Subject: [JDA :4505] RE:RE:Re: Debate Koshien experience K.Nです。 また顰蹙を買うかもしれないのですが、夏セミナーの季節でもありますので、CP のFiat議論について、おさらいを含めてもう2・3。 CPのFiatを容認する議論としては、先のメールで述べた観点も含めてもう一 度整理すれば、 1.ジャッジ自らが政策施行者に擬制して、あるいは現実の政策施行者に選択肢を 勧告する立場として位置づける前提 <中略> 2.モラルオブリゲーション これも現役の人には聞きなれないでしょうが、太古の昔は存在した概念です。即ち 、日本政府に対してよりよい政策の選択をモラルとして想定する前提に立脚するも ので、念入りの人は[Should]の定義からもっともらしいものを引っ張り出 してきて(すいません京大です)、その前提を立証しようとしたバリエーションも あります。 <中略> 3.Should=Best いわゆる「とんでもセオリー」の範疇ですので、無視しましょう。 何らかの思想的バックグラウンドに立脚したセオリーの、何らかの側面支援の論証 として、かかる定義を使用するならまだしも。 4.必要条件の検証(PlanとAD/DAとの関係において) もういいです。その検証の必然性の根拠が全然わかりません。
Date: Tue, 11 Aug 98 14:38:01 JST Subject: [JDA :4508] Re: Debate Koshien experience K.Nさんが最近フィアット関連の投稿についてコメントします。 先ず最初に言いますが、counterplanのfiat自体を認めることには何の問題もないで す。今までのfiatに関する議論が混乱していたのは、fiatの問題とCPが命題的行為の 当為性を否定できるかという問題とをごっちゃにしていた点です。これについては別 稿で書きます。 Y.K
Date: Tue, 11 Aug 98 16:12:19 JST Subject: [JDA :4509] Fiat and CP さて、ここでも以前に書きましたが、fiatが何であるかについて皆さん大きな誤解を しています。Fiatがshould-would argumentを予防するために考えられたという経緯 がこの概念の理解を著しく歪めてきたと思われます。 その経緯により、fiatは、should命題に由来するものとされ、現実にあることの仮想 的想定だとされ、CPについてfiatが適用されるとは、planと全く同様にfiatを扱うこ とであるとされてきました。つまり、fiatがあるならば、planの帰結を以って命題の 是非を考えるのと同様に、cpの帰結を以って命題の是非が考えられるとされてきまし た。 誤りはまさにここにあります。代替的行為の存在が、ある行為命題を正当化するかど うかという問題は、fiatとは別の問題です。それを同一視してしまったのがすべての 混乱の始まりと言えるでしょう。 <fiatとは> それでは、fiatと言うのは、一体何なのかということに目を移しましょう。 fiatは、should-would argumentを否定するために考えられましたが、should-would argumentが妥当でないことを言うのに、fiatという概念は必要だったのでしょうか。 should-would argumentは、命題的行為が現実に為されるか否かは、命題的行為を為 すべきかどうかには関係がないという点で妥当でないとされます。 ところが、fiatは、命題的行為が為されるという仮定だとされています。この仮定自 体は、上記の論点とは独立です。 つまり、fiatという概念は、should-would argumentを否定するのに無用なものだっ たのです。 それでは、一般に命題行為が為されるという仮定というのはfiatがない と保証されないのでしょうか。 このfiatによる保証ということ自体がおかしな考え方で、命題的行為の帰結を考える 際には、命題的行為の実行を想定せざるを得ない(「もし、命題行為を行えば、〜と いう帰結が生じる」−帰結には前提が必要)という論理的な関係が、fiatにより保証 されるとされていることの実体なのです。 そうすると、fiatというのは、条件文での前提−帰結関係を表す一種の比喩に過ぎな いということになります。fiatという概念を立てなくても、命題的行為の帰結を考え る際には、それを前提せざるを得ませんから、何の問題もないです。 <中略> そうすると、命題的行為にせよ、CPにせよ、その帰結を考える際に、fiatが与えられ ないということは有り得ない訳で(と言うよりも、上記のように理解するとfiatは与 えるとか与えないとか選択できるものではないのですが)、「CPのfiatがない」とい うのは無意味な表現です。 <CPが命題行為を否定できるかが問題> それでは、'CP as DA'の考え方やその帰結(CPの実現可能性を証明しないといけな い)は、全く無意味なのでしょうか。そんなことはありません。これらのことは、 fiatとは全く独立なことです。 ここで関っているのは、CPが命題的行為を否定できるかとう論点です。 <中略> 代替的行為の帰結を考える際にそれを前提するのは当然ですが、そのような帰結を生 じるはずの代替的行為の存在自体が、即命題的行為を否定するかどうかというと怪し いものがあります。 なぜ怪しいかを説明する一つの議論が'CP as DA'です。この議論は、要は、「例え代 替的行為の可能性が命題的行為により犠牲になるとしても、そもそもそういう行為が 行われる可能性が0なら、そんな可能性に一体何の意味があるのか。」