人のジャッジにとっては、たとえそれが錯覚であったとし
>ても、「真実の蓋然性に対する確率的信頼性」が高まるのは不思議ではないで
>しょう。
 
正直なところ、これがなぜH.Sさんの説の論拠になるのかわかりません。「一
般人のジャッジ」なら「錯覚に基づく判断」であっても許容されるということ
なのでしょうか?そのような非論理的な判断を排除していくことこそ、ディ
ベートに求められていることではないのですか?
 
 
一連のメールを読む限り「認識リスク派」の方々は、論理性や根拠の有無より
も「どのように認識されたか」ということに重点を置いているように感じられ
ます。しかし「認識リスク派」の方々は、自らの認識の正当性を、バロットに
より、ディベーターに説得的に伝えることはできるのでしょうか?
 
一連のメールについて私が解釈違いをしているのならいいのですが…
 
 
H.I 
 

Date: Sat, 30 Jan 99 14:02:07 JST
Subject: [JDA :5375] RE: =?ISO-2022-
 
K.Nです。
 
<中略>
 
ディベートの話に戻ります。
今回、認識リスク派と、推論過程提示派(?)との対立点は、最終的には「権威」
=「信頼性」を、「説得性」の範疇に加えてもよかどうか、という点に還元できる
と思います。
私個人としては、権威といえども暗黙にせよ推論過程を背景としなければ、ディベ
ートの精神に反する、逆に言えば、認識リスク派は、推論過程提示派の分派に過ぎ
ない、但し、権威も説得性を構成しうる、という帰結に至りました。
 
それが、更に権威以外に将来的にテーマが広がれば、また大騒ぎになるのかもしれ
ませんが、今の所思い付きません。でもその際には、やはり認識リスク派の立場に
たった立論をしそうな気がします。
 
 
 
 

Date: Fri, 5 Feb 99 00:40:08 JST
Subject: [JDA :5383] =?iso-2022-
 
こんにちは、H.Iです。
 
私とH.Sさん、K.Nさんの立場の最大の違いは「アーギュメント外の事項を考
慮するか」だと思います。K.Nさんのいう権威の評価の話はまた別の問題だと
思います。
 
ディベーターの社会的地位やその主張に同意する人の多少を考慮せず、提出し
たアーギュメントのみに基づいてジャッジすれば、合意の有無にかかわらず
「根拠のない主張は成立しない」というのは、論理的な結論です。アーティ
フィシャルな基準を設けているわけではありません。
 
H.Sさん、K.Nさんが、根拠のない主張も成立することがあるとされるのは、
アーギュメント外の事項を考慮されるからだと思います。
 
たしかに一般の社会では、アーギュメントの内容のみで説得性が判定されるこ
とは少なく、誰が話したか、その意見に賛同する人が多いか少ないかが「説得
性」の有無に考慮されることもあるでしょう(その当否はここでは問題にしま
せん)。
 
しかし、私は、ディベートではアーギュメント外の事項を考慮せず、あくまで
アーギュメントのみに基づいて判断を下すべきだと思います。それは、ディ
ベートは「アーギュメンテーションの優劣を競うゲーム」であると考えるから
です。大学教授と高校生が対戦した場合あれ、多数意見と少数意見が議論され
た場合であれ、論理が上回った方が勝つのが、ディベートの特性であり魅力で
あると考えています。
 
H.Sさん、K.Nさんの立場でもアーギュメントの内容は考慮されるでしょう
が、アーギュメント外の要素も考慮されるなら「論理が上回った方が勝つ」と
は言い切れません。大学教授と高校生が対戦したら、大学教授が有利であるこ
とは否定できないでしょう。
 
もし、ディベートでアーギュメント外の事項も考慮されるとしたらどうなるで
しょうか。論理の通った独創的な意見を述べるより、根拠が薄弱でも多数意見
にしたがった方が説得しやすいかもしれません。また、エビデンスを探すよ
り、ネクタイとシャツを替えた方が効果的かもしれません。
 
このようなディベートは「現実社会に即した」「実用的」なものなのかもしれ
ませんが、アーギュメンテーション能力を身につけるという教育的意義は、大
幅に減少するでしょう。そのようなディベートには、少なくとも私は、あまり
魅力を感じません。
 
 
 
(補足)[JDA:5375]その他について
 
>また確率的に言っても、一人だけが「空爆を受けた」と騒いでも、気が狂っ
たか、と言われるだけですが、複数の人が証言すれば、そしてその証言が耳に
入れば、それらの証言がたとえ全てそれぞれの経験の違いによる認識の相違に
晒されていたとしても、確率的には「形而上学的な存在」を信じられる度合い
は高まる、と言えるのでしょう。
 
 
K.Nさんがどういう意図で上記の文章を書かれたのかよくわかりませんが、
「ディベーターの合意が真実性を高める」という根拠として述べられたのであ
れば、それは「証言の一致」と「主張の合意」が混同されているものと思われ
ます。
 
1.「証言」とは、その人が五感に基づき認識したことの陳述です。上の例で言
えば、ある人が「私は爆弾が落ちてくるのを見た」と証言し、別の人が「私も
爆弾が落ちてくるのを見た」と「証言が一致」すれば、その事実が真実である
可能性は高くなります。
 
2.他方、ある人が「私は爆弾が落ちてくるのを見た」と証言し、別の人が「私
は空爆に関することを何一つ見聞きしていないが、あんたの言うことに賛成
だ」と、その証言に「合意」(賛同)しても、その事実が真実である可能性は高
まりません。
 
3.ましてや、その人が自ら認識していないことを根拠に基づかずに「主張」
し、別の人がそれに「合意」しても、その主張が真実であるということにはな
りません。例えば、ある人が「プレアデス星団には7本の角を生やした知的生
命体が住んでいる」と「主張」し、その主張に1000人の人が「合意」しても、
それは真実とは認められません。
 
「バロアルト市の人口が10万人以上であるという合意」が真実性を高めるの
は、それを主張している者が、両方ともバルアルト市を訪れるなどしてその人
口が10万人以上であることを認識し、その証言が一致した場合のみです。
 
もちろん、ここで議論されているのは、その様なケースではありません。アカ
デミックディベートでは証拠方法が制限され、自らの経験を根拠とすることは
認められていませんので、1.のケースはありえないからです。ディベーターの
「主張の合意」とは、1.ではなく3.のケースなのです。
 
 
 
H.I
 
 
 

 
Date: Fri, 5 Feb 99 10:10:42 JST
Subject: [JDA :5384] =?ISO-2022-
 
S.Yです。
 
 
H.Iさんの整理はとてもわかりやすく、かつ、正しいと思います。
 
 
> 私とS.Sさん、K.Nさんの立場の最大の違いは「アーギュメント外の事項を考
> 慮するか」だと思います。K.Nさんのいう権威の評価の話はまた別の問題だと
> 思います。
 
 
なお、多少付け加えるとすると、
 
> このようなディベートは「現実社会に即した」「実用的」なものなのかもしれ
> ませんが、アーギュメンテーション能力を身につけるという教育的意義は、大
> 幅に減少するでしょう。そのようなディベートには、少なくとも私は、あまり
> 魅力を感じません。
>
 
アーギュメント外の事項を考慮するディベートが、必ずしも実用的とは限りません。
日本人の議論下手、あるいは、どこの国でも、実質的な内容のない議論として批判
されるのが、まさに「アーギュメント外の事項で結論が決まる」討論であり、この
ような討論形式は、批判の対象になりこそすれ、推奨すべきものではありません。
 
ディベート教育の意義は、現状の社会で役に立つ技術を磨くという側面より、むしろ、
現状の現実社会における誤った討論形式を正し、議論を尽くすことによって、理性的
で合理的な意志決定を行うことのできる市民と国家(社会)を育てていくことである
と思います。
 
 
S.Y
 

 
Date: Fri, 12 Feb 99 01:37:25 JST
Subject: [JDA :5435] RE: =?ISO-2022-JP?B?GyRCTik+WkBVRyQkTkU+MkcbKEI=?=  
 
ちょっと物議をかもさないよう、フォローだけ。
 
H.Iさん曰く
>同様に「真実性が高まる」というのも、あくまで判断のレベルの話です。
 
 
これはちゃんと読み取ってますので念の為。
従って「完全な認識を傲慢」といったのはH.Iさんが傲慢なわけではないです念の
為。
 
むしろ証明の全体性について、これを以って強調したいポイントは、立証責任の転
嫁論を捨象すべきである、という点です。
どのみち大概が不充分な証明とならざるを得ないわけで、それを立証責任の転嫁論
で切り捨てると、すべて切り捨てないといけなくなるのでは、というところに争点
を設定したいと思います。
 
 
 
またS.Y02さんの「ディベーターが権威についてコメントをしないと、東大教授を一
義的には一番と考えるのか?」という問いは、もう少し真摯に回答したいと思いま
す。むろんケースバイケースでそうとは限らないのは先に述べたとおりですが、そ
れに加えて、
 
権威を証明の省略とか、共通認識とかと見做す場合の問題と同一だと思いますが、
命題から派生する社会的コンテクストは、総じて曖昧で特定できない場合が多いと
思います。
経済学の教授が経済学について述べているからといって、その当該問題に答えるだ
けの資格があるかどうかは、どちらかといえばそう考える方がリーズナブルなよう
な気がする、程度にしか考えてませんので念の為。
証明の省略論だって、ほんとに裏ではちゃんと証明できるのかどうかは、やらせて
みないと確認できないわけですから、あくまで確率的にしか信頼できないですよね。
 
 
また命題外の社会的コンテクストという言葉もあるいはミスリードだと思います。
寧ろ、ディベーターが引用文の冒頭で、引用者の略歴を述べた時点で、かなり明確
な含意として、権威という信頼性を以って説得性としたい、という命題を提示して
いると見做せると思います。
ジャッジが勝手にそれを説得性の要素として勘案するわけではないです。
命題に含まれているものと解釈してください。
そうしないと、まるで我々が、「現実をディベートへ」派に分類されちゃうので。
そこにはコミットしてません。
 
