ディベートにおける「常識」について


Date: Sun, 27 Apr 97 00:26:49 JST
Subject: [JDA :2553] "Common sense" is a mere consequence, not a reliable guide in thinking!
 
Y.Tです。テーマが変わるのでタイトルも変えました。
 
結論を先に言うと、いわゆる「常識」や「バランス感覚」は、正しい思考の結果にす
ぎません。常識やバランス感覚を養うことは適切な行動のために必要ですが、(ディ
ベートで行われるように)根本的に物事を考える場合、「常識」は判断基準として頼
りにならないと認識しておくべきです。
 
まず、私は以下にK.S君が示しているような物言いに真っ向から反対です。
 
K.S
(前略)
>そうそう、その通り。。最近のいろいろなメールを見ても、結局、バラン
>ス感覚だと思います。両極端に走らずに、個人個人の「常識的な」バラン
>ス感覚を重視すれば、一つ一つの議論では個人差さえあれ、本道から大き
>くはずれることは無くなると思っています。
 
「常識」があれば考え方が抽象レベルで食い違っていても実践上はあまり問題を生じ
ない、というのはそのとおりです。そして、だからこそ抽象レベルの議論で真偽を検
証することが重要なのです。なぜならば、ある人が特定の状況で*たまたま*「常識」
を持ち合わせていたからとて、その人の思考の前提が正しいという保証はどこにもな
いからです。ということはつまり、別の状況でその人が「常識」と思っていることが
正しいかどうかは、「常識」によっては判断できない。言い換えると、正しい常識を
養うためにも「個人個人の常識的なバランス感覚」などを重視せずに議論・思考する
必要があるのです。
 
もうひとつ危ないのは、「常識」等の言葉が、コミュニティの多数意見(または「良
識派の見解」)のことをさしていることが多いことです(K.S君はそういうつもりで
発言していないと思いますが)。多数意見などには何の客観性もなく、これが正しい
かどうかはやはり論理と経験に照らして判断するよりほかありません。
 
たとえば誰かが「Rebuttal speech で証拠を提出すべきではない」と信じていた場合
「おまえは常識がないぞ。ほかのみんなに聞いてみろ」と言うのは何の救いにもなら
ない。彼が間違っているかどうかは(このリストでなされているように)論理と経験
に基づいて検証・説得する必要があります。(これはたとえばの話です。誰かがそん
なことを言ったというわけではありません)
 
だから「結局はバランス感覚だよ」とか「常識を重視すれば大丈夫」とK.S君のよう
に言うことは、議論検証後に感想として述べる限りにおいては問題ないものの、そも
そも何が常識・規範たるべきかを討論する上では妨げでさえあるのです。
 
>この大きなイメージ・目標に共通する部分が多ければ、個々の細かい議論
>に違いがあってもそう問題はないのです。
 
「そう問題はない」と考えることで、思考レベルの潜在的な問題を生き長らえさせて
しまいます。だから学生時代ディベートを経験していて「常識」もあったはずの人が
ジャッジになってから「非常識」だったりするのではないでしょうか。
 
「思考の前提を疑え」と言いたい。自分自身にも言い聞かせています。正しいと思っ
ていることが本当に正しいかどうか。たまたまその時の慣習や多数意見を受け入れて
いただけではないのか。
 
このメーリングリストでは、ときどきそういう「前提を疑う」議論がなされることが
あり、それが貴重な思考訓練になると思っています。
 
Y.T 
 

Date: Sun, 27 Apr 97 12:02:00 JST
Subject: [JDA :2554] 「常識」と「バランス感覚」
 
 
Y.Tさんの,K.Sさんへの反論へのcounter-rebuttalです。
 
 
主張: ディベート教育においてはやはり, 1) 「世間で通用している常識」が
どこらへんにあるのかを把握する感覚の重要性と, 2) 議論の焦点がどこにある
のかを見抜き,そこから逸脱しない「バランス感覚」の必要性が,強調されるべ
きです。
 
特に現在の大学英語ディベート界での現状が,現実社会の「常識」をほとんど顧
慮しなくなった現状ではなおさらです。
 
 
1. 「常識」の役割 --- 議論の出発点
------------------------------------------
たびたび述べていることですが,ディベートでは
 
    「常識」を遵守する(こだわる・拘泥する)必要はないが,
    「常識」に準拠(出発点にする)すべきです。
 
これはY.Tさんが述べている次のことと外見的には対立しますが,たぶんさほど
距離はなく,独立の主張を述べたものだと思います。
 
>結論を先に言うと、いわゆる「常識」や「バランス感覚」は、正しい思考の結果にす
>ぎません。常識やバランス感覚を養うことは適切な行動のために必要ですが、(ディ
>ベートで行われるように)根本的に物事を考える場合、「常識」は判断基準として頼
>りにならないと認識しておくべきです。
 
 
ただ力点をおきたいのは,Y.Tさんの書き方では,「常識」というのがディベー
トの結果として得られるようなものではあっても,プロセスでは全く関係ないか
のように読めるということです。これはまずい。
 
Y.Tさんの主張は,「常識」などというのがあてにならない,それはただ単に多
くの人が信じているということを意味しているだけで,「正しい」とか「客観
的」ということは意味せず*判断*の基準としては機能しない,ということだと思
います。それはもっともです。
 
一方「常識」には,ただ単に「共有知 common knowledge」という程度の意味も
あります。その場合「常識」というのは,ただ単に「一般的にそうだと思われて
いるような知識」という程度の意味でして,それだからと言って「正しい」とか
「客観的」とか言う意味は含意していません。例えば「世間の常識をくつがえす
ような」という用法がありますよね。この場合の「常識」というのは,くつがえ
すことも可能な脆いものです。
 
ディベートで使うべきであり強調すべきなのは,この「共有知」という程度の意
味の「常識」なのです。
 
難しい議論をどこまで噛み砕いて説明すればいいか。またどこまでエビデンスな
どを出して「証明」すればいいか。これらは世間で共有されている「常識」に関
する適切な感覚を養い,自分の主張がその「常識」と,どれだけ遠ざかっている
かによって左右されます。つまり世間の「常識」とかけ離れている場合には,余
計に説明したり,「証明」したりしないといけません。
 
つまり議論の提出の際の*出発点*を提供する基準としては,常識に関する感覚が
必要不可欠ともいえるのです。この準拠・遵守の区別をおくなら,
 
> まず、私は以下にK.S君が示しているような物言いに真っ向から反対です。
> 
>K.S 
>(前略)
>>そうそう、その通り。。最近のいろいろなメールを見ても、結局、バラン
>>ス感覚だと思います。両極端に走らずに、個人個人の「常識的な」バラン
>>ス感覚を重視すれば、一つ一つの議論では個人差さえあれ、本道から大き
>>くはずれることは無くなると思っています。
 
私もK.Sさんの書き方はまずいとは思います。そこでは確かに「常識」の遵守と
いうニュアンスがよみとれるからです。(また「挑発」をやってしまったかな,
K.Sさん? ハハハ)
 
だけれどもK.Sさんの発言には真っ向から反対する気にはなれません。というの
は,現状のディベート界には,「常識」へのある種の虚無主義があり,その結果
として,「議論の瑣末化peripheralization」とでも呼べる傾向がよく見られる
からです。
 
 
2. 現状の問題のありか -- 過去における「非常識の奨励」
----------------------------------------------------
 
Y.Tさんはつぎのように述べます。
 
>「そう問題はない」と考えることで、思考レベルの潜在的な問題を生き長らえさせて
>しまいます。だから学生時代ディベートを経験していて「常識」もあったはずの人が
>ジャッジになってから「非常識」だったりするのではないでしょうか。
 
思考を停止することにより問題が長らえるという側面は有るのですが,それでは
問題の一部しか捉えていないと思います。やはり全体的な原因としては,ディ
ベート界の風潮として「常識」を軽視しろという傾向があり /あったのが問題な
のだと思います。
 
私がディベート初心者だった80年代末ではすでに,「ディベートは常識にとらわ
れずに議論できるんだ」ということを強調するのが大学英語ディベート界の全体
の雰囲気でありました。「地球をテコで動かす」プランや,銀河系の崩壊を救う
プラン,「東南アジアにトイレを作りまくる」プランなどを出すことがディベー
トの特徴であり,それが何か奨励されている雰囲気すらありました。
 
しかしその「常識からの逃避」の側面が強調されすぎたのか,ディベート界では,
あたかも世間での常識(共有知)などまるでおかまいなしに議論できる・すべき
ような風潮ができあがってしまいました。
 
本当はそこでは,「ディベートは常識に準拠すべきだけれど,必ずしも常識にと
らわれる必要はないんだ」という感じで述べてられるべきだったんですけど,ど
うも後者のみが強調されてしまった。
 
このことはジャッジになってもかわらず,ジャッジやコーチになっても「常識か
らの逃避」が美徳と単純に考えている輩がいる。これこそが大学英語ディベート
界のもっとも大きな問題の一つだと考えられるのです。
 
 
3. 議論の瑣末化は,問題ではないのか?
------------------------------------
 
Y.Tさんの次の言葉は重いですし,上で述べたように私も常識の遵守には全く反
対なので,半ば以上同意するのですが,こうしたディベート界の状況を背景にお
くと,あえて疑問を呈せざるをえません
 
>「思考の前提を疑え」と言いたい。自分自身にも言い聞かせています。正しいと思っ
>ていることが本当に正しいかどうか。たまたまその時の慣習や多数意見を受け入れて
>いただけではないのか。
 
では思考の前提は,どんな場合も・どこまでも疑うべきなのでしょうか?
 