というもので す。 又、同じことはこうも言えます。 代替的行為の帰結が正当化するのは、その「行為を為すべき」という命題に過ぎない のであり、それは必ずしも、「命題的行為を為すべき」という命題を否定しない。 <中略> 上記の'CP as DA'が示すことは、命題(又は命題的行為としてのプランの当為性)を 否定できるのは、現実のみだと言うことです。 <中略> <CPが命題的行為を否定できる論拠> それでは、代替的行為とその帰結(CPとCPAd)とを命題的行為の当為性に関係付ける 手段はないのでしょうか。 強いて挙げれば、命題の行為主体の「行為の文脈」というのがあると思います。 つまり、行為というのは、とりわけ政府の行為というものは、無目的に行われる訳で はなく、何等かの目的のために行われる訳で、実際、ディベートでの行為の帰結によ るその正当化というのは、それを前提している訳です。 そうであれば、CPは、単なるDA以外に機能し得る可能性があります。(但し、それで も、counter-agent counterplanはDAにしかなりません。行為主体が違うからで す。) つまり、ある行為の目的の為に、別のよりよい代替手段が実行可能であるならば、行 為主体は当然それを選ぶであろうと想定することは可能です。 しかし、ここでも、無制限に代替手段の範囲があるとは限りません。つまり、行為主 体の意図をある程度考慮する方が安全かと思います。 行為主体は、自分が行ってよいと思っている範囲から行為を選択する、という前提を おいた方がよいかと思います。多分、この前提で限定された範囲からの選択というの が、最も安全に想定できるものだと思います。この想定は、行為主体の合理性の前提 に含まれるものだと思います。 それに対して、最初に考えたあらゆる実行可能な範囲からの選択という想定を立てる にはもう少しjustficationが必要な気がします。 <後略> Y.K
Date: Wed, 12 Aug 98 01:24:37 JST Subject: [JDA :4515] RE: Re: Debate Koshien experience K.Nです。 仕事で疲れて帰ってきたらすごくスリリングなことになってたので、目が覚めまし た。 Y.Kさん曰く >先ず最初に言いますが、counterplanのfiat自体を認めることには何の問題もないで >す。 このおっしゃり方は少しミスリードでは?Negがラウンドで無意味な時間を費や してCPを語るのは勝手だが、という文脈でなら、確かに「何の問題もない」とは 思いますが、問題はFiatをNegに認めることが意味ある議論となりうるかど うか、ということだとすれば、Y.Kさんのスタンスからすれば、やはり「問題あり」 ということなのでは? また後述の私のスタンスからしても、NegにFiatを認めるためには、ある前 提が必要であり、手放しで「何の問題もない」とは言えません。 <中略> Y.Kさん曰く >そうすると、fiatというのは、条件文での前提−帰結関係を表す一種の比喩に過 >ぎないということになります。fiatという概念を立てなくても、命題的行為の帰結 >を考える際には、それを前提せざるを得ませんから、何の問題もないです。 >ここで関っているのは、CPが命題的行為を否定できるかとう論点です。 ポイントがそこだというのは分かります。FiatがNegに対して、与えるなら 与えるでかまわない、問題はそれがNegの時間の無駄に終るのか、意味ある議論 になるのか、ということなんだ、という風に厳密に区別して議論するべき、という ご趣旨は分かります。 ただ、これは「Fiat無用論」という誤解を招くという意味では、結果としてミ スリードな匂いもします。比喩である、ということは、有用なる「前提・帰結関係 」と実体として同一である、ということなのではないでしょうか。 <後略>
Date: Wed, 12 Aug 98 16:23:50 JST Subject: [JDA :4516] Re: fiat and counterplan >先ず最初に言いますが、counterplanのfiat自体を認めることには何の問題もないで >す。 > > >このおっしゃり方は少しミスリードでは?Negがラウンドで無意味な時間を費や >してCPを語るのは勝手だが、という文脈でなら、確かに「何の問題もない」とは >思いますが、問題はFiatをNegに認めることが意味ある議論となりうるかど >うか、ということだとすれば、Y.Kさんのスタンスからすれば、やはり「問題あり」 >ということなのでは? >また後述の私のスタンスからしても、NegにFiatを認めるためには、ある前 >提が必要であり、手放しで「何の問題もない」とは言えません。 > fiatの概念を、その由来に基いて適切に解すれば、という前提付きで、何の問題もな いし、上記の発言は誤解を招くものではないでしょう。 K.Nさんのこの懸念により逆に、誤解されたfiat概念が照射されたような気がしま す。 つまり、本来はある行為(=命題的行為)の帰結を考える文脈(local)に於いての 論理的前提としての「行為遂行の仮定」を指していたはずのfiat概念が、いつのまに か、あらゆる文脈(global)に於いての「行為遂行の仮定」を意味するようになったと いうことです。 それによって、CPが、fiatされているということだけで、命題的行為を否定すること ができるものになるという誤解が生じたのでしょう。 つまり、どのような場合でもCPが実行される可能性を問う必要がないという誤解が生 じた訳で、これによって、実行される可能性を問うことなく、opportunity cost (DA)として機能できるようになったわけです。 <後略> Y.K