殺人メールも然り。メールの送り手が「私という一人の人間が語る事なんだから、
それなりに尊重しろ」という押し付けがましい、かなり明確な含意があることが前
提です。
 
 

Date: Fri, 12 Feb 99 11:12:56 JST
Subject: [JDA :5437] =?iso-2022-
 
こんにちは、H.Iです。今日は仕事が休みです。
<中略>
 
ここからが本論です。
 
「根拠のない主張」であっても「権威」が伴うときは、一定の限度で(不十分
な水準とはいえ)証明が成立する、というのがK.Nさんの考え方だと思いま
す。
 
この点誤解があるようですが、私は「権威に基づく論証」自体を否定している
訳ではありません。私は、権威に基づく論証を「推論の省略」として捉えてお
り、すべての局面で権威に基づく論証が成立するとは考えていませんが、一定
の局面では認められる場合もあると考えています。
 
私が同意できないのは、ディベーターの人格、社会的地位を考慮することで
す。例をあげて説明しましょう。
 
(1) 大学生のディベーターが「専門家である大学教授がAと言っているため、
Aである」と述べた。
(2) 大学教授が、根拠を示さずに「Aである」と述べた。
 
[JDA:5355]等を読む限り、K.Nさんは(1)の論証が成立するなら(2)も認めてよ
いと考えておられるようですが、(1)と(2)は全く異なります。(1)は権威に基
づく論証がアーギュメントの一部(発言内容)となっていますが、(2)におい
て発言者が大学教授であることは、アーギュメント外の事項です。私が
[JDA:5383]で述べたのは、このような、アーギュメント外の事項を考慮すべき
でないということです。
 
私の立場からは、(1)は一定の局面で(不十分な水準の)証明が成立すること
があるかもしれませんが、(2)は「全く」立証責任が果たされておらず、この
主張は成立しないということになります。
 
 
次に、「ディベーターが合意した」根拠のない主張の話に移ります。
 
根拠のない主張であっても、ディベーターが合意した場合には、一定の限度で
(不十分な水準とはいえ)証明が成立するというのが、K.Nさんの考え方であ
ると思います。
 
しかし、私はこの考え方には同意できません。その理由は次の通りです。
 
そもそも、根拠のない主張は、相手との合意がなければ「全く」立証されてい
ないものとして扱うべきであるということは、既に述べた通りです。K.Nさん
もこの点には異論がないものと思います。
 
そして、ある主張についてのディベーターの合意とは、その主張に何かを付け
加えるものではありません。単に「その主張を争わない」ことを意味するだけ
です。
 
とすると、「根拠のない」主張については、相手が合意する前と後とでなんら
変化はなく、それが「全く」立証されていないことにも、なんら変わりはない
といえます。
 
もし、あるディベーターが「Aである」と主張したのに対して、相手のディ
ベーターが「Aに同意する。なぜならBであるからである」と述べて、その根
拠を追加した場合には、真実性が高まったものとして判断してよいことには、
私も同意します。しかし、このようなケースと単なる同意とを同一に扱うべき
ではありません。
 
なお、社会において、根拠のない主張でも多くの人が同意すれば真実性が高ま
ると判断されることがあるのは、たいてい「根拠の追加」や「権威の追加」が
伴っている場合です。それが全くない場合であっても、真実性が高まると判断
されるとは言えないと思います。
 
 
H.I
 
 
 
 

 
 
Date: Wed, 3 Mar 99 20:28:04 JST
Subject: [JDA :5544] =?ISO-2022-
 
S.S様、S.A様、K.N様
 
 
S.Yです。
 
 
事実に関する証言というものは、どうしても曖昧さがあり、うそもありますし、相反
する証言が提示されることもままあることです。
 
このような場合には、事実を知りうる立場にあった者」という前提の上で、「複数の
者の証言の一致」ということも、その証言の信頼性を構築する上での重要な要素にな
りえると思います。
 
 
また、専門家による証明の省略を行う際も、専門家の意見がわかれた場合は、その意
見が通説であるか否かを判断する必要があり、その判断においては、その分野の権威
のある専門家の「意見の一致」ということも、重要な要素たりえると思います。
 
 
「この意味においては」、K.Nさんや、S.Aさんの主張も正しいと思います。
 
 
 
 
S.Y
 

 
Date: Thu, 4 Mar 99 00:09:02 JST
Subject: [JDA :5545] =?ISO-2022-JP?B?GyRCI04jbyNyI3QjaBsoQg==?=  
 
K.Nです。
 
<中略>
 
PS
S.Yさんの示唆について
専門家は証明の省略を厳密に行うという前提がありますが、何か秘密の最終兵器、
例えば数式を駆使するとか、をすれば必ず真となるわけではないし、多分に彼が蓄
積してきた判断材料の多さによって、確率的に高い信頼度を得ているのだと思いま
す(即ち、真と見做すというスタンスではないという意味です)。
ディベーター個人の証言は、抽象的な(平等な)一般市民として、専門家に比べて
少ない判断材料によって判断している分だけ、信頼性が低いと思われますが、少な
いなりに確率的な信頼度はゼロではありません。
むろんテーマによっては、高度な証明を要しないものもあるでしょうから、その場
合は、専門家との信頼度の差は少なくなるでしょう。
専門家とディベータとの信頼度は、連続的に信頼度の高低が推移する、という主張
を(もう何度めになるかな)繰り返したいと思います。1か0かではない、という
意味です。
従って、1人のアサーションがゼロでない以上、2人の合意はダブルになります。
尚、嘘をつきやすい分だけ減価すべきであることは、以前確認した通りです。
 
[5457]で「権威の論理が認められるなら、これも認められるのでは」と申し上
げたのは、そういう意味ですが、今般まさにS.Yさんも、専門家のダブルの合意は
、それそのものとしても意味がある、とおっしゃっている以上、上記の論理によれ
ば、やはりディベーターの合意もまた(限りなくゼロに近いですが)、意味がある
ことを認めてもらえるのでは、と思います。
私の先月の主張の本質は、証明の全体性のなかでの確率的な認識論である、という
部分が基底にあるということは、再々度確認したいと思います。
 

 
 
Date: Thu, 4 Mar 99 12:02:55 JST
Subject: [JDA :5546] =?ISO-2022-JP?B?GyRCO1c5TURkO18bKEo=?=
 
K.N様
 
S.Y@昼休みです。
 
> [5457]で「権威の論理が認められるなら、これも認められるのでは」と申し上
> げたのは、そういう意味ですが、今般まさにS.Yさんも、専門家のダブルの合意は
> 、それそのものとしても意味がある、とおっしゃっている以上、上記の論理によれ
> ば、やはりディベーターの合意もまた(限りなくゼロに近いですが)、意味がある
> ことを認めてもらえるのでは、と思います。
 
 
専門的事項に関しては、素人は判断不能なため、やむを得ず専門家の意見を聴取し、
証明を省略します。(思考停止)
 
しかしながら、素人で判断可能なマターについては、掘り下げてその根拠を徹底的
に議論すればよく、証明の省略を行う必要はありません。
 
根拠とは基本的には「事実」であり、事実は「専門家」や、「事実を知らない人」の
「同意の数」には依存しません。
 
非専門事項に関して一般的に「同意者の数」を判断材料とするということは、その内容
を検討することが可能である事項に対しても事実を追求せず(証明を省略し)、「証明の
結果」の信憑性をその発言者の「属性」と「同意者の数」に依存して判断しようという
「思考停止」を行っているのだと思います。
 
 
 
S.Y
 

 
 
Date: Fri, 5 Mar 99 03:07:44 JST
Subject: [JDA :5547] RE: =?ISO-2022-JP?B?GyRCO1c5TURkO18bKEI=?= 
 
K.Nです。
 
一連の議論でひさしぶりに(はじめて?)不快にならずにスリリングな議論ができ
そうです。
(真剣にまだ腹をたてています。一度や二度ではないですからね。長い回り道でし
た)。
 
 
実存的意味における事実は同意者の数には依存しません。それは当然そのとおりで
す。
ただ我々は事実は認識するのみです。認識は言説を提示する媒体に依存せざるを得
ず、その媒体の信頼性によってしか判断できません。同意者の数がかかわってくる
のはその媒体の信頼性の意味においてです。
イラクの空爆にかかわる例がこれに相当します。
 
根拠の追求を途中で止めるのは、思考中断です。それは当然その通りです。
ただ証明の全体性[5425参照]の枠組みにおいて、どこかで遅かれ早かれ思考中断が
発生します。
追求が浅い段階で思考中断するか、深い段階で思考中断するか、の違いだけです。
深いとディベーターが思い込んでいるレベルも、それは単なる傲慢だというのは、
先に述べた通りです。
 
知識の全体像は俯瞰できないほど深いものであるはずです。エジソン坊やのように
、なぜ、なぜを繰り返せば、証明工数は天文学的ボリュームとなることでしょう。
 
ある段階で思考中断して、権威性に頼ったとしても、それは秘密の最終兵器ではな
く、もとより証明の省略なんてのは、ほんとに証明できるのかどうかも分からない
曖昧なものである以上、確率的な信頼性を増すにすぎないように思います。
 
S.Yさんは、権威というものを我々素人ではどうしようもないときのラストリゾー
トのようにイメージされているようにお見受けしましたが、私のイメージは上記の
如く異なります。むろんディベートの時間的制約があるからといって、権威のかか
る制約的な本質を曲げてまで、ラストリゾートに格上げするわけにも参りませんし
。
また、ディベーターたるもの、能力に限りがあるとはいえ、尽くせる議論は尽くさ
ねば駄目だ、それもせずに浅い思考中断をするなら、議論を捨象する!というディ
ベート精神論的な意見があるとすれば、それはひとつの興味深い論理展開ですが、
私はそれを非合理的とみます。
 