場合によってはディベート界のデカルトでも気取っているのか,さして必要もな
く・しょうもないセオリー思弁・談義にふける人間がいるし,その思弁により全
くズレたジャッジング・フィロソフィーなるものを生み出し,それによりディ
ベーターにレベルの低いディベートを強要するジャッジが出てきてしまっている。
(またまた「挑発」をやってしまったかな,K.Sさん? ハハハハハ)
 
K.Sさんが,「バランス感覚」ということを強調しているのは,この点ではない
でしょうか。思考の遊戯にふけようと思えばいくらでもできます。さして「必要
の無い」ところまで問題にしようとする傾向,これを「議論の瑣末化」と呼ぶな
らば,これをいさめるための便法としては,確かに曖昧ではあるものの,「バラ
ンス感覚」という言葉は結構有効だと思います。
 
それを強調することで,常に自分が「思考の遊戯」に陥っていないか,チェック
する自制心を養わせるからです。
 
もちろんこれはディベート教育者だけでなく,実はディベーターにとっても重要
です。例えば,リバタルなどで全てを逐一反論するのでなく,試合にinherentな
ところを把握し,議論の瑣末な部分にはまりこまないための感覚,これを「バラ
ンス感覚」と呼ぶのならば,これは断固軽視してはなりません。
 
---
 
思考訓練の場としてディベートを強調しすぎることは,単なる思弁屋をうみだす
可能性を秘めていて,同意できません。
 
私はディベート教育を,現実社会のコミュニケーション・社会的意思決定を円滑
に行わせるような能力を学習する・させる場として考えており,個人の単なる思
考訓練の場や,自己主張能力の習得の場とは思っていないので,恐らく,Y.Tさ
んと,こうした力点の差が生まれるのだと思いますが…。
 
Y.Y
 

Date: Sun, 27 Apr 97 20:08:54 JST
Subject: [JDA :2558] Re:Common sence in debate
 
 
こんばんわ、再び日立製作所のH.Iです。
最近の「常識」をめぐる議論についてひとこと。
 
 私としては、Y.Tさん・Y.Yさんの両方の立場に共感できるものがありま
す。たしかに、そのときどきの多数意見や固定観念にとらわれずに、前提から
自由に議論できるのはディベートの醍醐味でしょう。
 
 H.Kさんは、著書の中で「かつて経済優先の時代に環境保護を全面に打ち出
したアーギュメント(温室効果の悪影響の議論など)を展開したことがある」
旨を述べておられました。これはそのときの「常識」に反した議論であるかも
しれませんが、時代を先取りした優れた議論であるといえるでしょう。
 
 しかし、新しい議論を展開するのは大いに結構ですが、その議論が説得力を
持つためには、Y.Yさんの言うところの「常識(共有知)」を持つジャッジを
も説得できるような議論を展開しなければいけないのは当然のことです。Y.Y
さんが、「常識に関する感覚が必要不可欠」というのは、たぶんそういうこと
でしょう。
 
 ここからはお二人の議論からは離れますが…
 
 ただ私は、現在のディベーターが、世間の「常識(固定観念)」にとらわれ
ない議論をしているならいいのですが、実は、彼らは、RiskやらHuman Right
やらMental damegeといったディベート界の「常識(固定観念)」の枠組みの
なかでしか議論できていないのではないか、という危惧の念をを抱いていま
す。
 これは、固定観念にとらわれているのみならず、一般人への説得力もないと
いう意味で、世間の「常識(固定観念)」にとらわれるよりもなお悪いのでは
ないでしょうか。
 
 今のディベーターに必要なのは、まず、「世間一般で行われているような議
論をディベートにおいてもそのまま行えるようになること」です。今のディ
ベートでは「世間一般の議論を展開すること」の方が、かえって革新的なんで
すよね。
 
 中島さんの最近の提案も、今のディベートがディベート界の「常識(固定観
念)」の枠組みにとらわれ、かえって素直な議論ができなくなっていることへ
の問題意識に基づきなされているものだと思います。この問題意識自体は、安
井君も共有しているのでは?
 
 
H.I
 
 

Date: Sun, 27 Apr 97 23:48:16 JST
Subject: [JDA :2560] Re:「常識」と「バラ
 
こんにちは、Y.Sです。
 
「常識」論議、大変面白いですね。
私としては珍しく、一般ビジネスマンとしての視点から、ディベートの役割に
ついて一言。
 
まず、前提としては、「ディベーターは各々がディベートをしている限り、
ディベートの目的については、ディベーターが定義すべきで、
他人がとやかくいう筋合いのものではない」ということです。
 
といいつつ、WESAなどに対しては老婆心を相当発揮してしまっていますが・・
 
 
>思考訓練の場としてディベートを強調しすぎることは,単なる思弁屋をうみだす
>可能性を秘めていて,同意できません。
>私はディベート教育を,現実社会のコミュニケーション・社会的意思決定を円滑
>に行わせるような能力を学習する・させる場として考えており,個人の単なる思
>考訓練の場や,自己主張能力の習得の場とは思っていないので,恐らく,Y.Tさ
 
ここからは、私の経験ですので、必ずしも大多数にあてはまらないかも
しれません。
 
「現実社会のコミュニケーション」というのは、意外と学ぶ機会は
それこそ「現実社会」でありました。社内文書の作り方、プレゼンテーション
のしかた、などなど私の社会人としての生活は、「現実社会のコミュニケーション」
を学ぶ方法で占められていると言っても過言ではありませんでした。
 
しかし、その一方で「思考訓練の場」というのは、あまりありませんでした。
むしろ、会社では、上司から「洗脳」され、その会社としての考えかた
に染められ、「創造性」を奪われるような傾向にすらありました。
私はそれに対し、徹底的に反抗を試みたのですが、そのときに
役立ったのが「思考訓練」としてのディベートでした。
 
「今は会社はこうだが、もっと良いやりかたがあるのではないか?」
「こうしてみたらどうなるのか?」などなど、会社の「常識」を
覆すためには、いったん現実から離れて「思考の遊戯」に埋没することが
大変良いきっかけになりました。というのは、「常識」を前提とすると、
どうしても「常識」にとらわれてしまいやすいからです。
 
そして、このような自由な発想が出来る人は、会社で重宝されやすい
ということも言えます。というのは、「常識」にもとづいた議論を
する人は社内でたくさんいましたが、逆に自由な発想のできるひと
というのはそんなにいないからです(もちろん職場にもよりますが)。
 
さらに、ビジネスマンとして競争社会を勝ち抜くためには、
人のできないことができる必要もあります。その武器として、
ディベートの自由な「思考訓練」というのは非常に大切だと思います。
MBAでも、「いかにして常識にとらわれない発想をするか」というのは
一つの命題でもありました。今の私の職場(マーケティング)では、
「創造性」BASED ON「常識にとらわれない発想」というのは、
競争社会を勝ち抜いていくほぼ唯一の武器です。
 
というわけで、他にそのような場がないといういみで、ディベート
の「思考訓練」としての役割に対するニーズがあってもいいのでは
ないかなと思います。そのニーズに対してディベートが一定の
役割を果たしうる(すくなくとも私にとっては果たした)限り、
その場は提供してあげたい、と思います。
 
「非現実的」かつ「説得力を持ち得ない」議論が頻発する、という弊害は
確かに考えられますが、現在のACADEMIC DEBATEが、エビデンスによる
立証を重視する、というスタイルを取る限り、その弊害は回避しうる
でしょう。「非現実的」な議論のエビデンスを探すというのは大変
困難(というかほぼ不可能)かつ、実り少ないからです。
 
 
>プラン,「東南アジアにトイレを作りまくる」プランなどを出すことがディベー
>トの特徴であり,それが何か奨励されている雰囲気すらありました。
 
このようなプランが出た一因はRESOLUTIONにもありましたよね???
 