Date: Wed, 12 Aug 98 21:55:35 JST Subject: [JDA :4517] RE:Re: Debate Koshien 蟹さん、K.Nさん、こんにちは。K.Sです。 <中略> >>4.必要条件の検証(PlanとAD/DAとの関係において) >> >>もういいです。その検証の必然性の根拠が全然わかりません。 > >これは、現実に明示的に論じられたものとしては、今まで最も有力だとされてきた立 >場でしょう。 必要条件を求めるという立場は、K.Nさんがいつも言うほどおかし な考え方ではないですよ。 CPで論題が否定できるかどうかという問題に関しては、私もこの立 場が一番有力だと考えております。私は、肯定側に対して、論題の 十分条件さえ証明すれば良いという立場を取っているのですが、必 要条件必要派?のジャッジの人たちといろいろ話をするうちに、こ の論点に関しては、個人の考え方次第であるのが分かりました。 (例えば、青沼さんは必要条件必要派です。) 私やK.Nさんのように、「なんで必要条件まで証明せんとあかん の?」ともともと考える人たちには、必要条件の必要性をいくら説 明されてもあまり納得がいかないようです。そしてまた、逆も同様 なのです。 つまり、双方の立場とも正当だと思いますので、必要条件を求める 人は求めれば良いし、そうでない人は十分条件のみでよろしいとい うことですね。
Date: Thu, 13 Aug 98 01:26:10 JST Subject: [JDA :4520] RE:RE: Re: fiat こんにちは。K.Sです。 <中略> K.Nさんの文章に、何度か「カウンタープランにFiatを認める」と か「CPを認める」とか出てきますが、このような言い方がディベー ト界一般のこの議論の認識を間違ったものにしているような気がし ます。(もちろんK.Nさんはそうではないと思いますが。)上記の 言い方だと、問題は、否定側にCPを出す権利はあるのかどうかに思 えてしまいます。しかし、否定側は、いついかなる時にもカウンタ ープラン(対抗命題)を提出して良いのです。(ディベート甲子園 のように、ルールで禁止されていなければ。) 問題は、それでプラン(論題)が否定できるかどうかです。 少なくとも今後は、Fiatと言う言葉を使用しないで議論を進めれば、 誤解も生じず、論点もはっきりしてくると思います。 如何でしょうか?
Date: Thu, 13 Aug 98 06:17:41 JST Subject: [JDA :4521] Re: fiat >こんにちは。K.Sです。 > ... >尚、ここで言う「CPの必要条件の話」とは、Counterplan as >Justification(論題、プランの必要性を否定する対抗論題、プラ >ン)のことで、 「必要条件」が必要だとを主張する人はそういう風に理解している訳ですね。 帰結と行為との関係は論理的関係ではなく、物理的な因果関係ですので、帰結の必要 条件というのは実は結構訳の分からないものです。因果関係の逆方向を考える訳です から。 単に帰結に至る代替的な経路(因果関係といってもよい)があるかどうかという問題 に還元してしまうとすると、多分、「必要条件」の必要性を主張する人は、その十分 性が成り立っている状況から勘違いしているのではないかと思います。 つまり、命題的行為以外の帰結に至る経路がない場合には、当然命題的行為は正当化 されますが、これは十分性を示しているだけです。 何等かの帰結との関連で行為が正当化されるときには必ず、その帰結に至る経路は命 題的行為しかないのか?他の経路があるとしても命題的行為を為すべき場合はないの か?この問いに答えなければ必要性は示されません。 この場合、問題は先に指摘した行為の文脈についてのものに重なります。 しかしここでの問いに答えずに、「必要条件」の必要性を主張する人は、それを前提 して、何らかの可能な経路が存在すれば命題的行為は正当化されないと考えてしまっ ているようです。いわゆるユートピア・カウンタープラン等の荒唐無稽な選択肢が命 題的行為の正当性を否定できると思ってしまうのはそのせいです。 命題的行為の必要条件が証明されなければならないかどうかは、論理的に決まる訳で はなく、我々の行為の正当化についての直観及び経験に適合するように決定されるべ きことです。 端的に言って、上記の問いは必要性を否定する方向で答えられると思います。 非常に望まれる帰結を生じ得る行為があったとして、それへの代替的経路が現実的に 不可能に近い場合は、依然としてその行為は為すべきではないでしょうか。 或いは、代替的経路が行為者の管轄下にないものであって(例:行為の主体が違 う)、且つ現状ではその代替的経路により帰結が発生する見込みがない場合(例:そ の別の行為主体が代替的経路に相当する行為をやりそうもない)には、やはり当該の 行為者は当該の行為を為すべきではないでしょうか。 これらの例は、必要条件の「必要性」が成り立たないことを示すに十分だと思いま す。 注意しておきますが、必要条件は「必要でない」ことから、直ちに十分条件が「必要 十分」だと言える訳ではありません。後者は又別の問題です。 私は十分条件は逆に「必要」だが、「十分」ではないと思います。つまり、ある限定 された場合に限っては、行為から帰結が生じるということだけでは、行為は正当化さ れないこともあると思われます。 行為の正当化の真の必要十分条件は、「行為の帰結に対する十分性&α」or Qでしょ う。このαの中には、代替的行為に関連する条件が含まれ、 Qの中には、帰結によらない行為の正当化の規準が含まれるでしょう。 行為の帰結に対する十分関係が命題的行為の正当化の必要十分条件だと言う人は、そ のある部分を過小評価しており、必要関係も含まれるべきだという人は、その部分を 過大評価しています。 そして、両者とも、別の種類の部分を見落としています。 <後略>
