ディベート的議論とその文化的受容について

 
 

 
はじめまして。
北海道大学のA.Kと申します。
「日本語ディベートの普及推進」についてなのですが・・・。ちょっと「普及」の
話とはずれてしまっているような気もしますが、
 
> P.S.
>  近年ビジネス界でディベートが注目されるようになってきましたが、その中
> には、「ディベートがそのまま仕事に役立つ」と誤解している方もいるのでは
> ないかと思います。書店に並んだディベートの本を見ても、「ディベートによ
> る意思決定」だとか「ディベートで相手を論破する」とか、とかく誤解をあお
> るような記述があったりします。
 
という、H.Iさんという方のメールを見て、僕もふと思ったことがあります。
 
現在書店でよくみかけるディベート指南タイプの本を書いている人たちに共通の、
ちょっぴり危険な香りのする要素が感じられるように僕には思われます。こういっ
た解説書の特徴として、過度にディベートの受容ないし拒絶を文化論的に拡大する
傾向があるようです。ディベートを学ぶことが日本人には必要である、という前提
の下で、日本人は(西洋流の)ディベートができないというところから論を展開し
、
 
(1)だから日本人は駄目だ。それ故に、日本ではかくかくしかじかのような主張
がまかり通っているのだ。ディベートを日本人が学べば、そんな論調は批判される
だろう(○○さんという方の、「○○○○○○○」などの論調に、
特にそれを感じる。まず現況における論調のありかたがよくない、というところが
大前提にあるように思えます)。
(2)ディベートは本質的に西洋的で、それをそのまま取り入れると日本社会を破
壊するから、日本的なものに変化させるべき(×.×氏は著書「×××××」のなかで、
ディベートは「ユダヤ」のもので、それをそのまま
受け入れると日本文化を「破壊する」から、「言霊の国」日本にマッチする「ディ
ベート道」に昇華することが必要だ、という主旨のことを述べています)。
 
(1)は日本の近代化の必要性を説く論調に類似しているし、(2)は日本の外来
文化受容の特殊性を説く論調との共通性を感じます。しかしどちらもある種の「日
本特殊論」に則って、ディベートを本質的に「非日本文化的なもの」とし、論者の
想定する「日本的なもの」との対立項で考えているように思えてなりません。「ア
メリカはヨコ社会、日本はタテ社会」「アメリカは独立独歩、日本はオカミに依存
」というような、よくある文化論に近いものを感じます(この手の二項対立で文化
を観察するというやり方は、慎重にしないと二項対立化しない要素を捨象してしま
うなど、あまりよくない傾向を生むように思われます)。
ところで、一般社会の実態として、もしもこうした書籍がディベートを広める原動
力になっているとすれば、あらぬ誤解を受けそうな気がしてなりません。
支離滅裂な、つまらないことを書いてしまって申し訳ありませんでした・・・。
 
A.K

 
                      こんばんは、神戸大OBのH.Iです。 K.Aさんが取り上げておられた、ディベート関連書籍の問題について   >(1)だから日本人は駄目だ。それ故に、日本ではかくかくしかじかのよう >な主張がまかり通っているのだ。ディベートを日本人が学べば、そんな >調は批判されるだろう(○.○さんという方の、「○○○○○」などの論調に、 特にそれを感じる。まず現況における論調のありか >たがよくない、というところが大前提にあるように思えます)。 >(2)ディベートは本質的に西洋的で、それをそのまま取り入れると日本社 >会を破壊するから、日本的なものに変化させるべき(×.×氏は著書 >「ディベートには守・破・離がある」のなかで、ディベートは「ユダヤ」の >もので、それをそのまま受け入れると日本文化を「破壊する」から、「言霊 >の国」日本にマッチする「ディベート道」に昇華することが必要だ、という >主旨のことを述べています)。     K.Aさんのメールの論旨には全く同感です。 この件については、皆さんがいろいろ述べておられますが、私もいくつか付け 加えて申しますと、   (1)の○.○氏の本は、私も立ち読みしました。自己の政治的主張を行うため に、「ディベート」を用いるのはフェアではない、というのが私の率直な感想 です。  ディベートに参加する人は、論題について肯定側・否定側の両方を論じなけ ればならず、それが、ものごとの多面的な見方を形成することに役立つのです が、韓国を論破することを至上命題としている○.○氏には、きっとそのメリッ トは理解できないでしょうね。    (2)については、私は×.×氏の本を読んでいないので、氏の言説につ いての意見を述べることはできません。しかし、K.Aさんが紹介した考え方 は、一般にもしばしば見られる「誤解」のひとつであると思うので、それにつ いて、私なりの感想を述べることは差し支えないでしょう。    ディベートは「ユダヤ」のもので、それをそのまま受け入れると日本文化を 「破壊する」というのは、その出発点からして、ディベートに対する大いなる 誤解・偏見があるとしか思えません。ディベートは討論における説得力を競う ものであり、ユダヤも日本もありません。もちろん、聞き手によって説得の方 法を変えることはありえますが(audience adaptationの問題ですね)、それ はディベートの枠内で十分可能な話です。    また、「言霊の国」日本にマッチする「ディベート道」を目指すことは、日 本の特殊性を過度に強調し、はじめからグローバルな(国際的に通用す る)説得力を付けることを放棄しているという感が否めません。    日本語でディベートをする場合も、日本人だけに通用する説得力を身につけ るのが目的ではないはずです。     H.I      