深い思考中断も、浅い思考中断も、その先に権威にすがるという意味では程度の差
だけです。
ならば浅い思考中断は、より脆弱だというだけで、ゼロではありません。
 
そして信頼性の連続性の議論に戻ります。
 

 
 
Date: Fri, 5 Mar 99 23:46:37 JST
Subject: [JDA :5548] =?ISO-2022-
 
S.Yです。
 
 
> ただ我々は事実は認識するのみです。認識は言説を提示する媒体に依存せざるを得
> ず、その媒体の信頼性によってしか判断できません。同意者の数がかかわってくる
> のはその媒体の信頼性の意味においてです。
 
重要な事実認定プロセスにおいては、伝聞証拠を用いた証明は、むしろまれではないで
しょうか。
 
司法では伝聞証拠は証拠として認定されませんし、学術会議でも、実験をした本人が作
成した論文の提示が求められます。報道においてさえ、CNNの関係者インタビューの無
編集生放送のように、伝聞性を極力廃した報道が普通になりつつあります。
 
--------------
 
 
>ただ証明の全体性[5425参照]の枠組みにおいて、どこかで遅かれ早かれ思考中断が
>発生します。
 
 
素人でも証明を省略せずにすむシンプルな証明はたくさんあります。たとえば、自然科
学分野の事実の証明は実験データを、過去の経済成長は経済指標のデータを、過去の商
取引の証明には、契約書原本を提示すれば十分です。
 
高度な知識を要する場合でも、専門家は思考停止せず、最後の根拠まで詰めていて、む
ずかしい証明プロセスはとばして、結果だけを結果を素人に教えてくれます。
ただし、一度誰かが証明した事項は、素人でも、時間と基礎的な素養さえあれば、誰で
も思考停止せずに最後の根拠までたどり着けます。
 
現時点での知識技術では、予測不能(証明不能)な事象もたくさんありますが、このよ
うな場合にあっても、「わからなければ実験してデータを集める」、「予測できないな
ら予測できる手法を開発する」というのがむしろ世の中では普通で、その役割を主に担
うのが技術者や研究者であると思います。
 
 
S.Y
 

 
 
Date: Sat, 6 Mar 99 02:50:42 JST
Subject: [JDA :5550] RE: =?ISO-2022-
 
K.Nです。
 
S.Yさん曰く 
>>>
>重要な事実認定プロセスにおいては、伝聞証拠を用いた証明は、むしろまれで
>はないでしょうか。
 
 
まれかどうかは怪しいですが、伝聞情報の信頼性が低いことは間違いないでしょう。
以前、記者倶楽部依存型の記事の横行について言及致しましたが、以前のような裏
とり精神に燃えた記者魂のある人が少なくなっていることが嘆かれている昨今です。
イラク空爆のニュースだって、通信社の配信記事なのか、現地に日系の新聞が自ら
記者を派遣したのか、注意してみないと区別がつかないところです。
重要なのは、そのあたりを攻撃して、明らかにしていくことなのでしょう。
 
 
>>>
>司法では伝聞証拠は証拠として認定されませんし、学術会議でも、実験をした本人
>が作成した論文の提示が求められます。報道においてさえ、CNNの関係者インタビュ
>ーの無編集生放送のように、伝聞性を極力廃した報道が普通になりつつあります。
 
 
司法や学術会議の類推については、その目的合理性がディベートと合致するのかど
うか、かなり怪しいところもありますが、ある言説について、それが専門家の言説
であろうが、ディベーター個人の意見であろうが、その依って立つところが、どこ
までが伝聞で、どこまでが自分の体感なのか、なぜ、なぜ、の質問を執拗にするこ
とによって丸裸にし、その信頼性の高低をアタックすることは重要だと思います。
 
専門家の言説といえども、知識なるものの深遠さと、証明工数とのバランスの中で
、100%自分の体験だけで構成する事は困難だと思いますから、その高低の
検証は、今以上に執拗に行う事が可能だと思います。
 
 
>>>
>素人でも証明を省略せずにすむシンプルな証明はたくさんあります。たとえば、自
>然科学分野の事実の証明は実験データを、過去の経済成長は経済指標のデータを、
>過去の商取引の証明には、契約書原本を提示すれば十分です。
 
 
定義においてGDP(でもなんでもいいですが)の伸びを経済成長とすれば、また
取引なるものを契約書とすれば、シンプルな証明で充分なのは当然で、トートロ
ジーでしょう。逆にGDPが果たして実体としての経済成長を表現するのに適切か
どうかとか、突っ込みはじめると結構いろいろあると思いますよ。
実験データ至上主義については、ケースにもよると思いますが、科学思想史のなか
ではどうなんでしょう、結構反対意見とかないんですかね。統計なるものの思想的
限界なんかもあるんじゃないですかね。
逆に命題としてはシンプルでも、例えば減税が景気回復をもたらす、というよう
な命題だと、これをエジソン坊やのように、なぜ、なぜ、と追求していくと、これ
はなかなかやっかいだったりしますよ。
 
 
>>>
>高度な知識を要する場合でも、専門家は思考停止せず、最後の根拠まで詰めていて
>むずかしい証明プロセスはとばして、結果だけを結果を素人に教えてくれます。
>ただし、一度誰かが証明した事項は、素人でも、時間と基礎的な素養さえあれば、
>誰でも思考停止せずに最後の根拠までたどり着けます。
>
>現時点での知識技術では、予測不能(証明不能)な事象もたくさんありますが、こ
>のような場合にあっても、「わからなければ実験してデータを集める」、「予測で
>きないなら予測できる手法を開発する」というのがむしろ世の中では普通で、その
>役割を主に担うのが技術者や研究者であると思います。
 
 
全体的に、結構専門家を信頼しておられる風に思われますが、専門分野の
違いに因るのかしら。。。
上記文章を敷衍すると、専門家のエビデンスなら、途中のリーズニングなしでも、
全面的に信頼なさるようにも読めますが、今までの議論の流れからするとどうなの
かしら。。。
 
<後略>
 

 
Date: Sat, 6 Mar 99 14:24:59 JST
Subject: [JDA :5551] =?ISO-2022-JP?B?UmU6IFtKREEgOjU1?=
 
 
余り親切には書けませんが、ちょっと指摘します。
 
事実から主張がそのまま出てくるというのは、批判し尽くされたドグマです。
又、認識に於ける伝聞の役割も、このスレッドで指摘されている程小さくはありません。
 
その前に、ちょっと、細かい指摘ですが、
 
 
>専門的事項に関しては、素人は判断不能なため、やむを得ず専門家の意見を聴取し、
>証明を省略します。(思考停止)
 
 
これは思考の停止と言うよりも、証明過程の確認作業の停止と言うべきことで、思考
自体は止まりませんが、一定の主張の正当化の過程を追うことを省略してそれをその
まま受け入れると言う判断(思考)をしているのです。
 
さて、
 
 
>根拠とは基本的には「事実」であり、事実は「専門家」や、「事実を知らない人」の
>「同意の数」には依存しません。
 
「事実」それ自体は、端的にそれ以上のものではありません(それ以下のものである
ことはあり得ますが)。
 
根拠と言うのは、ある主張を正当化する主張の総体であり、「事実」と言うよりも、
むしろ、基本的には「説明」(事実を示すような主張を含めた諸々の主張をどのよう
に関連付けて理解するかについての説明)です。
 
 
>素人でも証明を省略せずにすむシンプルな証明はたくさんあります。たとえば、自然科
>学分野の事実の証明は実験データを、過去の経済成長は経済指標のデータを、過去の商
>取引の証明には、契約書原本を提示すれば十分です。
 
 
ある実験データがなぜある事実主張を正当化するかということ(理論)が理解されな
いと、その証明を理解したことにはなりません。素人に難しいのはこの理論であり、
この例がシンプルな証明の例とは言えないでしょう。経済の例でも同様。
 
 
理論が極めて簡単な場合(温度計を見て、温度を知る場合とか)のことを言っている
のなら、話は分かりますが。
 
 
 
>高度な知識を要する場合でも、専門家は思考停止せず、最後の根拠まで詰めていて、む
>ずかしい証明プロセスはとばして、結果だけを結果を素人に教えてくれます。
>ただし、一度誰かが証明した事項は、素人でも、時間と基礎的な素養さえあれば、誰で
>も思考停止せずに最後の根拠までたどり着けます。
 
(これは、原理的にはそうですが、ちょっと現実感はないですね。)
 
確かに、理想的に、証明というのはこのような証明でなければならないというのが、
伝統的な認識論での話ではあります。
 
 
しかしながら、我々の認識では、そういう理想通りの過程を経ないことが大半であ
り、伝聞に基づく主張の受け入れを無視しては、認識論としては不十分であると言え
ると言われています。特に、自然化された認識論という立場−認識論は自然科学の一
部門としての心理学に包摂されるという立場−に立てば、当然そうですが、そうでな
くてもでしょう。
 
 
というのは、例えば、物理学の法則の証明では、専門家の証明に於いてさえも、そこ
で使われる数学の定理については、証明はなされません。数学の定理は、数学者が証
明していれば、無条件に使われます。上記の実験の例で言えば、多分、実験によるあ
る事実の証明では、あらゆる定理・法則が証明される訳ではありません。
 
ある程度の言語的分業というのは、不可避なことです。
 
Y.K
 

 
 
Date: Sat, 6 Mar 99 16:39:04 JST
Subject: [JDA :5553] =?ISO-2022-
 
同趣旨ですが、もう一度。
 
事実に対する伝聞について
 
 
>根拠と言うのは、ある主張を正当化する主張の総体であり、「事実」と言うよりも、
>むしろ、基本的には「説明」(事実を示すような主張を含めた諸々の主張をどのよう
>に関連付けて理解するかについての説明)です。
 