Date: Thu, 13 Aug 98 10:16:08 JST Subject: [JDA :4522] How can C-P deny 'should'? R.Yです。Counterplanがどういう理由で命題を否定しうるのか、という議 論、大変興味深く拝見しています。 (Y.Kさん曰く) >行為の正当化の真の必要十分条件は、「行為の帰結に対する >十分性&α」or Qでしょう。このαの中には、代替的行為に >関連する条件が含まれ、Qの中には、帰結によらない行為の >正当化の規準が含まれるでしょう。 以前、とある方のJudging Philosophy(それとも、セミナーのレジュメ だったっけな?)を見ていて、以下のような趣旨の表現を目にしました。 「命題的行為(Topicalなアクション)のNet-benefitがStatus quoを 上回り、なおかつその行為と競合するより優れた代替案が存在しないとき に、命題の"should"は肯定される。」 これはCounterplanの存在意義をむりやり発生させた、作為的な"should" の解釈だと、はじめは感じました。しかし、よくよく考えてみると、この フィロソフィーは、"should"という言葉から私達が受ける直観的意味に、 よくマッチしているような気がするのです。皆さんは、どうお感じになり ますか? はじめからこのように"should"を解釈すれば(=行為正当化の必要十分条件 を示せば)、Counterplan as opportunity cost, counterplan as justificationなどの考えを取る必要がなくなって、フィロソフィーは とてもシンプルなものになると思いますが、、、。
Date: Thu, 13 Aug 98 13:41:16 JST Subject: [JDA :4525] RE:'should'? こんにちは。K.S@職員室です。今日は学校で日直です。 >R.Yです。Counterplanがどういう理由で命題を否定しうるのか、という議 >「命題的行為(Topicalなアクション)のNet-benefitがStatus quoを >上回り、なおかつその行為と競合するより優れた代替案が存在しないとき >に、命題の"should"は肯定される。」 >はじめからこのように"should"を解釈すれば(=行為正当化の必要十分条件 >を示せば)、Counterplan as opportunity cost, counterplan as >justificationなどの考えを取る必要がなくなって、フィロソフィーは >とてもシンプルなものになると思いますが、、、。 (上の「行為正当化の必要十分条件」という部分が少々気になりま すが。まぁ、おいときましょう。) そもそも、初めからそのようには解釈できない人がいて、その立場 もそうとうに妥当であることが、これまでの議論の論点であり、決 着のつかない原因でもあるのです。 私個人としては、自分の言語感覚から、上記のような立場を取って おります。つまり「より優れた代替案が存在しないとき」に「〜す べきである」と言う言葉が肯定されると考えているからです。もち ろんこのような立場を取れば、counterplan as justificationとい う考え方も要らないのです。 しかし、ことはそれほど単純ではないのです。 先のメールでも書きましたが、問題は「肯定側のプランと”同じ” メリットを得る代替案が存在しないときのみ肯定される」という shouldの解釈も、上記の解釈と同程度に可能であり、そのもとでは 「肯定側は、論題(プラン)からあるメリットが発生することを示 すだけでは不充分で、論題(プラン)”のみ”からそのメリットが 発生することを証明する義務を負う」という考え方も妥当であると いうことなのです。 従って、R.Yさんが挙げている「解決案」も、単に私やK.Nさんの 「思いこみに近い」shouldの解釈を全てのジャッジが採択すべしと 言っているにすぎないわけです。そういう考え方をそもそも出来な いという人に対して、所謂「Fiat」をかけているようなものですね。 私はそれでも良いのですけど。(^^)
Date: Thu, 13 Aug 98 22:02:31 JST Subject: [JDA :4529] RE: RE:'should'? K.Nです。 K.Sさん曰く > しかし、ことはそれほど単純ではないのです。 ・・・上記の解釈と同程度に可能であり・・・単に私やK.Nさんの 「思いこみに近い」shouldの解釈を全てのジャッジが採択すべしと言っているにす ぎないわけです・・・。 確かにShouldは包容力がありすぎて、どんな要請でもShouldの一言で ディベートの中に組み込めてしまう点は、危険な要素をはらむものですね。 その意味では、確かになぜ代替案を消化しないとShouldと言えないのか、な ぜ必要十分条件を要求する立場を排除できるのか、説明にはすこし言葉を要します ね。 少なくとも今まで必要十分条件の根拠が全く無かったのに比べれば、それがSho uldの解釈に依拠する、という論点が新たにK.Sさんから示されただけでも収穫 だとは思いますが、やはり僕にはそれでもなぜ必要十分条件をShouldの意味 に込めることができるのか、どうしても理解できません。