H.T@新潟大です。
このMLは敷居が高いのですが、何となくディベーターの道からそれて
しまった(バイトしないから金がない)一地方在住のESS部員として書か
せていただきます。
<中略>
というわけで、以下の話は新潟大学に関する問題とはちょっとずれるの
ですが…。
> この場合、対応策としては、新規市場に進出すること、すなわち、ESS以外
> の人が「ディベート研究会」を組織してディベート大会に出場することができ
> るような途を開くことが望まれるでしょう。そのためには、日本語ディベート
> 大会の充実が望まれますね。また、英語ディベート大会でも、ESS以外の人
> がどんどん参加するようになってもいいのでは。
>
> ディベートに興味を持っているのは、ESSの人達だけではないと思います。
> 従来の枠組みにとらわれずに、ディベートをやりたい人がやれるような、体制
> ができるといいのではないでしょうか。
現在の日本のディベート界は英語中心であり、敷居が高すぎると思い
ます。私は思うのですが、日本語という母国語によるディベートの整備が
急務なのではないでしょうか?多分、母国語でしっかりディベーティック
な思考法を会得しないまま、外国語でディベートを始めるというのには
無理が出てきたのではないでしょうか?英語の思考法とディベートの
思考法という2つのことをいきなり一度でやれ、というのは酷だと思います。
過去において、ESSがディベート普及の牽引役になってきたという歴史
的な問題はありますが、今後はESSとは別のところでディベートの発展
を図るのが正常な姿だと思います。でも、新しい枠組みをつくるには困難
が付きまといますから、最初はESSのなかで日本語ディベートを育み、
ある程度うまくいったところで組織を分割する(同好会設立など)というの
も一つの考え方だと思います。
それでは。
H.T
On Sun, Feb 22, 1998 12:06 PM,
>ます。私は思うのですが、日本語という母国語によるディベートの整備が
>急務なのではないでしょうか?
>
> 過去において、ESSがディベート普及の牽引役になってきたという歴史
>的な問題はありますが、今後はESSとは別のところでディベートの発展
>を図るのが正常な姿だと思います。でも、新しい枠組みをつくるには困難
>が付きまといますから、最初はESSのなかで日本語ディベートを育み、
>ある程度うまくいったところで組織を分割する(同好会設立など)というの
>も一つの考え方だと思います。
>
まさしくその通りでしょう。
現役のESS部員の人からこういう意見が出るようになったのは、希望の持てる兆候だ
と思います。
多分、今は、ESS中心の英語ディベートという導入時の経緯からくるねじれた形態の
時代から、様々な形態での日本語によるディベートという本来的な姿の時代への過渡
期にあるのだと思います。
日本語によるディベート活動は様々な形で増殖しているようでありますが、今一つ
momentumが足りないような気はします。
決定的な転換点がいつ来るのかは分かりません。ひょっとしたら、英語のディベート
も衰退し、日本語のディベートも発展しないという最悪の事態に至らないと限らない
かもしれません。
どうなるかは、神ですら知り得ぬことかもしれませんが、現在の日本語のディベート
への関心の高まり、それを支える基盤を考慮すると、私自身は割と楽観しています。
それに、例えディベート教育自体は発展しなくても、それが目指すところのいわゆる
アーギュメンテーション教育に関しては、論理学教育の側からの分岐・発展が期待で
きそうだということもあります。
ディベートの普及に関する限り、英語ディベートは、歴史的使命を終えたが、それに
取って代わるべき日本語によるディベートは未だ揺籃期から脱し始めたばかりであ
る。
英語ディベートに関っていらっしゃる方々には酷な言い方ですが、外から長い目で見
ると今はこういう時ではないかと私は思います。
Y.K
試しに聞いてみたいんですが、春のJNDT、冬のNAFATを日本語に今年から
替えたら、参加大学はどれくらい減るでしょうか。
それとも増えるでしょうか。むろん社会人・高校生にも解放することが前提ですが
。
オイオイ急やなあ、という反応でしょうか。NAFAコミの人・現役大学生の人は
反発するでしょうか。賛成するでしょうか。
JNDT・NAFATの格は落ちるでしょうか(参加者水準の低下によって)。N
AFAは崩壊するでしょうか。
「俺は嫌だ」という意見も聞きたい。個人的な趣味・思い入れも含めて(こういう
ことって個人的な思い入れも大事ですから)。
むろん常識的な考え方としては、新たに日本語ディベートの大会を新設するのが本
筋ですが、もうスケジュールも一杯ですしねえ。NAFAがやることを前提として