事実と経験則で証明が構成されるのはそのとおりですが、経験則単独では証明は成立
せず、最も下の階層には、必ず事実(数学の場合は公理)があるはずです。そこまで
たどり着かないと、証明にはなりません。ですから前回の表現になりました。
 
 
前回私が問題にしたのは、「事実」に関する「伝聞」です。
 
 
>> ただ我々は事実は認識するのみです。認識は言説を提示する媒体に依存せざるを得
>> ず、その媒体の信頼性によってしか判断できません。同意者の数がかかわってくる
>> のはその媒体の信頼性の意味においてです。
 
K.Nさんのこの発言は、「「事実」の認識は、「媒体からの伝聞」のみでしか把握で
きない。」という主張によめます。つまり、「○○さんが××した、ということを△
△さんから聞いた」という伝聞方式による事実認定「のみ」がこの世の中に存在する
、という主張でしょう。
 
重要な意志決定においてそのようなことはほとんどないと思います。ちゃんと調査し
て、その調査した人が書いた報告書を読むか、直接話を聞くのが普通であろうと思い
ます。このような場合、K.Nさんの主張する、「媒体の信頼性の評価」のための「同
意者の数」の評価は不要であろう、ということです。
 
この問いかけに対するK.Nさんの返答はよく理解できませんでした。
 
 
 
-----------------------------
 
証明プロセスについて
 
 
>というのは、例えば、物理学の法則の証明では、専門家の証明に於いてさえも、そこ
>で使われる数学の定理については、証明はなされません。数学の定理は、数学者が証
>明していれば、無条件に使われます。上記の実験の例で言えば、多分、実験によるあ
>る事実の証明では、あらゆる定理・法則が証明される訳ではありません。
 
専門家も、全ての分野の専門家ではありませんから、このようなことは当然行われる
と思います。ただし、数学の定理も、必ず発見した人がいて、その人の論文を読み、
その内容を理解することはできます。その手間を省略しているに過ぎません。
 
私が問題にしたのは、
 
 
>>ただ証明の全体性[5425参照]の枠組みにおいて、どこかで遅かれ早かれ思考中断が
>>発生します。
 
>>ある段階で思考中断して、権威性に頼ったとしても、それは秘密の最終兵器ではな
>>く、もとより証明の省略なんてのは、ほんとに証明できるのかどうかも分からない
>>曖昧なものである以上、確率的な信頼性を増すにすぎないように思います。
 
 
この「もとより」以降で、そもそも物事は「証明が不能」なので、「証明の省略」あ
るいは「確率的な信頼性評価」を行っている、と読めました。
 
そこで、素人でも証明が可能なものはたくさんあるし、専門家なら証明可能なことも
たくさんある、(証明の省略を行う場合もあるが)だから、この場合は確率的な評価
などは不要である、という問いかけをしました。
 
もう一つの問いかけとしては、
 
専門家によっても証明が不能な場合には、そもそも証明が不能なので、調査研究によ
って証明手法を開発するのが普通であろう、「同意者の数」や「権威性」などに依存
して確率的判断を行うことは無意味であろう、という問いかけです。
 
 
S.Y
 

 
 
Date: Sat, 6 Mar 99 18:18:23 JST
Subject: [JDA :5554] RE: =?ISO-2022-
 
K.Nです。
 
興味深く読みました。
ただ私はディベートラウンドを想定した議論しかしていません。想定する場の違い
で、お互いの表現が異なってくるようです。
S.Yさんが私の主旨を「理解できない」とおっしゃるのは、その前提を認識頂いて
いないからだと思います。
ディベートでも最終的な事実認識にまでさかのぼった確信的な認識に至るケースが
、時間的制約下といえども、ゼロだとは思いません。それでも最後の1プロセス、
ディベーターからジャッジへの伝聞は発生していますが。
むろん、例えば「ディベーターは人間である」「人間は言葉を話す」等々の命題な
ら、伝聞情報に依らず確実に認識できますがね。
 
 
 

 
Date: Sat, 6 Mar 99 19:22:28 JST
Subject: [JDA :5555] =?ISO-2022-JP?B?UmU6IBskQkVBSjk+WjVyGyhK?=
 
K.Nさんはディベートのコンテクストで話されているようですが、ディベートのコン
テクストは度外視してコメントしています。
 
 
On Sat, Mar 6, 1999 2:39 AM, Y,S
wrote:
>>根拠と言うのは、ある主張を正当化する主張の総体であり、「事実」と言うよりも、
>>むしろ、基本的には「説明」(事実を示すような主張を含めた諸々の主張をどのよう
>>に関連付けて理解するかについての説明)です。
>
>事実と経験則で証明が構成されるのはそのとおりですが、経験則単独では証明は成立
>せず、最も下の階層には、必ず事実(数学の場合は公理)があるはずです。そこまで
>たどり着かないと、証明にはなりません。ですから前回の表現になりました。
>
 
(厳密に言えば、証明というのは、一定の明示的な規則に基づく前提からの帰結の導
出で、事実とかそういった解釈された意味は入ってこないのですが、ここでは、日常
での論証の事を言っているようなので、それについて話しますが)
 
何らかの主張の論証(証明)が何から構成されるかは、主張の種類によります。
 
アプリオリな主張なら、アプリオリな前提と規則だけから成るし、
経験的な主張なら、事実的前提(及びアプリオリな前提)とアプリオリな規則と経験
的な規則とからなります。
 
最も下の階層に事実があるというのは、経験的な主張についてのことですね。
数学の公理は、事実ではありません。数学の定理のようなアプリオリな主張の最下層
にあるのは、規約であると言っておきましょう(「規約」であると言うのには異論が
あるかもしれませんが、いずれにせよ、いわゆる「事実」−これは経験的なもの−で
はありません)。
 
 
私がそもそも頭記の指摘をしたのは、証明そのものと証明で使われる前提との区別が
曖昧になっていると、又経験的主張のことしか考慮されていないと、感じたからで
す。
 
 
 
トリビアルな指摘ですが、ついでに言うと、
 
>>> ただ我々は事実は認識するのみです。認識は言説を提示する媒体に依存せざるを得
>>> ず、その媒体の信頼性によってしか判断できません。同意者の数がかかわってくる
>>> のはその媒体の信頼性の意味においてです。
>
>K.Nさんのこの発言は、「「事実」の認識は、「媒体からの伝聞」のみでしか把握で
>きない。」という主張によめます。つまり、「○○さんが××した、ということを△
>△さんから聞いた」という伝聞方式による事実認定「のみ」がこの世の中に存在する
>、という主張でしょう。
>重要な意志決定においてそのようなことはほとんどないと思います。ちゃんと調査し
>て、その調査した人が書いた報告書を読むか、直接話を聞くのが普通であろうと思い
>ます。このような場合、K.Nさんの主張する、「媒体の信頼性の評価」のための「同
>意者の数」の評価は不要であろう、ということです。
 
S.Yさんの上記の主張には途中で重要な取り違いがおこっています。
「「事実」の認識は、「媒体からの伝聞」のみでしか把握できない。」という主張は、
「〜である。」ということを誰かから聞くという伝聞方式による事実認定のみがある
という主張であり、上記の伝聞方式はその一種に過ぎません。
「重要な意思決定」に於いてとられるはずの上記の方式も、伝聞方式の一つです。
この後者の場合、「媒体の信頼性の評価」に、「同意者の数」が関係ない場合もあり
ます(報告者が十分信頼できる場合)が、そうでない場合もあるでしょう(報告者が
そこまで信頼できない場合)。
 
 
因に、上記とは離れて言うと、「事実」の認識というのは、現代では多くの場合、媒
介的であるとは思います。直接的であるのは、自分の目で見る(或いは他の感覚で知
覚する)場合だけですから(電子顕微鏡で見たりするのは、媒介的であるとも言えま
す)。
 
 
 
>>というのは、例えば、物理学の法則の証明では、専門家の証明に於いてさえも、そこ
>>で使われる数学の定理については、証明はなされません。数学の定理は、数学者が証
>>明していれば、無条件に使われます。上記の実験の例で言えば、多分、実験によるあ
>>る事実の証明では、あらゆる定理・法則が証明される訳ではありません。
>
>専門家も、全ての分野の専門家ではありませんから、このようなことは当然行われる
>と思います。ただし、数学の定理も、必ず発見した人がいて、その人の論文を読み、
>その内容を理解することはできます。その手間を省略しているに過ぎません。
 
確かにそうであるべきでしょうが、常にそれが現実に可能であるとは言えなくなる一
方であるというのが、現在の「知」の状況であるとは思います。現代数学の最先端の
論文を、一体何人が、例え時間を膨大にかけたとしても「理解できる」という確証が
あるだろうか。そうだとすると、上記の「明証性の前提」は、非常に空虚なものにな
りかねないという気はします。
さらに、証明の一部を計算機を使って行った場合(例、フェルマーの定理)、原理的
にも、「明証性の前提」が怪しくなると言われています。
 
 
そういう意味で、主張の真理性についての、経験的/帰納的/確率的評価という話
は、認識論・知識論で、あながち無視はできない気はします。
 
 
その点で言うと、K.Nさん(やS.Sさん)の(いわゆる「認識リスク派?」の)主張
は、細かいところは問題が多いのですが、大雑把な筋を善意に解釈すると、S.Yさん
の主張のような教科書的な議論で(これが問題が多いことは指摘した通り)簡単に切
り捨てる訳にもいかないと思います。
 

 
Date: Wed, 10 Mar 99 23:46:01 JST
Subject: [JDA :5568] =?ISO-2022-JP?B?GyRCJUclIyVZITwlSCRLJCokMSRrIVZFQUo5GyhC?=
 