 
>>「思考の前提を疑え」と言いたい。自分自身にも言い聞かせています。正しいと思っ
>>ていることが本当に正しいかどうか。たまたまその時の慣習や多数意見を受け入れて
>>いただけではないのか。
 
永遠の命題ですね。これがまた難しいんですよね・・・。
私が29にもなり、「なんだあの暇そうなおやじは???」と思われているの
を知りつつ(それでもY.Yくんより若く見えるようで嬉しい(ごめん))、
相変わらずディベート会場に顔を出す理由は、ディベートがこの絶好の訓練に
なるからです。現実に汚れて固くなった頭を洗い流し、徹底した思考を
行える場というのは、現在の環境下では、今のところ私はディベート以外には
知りません。
 
 
いかん、レクチャーのプレパをしなくては・・・
 
 
>それを強調することで,常に自分が「思考の遊戯」に陥っていないか,チェック
>する自制心を養わせるからです。
 
羨ましい・・・最近会社で気がつくのは、「これはダメだ、あれもダメだ」
と否定する理由ばかり考えてしまっている自分です。
 
 
このような意見が多数派ではないのかもしれませんが、こういうニーズが
あるんだということも知っておいて欲しいです。ディベーターのニーズ
がどんなものであれ、それを奪う権利は誰にもないと思います。
「女の子と知り合いになりたい」というニーズでもいいと思うんです
よね。(あ、別に私がそうだ、という意味ではなくて。いや、ほんとに(^^;)。
 
 

Date: Mon, 28 Apr 97 01:02:59 JST
Subject: [JDA :2562] Re: "Common sense" is a mere consequence, not a reliable guide in thinking!
 
Y.Tです。K.S君の発言を出しにして「常識」に関する私見を述べましたが、舌足ら
ずなところがありました。
 
Y.Y君の反論の一部は、常識という言葉の意味の取り方の違いに基づいています。こ
れは言葉を定義せずに複数個所において違う意味で使った私のせいでもあります。最
初の個所では「思考の結果としての規範」(我々がふだんどんなふうに考え、どんな
ふうに行動するか)、次の個所では「コミュニティの共通見解」(一般的に何が正し
いとされているか)。いちおう違うことを示してはいますが、明示的な定義をすべき
でした。そしてY.Y君の言う「共有知」は、これらと重なる部分もありますが、Y.Y
君の文章の中ではメタレベルの違うことを含んでいます(以下に示します)。
 
いずれの意味においても、常識を「遵守」すべきではない、という点では合意が得ら
れているようです。さらに言えば、常識やバランス感覚は正しい議論の十分条件や判
断基準を提供しない、ということです(以下に再び詳述します)。
 
ではディベートにおいて常識(共有知: common knowledge)をどう扱うべきか。Y.Y
君の言うとおり、何かを証明しようとした場合にはその証明がないときにどんな一般
見解がまかり通っているかを知ることは必要です(立証責任の問題にも関わる)。私
は「常識」(common knowledge)を議論のプロセスから外すべきだと主張しているの
ではありません。むしろ反対で、いわゆる常識を俎上にあげて吟味すべきだと主張し
ているのです。そして、吟味のために必要な判断基準として「常識」(個々人の暗黙
の規範やコミュニティの合意事項)を使うことはできない(そうすることは潜在的問
題の先送りである)と言っているのです。「常識」を評価するのに「常識」をもって
行うことはできない、論理で分析し、経験(証拠)で裏付ける必要がある。という、
極めて当たり前のことなのですが、これをせずに、「結局のところ、常識なんだよ、
バランス感覚なんだよ」と言って安心してしまうのが一般の人々(ディベーターを含
む)の傾向であり、これが危険だと指摘したつもりでした(K.S君はそういう一般の
人々と違うかもしれませんが、K.S君の物の言い方はこういう安易な態度を奨励しか
ねないものだと思ったのです)。
 
「ディベート界における非常識の奨励(?)」については、別のメールで書きます。
(私は決してそんなものを奨励していないことは、Y.Y君はご存じと思いますが)
 
Y.T 
 

Date: Mon, 28 Apr 97 01:04:00 JST
Subject: [JDA :2563] Re: 「常識」と「バランス感覚」
 
Y.Y君と私とで異なるのは、彼が「常識に準拠せよ」と言うのに対し、私ならば「現
実に準拠せよ」と言うところでしょう。両者には大きな違いがあります。
 
Y.Y君の指摘するような「常識を軽視しろ」という風潮がそんなに強いならばそれは
問題です。しかしその問題に対する解決は「常識を重視しろ」ではないと思います。
私に言わせれば、「現実と論理に基づいた議論をしよう」となるでしょう。現実とは
もっとも根本的な意味の現実、現にある事実のことです。「世間の常識にそって現実
的に考えよう」というニュアンスの「現実」ではありません。現実は、世間一般で認
められていること(常識、common knowledge)から独立したものであり、一致するわ
けではありません。いや、むしろ一致しない部分をさがして議論・分析することこそ
ディベートの醍醐味のひとつと言えます。
 
「常識」を軽視することも重視することも、他人の perception に左右されている点
では同根だとすら言えるかもしれません。
 
「常識からの逃避」でもなく「常識への依存」でもない、自分の目で現実を捉え、自
分の頭で判断すること。いわば、常識という perception に左右されずに、現実とい
う existent を認識することだと思います。このことがすべての優れたディベートの
出発点だと思います(call a spade a spade, to be politically incorrect!)。
 
言いたいことはそれだけ。以下は大学ディベートに関する付随的なコメントです。
 
Yano Yoshiro  on Sun, 27 Apr 97 12:02:00 JST:
>問題の一部しか捉えていないと思います。やはり全体的な原因としては,ディ
>ベート界の風潮として「常識」を軽視しろという傾向があり /あったのが問題な
>のだと思います。
>私がディベート初心者だった80年代末ではすでに,「ディベートは常識にとらわ
>れずに議論できるんだ」ということを強調するのが大学英語ディベート界の全体
>の雰囲気でありました。「地球をテコで動かす」プランや,銀河系の崩壊を救う
>プラン,「東南アジアにトイレを作りまくる」プランなどを出すことがディベー
>トの特徴であり,それが何か奨励されている雰囲気すらありました。
 
この「雰囲気」がそんなに一般的で強力なものだったかどうか...私は1989年くら
いまでは活発にジャッジしていましたが、それほど荒唐無稽・奇想天外が主流だった
とは思えません。こういうプランやケースは、その奇抜さや非常識さゆえに注目を集
めたかもしれませんが、学生ディベートを支配していたとはいえないでしょう。
 
>このことはジャッジになってもかわらず,ジャッジやコーチになっても「常識か
>らの逃避」が美徳と単純に考えている輩がいる。これこそが大学英語ディベート
>界のもっとも大きな問題の一つだと考えられるのです。
 
もしそういう人がいるならば厄介ではありますが、大学英語ディベート界の最大の問
題かどうか...判断がつきかねます。
 
Y.T 
 

Date: Mon, 28 Apr 97 01:06:30 JST
Subject: [JDA :2564] Re: 「常識」と「バランス感覚」
 
Yano Yoshiro  on Sun, 27 Apr 97 12:02:00 JST:
>思考訓練の場としてディベートを強調しすぎることは,単なる思弁屋をうみだす
>可能性を秘めていて,同意できません。
 
Y.Y君の「反論」のおかげで、「思考訓練」や「前提を疑え」という言葉が誤解を生
じうることに気がつきました。実は、私のいう思考訓練は、現実の理解ということを
前提としているので、議論のための議論、思考のための思考などを許す余地はないの
です。しかし、それはそう説明しないと理解してもらえない場合もあるということが
よくわかりました。
 
私はもちろん思考の遊戯などに耽ることには反対します。それは、ディベートが単な
る言葉のゲームや論争の技術養成ではなく、常に現実に根差した活動だと思っている
からです。
 
>では思考の前提は,どんな場合も・どこまでも疑うべきなのでしょうか?
 
「前提を疑え」という言葉で誤解を生じるかもしれません。「前提を吟味しろ」とい
うことです(私はデカルト的、ヒューム的、カント的、その他のいかなる懐疑主義も
否定します)。では「どこまで」疑えばいいのか。究極の評価基準は何か。
 
それは誰の意見でも規則でもありません。現実と論理に基づくものです。こういうと
単純に聞こえますが、過去の慣習、権威の意見、社会のルール、「常識」などを基準
に物事を判断している人がいかに多いかに気づけば、事がそう単純でないことがわか
るでしょう。
 
「前提の吟味」は「どんな場合も」行うべきか。もちろん違います。根本的な議論・
思考を行う際に行うことです。そのほかの、日常行動でいちいち物事の前提を問うて
いては、まともな生活も会話もできません。「朝起きた。なぜ自分は朝起きるのか」
「ディベートでスピーチの制限時間を守るのはなぜだろう」etc.
 