 
                      北海道大学のK.Aです。 ちょっとしつこいかもしれませんが、もう一度、少しだけディベート関連の書籍と 文化的問題についてです(申し訳ありません)。   件名 : [JDA :3714] ディベート関連書籍について でH.Iさんの、   > 誤解・偏見があるとしか思えません。ディベートは討論における説得力を競う > ものであり、ユダヤも日本もありません。もちろん、聞き手によって説得の方 > 法を変えることはありえますが(audience adaptationの問題ですね)、それ > はディベートの枠内で十分可能な話です。 >  また、「言霊の国」日本にマッチする「ディベート道」を目指すことは、日 > 本の特殊性を過度に強調し、はじめからグローバルな(国際的に通用す > る)説得力を付けることを放棄しているという感が否めません。 >  日本語でディベートをする場合も、日本人だけに通用する説得力を身につけ > るのが目的ではないはずです。   本当にそう思います。「日本特殊論」に則ったディベート議論というのは、「ディ ベート」を「できるかできないか」ということを、「ナショナル・キャラクター」 の問題にしてしまう(ディベートできない日本人、ディベートができるアメリカ人 というように)ところがあります。しかし実際、「日本語のロジック」と「英語の ロジック」という、一種「民族性」に固有のものとされる「言語」に焦点を当て、 ディベートを論じる風潮というのはESS内でもかなり見出すことができるかもしれま せん。日本語はあいまいな言語で「論理的ではない」が、英語は本質的に「論理的 構造」を有している、という具合です(こういう見方に関しては、S.M茂先生の「 頭を鍛えるディベート入門」のなかで、さりげなく批判がなされていました)。   もし特定の言語=文化に論理性が固有ならば、我々は「英語の」論理性によって構 築された議論を論理的に理解することはできないのでは?(他文化に特有なコード を理解するのには、文化人類学的な解釈の苦労がともなうと思います。たとえば、 昔作家の小林信彦さんが、アメリカのコメディ映画を字幕無しで見るとギャグが理 解できない、一方アメリカ人には落語のおかしみが理解できるだろうか、というよ うなことをエッセーの中で書いておられました)しかし我々は英語で書かれた論文 などを読んで、その論理構成を理解することができます。 ということは、英語圏の人々と日本語圏の人々の間には論理の互換性があるはず。 英語は本質的に「ロジカル」で、日本語はそうではない、だからディベートという 英語のロジックのエッセンスを導入しよう。そういう論調には、「文明化の使命」 のようなものを感じてしまいます。ないしは「近代化のテーゼ」でしょうか。そん なに日本は「論理的ではない」「前近代」な文化なのか、と思えてしまいます。   ディベートは、ある特定の文化の論理構造によって成り立っている、ある文化圏の 占有物でもないし、世界のどの文化の背景とも異なる独自の「ディベート的思考」 なるものが存在しているわけでもないと思います。ディベートは、様々な文化的背 景を持つ人々の間で、互いに共有できる論理や合理性のルールや基準や法則を分析 し、緻密化させた活動なのではないでしょうか。だから日本人であってもアメリカ 人であっても、ヨーロッパ人でもアフリカ人でも、共有できるはずなのではないか と思います(H.Iさんのおっしゃる「グローバルな」とは、こういうことなのでは ないか、とぼくはかってに解釈したのですが、間違っていたらすみません)。   ただ、アメリカと日本では「ディベート」という活動をめぐるコンセンサスという か環境に違いがある。それだけの差であるような気がします。   なんだか自分の論旨のわけがわからなくなってしまったような気もしますが・・、   しかし日本語ディベートの推進とか普及を考えるときには、もう一度「ディベート 」とは何か、というような問題が問われることになるのかもしれませんね。ぼくの ディベート理解は妥当なのか、不安になってきます。 長々と書いてしまいましたが、それでは失礼いたします。    

 
T.Oです。
 
A.Kさんはじめまして。
 
 
 > はじめまして。
 > 北海道大学のA.Kと申します。
 
 > 現在書店でよくみかけるディベート指南タイプの本を書いている人たちに共通の、
 > ちょっぴり危険な香りのする要素が感じられるように僕には思われます。こういっ
 > た解説書の特徴として、過度にディベートの受容ないし拒絶を文化論的に拡大する
 > 傾向があるようです。ディベートを学ぶことが日本人には必要である、という前提
 > の下で、日本人は(西洋流の)ディベートができないというところから論を展開し
 
 > (2)ディベートは本質的に西洋的で、それをそのまま取り入れると日本社会を破
 > 壊するから、日本的なものに変化させるべき(×.×氏は著書「××××
 > 」のなかで、ディベートは「ユダヤ」のもので、それをそのまま
 > 受け入れると日本文化を「破壊する」から、「言霊の国」日本にマッチする「ディ
 > ベート道」に昇華することが必要だ、という主旨のことを述べています)。
 
1. ×.×の議論や言葉の使用法は独特で、他人からの検証を受け付けない「独自語」
を作り出すクセがあるので、混乱させられることがあります。混乱がおきたら読み
手ではなく×.×の責任だと、まずことわっておきます。
 
そのうえで、彼が「ディベート道」と言っていることをA.Kさんは少し狭く捉え過
ぎなんじゃないかと思います。
 
ディベート道といっている中には、単に討論コンテストしてのディベートだけでは
なく、日本社会にディベートを根付かせ、その成果として集団の意思決定の水準を
引き上げる戦略やゴールや方法を含んでいるはずです。また個人のレベルでいって
も、ディベートで学んだ判断力や情報収集力を、特にディベートをやっていたわけ
でもない人々を相手に、会議や経営判断などの場でどう活かすか、という問題意識
から「ディベート道」のすすめを立論している、と私は読みました。つまりディベー
トの直接・間接の「応用」としての交渉や集団の意思決定まで含んで述べているわ
けです。
 