K.N様ほかみなさま
 
蒸し返すようで恐縮ですが、ちょっと忙しくて投稿できませんでしたので、前回
のメールにコメントだけしておきます。
 
 
>ただ私はディベートラウンドを想定した議論しかしていません。想定する場の違い
>で、お互いの表現が異なってくるようです。
 
>ディベートでも最終的な事実認識にまでさかのぼった確信的な認識に至るケースが
>、時間的制約下といえども、ゼロだとは思いません。それでも最後の1プロセス、
>ディベーターからジャッジへの伝聞は発生していますが。
 
 
 話をディベートに限ると、以下の理由により、より一層K.Nさんのスタンス
(伝聞リスクを確率的に評価する)をとらなければならない場面は減ると思います。
 
 
1 ディベーターによる証拠資料の読み上げは、「伝聞リスク」を0とみなす
  ルールがある
 
アカデミックディベートでは、ルールとして、証拠資料は全文引用(一部省略可)
かつ、そのまま読み上げる、というルールがあり、これに違反するとディストー
ションとして試合を没収されます。
 
この制度的担保により、証拠資料の抜粋&読み上げは、ディベートでは「伝聞
リスク」は、risk weight 0%(こう言った方が金融機関の方ならご理解がよい
かと。)とみなしてジャッジをするのが普通であろうと思います。(ジャッジ
が直接資料を読むのと同じと「みなす」)
 
 
2 事実に関する証明が、証拠資料の使用の太宗をしめる
 
以前私がJDAの大会に出場した脳死のプロポの1ACを見たところ、単に事実を立
証するための証拠資料が非常に多いことを確認しました。単に、死者の数、
生体肝移植の症例の数、医者へのアンケート結果、脳死に関する世論調査結果、
等々です。
 
このような立証に関して言えば、一次資料(または一次資料を忠実に引用した
準一次資料)を直接証拠資料として提出可能であり、伝聞リスクは非常に小さ
くなります。
 
 
3 専門家の意見についても、それほど高度な内容は伴わない
 
命題によるでしょうが、専門家の説明内容は、それほど高度ではなく、理科系の
私ならいざとなれば説明できる程度でした。タバコの発ガン性などは単に動物実
験の結果ですし、原発の安全解析等は、そんなに難しくないです。(概念的には。)
 
蟹池さんが例として挙げられたような高度な証明は、専門家同士の学会の議論
ならともかく、政策ディベートでは、まず出てこないと思います。
 
であれば、必要に応じて事実なり、公理なりに到達できる可能性は非常に高く、
伝聞リスクを回避できる可能性は非常に高いといえるでしょう。
 
 
--------------------------
 
 
立証の対象とその方法により、伝聞リスクを考慮したジャッジングは当然必要に
なりますが、逆に言うと、伝聞リスクを確率的に評価するというスタンスをジャッ
ジにとらせないような立論構成が、説得力のあるスピーチの要件である気もします。
 
 
S.Y省侍郎

 
Date: Fri, 12 Mar 99 00:51:28 JST
Subject: [JDA :5573] RE: =?ISO-2022-JP?B?GyRCJUclIyVZITwlSCRLJCokMSRrIVZFQUo5JWolOSUvIVcbKEI=?= 
 
 
K.Nです。LONGですが、気楽にお願いします。
 
クイックリスポンス優先で練れていないかもしれませんが、以前と違って議論が中
心のところで展開しているので、個人的には比較的楽しんでいます。
(3ヶ月前に似たような論旨は話されていたわけで、その読み取りさえしてくれれ
ば、という思いもまだなくはないですが。。。)
 
 
> 1 ディベーターによる証拠資料の読み上げは、「伝聞リスク」を0とみなす
>   ルールがある
 
 
そもそもジャッジというのは、ディベーターという他人による陳述の評価を行うわ
けなので、その伝達方式が人から人への伝聞である、という形式だけをとりあげて
「最後の最後まで伝聞です」と、言ってしまったのは、一番整理して話さなければ
いけないはずの僕が少し混乱して言ってしまいました。少し文学的にひねろうとし
て失敗した、といった間抜けな典型といったところでしょうか。
 
引用文の信頼性自体が、ディベーターを媒介することによって低下することはない
と思います。
 
寧ろ、引用文の信頼性(証明の省略、事実陳述)であろうが、ディベーター個人の
証言の信頼性(同左)であろうが、ジャッジは横一線の平等な出発点から、いろい
ろと信頼性を検証して、高低の評価を下すことになろうと思います。
これが一連の文脈における「伝聞」であり、知識の全体像を一挙に提示できないが
ゆえに、他人の信頼性に委ねざるを得ない、しかし明示されないだけに確率的にし
か信頼できないジレンマを持つ、余儀なく肯定されるものである、と整理して頂け
るとよいかと思います。
 
むろん、ディストーションとは異なると思いますが、「その引用をこのクレームの
証明に使うのは、ちょっと文脈が違うんじゃないの?」といった、用途における歪
み、というのは、ディベーターを媒介することによって往々にして発生しうるとは
思いますが、それは引用文自体の信頼性とは別個の尺度で厳格に評価していくもの
と思われます。
 
 
 
> 2 事実に関する証明が、証拠資料の使用の太宗をしめる
> 
> 以前私がJDAの大会に出場した脳死のプロポの1ACを見たところ、単に事実を立
> 証するための証拠資料が非常に多いことを確認しました。単に、死者の数、
> 生体肝移植の症例の数、医者へのアンケート結果、脳死に関する世論調査結果、
> 等々です。
 
 
死者の数は、日本の戸籍制度の信頼性が高く、かつこの数字を拾って統計にまとめ
る人の信頼性が高く、かつこの統計を文献に転記する人物の信頼性が高いことを前
提として、かなりの確度の高い認識として、事実と認定できる、という過程を経て
いると思います。
 
生体肝移植の症例の数については、ある特定の手術については生体肝移植であると
の類型化を医者に任せても間違い無いという信頼性、そのカルテの数のカバー率が
まず実態と乖離することは少なかろうという信頼性、これを公に公表することを隠
蔽するような怪しげな医院はまあ少なかろうという信頼性、この統計をまとめる人
の信頼性、この統計を文献に転記する人物の信頼性等々が、過程として存在するも
のと思われます。
 
医者へのアンケート結果については、アンケートを依頼する対象者にまず恣意的な
バイアスはなかろうという信頼性、アンケートを回答してきた医者としてこなかっ
た医者に、何らかの傾向的偏差などなかろうという信頼性、アンケートの回答項目
や問い掛け方にまさか誘導尋問的な要素や選択肢のスキーム等でへんなことはして
いないだろうという信頼性、アンケート募集機関が特定の思想団体や医師が正直な
回答を躊躇うような上部団体等ではないだろうという信頼性、これをまとめる際に
数を誤魔化すような(どっかの開発途上国の選挙管理委員会でもあるまいし)こと
はあるまいという信頼性、この公表資料を転記する人物の信頼性、等が背景にあり
ます
。
 
世論調査については、医師へのアンケート結果同様。
 
逆に言えば、上記につらつら述べた信頼性が往々にして必ずしも盤石ではないこと
を示す不祥事等が報道されるたびに、ジャッジの公知としての受け止め方に変化を
来す可能性があるということです。
かかる公知は介入だ、という意見もあるかもしれませんが、逆に言えば、例えばア
ンケートなら全面的に信頼するという考え方もまた介入です。
それがラウンドでは提示されないわけですから、まあ大丈夫なのかもしれない、程
度の確率的な信頼性しか与えられません。
 
上記のケースは、「脳死のプロポ」における「JDAの日本語ディベート」という
、ちょっとバイアスがかかった想定だとは思いますが、それですら、つらつら述べ
ただけの多くの信頼性のチェーンに依存しています。
ましてや、もっとエビデンスを読みまくる英語ディベートや、システムアナラシス
のようなプロポだと、もっ?。
 
 
 
> 3 専門家の意見についても、それほど高度な内容は伴わない
> 
> 命題によるでしょうが、専門家の説明内容は、それほど高度ではなく、理科系の
> 私ならいざとなれば説明できる程度でした。タ?>
験の結果ですし、原発の安全解析等は、そんなに難しくないです。(概念的には。
)
 
> 蟹池さんが例として挙げられたような高度?> ならともかく、政策ディベートでは、まず出てこないと思います。
 
 
ケースや命題に?るのではないかとは思います。
ただ、上記の例で、S.Yさんが「事実だ」と感じた水準と、僕が「まあ事実に近い
と言っていいかもしれない」と感じた水準感の差は、かなり隔たりがあるようにも
思います。
よって、同じケースや命題を目の当たりにしても、両者の感じ方がやはり異なって
くる可能性は高いのではないでしょうか。
 
政策ディベートでは慣習的に要求されない証明レベルが、本当にいち市民としても
容認してよい水準なのかについても、個人的には相当懐疑的です。
例えば、僕は銀行員で通常の事業会社よりは経済の専門性の高い職種だとは思いま
すが、決して体系的にマクロやミクロに精通したわけではない、まあ日経新聞水準
の知識水準にありますが、その僕がこないだの累進税率のプロポなんかでも、「え
ー、そんな程度の証明で、後は引用権威にお任せするんじゃ、ちょっとねー」とい
う感じを持った事は事実です。

 
Date: Fri, 12 Mar 99 00:51:28 JST
Subject: [JDA :5575] RE: =?ISO-2022-JP?B?GyRCJUclIyVZITwlSCRLJCokMSRrIVZFQUo5JWolOSUvIVcbKEI=?= 
 
K.N様ほかみなさま
 
 
<中略>
 
 
 