それに、いっぺん吟味し終えた規範や原則や知識は何度も応用可能で、もう一度吟味
しろといわれたらすぐに吟味し直すことができます。
 
>それを強調することで,常に自分が「思考の遊戯」に陥っていないか,チェック
>する自制心を養わせるからです。
 
「思考の遊戯に陥っていないかチェックする」上での基準は、現実への準拠です。
バランス感覚を強調されてもそれは曖昧に過ぎるのではないでしょうか。
 
>もちろんこれはディベート教育者だけでなく,実はディベーターにとっても重要
>です。例えば,リバタルなどで全てを逐一反論するのでなく,試合にinherentな
>ところを把握し,議論の瑣末な部分にはまりこまないための感覚,これを「バラ
>ンス感覚」と呼ぶのならば,これは断固軽視してはなりません。
 
私は最初からバランス感覚や常識を養うことは必要だと述べています。「バランス感
覚」が「全体を見渡して整合性をチェックする能力」ならばそれはディベートにおい
ても実生活においても必須の能力です(私は「システム思考力」と読んでいますが)。
「まとめる力」の重要性については数日前の文章でも書きました( [JDA :2526] 
Telling a story in your own words (esp. in last rebuttal) )。
 
そういうバランス感覚は生まれつき備わったものではなく、訓練と習慣によって身に
つけるべきものです。いろんな人々の雑多なバランス感覚や常識を総合して何かが判
断できるものではありません。
 
そしてよいバランス感覚は、常に現実に準拠している必要があるのです。
 
Y.T 
 

Date: Mon, 28 Apr 97 01:10:23 JST
Subject: [JDA :2565] Re: 「常識」と「バラ
 
Y.S 義典 on Sun, 27 Apr 97 23:48:16 JST:
>というわけで、他にそのような場がないといういみで、ディベート
>の「思考訓練」としての役割に対するニーズがあってもいいのでは
>ないかなと思います。そのニーズに対してディベートが一定の
>役割を果たしうる(すくなくとも私にとっては果たした)限り、
>その場は提供してあげたい、と思います。
>「非現実的」かつ「説得力を持ち得ない」議論が頻発する、という弊害は
>確かに考えられますが、現在のACADEMIC DEBATEが、エビデンスによる
>立証を重視する、というスタイルを取る限り、その弊害は回避しうる
>でしょう。「非現実的」な議論のエビデンスを探すというのは大変
>困難(というかほぼ不可能)かつ、実り少ないからです。
 
まったくそのとおりだと思います。「非現実的になる」という弊害は、現実への準拠
によって回避すべきです。常識への準拠、では、いつまた常識の「遵守」→思考停止
に戻ってしまうかわかりません。
 
(ではいかに現実に準拠するか、という根本問題にたどり着きますが、焦点をシフト
したのではありません。フォーカスしたのです)
 
Y.T 
 

Date: Mon, 28 Apr 97 03:32:51 JST
Subject: [JDA :2568] Re:  "Common sense" 
 
>Y.Y君の反論の一部は、常識という言葉の意味の取り方の違いに基づいています。こ
>れは言葉を定義せずに複数個所において違う意味で使った私のせいでもあります。最
>初の個所では「思考の結果としての規範」(我々がふだんどんなふうに考え、どんな
>ふうに行動するか)、次の個所では「コミュニティの共通見解」(一般的に何が正し
>いとされているか)。いちおう違うことを示してはいますが、明示的な定義をすべき
 
まさしくその通りで、「常識」の多義性が、この論争の一つの原因となっていますね。
 
しかし、もう一つ見逃してはならないのは、そういう多義性の一因とも
なっている、我々が「常識」と呼んでいる諸信念(beliefs)の階層的構造
及びそれらの間の全体論的(holistic)関係です。(前にもここで
書きました)
 
つまり、常識と言っているものにも、その安定性は様々だし、さらに、
相互関係というのもある。
ある常識を覆すには、さほど手間がかからなくても、別のものに
ついては、何千というその他の常識を否定する必要があったりする。
しかし、どれも個別的には覆し得る。
 
この辺を無視して、「常識」と十把ひとからげに扱うから色々と
問題が出るのです。
 
Y.Y君は比較的安定的な常識の方を考えているようであり、K.S君も
又そうでしょう。
それに対して、Y.T君は、常識的信念それぞれを個別に見た場合のその
阻却可能性(否定され得るということ)を言っているのでしょう。
そして、とりわけ、さほど深いところにない常識的信念を安易に
信用しすぎないことを強調しているのでしょう。
因みにY.T君の言う論理や経験も我々の安定的な信念の一部であり、
Y.Y君やK.S君の言う常識にもそれらは含まれているべきです。
 
 
通常日本では、常識を尊重しすぎる(又はそれに依存し過ぎる)
傾向があり、それに対しては、いかなる常識・前提をも疑い得る
ということを、ディベートが教えているのはいいことだと思います。
どんな非常識な議論でも、十分な根拠を持てば(つまり関係する
全てのその他の信念と整合がつくようにされれば)正しい議論です。
 
しかし、一つの常識は、無数の常識と共に一つの全体を形成しており、
残りの無数のものを考慮しなければならないということを
十分強調してこなかったのは、今までのディベート教育での失敗で
あったと言えましょう。(しかし、残りの無数の常識の存在は、
それこそ常識ですから、それも仕方がなかったかも)
いわゆる、Tabura Rasaの考えが最大の犯人であったと
私は思いますが。
 
>K.Sさんが,「バランス感覚」ということを強調しているのは,この点ではない
>でしょうか。思考の遊戯にふけようと思えばいくらでもできます。さして「必要
>の無い」ところまで問題にしようとする傾向,これを「議論の瑣末化」と呼ぶな
>らば,これをいさめるための便法としては,確かに曖昧ではあるものの,「バラ
>ンス感覚」という言葉は結構有効だと思います。
>
>それを強調することで,常に自分が「思考の遊戯」に陥っていないか,チェック
>する自制心を養わせるからです。
 
「思考の遊戯」は必ずしも些末な思考を意味しません。
問題の本質をつかむためには、ある程度の「思考の遊戯」は必要な
場合さえあります。
私は、今のディベータには「思考の遊戯」が必要だと逆に思います。
全体論的考慮(「バランス感覚」よりもこっちの方を使います)
を忘れなければ問題ありません。
大してうまくできてもいないmodel debateと似たような議論しかできない、
命題の質が変わっても、以前と同じような議論しかできない、といった
ことは、「思考の遊戯」の不足を表しているように思いますが。
 
 
最後に一言言わせて頂ければ、
デカルト的懐疑主義ではなく、クワイン的全体論こそが今ディベート界で
必要とされる思考でしょう。
 
Y.K
 

Date: Mon, 28 Apr 97 16:36:17 JST
Subject: [JDA :2569] debater=usable worker?
 
hi,
'jitsu-shakai ('real world') de tsu-you suru/yakudatsu debate/debater'
sounds oxymoron to me, for i think 'one' goal of academic debate is to
provide students with an opportunity to 'critique' the 'real-world.' also,
i have a problem when people start equating the 'real world' with
'business' world.  'academic' debate is a liberal art education, not a
specialized/technical training for 'would-be' businesspeople or
'salary(wo)men,' is it not?
 
i've never thought my job as a debate coach to be '(re)production' of young
people who are 'usable in the current socioeconomic structure.' i always
thought (and i still do) that is (at best) secondary to the goal of
academic debate. 
 
i may be ideologically biased; i may be too naive, too. but i wish academic
debate in japan can maintain its 'autonomy' as a critical-pedagogical
activity. i think we all have to be self-reflexive: 'whose' (common)
knowledge are we talking about? it this really a 'common' knowledge? etc.
 
i apologize if this post has offended anybody; i didn't mean to.
 
ps1 (to ono-kun): thanks for the info. i'll try what you have instructed.
ps2 (to kani-san): i like reading walter benjamin. his 'theses on the
philosophy of history' and 'storyteller' (not sure how they are translated
in japanese; i only read english version...) are among my favorites.
 
S.A
 

Date: Mon, 28 Apr 97 18:31:55 JST
Subject: [JDA :2571] Re: "Common sense" is a mere consequence, not a reliable guide in thinking!
 