も、仕事がまた増えますし、JDAももうマンパワーがパンパンでしょう。他の団
体のアクションを待ってたらいつになるかわからないし。時代を先取りするのはい
つもJDAかNAFAでしょうね。
初心者の大会はどのあたりが代替候補になるんでしょうか。
上級・初級/春秋1大会ずつ、合計4つずつくらいがいい線でしょうか。
K.N
> 試しに聞いてみたいんですが、春のJNDT、冬のNAFATを日本語に今年から
> 替えたら、参加大学はどれくらい減るでしょうか。
> それとも増えるでしょうか。むろん社会人・高校生にも解放することが前提ですが
> 。
1 英語ディベート人口を減少させる必要はない
そもそも、英語ディベート人口を減少させる必要はなく、ESS以外に新たに
日本語ディベート人口を発掘しようという発想がなぜできないのか不思議です。
日本語ディベートの普及というと、K.Nさんのように英語ディベート出身者を
日本語ディベートに転向させようとしたり、NAFAをディベート普及の中心的存
在と考えたりする人が多いです。
それは単に英語ディベートをつぶし、英語に興味のある人からディベートを奪う
という結果にしかなりません。それはディベートの普及にはマイナスです。
現在議論すべきは、ディベートの普及であって、それが日本語であろうと、英
語であろうとどうでもよいことです。選択の余地があってしかるべきです。
日本人が英語でやる必要がないというなら、ESSに入らなければよいだけです。
英語と米国流の思考方法を学ぶという観点からESSに入るのもまた結構です。
現時点で、最もディベート能力を使う必要があるのは外国人との英語での交渉
ですから、英語でディベートを学ぶのが最も効率的であるともいえますから。
2 新規マーケット開拓の必要性
ディベート人口を増やすために最も効果的な施策は、ESSによる英語ディベート
人口を維持しつつ、ESS以外の日本語ディベート人口を増やすことです。
ESSという限られたパイを食い合っても、しょうがないということです。新規
マーケットを開拓する必要があります。
そのためには、まず、セミナーをたくさん開催し、ディベートにふれる機会を
作ること、大学や社会人のディベートサークルの活動を支援すること、現存す
る日本語ディベートの団体を支援すること、などが大切です。
それらの施策と併せて、大会を開催することが必要です。現状では、日本語
ディベートのサークルは、弁論部など、非常に限られている存在です。それを
いかに増やしていくか、というのが課題です。
3 さまざまな団体との連携の必要性
JDAでは、日本語ディベート大会、日本語ディベートセミナーを開催しており、
推薦プロポも日本語のものを発表していまし、さまざまな活動を行っていますが、
ディベートの普及のためには、現存するディベート団体への支援と連携が不可欠
です。
日本語ディベートの団体の設立なども徐々にされているようですし、日本語
ディベートの大会を開催したりしています。JDAとしてもジャッジの派遣など
によってそれを支援しています。
中学、高校では、全国教室ディベート連盟が日本語ディベート大会を開催して
おり、JDAは、これにジャッジの提供などの協力を行っています。
NAFAも、セミナーにESS以外の人の参加を認めており、そのような人は徐々に
増えつつあります。
ディベート人口の増加のため、JDA,NAFAのみならず、たくさんの人が地道な
活動を続けているところです。
S.Y
英語ディベート人口を減らすことを目的とする行為を行う必要はないし、それは有害
な行為でしょうが、それがディベート人口全体の拡大に不可避的に伴うならば、そう
いう随伴的行為は許容してもよい。これが私やK.Nさんやその他の人々の考えている
ことだと思います。(いつか聞いたような話ですね)
「ESSによる英語ディベート人口を維持しつつ」というのは、望ましいかもしれない
が、必要な条件ではない。
それに、英語ディベート従事者の全員が英語でディベートをやりたくてやっているの
かどうかは疑問です。しかたなくそうしている人もいるでしょう。そういう人には、
むしろ日本語ディベートに専従するオプションを与えてあげた方がいいでしょう。
ディベート人口を増やすために最も効果的な施策は、ESSの人々も含めたあらゆる人
々にとっての日本語ディベートの機会を増やし、結果としてESSによる英語ディベー
トが縮小しても、ディベート人口全体を増やすことでしょう。
Y.K
A.A@今日は半日休暇です。
ちょっと前に、日本語ディベートのことがこのMLで話題になっていたので、一応
関係者として一言。
私の誤解かも知れませんが、今までの議論では、何か、ディベートをするのに
「日本語か、英語か」という二者択一をせまる様な話の展開になっているように
見えるんですけど、「英語ディベートをやりながら日本語ディベートもやる(又