立証責任の分担という観点も必要です。
 
K.Nさんの言う「信頼性」というのは、「嘘をつくリスク」あるいは「ミスのリスク」
という気がしました。
 
「嘘をつくリスク」を立証するのは、基本的に、反証側です。
 
社会通念として、人間は、「嘘をつくことによる利益がないかぎり、わざわざ嘘をつ
くことはない」という前提があります。これは、嘘をつくことによる不利益を何の利
益もなく被るのが合理的な行動ではないからです。従って、デフォルトでは、人間は
嘘をつかないというスタンスで裁判でも何でも進みます。(宣誓はしますが。)当初
の立証側には、「嘘をつかない」ことを証明する必要は実社会でも通常存在しません。
 
「嘘である」、という反証は当然可能ですが、この場合は、反証側から、「嘘をつく
相当の理由が存在する」ことを立証する必要があります。
 
 
「ミスのリスク」については、常に存在します。ただ、これも、通常は「ミスである」
ことを立証するのは反証側です。
 
 
 
このような立証責任の分担をとった場合、同意見の人間の数、というのは事実認定の
確実さには全く依存しない(そもそも「事実であると認定された事実」の確実性は、
それ以上向上しようがない)ことになります。
 
 
 
S.Y
 

Date: Sat, 13 Mar 99 02:32:52 JST
Subject: [JDA :5576] RE: =?ISO-2022-JP?B?GyRCM05OKEk+MkEkTjhCMyYkSCEiTik+WiROSixDNBsoQg==?= 
 
K.Nです。
 
 
<中略>
 
>K.Nさんの言う「信頼性」というのは、「嘘をつくリスク」あるいは「ミスのリスク
> 」という気がしました。
 
事実の記述についてはそういう観点のウエートが大きくなるかもしれません。
専門家の証明の省略の話だと、無論それだけではないですが。
 
 
> 「嘘をつくリスク」を立証するのは、基本的に、反証側です。
 
嘘a窿~スであるリスクは立証側も反証側もなく、ジャッジが社会生活の中で醸成し
てきた思考基盤として厳然と存在する性質のものだと思います。
 
 
>社会通念として、人間は、「嘘をつくことによる利益がないかぎり、わざわざ嘘をつ
>くことはない」という前提があります。これは、嘘をつくことによる不利益を何の利
> 益もなく被るのが合理的な行動ではないからです。
 
社会通念としてあるというのは聞いたことはありません。貴殿がリーズニングに基
づきそう考えておられるということでしょう。
(因みに時々おっしゃる「ディベートのルールはこうです」という表現も避けられ
た方がよいかと思います。大概、「そんなの見たことないよー」とツッコミを受け
るだけです^^)。
 
僕は社会通念としてではなく、従来醸成してきた僕なりの前提として、「事実の記
述は結構いいかげんであることが多い」という考えを持っています。また嘘をつく
利益が往々にしてあるからこそ、嘘は発生するのでしょう。ミスもかなり多いと思
います。
色々不祥事もでてることですから、これこそ社会通念として認定していただきたい
ところです。
エイズ問題然り、イラク戦争の油まみれの海鳥の写真然り。
マスコミに書かれている自分とこの会社や自分の担当している会社の記述なんて、
必ずといっていいほど嘘や認識違いがあります。スポーツ新聞なんてもってのほか
ですよね。
 
即ち、プレザンプションとして僕は別に「人は必ず正しいことを言う」というもの
を持っていない以上、何かの伝聞に接した際に、「多分正しいのだろう」とは思い
ますが、「絶対に正しい」と思えという方が無理です。
 
従って、立証責任は、立論側が「多分という以上に確からしい」、反証側が「うそ
である可能性がより高い」ことを示すものである、と解釈します。
 
因みにデフォルトというのは何のことでしょうか?
裁判で嘘をつかないことを前提に裁判が進むというのは知りません(そうなのかも
しれません)。またその類推がなぜディベートに適用されるのかは分かりません。
宣誓をすることは、嘘をつく確率が高いこと、そのことを裁判官も懸念していると
いうことの裏返しなのでしょう。
 
<後略>
 

 
Date: Sat, 13 Mar 99 20:45:37 JST
Subject: [JDA :5577] =?ISO-2022-JP?B?GyRCIVZPIkIzJDckPyVqJTklLyFXISkbKEI=?=
 
 
K.N様、他興味のある皆様
  
 
 
少し議論が混乱していますが、これは前回の私のメールが整理できていなかったため
もありますので、議論を極力そもそもの部分に戻してみましょう。
 
------------------
 
さて、K.Nさんは、ちょっと主張を変えてきている気がします。
 
 
>専門家とディベータとの信頼度は、連続的に信頼度の高低が推移する、という主張
>を(もう何度めになるかな)繰り返したいと思います。1か0かではない、という
>意味です。
 
K.Nさんの主張するのは、ただのリスク評価、ということでなく、「連続したリスク
」に基づく判断、というのが売りのはずですね。「連続しているリスク」による判断
結果は、「連続したリスク」で示す必要があります。つまり、判断結果が、「○○%
で確からしい」であるということです。
 
確率に一定の「敷居値」を設定し、それ以上を○、それ以下を×とする判断は、リス
クが「連続して」いる判断とは言いがたいです。
 
ところが、前回のメールでは、
 
>設備投資はむしろ、リスク判断そのものです。経営者はうまく行くかいかないかの
>確信を100%もって投資する人など、思い込みでもないかぎり、まず少ないと思
>います。でもやるかやらないかは、そのリスクアナリシスを前提として、例えば6
>割うまく行くと思うなら投資する、という行動原理の話です。
 
と、「投資すべきか否か」という判断をリスクに基づいて行う際の、
「確率に一定の敷居値(この場合は6割)を設定した判断」を肯定されています。こ
れなら別に確率的評価など行う必要など全くなく、「真実であるという確信を持てる
か否か」という0,1の判断方式と全く同じになります。(確信を持てる基準が、確率
のある敷居値であるだけ。)
 
上の例(刑事裁判等の例を含む)を「連続したリスクに基づく事実認定」とおっしゃ
っておられるのでしょうか。であるなら、敷居値(6割)をこえてしまった確率度は
、それ以上高まっても判断には影響しなくなり、
 
>従って、1人のアサーションがゼロでない以上、2人の合意はダブルになります。
>尚、嘘をつきやすい分だけ減価すべきであることは、以前確認した通りです。
 
という結論にはならないと思います。
 
 
個人的には、「連続したリスク評価による判断」というのは、融資決定の際のrisk 
weightのようなものを想定していました。つまり、この融資は○○%焦げ付く恐れが
あるので、融資額の○○%を自己資本から引き当てる、という、判断が最後まで%表
示される判断の仕方です。ただしこれは、実社会においてもかなり特異な例だと思い
ます。
 
投資するか否かの例をも「連続したリスクの判断の例」とされるなら、「真実である
と確信したか否か」の判断(心証、というか確信の度合いは、連続しているのは当然
で、prima facieという基準で切って判断しているだけ)と全く違いがありませんの
で、そもそもコメントする必要が全くなかったことになります。
 
 
 
-----------------------
 
次に、信頼性の議論について。
 
「嘘をつくリスク」「ミスをするリスク」についてのK.Nさんの判断方法は良く分か
りました。ただ、コメントせざるを得ない点があります。K.Nさんの考え方は、「過
度の一般化」の嫌いがあること、当事者主義や、立証責任の分担の軽視を感じます。
 
一般的に第三者としてジャッジする際には、当事者主義をとります。当事者主義とい
うのは、ディベーターに提示された情報に基づいて判断をするということです。
 
事実に関する証言がなされた際で、外形的にその証言が必要な要件を満たしている場
合(証言者が事実を知り得る立場にあったことが明白な場合)に、だれからも「それ
が嘘である」ということが立証されなければ、ジャッジとしては「嘘をつくリスク」
を明白な形で把握できないため、「嘘をついているリスク」を認定することはできま
せん。
 
ジャッジが個人的に、「過去にうその証言があった例」を知っているからと言って、
「ディベーターから提示されたある特定の証言」がうそであるとは全く限らず(一般
論と個別具体論は区別しなければならない。「過度の一般化」は禁物。)、その「過
去の例」の知識をもって、全く別の証言の事実認定に影響を与えるやり方は、不当と
言わざるを得ません。
 
 
ただし、
 
>従って、立証責任は、立論側が「多分という以上に確からしい」、反証側が「うそ
>である可能性がより高い」ことを示すものである、と解釈します。
 
このような場合、「多分という以上に確からしい」ことを「証言が正しいという判断
」の敷居値として使用しているなら、普通の事実認定と全く変わらないので、実体的
に問題は生じませんが。
 
 
 
S.Y
 

 
Date: Sun, 14 Mar 99 01:12:56 JST
Subject: [JDA :5578] RE: =?ISO-2022-JP?B?GyRCIVZPIkIzJDckPyVqJTklLyFXISkbKEI=?= 
 
 
K.Nです。
 
S.Yさん、なかなかやりますね。
よくあれこれ頭が廻るもんだと、敵ながら(?)あっぱれというところでしょう。
 
 
連続したリスクについて
 
リスク評価と、行動原理となるリスク評価の閾値の問題は、むしろディベートの行
動原理が何なのか、という観点で整理したほうがよいように思います。
リスク評価そのものは、政策分野でも司法のテーマでも設備投資の問題でも、むろ
んディベートでも、その基盤をなすものとしてその手法にさほど本質的な差違はな
いものと思います。
問題は、行動原理が、分野によって異なって来るということだという気がします。
 