 
「論争」として取り扱われるとは思っていなかった,Y.Yです
 
 
Y.Tさんの立場とは,言葉の上ほどは距離がないと感じています(というより最
初から感じていた)ので論争を続けるインセンティブはないのですが,以下は田
村さんに丁寧な反批評をしていただいたのに,そのままにしておくのは気が引け
るので,若干思弁がかった感想めいたことを述べます。
 
----
 
念のため申上げますが,「常識の遵守」は間違いだと何度も述べたとおり,私は
別に現状の「常識」そのものの擁護者ではありません。現在「常識」として通用
していること,知識として共有されていることの中には,ゴミのようなことも含
まれているのは当然です。
 
しかし「常識」(共有知)とされていることの(一部に)変更を加えようとする
なら,「常識」(共有知)とされているものをよく知り,それがどうして間違っ
ているのかを,恐らくは別の(審級の)「常識」(共有知)に訴えながらでない
と,他人を説得して「共有」させ,共有知を変更することはできないとは思いま
す。
 
確かに「常識」は事実の判断規準としては頼りないし,頼る(遵守する)必要は
ないにしろ,この意味では,どこまでも準拠せざるをえないものだと思います。
 
このことはY.Kさんも述べていることなのだと思いますが,Y.Tさんのあげる
「現実と論理に基づいた議論をしよう」という議論前提自体の妥当性は,現実と
論理だけでは恐らく証明できません。もちろん,だからといって,「現実と論
理」を判断の規準におくのが間違っているといいたい訳ではないのです。
 
ただ,その規準の妥当性を説得するには,恐らくは議論の「常識」に準拠して訴
えるしかないと思います。そして,それは近代的な社会ではまず間違いなく,さ
ほど疑われずに受け入れらる規準でしょう。私もその二つを判断の規準に置くよ
うに学生に指導するのが最も分かりやすいと思います。
 
----
 
なお青沼さんが英語で述べられていることですが,ディベートは現状の「現実社
会の批評者をもうみだすようにすべきだ」,これはもちろん賛成です。しかし,
 
さきほどの「常識の準拠」と同様,従来の現実社会のあり方を無視して,どうし
て現実社会を批判することができるのか。現実社会を変えるには,現実社会その
ものに影響を与えることが如何に可能なのか,これに通じている必要がありま
す。現実社会に準拠しない現実社会の批評など,空しいだけです。
 
私が最も述べたいのは,たぶん
 
「常識にとらわれない認識」とか「現実社会の批評」が可能なのは,「常識」や
「現実社会」に足を据えた人間だけだ。それゆえ私は,ディベートにおける「常
識の準拠」を説く
 
ということです。自分自身は,コミュニタリアンの気はあっても修正主義者だと
自己評価しております。決して常識万能論を説く,保守主義者ではありません。
 
---
 
最後に…
 
>「ディベート界における非常識の奨励(?)」については、別のメールで書きます。
>(私は決してそんなものを奨励していないことは、Y.Y君はご存じと思いますが)
 
もちろんですよ,Y.Tさん。
でも,それに近いことを奨励する輩は存在するんだよな。
それゆえ,彼らとの論争は続く
 
Y.Y
 
 

Date: Mon, 28 Apr 97 22:05:46 JST
Subject: [JDA :2573] some thoughts on the "reality' in debate
 
i agree with yano-kun. academic debate must not be a mere intellectual
'gymnastics' or 'logic game' devoid of any critical understanding or
grapsing of the 'real' in the real world. that's a reason that we have
propositions 'about the real world issues,' that students have to research
'what is out there,' etc., is it not?
 
also, saying that 'it is debaters who should define the goal/purpose of the
activity' sounds 'unreal(istic).' we all should realize, and be reflexive
about, how much influence or 'impact' we (coaches, judges, etc.) have on
our students debaters. true, each student may have one's own personal
reason for joining an ess and choosing to participate in debate. but it
doesn't mean that they are completely free agents. it doesn't mean anything
goes in debate, either. for instance, i as a coach would firmly resist if a
student of mine said something like, 'i want to learn public speaking
skills from debate, so i don't want to do library research,' 'my goal is to
master research skills, so i don't have to do speech practice,' 'i want
trophies as many as possible. i don't want to learn anything; i just want
to win whatever it takes,' etc. think about how much of such allegedly
'free choice/thinking' on the part of debaters is in fact shaped by 'our'
(=somebody else's) discourses (lectures, coaching, ballot-writing,
post-tournament bar talk, discussion on this mailing list, etc.). 
 
S.A
 
 

Date: Tue, 29 Apr 97 02:14:58 JST
Subject: [JDA :2576] Re: "Common sense" 
 
[JDA :2571]を読んで、「常識」という言葉を多義的に使う弊害をさらに
感じたせいもあり、一言、二言。
 
 
>しかし「常識」(共有知)とされていることの(一部に)変更を加えようとする
>なら,「常識」(共有知)とされているものをよく知り,それがどうして間違っ
>ているのかを,恐らくは別の(審級の)「常識」(共有知)に訴えながらでない
>と,他人を説得して「共有」させ,共有知を変更することはできないとは思いま
>す。
 
正確に言えば、「その他の我々の信念(常識を含む)と整合するように、
その信念の一部(論理を含む)及び経験に訴えて」、でしょう。
 
 
>確かに「常識」は事実の判断規準としては頼りないし,頼る(遵守する)必要は
>ないにしろ,この意味では,どこまでも準拠せざるをえないものだと思います。
>
>このことはY.Kさんも述べていることなのだと思いますが,Y.Tさんのあげる
>「現実と論理に基づいた議論をしよう」という議論前提自体の妥当性は,現実と
>論理だけでは恐らく証明できません。もちろん,だからといって,「現実と論
>理」を判断の規準におくのが間違っているといいたい訳ではないのです。
>
>ただ,その規準の妥当性を説得するには,恐らくは議論の「常識」に準拠して訴
>えるしかないと思います。そして,それは近代的な社会ではまず間違いなく,さ
>ほど疑われずに受け入れらる規準でしょう。私もその二つを判断の規準に置くよ
>うに学生に指導するのが最も分かりやすいと思います。
 
最初の段落の常識は、世界についての我々の信念。
最後の段落の常識は、(実践論理 practical reasoning)も含めた我々の論理。
 
これらを両方とも「常識」という言葉で指示するのは、この論争の
ようなコンテクストでは、議論の混乱を招くだけです。
 
 
因みに真ん中の段落での「このこと」は、何を指すのか今一つはっきりしませんが、
多分私はそのことを述べてはいないでしょう。
信念相互の連関は述べましたが、「第二不完全性定理」的なことは
言っていません。
 
 
>「常識にとらわれない認識」とか「現実社会の批評」が可能なのは,「常識」や
>「現実社会」に足を据えた人間だけだ。それゆえ私は,ディベートにおける「常
>識の準拠」を説くということです。
 
結局、「足を据えた」や「準拠」という表現をためらいなく使うかどうかという
かなり感性的なところが、この論争の分け目なのでは。
 
私や多分、Y.T氏や青沼氏やH.K氏は、変更の対象となっていない「我々のその他の信
念」との整合性を保つことは重要だとは言っても、「それらに足を据えた」り、
「準拠」したりしようとは、を積極的には言わないでしょう。
 
それらの表現は、どうしてもそういう「常識」とされる既存の信念
(ここでは、世界についての信念)をできるだけ保存しようとする
傾向を連想しがちだからです。
特に「準拠」は、準拠されるものを規範化するニュアンスがあります。
放っておいても既存の信念の体系に人は安住しがちなものです。
ですから、それらに依存しない事を警告するくらいの方が
よいのではないか。このように私は感じます。
 
「常識にとらわれない認識」とか「現実社会の批評」が可能であるには、
「常識」を含む「現実」を正しく認識していることが前提である。
 
これで十分です。足を据えたり、準拠したりしろと言う必要はありません。
 
特に、世界に対する信念は、それ程あてにならない(容易に変わり得る)
ことも多い訳ですし。(Y.Y氏が言っている常識は、かなり、こちらの
ことを指していることが多いように思います。)
 
(論理については、とりあえずは、それに準拠しないと話ができない
でしょうけど。)
 
Y.K
 

Date: Tue, 29 Apr 97 09:22:17 JST
Subject: [JDA :2578] 常識などなど
 
FROM: K.S
みなさん、こんにちは。K.Sです。
 
いやいや、日曜日に他大学のエリミのジャッジをして、帰ってきたら私の
メールでみなさん盛り上がっていました。
ちょっと、誤解があるようなので時間がないのですがコメントします。
 