は、その逆)」というかかわり方は十分考えられるし、可能だと思います。
例えば、私は英語ディベート出身で、今でも毎年NAFAT-Extraに出場するくらい英
語ディベートが好きですが、日本語でディベートするのも大好きです(好きでな
ければ大会のマネジなんてやりません)。ESSに入って英語ディベートをやってい
なかったら、日本語ディベートに参加することもなかったでしょうし、また、日
本語ディベートを体験することによって、その後の英語ディベートを考える際に
も大いにプラスになったと思います。
ですから、日本語ディベートの大会にもESS関係者の方に大いに参加して欲しい
し、日本語でしかディベートをしたことがない人も、機会があれば、英語のディ
ベートを体験してみるのもいいと思います。
JDA日本語ディベート大会には、色々な人が参加してきます。中高生の人たちや、
ESSの学生、引退したOBや、社会人になってからディベートを始めた人たち…。こ
ういった人たちが、「ちょっと違う世界」をのぞくきっかけに、この大会がなっ
てくれれば、と考えています。
結局最後は大会の宣伝になってしまいましたが…。
A.A
こんばんは、H.I(神戸大OB)です。
[JDA:3689]で、 E.Bさんが社会人を対象とした日本語ディベートの普及促進
について述べておられました。社会人を対象としたディベートの大会、という
のは、とても有意義な試みであると思います。ディベートに興味のある社会人
が、オープンなディベート大会に出場できる機会は、数少ないですから。
私は社会人になってから2回日本語のディベート大会に出場しましたが、そ
の経験も踏まえて、「一般人にわかりやすい」ディベートとするために、試合
の形式やルールにをどうすべきか、について感じたことを述べさせていただき
ます。ご参考になれば幸いです。
1.試合形式
フォーマット(試合の形式)は、JDAディベート大会のB部門で採用してい
る、立論各1、反駁各2の形式がよいと思います。
ESSで用いている立論各2・反駁各2の形式は、戦略的なディベートを可
能にするという利点はありますが、この形式に慣れていない人は2つの立論の
使い分けにとまどうでしょう。またこの形式では試合時間が長くなる(ESS
では1試合約2時間)ので、見ている人が疲れるかも知れません。一方、立論
各1、反駁各1だと、反駁で出された議論が十分深まらないまま試合が終わっ
てしまう可能性が強いです。
2.わかりやすさ
きめの細かい議論を展開しようとすると、経験を積んだディベーターほど、
多くの論点を提示し、早口でスピーチするという傾向に走りがちです。しか
し、このようなスタイルのディベートは、一般の人にわかりにくいものになる
おそれがあります。私がジェトロ・ディベート大会に出たときも、ディベート
はずいぶん早口であると印象を持たれた方も多かったようです。
専門家によるジャッジを廃止してaudience voteにすれば、一般の人にわか
りにくいような早口は姿を消すでしょうが、これでは、ディベートの勝敗はス
ピーチの印象の優劣で決まってしまい、議論の優劣が正確に判断しづらいとい
ううらみがあります。そこで、専門家によるジャッジを採用する一方、「わか
りやすさ」を採点項目に取り入れ、大量の議論の提示や早口のスピーチはマイ
ナスの評価をすることとするのが、最も妥当な解決策だと思います。
大事なのは、このことを出場するディベーターに周知徹底することです。
ディベーターはジャッジにあわせてスピーチしますので、ジャッジが理解でき
ると思えば、早口のスピーチや大量の議論の提出もためらわないですが、「わ
かりやすさ」が重要な採点項目であることを知らせれば、その傾向はある程度
抑制できるでしょう。
3.証拠の使用
アカデミック・ディベートでは、主張は原則として証拠による立証が必要と
考えられています。これはこれで理由のあることなのですが、証拠による立証
を厳格に要求すると、ディベート経験の少ない人は証拠に縛られて言いたいこ
とが言えなくなるおそれがあります。さらに、証拠をひんぱんに引用すること
は、一般の人に対し「自分の言葉で主張していない」というネガティブな印象
を与えることもあるようです。
そこで、具体的な事例や統計データの引用のとき以外は、証拠はなくてもよ
いこととするのがよいと思います。もっとも、主張を支える理由は当然必要で
すから、理由を示すのに証拠の引用を不要とするということです。(私は、ア
カデミック・ディベートでもそうあるべきだと思いますが。)
証拠を引用させるときも、著者名、書名、発行年、ページ数まで言わせるの
はやめて、著者名又は書名でいいこととし、発行年やページ数は聞かれたとき
に答えられるよう用意させておけばよいと思います。
P.S.