以下は少し単純化しすぎているのは承知していますが、分野によってリスク評価に
対する行動原理が異なってくることを示します。
 
刑事では、100%の「定義された」真実を要求します。これは閾値です。
民事では、利害相反する当事者どおしの、言い分のリスク評価に応じて、6割は君
4割は僕、という配分をします。これは閾値はありません。
ダイオキシンでは、Negligible.Riskという概念が導入されていま
す。これは閾値を示します。
設備投資では、やるもリスク、やらぬもリスクというところですが、例えば6割と
いう閾値が存在します。
金融では、閾値で貸す貸さないということもあれば、リスクを金利やオプション値
付け等の価格に還元したり、要求する自己資本の比率や、他の銀行を巻き込んで一
定割合しかださないとかといった、閾値でない、%表示をすることも多いです。
政策決定分野で、よくコンティンジェンシープランという考え方がありますが、こ
れは、リスク評価が100%たりえない時に、メインシナリオでない状況の補完策
を策定します。これは閾値という考え方と対峙します。これは進化した政策決定手
法だと思います。
 
(尚、閾値の問題は、事実認識として真とみなしたわけではなく、行動原理を真
でなくても行うかどうかの問題です。ここを取り違えるとまずいですよ。
だから僕の主張は変わってはいませんよね。連続したリスクは、行動原理におけ
る閾値の問題と独立の、事実認識の問題ですから。)
 
 
さて、ディベートにおける不可欠な行動原理は、結局、AFFが勝つのか、NEG
が勝つのか、をいずれにしろ決定しないといけないということだと思います。これ
は外形的に0,1の議論ですが、この行動原理はあくまでもリスク*価値の双方の
積算を比較した際に、相対的にどちらかが上回ることによって規定されます。
閾値が問題となるのは、個々の命題を、ある閾値をもって真実とみるのか、それと
も閾値を設定せずに連続的なウェート(%)表示をするのか、の問題です。
 
%表示のまま命題を積算するのか、個々の命題の真・偽をそれぞれ決定したうえで
積算するのか、という対立は、ディベートにおける上記の「不可欠な行動原理」と
いう意味では、一義的に規定されないところです。すなわち独立に決定できる自由
度があるということです。
 
 
すなわち、設備投資や司法と違って、ディベートでは個々の命題をある閾値で真・
偽とわりきらざるを得ないニーズが存在しないということです。割り切るというの
は、できれば避けられるに超したことはありません。
他の分野において閾値(すなわち割り切り)を設定せざるを得ないのは、何らかの
別のニーズの存在によって行動原理に自由度が少ないからです。
ディベートにおいて自由度を制約する要素は、AFF・NEGの最終的な積算にお
ける勝ち負けだけであり、それは個々の命題に閾値を設定させる制約的な要素とは
なり得ないので、むりに回避すべき閾値なる枠をはめなくてもよくなります。
 
それがめずらしいから、とか、いうことは、否定する根拠にはならないでしょう。
むしろ、余計な制約条件がなく、真実探求のユートピア的な場を提供してくれてい
るということです。また基盤となるリスク評価自体は、めずらしいものではなく、
行動原理の前段階の事実認識の問題として、分野に限らず共有しているわけですか
ら。
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−
 
当事者主義と立証責任、過度の一般化の問題について
 
以前飯田さんから、今のS.Yさんと全く逆サイドの文脈、即ち「根拠のない主張で
も認めるというのか?」という立証責任の転嫁論を指摘されたとき、権威をその根
拠にしつらえると同時に、証明の全体性の説明を致しました(5425,5435
参照)。
今回のご指摘は、「信頼できる外形的条件が揃っているのに、それでも疑うのか?
」というご指摘であり、リスクの連続性の枠組みのなかで、両側から攻められてい
るわけですね。
 
結論からすれば、それでも疑います。
 
それは、100%信頼できる外形的条件などというものは、現実的にはまず無理だ
と考えるからです。
 
外形的条件がより揃っている、という状況は充分ありえると思います。当人の直接
のインタビューの引用で、最新鋭の嘘発見器をつけ、かつ嘘発見器が当人にとって
有為な効果を持つことが信頼できる筋から確認できた場合などです。しかしこれで
も引用者の、嘘発見器の、信頼できる筋なるものの、媒体を経由しています。
 
そこまで徹底してもなおそうなのですから、通常ディベーターが提示する「良いエ
ビデンス」程度では,100%には到達しないと考えます。
 
例えば僕は今日ドライブをしました。が、あなたはこの命題を信じますか?
 
外形的に必要とS.Yさんがおっしゃる、
(証言者が事実を知り得る立場にあったことが明白な場合)
ですね。当人なんですから。
 
答えは嘘です(悪い冗談ですね^^ごめんなさい)。
 
過去の不祥事は、一般化された概念をより強固にする要素となります。過去の不祥
事をそのまま現在の命題に適用して却下すれば不当だと言えましょうが、大数の法
則として、一般的な嘘をつく確率のプレザンプションを形成することは、特段不当
とは思いません。「人はなぜ嘘をつくか」という本(だっけ?)がだいぶ前にベス
トセラーになりましたが、それによると人は一日10回(だっけ?)は嘘をつくそ
うです。
 
 

Date: Sun, 14 Mar 99 03:50:28 JST
Subject: [JDA :5579] =?ISO-2022-JP?B?UmU6IBskQiFWTyJCMyQ3GyhK?=
 
「連続したリスク」−冗長な表現ですね。確率は定義上連続的。
 
それはさておいて、K.Nさんが考えているのは、「ディベータが発した言明が真であ
る」かどうかではなくて、「ディベータが真である言明を発した」かどうかでしょ
う。
 
前者は、発話者を捨象して発話内容だけ(命題間の関係だけ)を考えるという場合の
ことであり、後者は発話者を捨象せずに考える(発話者の信念、命題の真理値、世界
の有り様等々を全体論的に考慮)場合です。(S.Yさんは、前者で考えているので、
食い違う訳です。)
 
前者の場合、嘘といった要素は原理上排除されますが、後者では考慮に入ってきま
す。後者の場合は、発話者の信頼性その他諸々の要素が関わります。
 
 
因に、日常の我々のやりとりに於いては、後者で判断していますが、教育ディベート
は後者ではなく、前者の枠組でやることを、暗黙の前提にしているのではないかと私
は思います。
 
 
それはさておいても、後者の場合、同じ発言が二人から出たことは発言を真であると
する主観的確率にどう影響するのかが問題になります。主観的確率の話は私は余り詳
しくないので−昔見たことはありますが忘れてしまいました−、どなたかフォローお
願いします(小野君あたり好きそうですね)。
応用的な話としてのデビッドソンの真理と信念との確率的付与の話は少し覚えていま
すが、それに従えば、その他の話者の発言との脈絡次第では、発言の一致は、それへ
の真理値付与に影響しそうな気がしなくもないですね〜。
 
 

 
Date: Sun, 14 Mar 99 13:04:36 JST
Subject: [JDA :5580] RE: Re: =?ISO-2022-JP?B?GyRCIVZPIkIzJDckPyVqJTklLyFXISkbKEI=?= 
 
 
>
>因に、日常の我々のやりとりに於いては、後者で判断していますが、教育ディベー
>トは後者ではなく、前者の枠組でやることを、暗黙の前提にしているのではない
>かと私は思います。
 
 
確かにそうですね。
少なくとも今まではそうだったと思います(僕以外)。なぜそうなっていたかにつ
いてはそういえばなぜなんでしょうね。
 
教育ディベートの参加者が、素直な学生が多いという前提があったからでしょうか
、あるいは仮に素直とは限らなくても教育の場としてだけはそうありたいという暗
黙の期待があったからでしょうか。
 
でも少なくともディベーターは、想像する以上にしたたかな側面、ナイーブな側面
を持つものと思います。
 
ディベーター個人の証言については、明示されたルールとしてこれを禁止するもの
はありませんでしたが、従来暗黙の前提として余り望ましくないと考えられてきた
こと自体は認めます。嘘をつくからです。実際は想像する以上に嘘をつきまくる可
能性もあるでしょう。
前者の枠組みを一貫してとるならば、個人の証言も嘘がない、という前提で完全な
形で認めざるを得ないのですが、さすがにそれは今までの暗黙の前提ではまずいと
いうことで、例えばS.Yさんのおっしゃるようにルールとしてこれを禁止しようと
いう発想にもなると思います。
僕はルールというものは必然のものがないかぎり、できるだけないに越した事がな
い、禁止することは、あくまで傾向的現象にすぎないことを一律の枠に押し込める
ことになるから、と[5457]において反対意見を述べました。
 
 
ナイーブな側面ということでは、ディベーターは例えば新聞記事にしても、余りに
信じすぎる嫌いがあると思います。
社会人になって、新聞以外からの情報アクセスができるようになり、例えば担当し
ていた会社について新聞がこれをフォローする場合に、殆どどこかに嘘や認識違い
が含まれていることに気が付きました。
スポーツ新聞の芸能記事にしても、我々はおもしろおかしく一応本当のこととして
信じることもありますが、芸能人が「よくあれだけ嘘八百のことがかけるものだと
嫌になりました」と告白することからもわかる通りです。
 
 
結局、我々が普段の生活でしている判断を、どこまでディベート内に持ち込むかと
いうことになるかと思いますが、ディベートラウンドにも普段の生活のツール(新
聞記事、性悪説に基づくディベーターという人間の存在)が紛れ込んでいる以上、
真理探求の目的合理性をとるならば、ピュアで桃源郷的な枠組みでは到底維持でき
ないような気がします。
 
一方で、ディベートラウンドの特殊な側面ということでは、提示された言説のみに
よって判断すべしという原則があり、このことはディベートの目的合理性が必ずし
も真理探究ではないことを意味する事になると思います。
この距離を涙を飲んで目をつぶれ、ということが主張されているのかもしれません
。
無論、過度な介入が一般的に禁止されていることは承知しています。しかし、ディ
ベーターが嘘をついたりつかなかったりすること、新聞が認識違いをしたりしなか
ったりすることが、僕にはあまりにも自明のことであるため、「過度の」介入だ
という良心の呵責が生じないのです。
媒体の数や証明の省略の連鎖が長いものと短いものとでは、一般的に信頼性に大き
な差違をもたらすという自明ともいえる原則を、目をつぶってしまうことにこそ良
心の呵責を感じます。
 