元々のメール
そうそう、その通り。。最近のいろいろなメールを見ても、結局、バラン
ス感覚だと思います。両極端に走らずに、個人個人の「常識的な」バラン
ス感覚を重視すれば、一つ一つの議論では個人差さえあれ、本道から大き
くはずれることは無くなると思っています。蟹さんも書いていましたが、
こういうことは誠に定義しづらいのですが、そういうものでしょうし、ま
たそれで良いのだと思います。まぁ、個人の持つ「良いディベート=みん
なにやって欲しいディベート」のイメージによってくるでしょうかね。細
かいテクニックその他でなく、もっと大きな話のことです。
この大きなイメージ・目標に共通する部分が多ければ、個々の細かい議論
に違いがあってもそう問題はないのです。
ここまで
 
まず、これは、主にジャッジングに関して書いたつもりのものであるとい
うこと。ここで言う「常識」「バランス感覚」とは、その前提の下で、も
める言い方かも知れないので前回は使用しなかったのですが、「やって価
値のあるディベート、教育的なディベート」に関してのジャッジの「良識」
(これももめるかもね)を指しています。以前メーリングリストでも話の
あったディベートとリアリティーの話ではありません。
 
これまで私が、話してきたジャッジのなかには、ディベートを単なるゲー
ムとして捉え、楽しければいいとか、ジャッジは単にその審判員なんだと
か、言っている人がいました。こういう人にとっては、ディベートのいち
ばんの目的は勝利であり、その目的を達成するためには、どんなひどいこ
とでもやって良い、むしろすべきである、とまで考えているようでした。
これは、奇抜なアーギュメントがどうとかそういうレベルの話ではありま
せん。もっと悪質なレベルの話です。「ストラテジー」という言葉を振り
かざしてね。
はっきり言って、こういう人とディベートのあり方とか、ジャッジのあり
方について話し合うのは、かなり疲れました。最終的には、こういう人と
話し合うのは無駄なんじゃないか、と思うこともありました。ここまで極
端な人は、かなり希でしたけど。
 
私が前のメールで言いたかったのは、ディベートの目的が、単なる「論理
の遊び」ではないのだということがきちんとジャッジに認識されていれば、
個々の議論に関して、後輩たちにどういうディベートをやって欲しいか、
そのためにはどのように指導すべきかという観点から、そう「ひどい」偏
りはは生じないのではないかということだったのです。
ディベートを学ぶことの価値に関しては、人によって考え方の幅さえあれ、
根本的なところでは、「経験的に」ディベート界の「良識」を信じていま
す。
 
Y.T君が、何通かのメールでいっていた「常識」に関する話は、その通り
だと思います。ディベートはそういうものだと思いますし、自分たちもそ
うしてきましたしね。しかし、一方では、上に書いたような輩から、「そ
うだ、そうだ、何でもやって良いんだ。それを採らないのはジャッジがい
けないんだ」と誤解される恐れもあると思います。現実的には、Y.Y君の
危惧は大いに理解できます。
 
では、これからホームのジャッジに行ってまいります。
 
 

Date: Tue, 29 Apr 97 10:08:54 JST
Subject: [JDA :2579] Re: "Common sense"
 
 
 Y.Kさんへのコメント,社会学者のはしくれからの注釈(言い訳)
 
 
本質的な反論ではありません。先にも述べていますが,私には「ディベートでは
常識を軽視すべきだ」とする傾向を大変憂慮しているので,それさえ食い止めら
れればいいのです。実際のことをいうとここまでの「常識」に関する議論は,
 
>結局、「足を据えた」や「準拠」という表現をためらいなく使うかどうかという
>かなり感性的なところが、この論争の分け目なのでは。
 
このY.Kさんの指摘はスルドいと思います。「準拠」や「足を据える」というの
は,私の場合,「遵守」を含まない,ニュートラルな言葉だからです。
 
---
 
Y.Kさんは述べます。
 
>特に「準拠」は、準拠されるものを規範化するニュアンスがあります。
 
>「常識にとらわれない認識」とか「現実社会の批評」が可能であるには、
>「常識」を含む「現実」を正しく認識していることが前提である。
>これで十分です。足を据えたり、準拠したりしろと言う必要はありません。
 
そうかな? 「正しく認識している」だけではミスリーディングで,常識や現実
社会の一部を積極的に「利用」しないといけないということを強調すべきだと思
いますけどね。ちなみに私が,
 
  常識への準拠 / 常識の遵守
 
という二つの対になる言葉を使い,後者は駄目だけれど,前者は不可欠と述べた
のは実は,社会学でよくつかわれる概念をパクってのことです。
 
例えば「秩序にへ準拠しているoriented」という形で使われるのですが,この
「準拠」というのはニュートラルなものとして使われます。例えばドロボーや詐
欺師,ヤクザ,腐敗官僚の一部は,法秩序に「準拠」しています。彼らは,法秩
序がどうなっているかを(最も)よく知って,それを回避または悪用しつつも,
秩序を「遵守」してobeyおりません。
 
同様に,合法的な革新政党も,既存の秩序に「準拠」しつつ,それを変革する
(「遵守」はしない)ことも行います。(ちなみに日本の特定の自称革新政党の
ことは念頭においておりません。)
 
こうした対概念は,結構色んな応用の仕方ができて,便利でしょ。
 
Y.Kさんのように受け取る方もいるでしょうけど,これは日常のタームにも取り
入れたほうが便利な対概念だと思うけどな。
 
---
 
同様に,「足を据える」という曖昧なレトリックを弁護するとすれば,私は「宙
に浮いた」の反対語として使いました。
 
そして何故,「準拠する」とか「足を据える」と言うかと言うと,
 
「正しく認識して」いてもそれでだけでは「宙に浮いた」表現を取ることはでき
ます。例えばクワインという哲学者の全体論が,いかに世界の認識に関する正し
い(より適切)な像を提供してくれるからといって,あのクワインの原文のまま
では,私や一般人にはまったく何の実践的な影響も与えることはできないですよ。
(一部実証ずみ)
 
古い警句を借りれば,まさしくIf you go carrying pictures of Chairman Mao, 
You ain't gonna make it with anyone, anyhowということがあるとは思いません
か? 「足を据える」というのは,結構いいレトリックだと思いますけど
 
---
 
>放っておいても既存の信念の体系に人は安住しがちなものです。
>ですから、それらに依存しない事を警告するくらいの方が
>よいのではないか。このように私は感じます。
 
心情的には共感できますが,警告の部分が先に立ちすぎた結果として,今の大学
英語ディベート界のように「宙に浮いた」言葉のかけあいがもたされることも見
るべきです。
 
やはりこの警告は,「常識への準拠・足を据える」必要性と対にして語るべきだ
ったのです。
 
Y.Y
 

Date: Tue, 29 Apr 97 16:11:30 JST
Subject: [JDA :2581] Re: "Common sense"
 
Y.Tです。まだいろいろ言いたいことがありますが、もうずいぶん書いたので、
エッセンスだけに絞ります。
 
Yano Yoshiro  on Tue, 29 Apr 97 10:08:54 JST:
>>結局、「足を据えた」や「準拠」という表現をためらいなく使うかどうかという
>>かなり感性的なところが、この論争の分け目なのでは。
>このY.Kさんの指摘はスルドいと思います。「準拠」や「足を据える」というの
>は,私の場合,「遵守」を含まない,ニュートラルな言葉だからです。
 
言葉のニュアンスや使用法(多義的かつ曖昧な言葉を濫用していること)は、議論
に混乱を生じてはいますが、本質的な論点ではないと思います。
 
私は「常識」ではなく「現実」に準拠すべきであると書き、両者の違いを説明しま
した([JDA :2563] Re: 「常識」と「バランス感覚」)。多少の不正確さがあった
ので、言い直しておきます。「常識」は(そのどの意味においても)我々の知識・
理解・信念などをさすのに対し、「現実」は知識・理解・信念に先んじて存在する
ものです。「現実」は広い意味では世間の常識も含むものですが、「常識」が現実
を正しく反映しているかどうかは、debatable です。この点をY.Y君は無視あるい
は軽視しているようです。
 
その意味で、
 
>特に、世界に対する信念は、それ程あてにならない(容易に変わり得る)
>ことも多い訳ですし。(Y.Y氏が言っている常識は、かなり、こちらの
>ことを指していることが多いように思います。)
 
ですから、
 
>「常識にとらわれない認識」とか「現実社会の批評」が可能であるには、
>「常識」を含む「現実」を正しく認識していることが前提である。
 
という結論に賛同しておきます。
 

Y.Kさんは、論理や経験も我々の信念の一部だ、という言い方をしています。安定
的・不安定という程度の差こそあれ、どれも信念である(したがって変更可能であ
る)という考え方には、哲学的な異議がありますが、ここでは措いておきます(と
てもメールでやる気にはならない)。