ディベート活動を「説得力のコンテスト」というようにフォーマルな定義で捉えれば、
そこに日本もユダヤもありませんから、「ディベート道」などと日本独自のものを出
す必要はないでしょう。しかし、ディベートの応用としての「交渉」や「集団的意思
決定」までに広げれば、それを文化論的な手つきで解明していくことはなんら問題な
いと思います。意思決定や交渉に、文化的な要素が反映されていないなどとは言い切
れないからです。
 
<中略>
 
 
3. 「文化決定論」的な説明が、本当に正しいのかどうかは見当の余地があります。
なんでも「異文化」の違いで説明されたらたまらんな、という思いは私にもあります
し、実際的な問題として文化ではなく短期的な歴史や経済の理屈で説明可能なものま
であるでしょう。
ただ、とりあえず目の前に起きている事態に言葉を与えてくれるという意味では、
これらの文化決定論への需要は、たとい二項対立の単純さが非難されようとも、減
ることはないでしょう。
 
事実の問題として、×.×がディベートを他人に勧めるうえで、「ディベート経験者
は和を乱すから嫌だ」といった反応を多く受けたことがあったわけです。また、
「ディベートって、相手の聞かずにわーわー言い合うだけなんだろう」という微温
的な反感も、私自身、目の前で表明されたことがあります。この事態を、どう説明
すればよいのか。「空気の支配」や「言霊の支配」があるなかで、ディ ベート活
動をするとは、どういうことなのか。
 
×.×の議論が荒っぽく、細部や実証ではずれているとしても、上記のような問題意
識を共有していくうえでの叩き台として、「ディベート道」なる言い方は、意外と
使えると思います。 A.Kさんが、「ちょっぴり危険な雰囲気」という言い方で、
いったい何を恐れているのか、読み取れませんでした。
 
# 私は×.×の「言霊」よりは、山本七平の「空気の支配」のほうが言葉として的確
# で好きですが
 
T.O
 
 
 

 
T.Oです。
 
<中略>
 
 
1)
上記のテキストでは否定的に扱われていますが、ディベートを「議論」や「論
争」と全く切り放して操作主義的に説明するやりかたって、実は気に入ってい
ます。
 
×.×や○.○のディベート本に反発を示す人って、このML でもぞろぞろ出てきました
よね。んで、あなたたちはなんで二人を嫌いなのっていう理由を、勘繰ってみましょ
う。まあ御両名の「文化論」「歴史認識」の議論としての質が今一つっていうのも
あります。でももっと大きな理由として、こういう人たちって
   「ディベート」が現代の社会の現実の「議論」「論争」と関係する形で
    扱われることに我慢がならないのではないか、と思っています。
 
競技ディベートが、発言者の責任を問わない約束のもとに行われる教育・ゲームで
あることは事実です。論争には面倒くささを感じる若い衆も、操作の上手・下手に
帰着されるディベート技術ならなんとかなりそうと受け止められた、という前掲の
大月の認識は、明解で健康的、そしてきっちりと正しい。
 
○.○にせよ×.×にせよ、波乱含みの「従軍慰安婦」問題や「南京虐殺の有無」(*)論
争を正面切って俎上に載せて、ディベートとのからみで議論する、となるとディベー
トの持つ「言葉と論理を機械的に」操作するゲームとしての側面ではなく、むしろ
「自意識にまで突き刺さる」言葉のやりとり、という印象のもとにディベートを語
ることになります。これが困る、と。
 
「個人の考えだから」出版するのはかまわないけど、「『ディベート』という枠の
中で」語られたことに違和感をもった、という別所さんの感想が、一番の典型でしょ
う。×.×にいたっては生き方・考え方・進退の決め方までからんでくる「ディベー
ト道」ですから、操作主義もくそもあったもんじゃない :->
 
<中略>
 
整理すると、相手の自意識まで踏み込んで行われる「論争」なんてかったるいし、
面倒臭いし、「論争」によって得られるものにあまり価値を感じられない、という
同世代であっても、操作としてのディベートであれば充分に引き付けられる、とい
う認識が一つ。また、その気分を裏から支えられる程度の人数が、一つの ML であ
るコンセンサスを得られる程度にはディベート関係者のなかにいる、という確認が
一つ。この二つから、ディベートの普及が語られるべきです。
 
「何のためのディベートか」という議論は、もともと一般日本人に対する日本語の
ディベート普及という観点からはじまった議論だと記憶していますが、上記の確認
を踏まえた上で以下に私なりの「公式」な考えを述べておきます。(「私的」な答え
は、文末にまわしておきましょう。)
 
 ) 徹底して「操作」としての側面を強調する。
  言葉と論理の操作によるゲームであり、その操作技術が増進する。
  人格的な成長・変容ではないことを示す。
 「スポーツ」のアナロジーが最も良いでしょう。「空手家って、怒ると人を殴りそ
  うで怖い」「ははは、空手はスポーツだから、道場と出たら普通の人とかわらない
  よ」
 
 ) 現実の社会で行われている議論への貢献、ではなく、個人としての利益を語る
  戦略的思考やプレゼンテーションの型を学ぶことができる。
  卒論や修士論文を書くのに役立ったし、会社の会議での発言がうまくなった
 