近年ビジネス界でディベートが注目されるようになってきましたが、その中
には、「ディベートがそのまま仕事に役立つ」と誤解している方もいるのでは
ないかと思います。書店に並んだディベートの本を見ても、「ディベートによ
る意思決定」だとか「ディベートで相手を論破する」とか、とかく誤解をあお
るような記述があったりします。
意思決定のための「ディスカッション」と「ディベート」は同一ではありま
せんし、また「ディベート」と「交渉」も大きく異なるものです。瀬能さんも
書いておられましたが、ディベートが仕事に役立つとすれば、それによって得
られる論理的思考力や要点を把握する能力であると、私は思います。
H.I
>こんばんは、神戸大OBのH.Iです。
H.I君、お久しぶりです。S.Y君も。Y.Sさん、Y.Yさんも。大阪大学ob,FATALこと
S.Yです。去年の年末からみていましたが、やっと話に参加できそうなので、乱
入します。
>ディベート人口の減少については関西人ながら何とも言えません。
昔も、deb.secの後輩の勧誘も至難の業でした。大阪大学ESSは大所帯でしたが、
deb.secを希望するのはほんの3、4人(変人を含む)でした。だから、神戸、同志社
の大軍を見ると、うらやましく思っていました。ただ、京都のように最小人数で無敵
のチームもあり、ようは各人のタレントが勝負なのでしょうけど。
>私も変わったストラテやアーギュメントの話は好きですが、中にはレベルの低いのもあ
>りますからね。
思い出話で恐縮ですが、関東にいって、ハイポジャッジを見るや否や、CWをだしま
くり、ジャッジや観客に喜んでいただきました。また、当時から東海村に注目してい
たことは、現実が後からついてきたという印象です。
> 質の高いディベート、楽しいディベート、勝てるディベートというのは、本来一致す
>るはずですし、そうでなければおかしいですよね
いまでも、神戸のH.I君、S.Y君や、WESAのH.K君、K.T君との試合などを思い出
すと、あの限られた時間の中で、チームワーク、智力のかぎりを尽くして戦ったあの
一瞬は、素晴しい思い出です。OB,OGはそのような気持ちがあればこそ、あの若き日
々をdebateに賭けたことを誇りに思い、その思いを後輩に伝えていくのでしょう。
私事ですが、今年の7月から、アメリカに臓器移植の臨床研修のため留学します。
臓器移植のことが日本の医療の抱える問題として、debateを通じて自分の心の中にと
どまっていたのでしょう。これも僕なりのdebateをやったメリットの一つでしょうか
。
それでは、また。
こんばんは、 E.B@生産性本部です。
H.I さんが、[JDA :3697] RE: 日本語ディベートの普及推で、
>>1.試合形式
>> フォーマット(試合の形式)は、JDAディベート大会のB部門で採用してい
>>る、立論各1、反駁各2の形式がよいと思います。
>>(中略)一方、立論、各1、反駁各1だと、反駁で出された議論が十分深まら
>>ないまま試合が終わってしまう可能性が強いです。
そうですね。確かに慣れていれば、2立の方が、議論が深まりやすいこと
は、承知していますが、大会の運営上もこの方が良さそうですね。
また私の行っている企業内研修では、やはり研修日程の関係上、試合に十
分な時間がとれずに、1立、それも5分程度とすることが多いので、この
点でも同一性が取れそうです。違えると、教えた内容と大会の形式が違っ
て、混乱もしそうですし。。。
>>3.証拠の使用
>>証拠をひんぱんに引用することは、一般の人に対し「自分の言葉で主張して
>>いない」というネガティブな印象を与えることもあるようです。
そうですね。研修でディベートのビデオ(ビジネスディベート入門編
監修:N&Sラーニング 西部直樹氏 生産性本部刊)などを受講生
に見せることが多いのですが、上映後の質問でも、データの上げ方に
ついては、その方法などについて疑問に思われることも多いようです。
ここで疑問なことは、もしかすると一般大衆は、いわゆるパーラメン
タリーディベートのようなものを要求しているのではないか、という
ことです。ビジネスの中で活用できることをあるていど前提とすると、
むしろパーラのほうがよいのでしょうか?