 
最後に、私の「常識」に関する議論にコメントしてくださった皆さん、ありがとう
ございました。いつも勉強になります。
 
Y.T 
 
 

Date: Wed, 30 Apr 97 01:10:09 JST
Subject: [JDA :2586] Re: "Common sense"
 
Y.Y様
 
準拠と遵守の解説有り難う御座います。
とても社会学的な用語法です。
 
しかし、orientedと準拠とは、通常の意味ではやや離れており、
かつ、説明を読むとさらに又違うようにも思われ、「準拠」の方はよくわかりません。
 
「抵触しない」という意味なら、矛盾しない、整合する、反しない、等と
言った方がよいようにも感じるのですが。
 
一般的には、「準拠」は、何かを基準としてそれに従うことという意味で、
「遵守」は、規則などに従い、それを守るという意味ですから、
社会学でのそれらの用法は余り適切な用法だとは思いません。
妙に新語又は新用法を造るという(哲学でも一部で見られる)社会学に
よくある(と傍目には見える)傾向かなと思います。
 
注)辞林21では、準拠は
「よりどころを定め,それにしたがうこと。また,よりどころとなる事柄。標準。」
とあります。漢字の意味からしてそうでしょう。
 
>そうかな? 「正しく認識している」だけではミスリーディングで,常識や現実
>社会の一部を積極的に「利用」しないといけないということを強調すべきだと思
>いますけどね。
 
積極的な利用がなぜ必要なのかは分かりませんね。
論理は確かに使用するでしょう。
しかし、それ以外の「世界についての信念」は、場合によってはそれ程
利用しなくてよいこともあるでしょう。要は、整合するかどうか
だと思いますが。
 
 
>「正しく認識して」いてもそれでだけでは「宙に浮いた」表現を取ることはでき
>ます。例えばクワインという哲学者の全体論が,いかに世界の認識に関する正し
>い(より適切)な像を提供してくれるからといって,あのクワインの原文のまま
>では,私や一般人にはまったく何の実践的な影響も与えることはできないですよ。
 
どうもここの意図はよくわかりません。クワインは別に実践的影響を与えようとは
思っていなかったと思いますが。
 
それから表現の問題にまで話を広げるのはやめましょう。
 
ここで、ちょっと思ったのですが、Y.Y君の危惧は極めて実践的なレベル
の話なのですか?つまり、明確に嘘だと思った議論でも展開するような
ディベータに対する非難な訳ですか?
それだと、「足を据えろ」というのも分かりますが。
 
そういうことまでは考慮しないことを前提して私は話していますから、
認識するだけで十分と言うのですが。
 
Y.K
 
 

Date: Wed, 30 Apr 97 20:47:29 JST
To: jda-ml@csl.sony.co.jp (Japan Debate Association ML)
 
FROM:K.S
みなさん、こんにちは。久々に、帰りの早いK.Sです。
 
現役ディベーターのうちは、トーナメントその他あるので、なかなか教育
だのディベートの価値だのと考えることが少ないと思います。(もちろん、
奇特な人もいるとは思いますが)良いディベートしてジャッジに理解され
ずに負けてしまうよりは、少々悪いディベートでもジャッジが採ってくれ
て勝てるなら、後者を選んでしまう気持ちも分かります。現役ですからね。
また、それでも、まぁしょうがないと思っています。しかし、現役を退き
ジャッジをするからには、ディベーターと同じ気持ちでラウンドに望んで
はまずいと思います。ジャッジは、ディベーターにいろいろな形で影響を
及ぼしますから、その影響の大きさを認識し、ジャッジというものが審判
でり、かつ、教育者であるという自覚と自信を持って欲しいと思っていま
す。野球の審判とは違いますものね。
 
Y.T君は書きました。
>それと、非常識な人達を必ずしも敵に回す必要はないということがわかります
>(いえ、K.S君は敵に回したりしていないと思いますが)。彼らがもし正直に
>学ぼうとする意志と能力を持っていれば、いずれ「良識」や「バランス感覚」
>を身につけてくれるかもしれません。
>と考えている点で、私はきわめつけの楽観主義者だとも思いますが。
 
その通りかも知れないね。Y.Tは、実際の大学のディベート界からは、か
なり離れていたよね。私も、最初の頃は、Y.T君のように結構楽観的だっ
たのだけれどね。「そのうちにね」って。でも、継続的に十数年ジャッジ
をやっていると色々なことがあるんだよね。少し、疲れたこともあったし
ね。もうこれくらいで良いんじゃないかなって思うこともあったしね。
 
なんて、書いてはいるけど、実は最近は、少し楽観主義的なんだよね。数
年前に、半年間の小プロポになってから、あまりにもひどい議論はどんど
ん減ってきたし、経験の少ないチームが、そういうのに当たって困ってし
まったり、そういう議論を返すために、まっとうなプレパをする時間が犠
牲になったりすることもほとんど無くなったと思っているし。それから、
Y.Y君や、R.Y君や、獨協のK君などの、後輩の「いい人」と交流もて
て、頑張ってくれているし。
ディベート界の未来は結構明るいぜ。(ちょう楽観的かな?)
 
 

Date: Fri, 2 May 97 14:21:30 JST
Subject: [JDA :2600] Common Knowledge
 
J.M@ウェイク・フォレスト大学です。
 
 最近の常識に関する一連の投稿、とても刺激的でした。議論をする
際には現実を準拠すべきだとのY.Tさんの見解に賛成です(うちのデ
ィベート・コーチのロス・スミスは高校生ディベーターにディベート
上達法として「新聞を毎日読みなさい。それがいいストーリー・テリ
ングができるようになる一番効果的な方法だ」というようにしている
そうです。)
 
 ただ、現役ディベーターや彼らに実際にストラテジーを教える立場
にある人たちにいいたいのは、アーギュメント作りの際にはあくまで
議論の「強弱」を基準にすべきで、その議論が「本質的」かどうか、
「常識に適っている」かどうか、又は「実生活に役に立つかどうか」
を基準にすべきではないということです。あくまで強い議論の多くが
現実的な議論であるに過ぎません。(念の為にいっておきますが、別
に一連の投稿に異議を唱えているわけではありません。Y.Yさんも常
識を判断の基準にすべきではないと書かれていますし。)僕はコーチ
はディベーターを指導する際に「この議論は非常識だ」とか「この議
論を回しても実生活に役に立たない」という言い方は避けるべきだと
思います。その代わりに、「この議論は現実的ではない/説得力がない
/論理的に弱い。なぜなら・・・」という言い方をすべきです。常識・
実用的という言葉が曲解されて広まってしまうと、
 
 非常識な議論を回す奴は恥を知れ
 実生活に役に立たないことをしているやつはディベート界の敵だ
 
という風潮ができてしまうという懸念があります。確かに議論をする
際には、議論の強弱とは別に従うべき倫理があるとは思いますが、そ
の倫理と常識とは別の次元の問題である筈です。
 
 
 

Date: Fri, 2 May 97 15:37:52 JST
Subject: [JDA :2601] Re: Common Knowledge
 
hi,
whatever the term "common knowledge" refers to, I want(ed) student debaters
to learn (at least) the following:
(1) how to discern what is "really" going on in the real world
(2) how to discriminate the 'real' from the 'unreal' in the discourse
'about' the real world
(3) how to critique the 'unreal' in the discourse about the real world
(4) how to transform the real world better through an exercise of rational
argumentation
 
once again, the knowledge that academic debate offers to the students 'does
not necessarily have to be' 'usable/practical' in the narrow sense of the
term. or the question is, 'in what way' should that knowledge be
usable/useful?  does it have to serve the maintenance of the status quo? is
this what 'jitu-shakai de yakudatsu chishiki' means? 
 