 ) 「操作」そのものの快楽を語る
  言葉をツブしていく、論理を壊していく、原初的な快楽。
 
競技ディベートが「後で発言の責任を問われることのないゲーム」というその特質
を持つことで、現状の議論をめぐる状況への批判力を欠いてしまうというジレンマ。
そのジレンマを積極的に受けとめ、議論や論争と切り放した言葉や論理の操作技術
として、ディベートを説明する。
×.×や○.○の本が「間違った」印象を与えているとするならば、その対抗としては
これが一番の正攻法だと信じます。
 
<後略>
 
 

 
>×.×や○.○のディベート本に反発を示す人って、このML でもぞろぞろ出てきました
>よね。んで、あなたたちはなんで二人を嫌いなのっていう理由を、勘繰ってみまし
ょう。
 
ひょっとすると私もそのひとりに数えられているかもしれませんが、私のコメントは
あくまでも特定の本が、びっくりするような(楽しくなるような?)でたらめな内容
を含んでいるということだけで、著者の考えについては何も述べていません。
 
 
--
さて、T.Oくんの競技ディベートを「技術」として擁護する考え方について。これは
dogmatism に対抗する議論と位置づけられているようですが、結果としては、まさに
dogmatist たちが批判したがる詭弁術、ひいては何でもありの懐疑主義に陥る危険を
孕んでいるように思います。
 
去年、「常識」とか「現実」とかいう概念をめぐって似たような議論をした覚えがあ
りますが、主観や思い込みを排除しようとして、「何でもあり」と tabula rasa的な
態度に帰結し、恣意的な判断に終始してしまう、というジャッジ側の問題と同じこと
が、ディベーター側にもありえます。というより、ディベーターは、気をつけないと
ソフィストになってしまいかねない。「どんな命題にも両面がある」→「真実は議論
次第」という滑りやすい坂道は存在すると思います。
 
この坂道を転げ落ちないためのチェックは、まず、「現実への準拠」だと思います。
(つづく)
 
Y.T
 

 
こんにちは。H.Iです。
 
T.O君のメールは、とても興味深く読みました。違う立場の意見というのも、
聞いてみるものですね。
 
ディベートの普及を目指す上で、「仮説を用いた思考」を回避する傾向のある
人々や、「ディベートは和を乱す」と考える人々の反発に遭うことは十分考え
られます。「ディベート道」を目指す×.×氏の意図は、「言霊」や「和」
を尊重する人々にも受け入れられるディベートを提案することにあるというこ
とですね。
 
×.×氏のアプローチは、ディベートの普及を目指すための方法のひとつと
しては、十分理解できます。ただし、このようなアプローチは、ディベートを
普及する意義を減殺していまう危険性があるようにも思います。
 
1.ディベートを普及する意義のひとつは、「言霊」に制約されることなく、
あらゆることを自由な立場で検証し、合理的な思考や意思決定ができる人を増
やすことにあるでしょう。
 
 一般に、ものごとがうまくいっているときは、「皆がこうだから」「時代の
流れだから」という雰囲気により意思決定を行っても、さしたる問題はないで
しょう。しかし、真に厳しい意思決定を定められたとき、「言霊」を気にし
て、悪い結果をもたらす仮定条件を回避して考えるようでは、満足な意思決定
は期待できません。このことは、「もはや開戦やむなし」との「空気」によ
り、太平洋戦争への突入を決めた御前会議の例を持ち出すまでもなく、明らか
でしょう。
 
 ディベートに求められるのは、日本的な「和」や「言霊」を尊重する人々に
も受け入れられる論争ではなく、「和」や「言霊」に制約されずに、弁証法に
よる合理的な意思決定ができる人を養成すること、別の観点から言えば、
「和」を乱さずにあらゆる議論をかわせるような環境をつくりあげることだと
思います。
 
 
2.「和」や「言霊」を尊重する人々にも受け入れられるディベートを提案す
ることは、ディベートの普及を優先するあまり、その意義を減殺してしまうの
ではないでしょうか。「言霊」を尊重するとは仮定的思考を回避するというこ
とであって、それは合理的な思考法と相容れないものですから。
 
 あるいは、「言霊」の尊重は説得の場面でのみ考慮されるのかもしれませ
ん。T.O君も「正しい解を見つけることと、その解の正(し)さを他人に説明で
きることは別でしょう」と述べてましたし。
 
 しかし、意思決定の内容と説得とを切り離すことはできません。例えば、太
平洋戦争に突入するか否かを決定する御前会議において、ある人が「仮に太平
洋戦争に突入した場合、両国の国力・軍事力の差を考えれば日本は敗戦するこ
とが必至であるから、米国の要求を入れて満州・中国から撤退することの方が
日本が被る損害は少ない」という結論に達した場合、どのようなレトリックを
使おうと、このような結論を伝えること自体が、「言霊」や「和」の尊重に反
することは必至でしょう。
 
 ×.×氏の「ディベート道」は、実際には合理的な意思決定が十分可能な
論争の形態かもしれません。しかし、「言霊」や「和」を尊重する人々に受け
入れられるディベートを提案するというアプローチ自体が、合理的な意思決定
と相矛盾する要素をはらんでいるような気がします。
 
 
H.I
 

 
 
  Nさま,ほか皆様
 
本音を言うと「サンクチャリ」も「言霊」も,レトリックとしても曖昧すぎて,
議論がフォローしにくかったのですが
 
>むしろ例えば作戦失敗を前提にした議論をすると、その作戦を立案した人物(ある
>いは自分自身あるいは共同責任)の立場を脅かす・責任追及を余儀なくされる、こ
>とになりかねず、これを回避しようという空気が支配的だったんじゃないでしょう
 
ようやく「サンクチャリ」で取り上げたい問題領域がわかりました。これは(対
人攻撃)ad hominemに関する古典的な問題に関連付けて,整理した方が分かりや
すいと思います。
 