私の解釈ですが、アカデミックディベートは、データによる主張が軸に
あり、パーラは比喩による主張が多い感じがするのです。
>> そこで、具体的な事例や統計データの引用のとき以外は、証拠はなくてもよ
>>いこととするのがよいと思います。もっとも、主張を支える理由は当然必要で
>>すから、理由を示すのに証拠の引用を不要とするということです。(私は、ア
>>カデミック・ディベートでもそうあるべきだと思いますが。)
全く同感です。特にビジネスパーソンの能力開発のためのものを目指そう
としているので、これで十分だと思いました。ディベートをそのままビジ
ネスのシーンで使えるとは思いませんが、なるべく日常の会議などから
かけ離れたものではなく、またルールを覚えるのに苦労させないようにし
て、できるだけ多くの人に参加して欲しいと思っています。
まだ具体的な日程等は未定ですが、1回やって、はい終わり、としない
ために、しっかりとした計画を練って行きたいと思います。
H.Iさんをはじめ、皆さんよろしくお願いいたします。
E.B@生産性本部です。
北海道大学のK.Aさんが、[JDA :3698] RE: [JDA :3697] RE: 日本語デ で、
>>現在書店でよくみかけるディベート指南タイプの本を書いている人たちに共
>>(1)だから日本人は駄目だ。それ故に、日本ではかくかくしかじかのような
>>主張がまかり通っているのだ。ディベートを日本人が学べば、そんな論調は批
>>判されるだろう(○.○さんという方の、「○○○○○○○○」
>>などの論調に、特にそれを感じる。
○.○さんですね。この本は私も読みましたが、誤解が広がった印象が
あります。こういった主張は別に個人の考えだから、出版することは出版
社との関係などだから、構わないけれど、「ディベート」という枠の中で
あらわされたことに、違和感を感じました。
>>一般社会の実態として、もしもこうした書籍がディベートを広める
>>原動力になっているとすれば、あらぬ誤解を受けそうな気がしてなりません
A.Kさんがあげられていた書籍の奥付に重ねた版を見ると結構な数になっ
ていると思います。
売れていることは、認めざるを得ません。つまり一般のビジネスパーソン
は、そんなようなことが知りたい、知識が得たいのではないかと思います
ディベートを過大評価するつもりはありませんが、少なくとも私の理解し
ているものとは違うので、どうにかしたいということが、最初です。
(実は私自身も、「ディベートに学ぶ 会議の技術」という怪しげな本を
出しているのであまり大きな口をたたけません。いいわけ:編集の希望
が「会議の本」をということで、ディベート香りがするくらいのというこ
とだったんで。)
すなわち、ディベートはビジネスパーソンにとって必要な知的基礎体力
(プラットフォームスキル)を向上させると思います。
会社的には、ホワイトカラーの生産性向上といっています。
換言すれば、
1論理的思考力を伸ばす。(論理構築力、わかりやすい表現力)
2素早い思考力を身につける
3シミュレーション力を向上させる
4傾聴力を伸ばす(注意深く良く聞く)
というように考えています。
E.B
大学生にとっての観点からを中心に述べますが
まず日本語ディベートについては、その意義という「べき論」とは別に、要するに
イベントとして「ブレイク」するかどうか、集客力があるのかどうか、何となく出
場したいと思うかどうかが大事だと思うのですが、まだ今一つマーケティングとし
ての判断材料が少ない、という感じは持っています。
NAFA大会を全部日本語ディベートに、というのは、もともと荒唐無稽な話で、
僕も本気で言ってるわけではないんですが、試しに聞いてみて、「それでも構わな
いから日本語ディベートをもっと増やして欲しい」「みんな参加したいと思うから
、相当盛り上がると思いますよ」という声が、現時点までになかったということは
、現役にとって、さほどニーズが強いわけではないということなのかもしれません
。如何でしょうか。
問題意識の出発点が、関西地盤沈下(?)およびESSディベート人口の減少にあ
るのですが、日本語ディベートへの代替がそれを補完するかどうかという意味では
、今の所はネガティブということなのでしょうか。そうだとすれば残念ですが。
−−−−−−−−−
「べき論」という意味では、日本語ディベートの意義には2つあるような気がしま
す。
ひとつはディベート人口のすそ野の拡大・・・社会人・高校生等の気軽な参加、学