_____________________________________
S.A
 

Date: Fri, 2 May 97 22:35:08 JST
Subject: [JDA :2604] Re: Common Knowledge
 
[ポイント] by Y.T
・議論の強さと「倫理」とは、本質的に(長期的に)矛盾しない。知的誠実は
 思考に整合性を与え、より強い(有効な)ディベートを可能にするから。
・議論単体で見ても、強い議論は現実に準拠しているケースが多い。
・「実用的」を基準にディベートの議論を評価しようとするのは本末転倒。
 
以下、詳述。
 
J.M
>はディベーターを指導する際に「この議論は非常識だ」とか「この議
>論を回しても実生活に役に立たない」という言い方は避けるべきだと
>思います。その代わりに、「この議論は現実的ではない/説得力がない
>/論理的に弱い。なぜなら・・・」という言い方をすべきです。常識・
>実用的という言葉が曲解されて広まってしまうと、
 
これは全くそのとおりだと思います。「非常識だ」とか「実用にならない」と
いうのはえてして恣意的な意見にすぎない場合が多いので尚更です。ディベー
トにおける議論の評価をそんな恣意的なレベルで行うことはできない。主に試
合を通じて、論理と経験をベースに評価するべきものだ、というのがディベー
トを行う前提だと思います。
 
無論、強い議論が正しいという保証はありません。戦略的・戦術的に有効な議
論というのはたくさんあります(たとえば真実ではないが反論するには骨が折
れる詭弁などはそのひとつです)。が、これを排除しようとして「正しくない
とわかっている議論を提出するのは不道徳だ」などということを言うべきかど
うか(証拠の捏造などの明白な倫理違反は別)。詭弁を正すのは論理をもって
すべきであり、その論理の行使は試合で行うべき、というのがコーチの取るべ
き立場かも。ただし、知的誠実の問題は存在します(下記参照)。
 
しかし多くの場合、強い議論、説得力を持つ議論は、現実との繋がり・整合が
明らかなことが強さの源になっています。ディベートのコーチが強調するべき
なのはそれでしょう。最後に勝つのは真実だ、という楽観主義・現実主義を私
は持っています(「最後に」という意味は、途中ではごまかしやうそが勝って
いることもよくあるからですが)。
 
>確かに議論をする際には、議論の強弱とは別に従うべき倫理があるとは思いますが、
 
議論の強弱とは別に従うべき倫理などを強調すべきだとは思いませんが、しい
て言えば知的誠実・知的正直(intellectual integrity/honesty)のことか。
自分に対してうそをつかないことで思考の整合を得やすくなり、豊富で有効な
議論を創出することができるという、ディベートに真剣に(単なるゲームとし
てではなく)取り組むことで得られる大きなメリットです。
 
そういう意味では、倫理的であろうとして議論を弱くし、試合に勝てないとい
うことは、長期的に見るとほとんど考えられないと思います。
 
もうひとつ、「これは非実用的だから良くない議論だ」というのは本末転倒、
putting the cart before the horse です。実用的たらんとして議論している
のではありません。現実世界を正しく知ることによってよりよい意思決定を行
う、という assumption がディベートの目的として認識されていれば、こんな
本末転倒は起こさないでしょう。
 
これは [JDA :2601] Re: Common Knowledge での青沼の意見と同じです。
 
Y.T 
 
 

Date: Sat, 3 May 97 14:48:59 JST
Subject: [JDA :2607] 実用的なアーギュメント?
 
こんにちは、Y.Sです。
 
アーギュメントの実用性が話題になっていますが、仮に私の発言
に対してだとすると、誤解が生じているようなので一言。
 
私がディベート実用性云々をアーギュメントと絡めて行った
発言は、アーギュメントが実用的だと言っているわけでは
なくて、アーギュメントを構築するプロセスが実用的だと
言っています。例えば、ゲーム理論を考えながら、どのような
アーギュメントをつくれば勝ちやすいか、という戦略的な部分から、
どのように組み立てればより論理的になるか、という部分まで含めて、
そのような過程が実社会(私はビジネス経験しかないので、ここでは
一応ビジネス社会としておいたほうがいいかもしれませんが)で
役立つ、と言っているわけです。
 
私は私見をディベーターに押しつけるつもりはありませんが、
ただ、そのようなことを学ぶ機会がある、ということはディベーターに
教えてあげたい、ディベーターがディベートから得られるものの
選択肢を増やすことにより、ディベートに対してより真剣に取り組む
ようになればいいと思うし、その結果としてディベートがより普及
してくれればいいとは思います。
 
 
 

Date: Sat, 3 May 97 21:10:04 JST
Subject: [JDA :2608] とことん考える、納得できない議論は使わない
 
S.Yです。
 
なんか妙なタイトルですが、今回のメールで言いたいことはこれなので、タイトルに
しました。議論になっている、「常識」「実用的」といったものとも絡むと思いまし
たので投稿します。
 
Y.Yさんの、常識に準拠せよ、という議論も有益だとは思うのですが、それを主張す
るだけでは、効果が薄いということが分かりました。何か問題のある議論を出してい
るディベーターに言うべき言葉は、
 
「考えることをやめるな、納得のいかない議論を出すな」
 
ということが一番大事だと、ジャッジの現場で思いました。これは主にY.Tさんの考
え方に近く、一部Y.Sさんの考え方に近いです。
 
 
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今日、全国中学・高校ディベート選手権の関東地区予選のジャッジに行って来ました
。この大会は、バロットを書かず、その場で5分間考えて、口頭でディシジョンを出
すので、ディベーターとのコミュニケーションが密(負けたチームの抗議がダイレク
トに来る)という点と、引率の先生(おそらく議論のほとんどを作っている)がどん
どん抗議してくるところが英語ディベートと違います。
 
さて、今日のジャッジをしていたとき、最低限の立証の基準をめぐって、引率の先生
との論争がありました。
 
「首都機能移転すべき」という命題で、肯定側が、「今は一極集中だ、だから多極分
散する必要がある」「遷都はその起爆剤になる」という議論を提示しました。私は、
反論がほとんどなかったにも関わらず、この立論をほとんど採りませんでした。
 
理由は、「一極集中」がなぜわるいのか全く説明がなかった。
    「多極分散」がなぜよいのか全く説明がなかった。
    「起爆剤」とはなんなのか、起爆して誘爆するものがあるのか、
     全く説明がなかった。
 
ということでした。
これに対し、
 
1.「ディベーターが何も反論していないのに、ジャッジが勝手に決めていいのか」
2.「新聞とかを読めば、一極集中が悪いことはあたりまえではないか」
 
という反論が引率の先生からありました。
 
1.に関しては、最低限の立証が満たされていなければ、相手の反論の有無を問わず、
ジャッジとしては採用し得ないことを説明しました。考え方としては納得してもらえ
ましたが、「厳しすぎる」と不満そうでした。
 
2.に関しては、1.と絡むのですが、会話していくうちに、その先生の、「こんなこと
常識じゃないか」という考え方に問題があることが分かりました。つまり、「新聞に
書いてあるから」「みんな必要と言っているから」という段階で、「思考停止」して
しまっているのです。
 
 なぜ一極集中がわるいのか、なぜ改革が必要なのかを考えようとせず、「一極集中
が悪いというのは常識」といい、それで十分説得的であると考えてしまっているので
す。これでは、自分の思考を誰かに預け、なんらかの権威のある人の決定に理も非も
なく従う、ということになってしまいます。
 
 ディベートは、自分自身で判断すること、重要性、解決性とリスク解析を根拠とし
て自分の頭で判断することを学ぶところです。そのためには、常に、自分自身の議論
に、「なぜか」と問いかけ、それが納得できるまで事実を調べ、それを評価する、考
える必要があるのです。
 
 それがきちんと出来ていれば、「常識」などという言葉に惑わされることもありま
せんし、立証の最低限の基準をクリアできないことなどを心配する必要はないはずです。
 
 
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以下は、最近の、「常識」議論に関連して。
 
 
「エビデンスが言っているからいいじゃん」
 
 この言葉は、得てしてろくでもない、Y.Yさんなどが批判している、organ transp
lantを、オルガンの移動といったり、terminate JUSTは、JUSTの機能を限定するとい
ったりする、突拍子もない議論や、「社会的弱者など死んでしまえばいい」「死刑囚
に人権はない」などなど、いわゆる「非常識」な議論を出しているディベーターや、
それを容認するジャッジから聞かれる言葉です。
 
 どうして、その証拠がそういうことをいっているのか、その理由は何か、自分で考
えようとしないのでしょうか。本に書いてあるからと言って、いくらでも間違いはあ
ります。とんでもない本もたくさんあります。
 
 そのような議論を提示している人が、本当に、「社会的弱者などしんでしまえばい
い」と信じているとは思えません。ディベートでは、勝つためには「嘘も許される」
、ただ、「証拠があればいい」と、自分自身を欺いているのです。あるいは、消極的
に、「新聞に載っているから、それでいい」と、「それ以上考えない」ということで
、自分をごまかしているのです。
 
 「常識に準拠した議論をせよ」というより、私は、
 
「自分の頭でとことん考えろ、そして自分自身が納得できた議論だけを使え」
 
というほうが適切であると思います。無論、戦略的に意味のある議論であることも別
途要求されますが、このことさえ忘れなければ、いわゆる非常識な議論など恥ずかし
くて出せないでしょうし、モデルをただ真似る、という事もなくなるはずです。反駁
での議論の説明にも迫力が出るでしょう。また、良い証拠資料を見つけだすことも出
来るはずです。
 
 ディベートの指導者の皆さんには、ぜひこれをディベーターに認識させて欲しいと
思います。
 

 

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