「ディベート教育」では,議論に加わっている発話者・応答者の人格 Person と,
それらによって算出された議論そのものを,区別すべきだということを奨励して
いますよね(その善し悪しは別にして)。 話しているのが,教授・上司だろう
が一年生だろうが,自民党員・共産党員だろうが,日本人・ユダヤ人・韓国人だ
ろうが,良い議論は良い,悪い議論は悪い。
 
他人の議論に反論するのに「お前なんて〜のくせに」式の論法を戒めてきたのが,
「ディベート教育」であったわけです。しかもad hominemとしてラテン語を使っ
たいにしえからです。ちなみに,さるユダヤ研究家のディベート入門書の方の
「ディベートは言葉のボクシング」というレトリックがミスリーディングなのは,
「ディベート」なるものが論争相手のPersonをも傷つけるようなイメージを惹起
しているからです。
 
>やっぱ言霊VSディベートの図式よりも、サンクリュアリVSディベートの図式の
>方が、本筋なのでは(我田引水)
 
推測ですが「言霊」ないし,多分「サンクチャリ」としてNさんが考えていら
っしゃることも,この ad hominem の問題の焼き直しでしょう。その議論を行う
と論争相手のPersonに与える影響が大きい,そのためにその議論を行うべきでは
ない,と考えるような配慮の結果,議論を行うことそれ自体を躊躇してしまう。
 
もちろん,こうした配慮は,日本人だけでなく,世界中で,しかも太古から行わ
れてきました,と断言できるでしょう。とりたてて日本の「空気」云々を喧伝す
る必要は全くありません。ただその配慮を行う場面と,その多寡に関する社会的
な慣習ないしは制度が異なっているだけの話です。
 
---
 
最後に,一つだけ注意をば。「ディベート教育」の目標としては,まず議論とそ
の産出者の人格の切り離しを教えることが一つあり,それは堅持すべきだとは考
えます。だが同時に,そうした議論の有り方*のみ*が普及すべきだと考えるのは
もちろん誤りです。議論と人格の切り離しは,反面で,議論への無責任を助長す
る可能性もあるからです。また人格と深く結びつくことがむしろ期待される発話
の行為も多数ありますし,あるべきだと思います。
 
1) ディベート的な議論が有効な社会的場面と,そうでない場面の一般原則
2) ディベート的な議論が行われるべきなのに,現実には行われていない場面
3) 行われないべきなのに,現実には行われている場面
 
以上のように,このMLでの論争も,議論に関する社会的な場面の有り方に関して
問題にしているんだ,と整理する方が,「言霊」云々と印象批評するより,はる
かに実りある論争になると思います。
 
 
Y.Y
 
 

 
<Y.Yさんの意見は>とてもいい整理だと思います。
 
「ディベート的な議論」とは、「人格と議論の内容を切り離すこと」という認識は、
共有すべきでしょう。そのへんを曖昧にしている自称ディベート教育者は、ちょっと
困り者ですね。
 
 
Y.Yさんのいう、「ディベート的な議論が行われるべき」状況か否かの判断は、かなり
価値観が絡みますから、結局文化論的な議論というのは回避できないのですが、
それはまあ、ディベート的議論の使い方、というべき議論で、「ディベート的議論」の
定義に関わる問題では無いと思います。
 
--------------------
 
そもそも、ディベート教育において、どのような場面でディベート的議論をすべきか、
という問題に踏み込む必要性があるんでしょうか。ディベート教育においては「ディ
ベート的議論」とその意志決定方法だけを教えて、それをどう使うかは個人にゆだねる
べきだと思います。
 
 
何人かの方は、実社会におけるディベート的議論を推奨しているようですが、Y.Yさんの
発言のとおり、必ずしもすべての場面においてディベート的議論が望ましいとは限り
ません。また、それを今後変更すべきかどうかというところも疑問があります。
いろいろな議論の仕方があって、一長一短でしょうから、ディベート的議論がすべて
正しい、という議論には抵抗があります。
 
<中略>
 
というわけで、「ディベート的議論」というのは、アメリカにおいてはかなり汎用性の
高いもののようですが、世界的にみて決してそれは汎用性の高い議論ではないです。
 
日本人に必要なことは、「ディベート的議論」を学び、必要性に応じてそれを活用できる
ようになることが大切で、ディベートを学ぶこととアメリカ的価値観を受け入れるかは
切り離すべきでしょう。
 
 
S.Y
 
 

 
こんばんは、H.Iです。
 
[JDA:3747]Nさん
>むしろ例えば作戦失敗を前提にした議論をすると、その作戦を立案した
>人物(あるいは自分自身あるいは共同責任)の立場を脅かす・責任追及
>を余儀なくされる、ことになりかねず、これを回避しようという空気が支配
>的だったんじゃないでしょうか。
 
[JDA:3748]Y.Yさん
 
>「ディベート教育」では,議論に加わっている発話者・応答者の人格
>Personと,それらによって算出された議論そのものを,区別すべきだ
>ということを奨励していますよね(その善し悪しは別にして)。 話して
>いるのが,教授・上司だろうが一年生だろうが,自民党員・共産党員
>だろうが,日本人・ユダヤ人・韓国人だろうが,良い議論は良い,悪い
>議論は悪い。
>
>他人の議論に反論するのに「お前なんて〜のくせに」式の論法を戒めて
>きたのが,「ディベート教育」であったわけです。
 