生でもアカデミックディベートの本格的な訓練を受けていない人達のための機会提
供
もうひとつは、より論理としての純粋さを追求する目的のために、外国語という障
害は有害であるという前提で、アカデミックディベートを、そっくりそのまま日本
語にする形
高校生・社会人のための機会提供は近年目覚しく増えているような気がします。一
方で、学生の日本語ディベートへのアクセスの機会はまだ余りないように思います
。唯一ESSがディベートへのアクセスを可能にしているのですが、新入生にとっ
てESSはまずは英語のサークルであって、日本語ディベートをやりたい人が仕方
なくESSに入るなどという回りくどいプロセスを採る新入学生はさほど多くはな
いと思います。
逆にESSを始めから選択した人にとっては、既に英語に対する抵抗感が薄いわけ
で、今更日本語ディベートでなきゃ、という人はなかなかいないかもしれません。
従って、日本語ディベートだけをやりたい学生を、取り込み損ねているというのが
現状だと思います。
理想としては、各大学に日本語のアカデミックディベートのサークルが同時多発的
に発生し、いきなり大会が開けるくらいの日本語ディベート人口が形成されること
でしょうが、当然これは不可能な話でしょう。また仮にあったとしても、アカデミ
ックディベートとは少し異なる思想の団体となる可能性が高い。
従ってあくまで次善の策として、現在のESSディベートのインフラを「胎盤」と
して使わせてもらうという発想にならざるを得ないのですが、先述のように既に英
語への抵抗感が薄い層には関心が薄く、逆に英語はしんどいという層には、「ES
S入部」というネックが付き纏うというジレンマが発生していると思われます。
我々の「べき論」の発想としては、もはや英語も日本語もない、純粋な論理のゲー
ムというディベートの本来の目的からすれば、むしろ英語でない方が良い、という
「上からの」議論になるのですが、新入生にとって大事なのは「べき論」ではなく
、要すれば面白いかどうかのインセンティブの問題であり、また実際の「受け皿」
があるかどうかということだと思います。
かかるジレンマの中で、それでも敢えてESSを胎盤に使わせてもらいたい理由は
、妥協策としてこれが現実に取りうる最低限の方法のひとつと考えるからです。ジ
レンマ故に、始めは小さく産んで、ということにならざるを得ませんが。
NAFAでなくても、だれが来年の4回生の人で、「よし俺が団体をつくって会長
になり、大会のひとつでも開いてみるか」という人が現れるなら、NAFA/JD
Aその他の既存の団体は協力を惜しまず、支援してあげるよ、という盛り上がりが
あっても良いと思いますが、如何でしょうか。
K.N
ご無沙汰しておりました,Y.Yです。
関西の英語ディベート界をいかに盛り上げていくかについての議論。「フェータル
君は確実にわが道を進んでいるな」とか感じつつ面白く読んでいます。重要な議論
なのですが,あまり年上のものばかりが発言するのもなんだかなと思い発言を見合
わせておりました。
ですが,二つほどどうしても発言したくなりました。一つは,暗黙に現状を固定的
に考えている議論に対しての批判。もう一つは,K.Aさんの大変 inspiringな説に
対する感嘆です(これは別のメールに書きます)
---
社会学をやっているものとして,どうも気になるのは次のことです。
a) 現状の大学英語ディベート界の状況
b) 現状の社会の議論に関する状況
これらのことを,「いつまでも固定したものである」と,たぶん暗黙に無自覚にで
しょうが,議論している方が多いということです。私の意見では,特に a) を固定
して議論していたら,関西に限らず全国の英語ディベート界の将来は尻すぼみだと
確信しております。暗黙に固定してる例として,次の二つの意見を見てみましょう
Y.S義典さん[JDA :3699]
>1)コミュニケーション能力
>>ディベートでやっているようなコミュニケーションの方法(直接的に相手を
>論破する、ちまちまとカードアタックをする)は、当然一般の社会では
>(アメリカにおいてすら)通用しません。これをやると、孤立します(^^;。
H.Kさん[JDA :3701]
> Y.S氏の見解に賛成ですね。
> 私の経験やいろいろみた感じでは、ディべートは、
> コミュニケーションスキルの向上には、あまりやくにたたない
> 気がします。