余りにも唐突すぎてそれ を単にジャッジ間の主観の違いとして許す感情も産まれません。 少なくとも代替案の話までなら、許容範囲というか、現実の政策決定過程として、 まあ自然な範囲にあると思うのです。 むろん現実の政策決定過程という外生的概念を導入する正当性がどこにあるのか、 との問いもあることでしょうが、Japanese.Gobernmentが主語 にある以上、その現状の行動規範を前提にすることは、かなりリーズナブルであっ て、むしろ否定するほうが難しいくらいでしょう。 むろんその行動規範がどこまでをカバーするものなのかは各論としていろいろ論争 があるわけで、多少のアローワンスの中でいくつかのバリエーションはあるのでし ょうが。 またかつて現実の行動規範と、理想としての行動規範とのギャップが価値論の論点 で蟹さんから指摘されたこともありますので、迂闊なことはいえないのですが、我 々がJapanese.Governmentの行動規範として要求できる範囲が 、さほど極端な個人差があるものとも思えません。歴史的に形成され蓄積されたあ る一定のミッションによってのみ、政府はその実体を正当化され、組織化されるか らです。無論いろんな思想家がいますから、右から左からと、ある程度の幅は存在 することでしょう。 ただ少なくとも言えることは、ディベートでは必要十分条件を主張するひとでも、 現実に選挙で投票する際に、まさかの政策の必要十分条件を要請するひとはまず皆 無と断言してもよいのではないでしょうか。 <後略>
Date: Fri, 14 Aug 98 03:53:02 JST Subject: [JDA :4530] RE:RE: RE:'should'? FROM:Kazuhiko Seno こんにちは。K.Sです。 >K.Nです。 >少なくとも今まで必要十分条件の根拠が全く無かったのに比べれば、それがSho >uldの解釈に依拠する、という論点が新たにK.Sさんから示されただけでも収穫 >だとは思いますが、やはり僕にはそれでもなぜ必要十分条件をShouldの意味 >に込めることができるのか、どうしても理解できません。余りにも唐突すぎてそれ >を単にジャッジ間の主観の違いとして許す感情も産まれません。 私としては、新たな論点として書いたつもりはありません。政策デ ィベートでは、カウンタープランを含めどんな議論も結局は、 shouldという言葉にからめて考えざるを得ないという至極当たり前 のことを述べたに過ぎません。個人的に、現役の頃から、どんな議 論を考える際にも、そのようにしか考えたことが無いのです。 shouldという言葉を中心に考えればおおよそ大抵の議論、理論はそ の活かし方が見えてくるのです。逆に、そうしないと(そうしない から)、実際には根拠の無い訳のわからんセオリーが大手を振って まかり通るのではないかと思います。 K.Nさんは、まだ 「それでもなぜ必要十分条件をShouldの意味に込めることが できるのか、どうしても理解できません。余りにも唐突すぎてそれ を単にジャッジ間の主観の違いとして許す感情も産まれません。」 と書いていますが、必要条件必要派も同様に、「なぜshouldを証明 せねばならぬのに、K.Nさんは、十分条件だけで十分だなどと言っ ているのだろう。論題が必要だと証明されねばshouldとは言えない のは明白なのに。K.Nさんのような恣意的な解釈はどうしても理解 できないし、また主観の違いというだけで許す気にもなれん。」 と思っているのですよ。申し訳ないのですが、自分の言語感覚のみ を絶対正しいと思いこみすぎて、それ以外の解釈の存在が見えなく なっているのではないでしょうか。 これは、前回のメールで述べたとおりです。 繰り返しますが、ジャッジのshouldという言葉の捉え方が全てだと 思います。Philosophyに明示してあれば、上記のような二通りの考 え方があってもなんの差し支えもありません。ひとつの答えを出す べき問題でも無いように思います。
Date: Fri, 14 Aug 98 08:03:17 JST Subject: [JDA :4531] Re: 'should'? K.S様 >>R.Yです。Counterplanがどういう理由で命題を否定しうるのか、という議 > >>「命題的行為(Topicalなアクション)のNet-benefitがStatus quoを >>上回り、なおかつその行為と競合するより優れた代替案が存在しないとき >>に、命題の"should"は肯定される。」 >>はじめからこのように"should"を解釈すれば(=行為正当化の必要十分条件 >>を示せば)、Counterplan as opportunity cost, counterplan as >>justificationなどの考えを取る必要がなくなって、フィロソフィーは >>とてもシンプルなものになると思いますが、、、。 > > (中略) > >私個人としては、自分の言語感覚から、上記のような立場を取って >おります。つまり「より優れた代替案が存在しないとき」に「〜す >べきである」と言う言葉が肯定されると考えているからです。もち >ろんこのような立場を取れば、counterplan as justificationとい >う考え方も要らないのです。 これはK.Sさんの文でしたか。 それでは聞きますが、上記の文はshould文が肯定される必要十分条件を示しているの ですか。 