なるほど。おふたりのメールを感心して読みました。
 
 もともと、この話は、ディベート普及の障害を日本人の文化的要因に求める
考え方をA.Kさんが批判されたことから始まりました。次にディベート普及の
障害は具体的に何かという話になって、それは「言霊」に象徴される仮定的思
考の回避である、あるいは個人的責任追及を回避しようとする態度(サンク
チュアリ論)であるという話が出され、Y.Yさんが「それはつまるところ議論
と論者の人格を区別できないことに帰着する」とまとめたものと理解していま
す。
 
 こう考えると、○.○氏の「○○○○○○」に抵抗を感じる人が多い
理由も、説明がつきますね。それは、T.O君がいうように「ディベートが現代
の社会の現実の議論・論争と関係する形で扱われることに我慢がならない」か
らというよりは、むしろ○.○氏の論調に「議論と論者の人格の未分離」を感じ
たからだと思います。
 
 なお、Y.Yさんは「議論と人格の切り離しは,反面で,議論への無責任を助
長する可能性もある」と述べておられますが、そうでもないだろうと私は思い
ます。議論と論者の人格を区別する場合も、その議論を行う論者の「態度」は
常に評価の対象になるわけですから。
 
 無責任な反対意見をいう人はその「態度」が非難されても仕方がないが、真
摯に考えた結果としての反対意見を述べる人は、その「態度」は賞賛されこそ
すれ、非難されるべきではないでしょう。これはもちろんディベートでも同じ
です。議論と人格が切り離されるとしても、無責任な発言を行う態度まで許容
されるわけではありません。
 
 
H.I
 

 
>こんばんは、H.Iです。
 
おはようございます。家をでるまで,あまり時間が無いのでその間に返事を
 
<中略>
 
 
> なお、Y.Yさんは「議論と人格の切り離しは,反面で,議論への無責任を助
>長する可能性もある」と述べておられますが、そうでもないだろうと私は思い
>ます。議論と論者の人格を区別する場合も、その議論を行う論者の「態度」は
>常に評価の対象になるわけですから。
>
> 無責任な反対意見をいう人はその「態度」が非難されても仕方がないが、真
>摯に考えた結果としての反対意見を述べる人は、その「態度」は賞賛されこそ
>すれ、非難されるべきではないでしょう。これはもちろんディベートでも同じ
>です。議論と人格が切り離されるとしても、無責任な発言を行う態度まで許容
>されるわけではありません。
 
昨日,「議論と人格の切り離しは,反面で,議論への無責任を助長する可能性も
ある」と書いたのですが,人身事故のために止まっていた京浜東北の中で,これ
は恐ろしく難しい問題を色々と孕んでいるなと感じはじめました。今は,迂闊に
は結論をだしたくないのが本音です。(「議論と人格の切り離し」といわれる際
の「人格」って何なんだとか。考えることたくさんありますね。) 今の時点で
は,どこまで言葉に出来るかは怪しいですが,とりあえず。
 
私が問題にしたい「無責任」というのは,H.I君の行っている次元とは恐らくは
少しずれます。H.I君が言いたいのは,ディベートの場面で個々の議論や反論に
責任を持たせることは出来るということでしょう。これは出来ると思います。
(卑近なレベルでは, 2ACでのプランアメンドを認めないとかね ?)
 
問題にしたいと考えるのは,どちらかというとディベート教育の副作用として,
その人の現実の行動実践にある種の無責任主義を併発する可能性がないかという
ことです。ディベート教育の掲げる「議論と人格の切り離し」が,「言行不一致
の許容」を帰結しないとは,私は断言できないです。
 
単純な次元ではもう,「ディベート」の名において,こうした無責任主義は始ま
っていると感じてます(さっきの本とか。「必ず賛成・反対の両面から見なけれ
ばならない」「歴史には色んなものの見方があるんだ」とか言う意見)
ディベートのもたらす「立場の相対化」の作用に,諸手を挙げて賛成だとは言え
ないというのが,私の立場です。(何らかの実践的判断を下すための,手段とし
て「ディベート」による相対化の作用を用いるのは良いのですが。そうした手段
であったはずのものが「理念」として一人歩きして,望ましくない副作用を及ぼ
す。社会学をやっていると,こうした懸念を,やはり感じちゃいます。)
 
 
まあ結論をすぐに出さずに,問題意識は少なくとも持ってください。
 
Y.Y
 

 
A.K君の議論に始まった一連の議論には注意を払いつつも、半ばあきれて(^^;)フォ
ローしていましたが、忙しくてコメントできませんでした。漸く少し暇ができたの
で、コメントします。ディベートと文化的背景との関り、ディベートの位置付けとい
った議論がメインだったと思いますが、途中から言霊と記号との話になり、さらに矢
野、S.Y両氏の拡張的議論(これらは最悪の場合脱線ではあっても、決してよいまと
めではない。言霊についてのN氏の議論の一解釈+some truismというのが適切な位
置付け。>Y.Y君、S.Y君、「悪く思わないでよ。」)が話がさらに広がりました。
 
私は某×.×a氏や○.○氏の著作は殆ど読んだことはないので(○.○というと、東京某所の
シェフの名前の方が頭に浮かぶ)、これから述べることは、両氏の議論それ自体とい
うより、このMLで紹介された限りでの×.×氏、○.○氏の議論についてであること
を最初に断っておきます。
 
彼らの議論とされるものにも、あきれましたが、このMLでそれを批判された方の一部
の議論にも同じような感想を少なからず持ちました。両方に於いて、使う言葉の意味
の曖昧さと議論の網の粗さとを、程度の差こそあれ感じました。
 