これらの意見は一面の真実をついていますが,これらが正しいのは,あくまでここ
で言われている「ディベート」が現状のディベートのあり方を固定して考える場合
であり,「一般の社会」がこの発言者のとりまいている「社会」であるときだけだ
と思います。
一方で,確かに現状の大学英語「ディベート」では,英語でも何でもない音声を高
速度でまくしたて,コミュニケーションへの配慮がほとんどありません。そしてそ
れが問題のあるディベートだとされるのでなく,それこそが「ディベート」の特徴
なのだとさえ考えられている風潮すらあります。それでは確かにコミュニケーショ
ンスキルは向上しません
他方で,ある種の社会の現状では,お互いの意見をよく聞いて,その問題点を指摘
しあうような議論の形態(私の定義ではこれこそが〈ディベート〉ですが)が,直
接に役に立たない場合もあるでしょう。
しかし,こうした二つの現状を固定して,「ディベートが何に役に立つか」を後輩
に伝えることが本当に生産的でしょうか。私は,現在の大学英語「ディベート」の
状況のままなら,現実の社会にも役に立たないし,こんなことを続ける必要はない
と考えます。また,そもそも関西を含め全国で英語ディベートが下火になっている
最も重要な理由の一つは,現状の英語「ディベート」の状況にあると思います。
繰り返すまでもなく,そこでは訳の分からん音声が飛び交い,相手が「ドロップ」
することだけを願った,市井の飲み屋談義の方がよほどましだと思えるような戯言
が,議論としてまかりとおっています。それでも「いやディベートというのは,相
手がドロップしたらだめだから」とか「ディベートは一般の人が思いつかないクリ
エイティブな発想を生むんだ」とか,現状の「ディベート」を擁護する声すら聞か
れます。
---
現状の英語「ディベート」の良い点を無理矢理見つけ,それが現状の自分の限られ
た社会の中でどう役に立つか。そうした議論は,少し後ろ向きです。むしろ,
1) 社会において議論をどう役に立たせるべきか。
2) 社会において「議論」が役に立つようにはどうすればいいのか。
3) ディベート教育がそれにどのように寄与しうるのか
4) 寄与するためには現状の「ディベート」の状況をどう変えていくべきなのか
こう拡大均衡的に考えていく議論を聞きたいものです。もちろん現実的には社会が
どうかという点は短い期間ではどうもできないでしょう。しかし 4) の現状の「デ
ィベート」をどう変えていくべきかという点を動かすのは,大変ではあっても,何
とかなるはずです(少なくとも,私はそう信じて,みずから実践しております)
なお私自身は, 1) 現状の社会において,「お互いの意見を効率よく伝え合い,お
互いの意見をよく聞き,それを批判的に吟味し合うような議論」が,もっとあるべ
きだと思いますし, 2) 3) 〈ディベート教育〉がそうした議論の普及に役に立つ
と確信しておりますし, 4) そうなるように〈ディベート教育〉を,とりあえずは
よりコミュニカティブに変えていくべきだと考えております。
---
長くなりましたが,つづめて言えばこういうことです。今必要なのは,
「現状のディベートでも,まだそれなりに役に立つよ」
という議論ではなく,
「現状のディベートをこう変えたら,こう役に立つはずだよ」
ではないでしょうか。遠回りに見えますが,関西および全国の英語ディベートを盛
り上げるためには,こうした迂路をとおらざるを得ないと思います。
Y.Y
S.M@神田外語大学です。
<中略>
●「日本語ディベートか英語ディベート」について
小生が、1975年に大学のESSに入ったのはディベート
がやりたかったからです。でも、その当時はそんなヤツは
まずいませんでした。英語を勉強したいからESSにはいって
そこでディベートと出会うというのが99%。
今はディベートをしたいと思って大学に入ってくる学生は
けっこう多いと思います。しかも、日本語だけでなく、英語
も勉強したいという人もいる。そこで前に書いたように、神
田外語大学のバイリンガル・ディベート・クラブ(BDC)の
ような方向性がひとつの答になると思います。
●ディベートの効用
「なぜディベート教育をするか」という議論を楽しんで
読んでいます。どんどんやってください。目的を共有して
いないと、ディベートのような理想モデルに近付くための
教育・訓練は意義が喪失しますので…。
個人のレベルでの意味だけでなく、社会的な意味も議論
してもらいたいものです。
<後略>