先程は、私は「競合する」という語句を見落としていたのですが、「競合する」とい う語句を考慮すると、上記の文での前提は、 「命題的行為(Topicalなアクション)のNet-benefitがStatus quoを上回る場合」 に還元されると思いますが(競合するより優れた代替案の存在をDAの存在と解釈する と)、そうすると、should文肯定の必要十分条件を示すものと解釈してもK.Sさんの 立場と整合すると思われるので。 「〜のときに」という言葉は、日常的には「〜のとき且つそのときのみ」の意で使用 されていることもありますから、今回はこう考えたのですが。 以下の文面からも、この解釈でいいかと思いますが、どうでしょうか。 >先のメールでも書きましたが、問題は「肯定側のプランと”同じ” >メリットを得る代替案が存在しないときのみ肯定される」という >shouldの解釈も、上記の解釈と同程度に可能であり、そのもとでは >「肯定側は、論題(プラン)からあるメリットが発生することを示 >すだけでは不充分で、論題(プラン)”のみ”からそのメリットが >発生することを証明する義務を負う」という考え方も妥当であると >いうことなのです。 Shouldについて >私としては、新たな論点として書いたつもりはありません。政策デ >ィベートでは、カウンタープランを含めどんな議論も結局は、 >shouldという言葉にからめて考えざるを得ないという至極当たり前 >のことを述べたに過ぎません。個人的に、現役の頃から、どんな議 >論を考える際にも、そのようにしか考えたことが無いのです。 >shouldという言葉を中心に考えればおおよそ大抵の議論、理論はそ >の活かし方が見えてくるのです。逆に、そうしないと(そうしない > (中略) >繰り返しますが、ジャッジのshouldという言葉の捉え方が全てだと >思います。Philosophyに明示してあれば、上記のような二通りの考 >え方があってもなんの差し支えもありません。ひとつの答えを出す >べき問題でも無いように思います。 > "should"という言葉の意味が鍵なのではないのではないかと私は思います。"Should" という言葉自体の基本的な意味については我々は理解を共有していると思われます。 問題は、それを現実のあらゆる場合に於いて使用するときの規準というものがはっき りしないということだと思います。 これは例えば、「赤」と「ピンク」の境界がはっきりしていないけれど、我々は「 赤」という言葉の意味の理解を共有しているのと同様です。 さらに、"should"の場合は、色の場合や、或は「面白い」という言葉の適用の場合と 違って、公共的な規準はよりはっきりしているのではないかと思います。 それは個人の感覚次第ではなく、社会的にある程度規定されていると思われます。 それでは、どのようにshouldの使用を明らかにしていけばよいかというと、それは漠 然とshould文が肯定されるのは、代替案が存在しないときのみかどうかを問うことに よってではなく、より詳細な事例を考えて、そのときの判断に適合するように、条件 を規定していくしかないと思われます。我々には一般的な規準がどんなものかは分か らなくても、個別の判断はできることはあります。 今必要なのは、もっと条件を細かくして検討することです。 例えば「代替案が存在する」という言葉は非常に曖昧です。現実的には実行可能でな い代替案でもいいのか、選択できない代替案でもいいのか、行為の主体とは別の主体 が遂行する代替案でもいいのか、等々色々と吟味する点はあるかと思います。 そうすると、「行為−帰結(目的)必要十分条件」がshould文肯定の必要条件である という主張は、却下されるか、実質的にそれに等しい大幅な修正(代替案についての 限定)を受けるかのいずれかになると思われます。
Date: Fri, 14 Aug 98 09:39:55 JST Subject: [JDA :4532] RE:Re: 'should'? こんにちは。K.Sです。 >K.S様 >これはK.Sさんの文でしたか。 >それでは聞きますが、上記の文はshould文が肯定される必要十分条件を示しているの >ですか。 文については私のものではないと思います。R.Yさんが、どこまで 文言を厳密に引用されているかも不明ですので良く分かりませんが。 私が先回のメールで書いたのは、あくまでもR.Yさんのメールの中 の「より優れた対抗案」という部分に関してです。その他の細かい 文言は、あまり考えていなかったのですが、それでもあのメールの 主旨は捉えていると思っています。 私自身は、redundantなCPでは論題を否定したことにはならないと いう立場(所謂十分条件のみでOK)なのですが、人によっては redundancyを論題を否定する十分な理由になる(必要条件も必要) と考えている人もいると単に述べただけです。 >Shouldについて >さらに、"should"の場合は、色の場合や、或は「面白い」という言葉の適用の場合と >違って、公共的な規準はよりはっきりしているのではないかと思います。 >それは個人の感覚次第ではなく、社会的にある程度規定されていると思われます。 >今必要なのは、もっと条件を細かくして検討することです。 おっしゃることは分かるのですが、公共的な基準を考えてみても、 実際にみなが十分に合意できるような条件をshouldに関して規定し て行くという点では私は悲観的です。例えば、Redundancyで論題が 否定できるかどうかという事を考えてみても、社会的に合意できる 厳密な規定があるとは思えず、そうなると公共的だと個々人が思っ ている基準に照らしたshouldという言葉の捉え方次第であるような 気がします。以前Redundancyを認めるジャッジたちと話し合った経 験からも、最近のK.N、R.Y両氏のメールからも、条件の設定は困 難だという感をさらに強めました。 Redundancyに関して、shouldの公共的な基準から、全てのジャッジ が納得できる結論を導くことは果たして可能でしょうか?(可能な ら、これまでの立場の相違もとっくに解決されているはずだと思う のですが。)