以下では、メインの議論である、ディベートと文化的背景に関して述べます。言霊と
言語の記号的性格に関しては別のメールで、さらに、「言霊」概念のN氏の言うと
ころのsanctuaryによる解釈とY.Y氏によるargumentum ad hominenによる解釈とに関
しては又別のメールで述べます。
 
ディベートと文化的背景及びディベートの(社会的)位置付け
 
* 用語の使用
一連の議論の嚆矢となったA.K君のメールとT.O君のメールで紹介された×.×氏・北
岡氏とで問題となったディベートと文化との関連について先ず述べます。
 
×.×・○.○両氏の議論でも、A.K君の批判に於いても、その他の方のメールの一部で
も、「論理」や「ディベート」といった重要な語の意味が断りなく多義的に使われて
おり、それが彼らの議論やこの一連の議論での混乱を生んでいます。
 
「論理」という言葉は、通常の使用では、(その言語の構造に基づく)所与の言語に
於ける一定の構造的規則・変形規則の体系を指しています。我々の「論理」について
の直観的な概念に於いてもこれは当てはまります。
しかしながら、一部の人々は、「論理」を少し違った意味でも使います。それは、規
則というよりも、共有された前提としての意味でです。
「日本人の論理」といった表現での「論理」は、規則ではなく、共有信念・前提の意
味で使用されています。
 
これらの大きく異なる「論理」の用法がごちゃまぜになっているから、混乱が生じて
いるのです。×.×氏らが言う(とされる)「日本語のロジック」といった表現は、善
意に且つ合理的に解釈すれば、「日本語を使用している人々が前提している基底的信
念」という意味であり、A.K君はそれに対して、「規則」としての論理の意味に基づ
いて、「しかし我々は英語で書かれた論文などを読んで、その論理構成を理解するこ
とができます。」と批判しているわけです。
「英語圏の人々と日本語圏の人々の間には論理の互換性」があるというよりも、基本
的信念は異なっても、一定の変形規則を我々は共有していると言うべきでしょう(例
えば、古典的な命題論理で表現されるような規則)。
 
同様なことは、「ディベート」という語の使用についても言えます。
非常に一般的には、「ディベート」は、一定の範囲の議論行為を指すだけに過ぎませ
ん。その限りでは、それは普遍的に見受けられる「事象・行為」のタイプの指示に過
ぎません。「アカデミック・ディベート」になっても、「事象・行為」のタイプの指
示という点には変わりはなく、指示される事象・行為が限定されるだけです。
ところが、×.×氏らが、「ディベート」と言う場合には、しばしば「意思決定その他
の社会的相互作用でのディベートの実践」という意味でその語が使われていると思い
ます。
つまり、ディベートという行為を現実の社会生活で何等かの手段として使用すること
を指しています。現実に手段として使用するか、しないかは、ディベートという行為
をどれだけ社会生活での実践で重く見るかに依存しますから、そういう意味でディベ
ートという言葉を使う場合には、当然、ディベートの社会的位置付けが絡んできま
す。
ところが、前者の行為の指示だけの意味では必ずしもその必要はありません。いわゆ
るアカデミック・ディベートは、その社会的正当化に於いてはディベートの社会的位
置付けが関るものの、ディベート行為という普遍的な概念を、従って、「ディベー
ト」という語のディベート行為の指示としての使用を必要とします。
A.Kさんの二つのディベートという議論は、大体的を射てますが、現実ディベートと
アカデミック・ディベートとを異なる独立の存在者のように扱う点でちょっち問題あ
りかなと思います。ディベートという行為タイプ自体は普遍的なものであり、それを
どう具現化するか、つまり、現実生活に反映させる形でその使用を念頭に置きつつひ
とまず現実に反映しない形でそれを具現化するか、現実に直接反映する形で具現化す
るか、という点が異なるのです。
(<×.×・○.○両氏>は、社会的なコンテクストでの具現化しか考えていないと思い
ます。)
 
ついでに言うと、ディベートを特殊な技術のようにみなす考えは、上記の意味上の違
いをよく理解していないから生じるものです。ディベートは特殊な技術でも何でもな
い。特殊さは、それをある限定された社会生活の場で、ある限定されたやり方で行
う、その具現化の様態に存します。
 
 
* ディベートと文化的背景
上記のようなことを注意して、ディベートと文化的背景とに関して述べます。
 
ディベート自体は、普遍的な行為タイプですから、厳密に言えば、それと文化とを結
び付けることはできません。(いかなる形でもディベートを全くできない人間を生む
文化が存在すれば別でしょうが。)
 
しかし、ディベートをどのように位置付けるかという点では、社会的・文化的要素が
支配的な要素となります。
<×.×・○.○両氏>や、その他「ディベートと文化との関連」を語る人々は、ディベ
ートの位置付けと文化との関連を実は語っている(と解釈される)のですから、ま
あ、結論はともかくとしても、そういう視点自体はそれ程間違ってはいないと思いま
す。
 
ディベートという行為が伝統的に日本では、社会生活で余り高い位置付けを与えられ
なかったこと、アメリカではその逆であること、等は、よく言われていることです
が、これらは今までのそれぞれの社会での事実的傾向を示すだけです。
 
ディベートの日本での普及云々を論じる場合には、そういう事実だけでなくて、そう
いう事実を背景として考慮するとしても、ディベートを社会でどう位置付けるべき
か、ということを考えることが決定的に重要です(Y.Y、S.Y両氏のメールの一部で
このことが示唆されているのにはほっとしました。)。
 