S.Yさんも>>>>
>事実に関する証言がなされた際で、外形的にその証言が必要な要件を満たしている
>場合(証言者が事実を知り得る立場にあったことが明白な場合)に、だれからも
>「それが嘘である」ということが立証されなければ、ジャッジとしては「嘘をつく
>リスク」を明白な形で把握できないため、「嘘をついているリスク」を認定するこ
>とはできません。
 
とおっしゃっているように、外形的に明白な場合と、そうでない場合という区分を
なさっています。僕はそれでも外形的に明白と言うには不充分ではないか、と指摘
はしましたが、それはさておき、S.Yさんが明白な場合とそうでない場合との、媒
介の連鎖を、相手から反証されなくても暗黙に意識されていることを暗示します。
その意識は正常で健全なことです。これを過度な介入だと被疑することは、一般的
なディベーターの感覚からも生じにくいものと思われます。
 
これが飯田さん他から何度も言われていた「ディベート外の要素を考慮するか
どうか」という区分なら、「考慮します」という回答になるわけですが、それが自
明の要素かどうかの意識で、いろんな人の意見が対立するのかもしれません。
 
また本来の定義におけるハムスターの共食いをしてしまいました。
 
 

 
Date: Sun, 14 Mar 99 14:01:06 JST
Subject: [JDA :5584] =?ISO-2022-JP?B?UmU6IBskQiFWTyJCMyQ3GyhK?=
 
 
On Sat, Mar 13, 1999 11:04 PM, 
>少なくとも今まではそうだったと思います(僕以外)。なぜそうなっていたかにつ
>いてはそういえばなぜなんでしょうね。
>
 
必ずしも、今までずっとそうだったかどうかは分かりませんね。ずっと昔のディベー
トではK.Nさん的なスタンスでもそれ程違和感はなかったのかもしれません。
昔のディベートでは、ジャッジは、ディベータの議論を聞いて、それと自分の知識と
に基づいて、命題についての判断を下していたように思います。
 
言わば、ディベートの議論を<世界>から遮断せずに判断していた訳であり、リスク
分析という概念はなかったものの、ディベートに対する姿勢は、K.Nさんのスタンス
に極めて近いものがあったように思います。
 
この辺の事情はアメリカでも同じであったようで、それは、ディベートのジャッジに
於ける「記述主義」について論じた論文から推察されます。
 
もし、K.Nさんが上記のような感想をお持ちとしたら、「それは我々が望んだ世界だ
からだ。」と答えましょう。
 
 
>一方で、ディベートラウンドの特殊な側面ということでは、提示された言説のみに
>よって判断すべしという原則があり、このことはディベートの目的合理性が必ずし
>も真理探究ではないことを意味する事になると思います。
>
 
ディベートの目的は「絶対的な」真理探究ではないでしょう。それは何度も言いまし
た。むしろ、それは、所与の前提からの妥当な「帰結の探究」であり、前提に相対的
な真理探究です。
 
この前提の制限と、発話主体(及びその意図)の捨象とは区別して考えられるべきで
す。(K.Nさんは一緒にしているけれど)
 
前提を制限とは独立に、発話主体の捨象(命題を考慮の対象にし、発話(文)を対象
にしない)は行い得ます。
 
 
従って、嘘や同意といった要素は、今のディベートの前提で排除できても、証明のス
テップの問題等は排除できないし、非明示的前提をどう扱うかという問題は依然とし
て残る訳です。
 
 
 

 
Date: Sun, 14 Mar 99 13:28:43 JST
Subject: [JDA :5581] =?ISO-2022-JP?B?GyRCIVZPIkIzJWolOSUvIVckTkA1Qk4kSCEiGyhC?=
 
K.N様ほか興味のある皆様
 
 
<中略>
 
だんだんK.Nさんの主張の本質が見えてきました。
 
 
1 K.Nさんは、これまでの自らの経験により、専門家の意見にせよ、事実に関する
証言であろうと、「一般的に」、「伝聞リスク」、「嘘をつくリスク」、「ミスがあ
るリスク」が存在することを知っているので、誰からも指摘がなくても、「一般的に
」、主張の信頼性について懐疑的である。
 
 
2 従って、K.Nさんは、いかなる主張(意見又は事実)も、0,1でなくて、「連続し
たリスク」として、%の形で認識している(すべきだ)。
 
3 伝聞リスク、嘘をつくリスク、ミスがあるリスクが一般的に存在している以上、
同意者の数や、その権威、というもので、主張(意見又は事実)の確実さの度合い(
連続したリスク)には影響がある(あるべきだ)。
 
 
4 さらに、K.Nさんは、ディベートにおいても、この考え方をとっている(とるべ
きだ)。
 
ということのようですね。
 
 
1はともかく、2,3についてはこれまでコメントしてきたとおり、一般化にはかなり問
題があると思いますが、最も問題は1,2,3の考えをディベートに導入するという4でし
ょう。
 
K.Nさんが主張するように、実社会において一般的に伝聞リスク等が存在する、とい
う客観的事実が存在することと、ディベートのラウンドでそれらを実際に「個別具体
的なリスク」として認定することということは必ずしも同値ではありません。
 
 
 
アカデミック・ディベートは、ゲーム性があるということと、立証を重視するという
特徴を有していますので、実社会の普通の判断(裁判等を除く)とは違う制約がかか
ります。
 
以下は前回のメールと同趣旨ですが、全く無視されてしまったので、再度コメントし
ます。
 
 
 
一つは、当事者主義というものです。1のように、ディベーターから指摘がないのに
、相手の主張の中に「伝聞リスク」、「嘘をつくリスク」、「ミスがあるリスク」が
存在することを認めるということは、当事者主義上、問題があります。
 
二つ目は、ディベートにおける判断は、「個別具体的」に行われることです。あくま
で、ディシジョンは、ディベーターが立証を試みた個別具体的な主張に基づいて行わ
れるため、その個別主張と関連づけられない一般的な事実は、ディベートにおいては
無関係として判断されると言うことです。
 
 
無論、相手側から、誤り、嘘をつく積極理由等の提示により、伝聞リスク等が存在す
ることが具体的に指摘された場合は、同意の数や専門性が意味を持ちます。
 
ただし、この場合にあっても、相手側の反証は、提示された証拠資料に対する「個別
具体的な指摘」であるため、それに反論するためには、その証拠資料に関連する「事
実を知りうる立場の人間の証言」や、「専門家の意見」が通常要求され、それ以外の
証言、意見は反論としては無効になります。
 
 
 
S.Y
 
 
 
 

Date: Sun, 14 Mar 99 16:35:35 JST
Subject: [JDA :5589] =?ISO-2022-JP?B?GyRCRXY7djxUPGc1QRsoQg==?=
 
 
K.N様、他みなさま
 
<中略>
 
>当事者主義に関する僕の考え方は、5580をご参照ください。
 
あまり明確に答えが書いてなかったので、反論したくなかったのですが・・・
 
 
>これが飯田さん他から何度も言われていた「ディベート外の要素を考慮するか
>どうか」という区分なら、「考慮します」という回答になるわけですが、それが自
>明の要素かどうかの意識で、いろんな人の意見が対立するのかもしれません。
 
 
飯田さんの整理はやはり正しかったわけですね。その当時はかなり強い調子で否定さ
れたと記憶していますが。つまり、K.Nさんは、部分的にせよ、「当事者主義をとっ
ていない」ということですね。
 
リスクうんぬん等ではなくて、本質的な対立点はここですね。
 
 
発話内容以外の要素(ジャッジ個人の知識、経験、ディベーターに指摘されない伝聞
性のリスク等)を考慮する意志決定方法は、望ましくないと思います。Publicな議論
で意志決定をしない、日本人の意志決定ではありがちな発想ではあると思いますが、
発話内容以外の要素で判断されてしまうと、ディベーターにとっては不意打ち以外の
何者でもありませんし、ディベーターはそこで思考が停止してしまい、議論を尽くし
て、根拠を徹底的に追求して結論を得ることができなくなります。
 
見学者から見ても、どうしてそういう結論になったのかを理解できません。
 
コメントで、「報道や専門家の話をうのみにするな、きちんとチェックしろ」という
コメントをなさるのは結構ですが、指摘もされない伝聞リスク等をディシジョンに反
映するのは疑問を感じます。
 
 
個人的には、このようなpublicな議論の内容によらない意志決定をしてしまうことを
絶滅させるためにディべートの意義を感じておりますので、それを助長するような判
断方法は採用すべきではないと思います。
 
 
 
議論が循環しているので、この話は終わります。
 
 
 
S.Y
 

 
Date: Sun, 14 Mar 99 22:12:59 JST
Subject: [JDA :5592] RE: =?ISO-2022-JP?B?GyRCJGQkbCRkJGwhJiEmISYbKEI=?= 
 
 
K.Nです。
 
確かに議論が循環しましたね。僕もそろそろ終りにしようと思います。
 
命題外の要素が入っていることは確かです。形式的には表明されていないのですか
ら。
大昔はこれを権威の文脈で「かなり強い暗黙の前提」とかなんとか表現したように
記憶しています。
 
それは例えば、権威を「証明の省略」と、表明されていなくても解釈するのと同じ
性質のものです。これもまた形式的には命題外の要素です。
そしてこれを全面的には容認せず、批判的に制約を加える(専門家といったってど
こまで最終的な真理に到達したのか、わかったもんではない、という疑い)のも、
事実記述の命題に、批判的に制約を加える(嘘、ミスはないかという疑い)のも同
じことです。
どこまでを暗黙の前提として考えるかによって、命題外とはいっても勘案すべきこ
とがあってもよいのではないか、ということです。
 
<後略>
 
 
 

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