Date: Sat, 15 Aug 98 00:18:09 JST Subject: [JDA :4535] redundancy (=?ISO-2022-JP?B?GyRCPUVKI0AtGyhC?=) redundant(重複している)ことが、ある提案を否定する根拠となるか まとめ redundancy(重複性)がある提案の存在が、その提案を否定する論拠になりえるか 否かは、「命題の主体」と、「べきである」か否かを「決定する者の立場と考え方」 によって決定される、きわめて実践的な問題 ------------------------ should「べきである」の語義や、必要十分といった理論的な観点から議論がすすんで ますが、 別の観点から述べます。 1 命題の主体が日本政府での例 まず、日本政府の政策決定では、「ある政策が、その政策と同等以上に効果的な政 策と重複すること」は、その政策を否定する論拠になり得ます。 これは、政府というものは、「効率的に運営されなければならない」という至上命 題のようなものが暗黙のうちに存在するからです。 これをかみくだくと、 (1) 民業圧迫をさけるため、国が行わなければならない理由がないかぎり、国の政 策とはしない、つまり、民間や、地方自治体、外国政府が行っても、国が行うのと同 程度以上の成果が得られる場合(この場合は、実際にそのような政策が民間等に存在 しなくても、ポテンシャルとしてその力があるという場合も含む。)は、国はその政 策を実施しないこと (2) 予算、人的資源を効率的に活用するため、政府部内で重複した政策は避けること という命題を前提にして議論をするからです。 ですから、「日本政府は・・・を実施すべきである」という結論を引き出すために は、上記2点をクリアする必要があります(もちろん、政策の採択が現状を改善でき ることは当然として。)。言い方を代えると、「べきである」を立証するためには、 「国が行わなければならない性質の施策であること」、「その施策と同等以上に効果 的な施策との重複がないこと」を立証することが求められるのです。 これは、shouldという語の意味からでもなく、必要十分とかという理論的な帰結で はなくて、命題の主体である政府の目的と機能から導き出される結論です。 2 命題の主体が民間企業の例 命題の主体が民間企業であれば、どうでしょうか。他社が重複する商品を開発して いても、そのマーケットに参入すべきであるという判断は十分にあり得ます。「日本 興業銀行は、・・・という金融商品を販売すべきである」という命題を立証するため には、「興銀にしかできない」とか、「他社に興銀の商品と同等以上の製品が存在し ない」ことを立証することは普通求められないと思います。(もちろん、立証できた 方がベターでしょうが。)営業力その他を加味した上で、その商品によって利益があ がると判断されればそれで良いからです。 つまり、民間企業では、「重複がある」ことだけをもって提案を否定することはな いということです。これも、命題の主体である民間企業の性質から導き出される結論 です。 3 「べきである」かどうかを判断する者 さて、日本政府部内の議論は1のようであっても、実際にはなかなかそうはいきま せん。たとえば、一般市民にとっては、たとえ重複があっても、もっと効果的な手段 があっても、とりあえず行う「べきである」、と主張する人はいますし、、民間がや った方がよくても、とりあえず国が行う「べきである」と主張する人もいるからです。 このように、「べきである」を立証するために求められる内容は、命題の主体のみ ならず、それを判断する者の立場や考え方にも大きく依存します。 4 結論 結論として、redundancy(重複性)の存在が、その提案を否定する論拠になりえる か否かは、「命題の主体」と、「べきである」か否かを「決定する者の立場と考え方 」によって決定される、きわめて実践的な問題だと思います。 では、ディベートにおいてはどのように判断すべきでしょうか? 命題の主体は日本政府が多いですから、この点はある程度統一できると思いますが 、ジャッジが自らの立場をどのように規定しているかによって、「べきである」こと を立証するために必要となる立証のハードルは異なってくるでしょう。 ですから、これはきわめて実践的な問題で、個々のジャッジによって違いがあるの は当然という気がします。 大事なことは、立場の統一を図ることではなく、個々のジャッジが自分の立場を明 確にし、首尾一貫したスタンスでジャッジングを行うということでしょう。 S.Y