この点に関しては、伝統的な及び現在支配的な社会的前提その他(人々の実践的世界
観)をどの程度固定的にみなすか、どの程度尊重するかということが大きな要素とし
てあります。
 
<×.×>氏は、非常に伝統的な前提を固定的に、且つ重要とみなし、それを擁護するこ
とを最優先しています。その上でなぜディベートの社会生活での利用を目指すかは、
よく分かりませんが。明治の「和魂洋才」的な発想からかと思います。ディベートを
現実に行う場合の利点を、そこから同時に生ぜざるを得ない、伝統的前提の否定なし
に行おうとするという、単なる御都合主義のように思います。確かに彼の立場は、飯
田さんが指摘するように、矛盾を内包せざるを得ないものだと思います。
 
<○.○>氏も、×.×氏と正反対のことを言っているようではあっても、ディベートの
社会生活での使用に於ける含意にはそれ程注意を払っていないのかもしれないという
印象を、ここでの紹介からは、受けました。ディベートの社会生活での使用・ディベ
ートに社会生活での重要な位置付けを与えることは、外交的な問題よりも、国内的問
題(意思決定に関する倫理的その他の諸問題)への影響が大きいはずだと思います
が、そういう考慮はされているのでしょうか、と思いました。
 
このMLの方々についても感想を述べると、この点に関しては無関心な人々が多数を占
め、どちらかというと伝統的・現状の社会的前提に固定的な見方をする人が次に多
く、ディベートの社会的意識変革の手段としての可能性に多少なりとも期待・意義を
見出す人は最も少数派ではないかと感じました。
 
 
私自身は、最少数派です。
ディベート教育の最大の意義は、社会的正義の実現につながるような、公共的意思決
定に関する社会的・言語的規範(公共的意思決定は、合理的な議論に基づかなければ
ならない)の醸成であると考えています。合理性というものが、最も広く共有できる
規範を表わすものであるという信念にこれは基づいています。
 
現実の社会生活でディベートの重視は、確かに、一定の社会的信念の現れであり、私
が前提する社会的信念は、日本社会の伝統とは相反することが多いかもしれないし、
ローティーが言うような、自由民主義・ブルジョワ民主主義を受け入れることを前提
しているのかもしれない。もし、そうだとしたら、私は日本人の社会的信念の根本的
変革がなされてもよいと考えています。この点でY.Y氏やS.Y氏とは少しは隔たりが
あるかもしれません。
 
 
ここで、一つ強調したいのは、ディベートを単なる道具として扱えるのは、アカデミ
ック・ディベートのコンテクストだけに於いてであるということです。つまり、現実
でディベートの帰結を最大限に尊重する場合には、そのまさにそのこと(ディベート
の帰結に従うという規範をとること)により、一定の社会的信念にコミットせざるを
得なくなるということです。
 
こういう点は、多かれ少なかれ他の技術とされることにも言えるのですが(観察の理
論付加性を考えてみればよい)、特にディベートの場合は、それが際立ちます。ディ
ベートを聞いて(又はして)、尚且つその帰結をほとんど考慮しないという場合は、
ディベートを現実に使っているとは言えない。
 
ディベートの形式主義的見方については、詳しくは次に。
 
 
* ディベートの形式主義的見方
 
 T.O君により、ディベートの形式主義的捉え方が明確に表明され、且つ擁護されて
います。(操作主義 operationalism とは違うと思います。ある点で道具主義
instrumentalism に近いかと思いますが、形式主義が最も適切な言葉かと思いま
す。)
 
これ自体は確かにディベータに於いて一般的な見方だと思います。実際にディベート
をやっているときは、あるいはジャッジになっても大抵は(JDAの理事をやるなどと
いう奇特な心持ちの人でない限り)そういう見方をする人が多いのではと思います。
 
個人の動機としてはそれで十分だと思いますし、その限りに於いては問題ないかなと
思います。わざわざ課外活動でディベートをやろうとする最大の動機は、T.Oさんの
いう議論するという行為自体に伴う原初的快楽でしょう。
 
 
しかし、これを教育ディベートの社会的正当化に使うにはやや弱いかと思います。と
いうのは、そういう技術・技能を得るだけなら、教育ディベート以外にもっと有効な
手段があるからです。論理的な記号使用能力を磨くなら、その手のゲーム(非常に単
純な例ではminesweeperとか)でもやった方がずっと効率的かもしれないし、批判的
思考を行いたければ、例えば哲学関係の読書会を、それなりの人とやった方がずっと
ずっと有効です。大体ディベートの議論は、一定限度までしか精密化されないから、
ある程度を越えると非常につまらないとしか思えなくなります。
 
それに、日本の社会状況を考えると、ディベートから得られる(かもしれない)レト
リカルな発話能力は、現実の応用の場が限られてくるかもしれない。
 
論文を書いたりすることに関しては、ディベートの議論の形式の粗さからして、それ
程有効かなと思います。
 
勿論、ディベートでも上記に関して一定の利益は得られるとは思います。ただ、それ
らを基にしてディベートを社会的に正当化するには、今一そういう点は、他の有効な
手段の存在により、弱いと思います。(個人の動機に於いての最大の要素である「議
論自体の快楽」は、社会的正当化の理由にはしにくいし)
 
 
(私自身、今までディベートと関ってきたのは、ディベートの社会的正義への貢献可
能性故にです。と言うよりも、私が日本の社会に感じている「ある種のとてつもない
理不尽さ」への公憤の発現手段としてディベートの普及・推進活動が使えるからでし
た。個人的な快楽だけなら、自分がその活動に直接関与しなくなった時点で、縁を切
っていたと思います。)
 
 
 
 
 

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