Date: Mon, 17 Aug 98 22:04:49 JST Subject: [JDA :4539] RE: redundancy こんにちは、H.Iです。 S.Y君いわく > ですから、「日本政府は・・・を実施すべきである」という結論を引き出 >すためには、上記2点をクリアする必要があります(もちろん、政策の採択 >が現状を改善できることは当然として。)。言い方を代えると、「べきであ >る」を立証するためには、「国が行わなければならない性質の施策であるこ >と」、「その施策と同等以上に効果的な施策との重複がないこと」を立証す >ることが求められるのです。 「べきである(should)」を命題と関連付けて解釈するS.Y君のアプローチに は、私も賛成です。「日本政府は、民間企業、地方自治体等が行った方が効果 的な政策は、実施すべきではない」という考え方を前提とすれば、政府の政策 以上の効果が得られるCounter Agentによるカウンタープランは、命題を否定 できるでしょう。 <中略> このアプローチを更に進めて、肯定側のプランの行為内容によっても、カウン タープランが正当化される場合があると考えます。 以前の投稿とも関連しますが、安楽死法制化のケースについては、「死をもた らす措置は目的を達成する他の手段がない限り行うべきではない」という価値 観を前提とすれば、鎮痛剤等で患者の苦痛を除去するカウンタープランが正当 化されるでしょう。 同様に、肯定側のプランが国民の精神的自由の制限を伴う場合には、LRAの原 則(より制限的でない他の手段によって規制目的が達成できる場合には、その 規制は正当化されないという憲法上の法理。LRAとはLess Restrictive Alternative。)に基づき、「より精神的自由の制限の少ない」カウンタープ ランを正当化することができると思います。 もっとも、命題の主体や行為の内容にかかわらず、カウンタープランを一般的 に正当化することができるかどうかは、また別の話だとは思いますが。 H.I
Date: Tue, 18 Aug 98 11:03:57 JST Subject: [JDA :4541] (resend) Re: redundancy >は、私も賛成です。「日本政府は、民間企業、地方自治体等が行った方が効果 >的な政策は、実施すべきではない」という考え方を前提とすれば、政府の政策 >以上の効果が得られるCounter Agentによるカウンタープランは、命題を否定 >できるでしょう。 この考え方は、民間企業や地方自治体の意図を考慮しない場合は問題があると思いま すが。例えば、民間が行うべきだと言う理由で、民間での意図の不在故にかなりの被 害が現実に出ている事態を看過するとすれば当然批判されるでしょう。 <中略> >以前の投稿とも関連しますが、安楽死法制化のケースについては、「死をもた >らす措置は目的を達成する他の手段がない限り行うべきではない」という価値 >観を前提とすれば、鎮痛剤等で患者の苦痛を除去するカウンタープランが正当 >化されるでしょう。 > >同様に、肯定側のプランが国民の精神的自由の制限を伴う場合には、LRAの原 >則(より制限的でない他の手段によって規制目的が達成できる場合には、その >規制は正当化されないという憲法上の法理。LRAとはLess Restrictive >Alternative。)に基づき、「より精神的自由の制限の少ない」カウンタープ >ランを正当化することができると思います。 これはカウンタープランを正当化した後の話だと思いますが。 >もっとも、命題の主体や行為の内容にかかわらず、カウンタープランを一般的 >に正当化することができるかどうかは、また別の話だとは思いますが。 > 問題なのはこれです。 つまり、カウンタープランの正当化については今までみられたようにかくも問題が山 積しているのに、defaultでは、「帰結−行為必要十分関係」必要論が認められてし まっていて、「命題的行為と同じ又は優越する帰結を得る手段がある」場合には、命 題的行為が否定されるとされているのが問題です。 今まで見てきたように、場合によっては、カウンタープランは、DAとして以外に、確 かに命題的行為を否定し得るでしょう。 しかし、これは一般化はできないのであり、「帰結−行為必要十分関係」必要論及び 通説は、これを一般化しているのが最大の問題点です。多分、必要論者及び通説の信 奉者たちは、自分達が言っていることの帰結を明確に認識できていないのでしょう。 「命題的行為と同じ帰結を得る同等以上の手段があれば」という条件は、どのような ものであれそういう手段が想定できればということを含意しています。つまり、それ は、このままでは、明らかに妥当ではない CP (individual CPとか、internal CPと か)を許容せざるを得ないものです。 <中略> これに対して、今まで提案されてきたアプローチは、多様な条件を付けることで、個 別的な例を排除するというもの('fiat'を制限するという方向)か、カウンタープラ ンをDAに限定してしまうというもの(「帰結−行為必要十分条件」十分論)かでした。 前者が結局決定的な解決策にならなかったのは歴史的に明らかですが、これは、この 立場が、上記の「必要論」の根本的な問題点であるところの全称量化的性格(「何ら かの手段があれば」という条件)を認識していなかったことにあります。そもそも、 counterplanを一般的に正当なものとして前提するのが問題であったわけです。 逆に後者が余りに急進的だとして受け入れられなかったのは、ある意味で前者の裏返 しであったからです。つまり、いかなるcounterplanも、認めなかったからです。 そういう次第で、私が今回特にこの問題について書いてきたのは、defaultでCPを正 当なものとして認める従来の立場及び必要論者の立場は、少なくとももう認めるべき ではないと、思われるからです。 帰結−行為の必要十分関係は、should命題の肯定には十分ではあっても必要ではない (should命題が成り立っても、必要十分関係が成り立たない場合がある)。このこと は、今まで示したように、我々の行為に於ける直観からして明らかであると思います。 今までとは逆の方向から、つまり、カウンタープランの一般的条件を最初に前提する のではなく、妥当なカウンタープランの個別的タイプから出発して、カウンタープラ ンの一般的条件を構築する方向からのアプローチが必要なのだと思います。 Y.K