shouldの解釈に関する議論

 

Date: Mon, 1 Jul 96 16:30:14 JST

Subject: [JDA :1349] Q&A;(should)

 
 H.Oです。
 まだ私の出したtopicality(contextuality)に関する議論の余燼が残ってい
る中、次の質問に移るのは少々気がひけるのですが、ご容赦ください。とは
いっても、今回の質問もtopicalityに関する事ですので、いくらか簡単に終わ
るのではないかと思います。以前○○さんがこういっていた、という意見が
あったら繰り返さないで結構です。引用個所だけ指摘して下さい。
 
 それでは、質問に移ります。
 
 たまにディベートの試合で、肯定側がshouldをいわゆるshallの過去形と
判断して、過去の事実の行為が価値的であったか否かについてディベートを
しようと試みたラウンドを見ることがあります。例えば陪審裁判の時のプロ
ポでは、戦前の陪審裁判が価値的であったか否かについて論じられたことも
ありましたし、北朝鮮などの外交プロポの時は、桃太郎が鬼が島に鬼退治に
いったこと(肯定側の主張によると、鬼が島は今の北朝鮮らしい)が価値的
であったか否かを論じよう、というものもありました。
 
 presumptionはaffにありますから、negが反論しなければ、これらのケース
はもちろんtopicalになります。ですから、こういったケースの反論の方法と
して、@topicalとみなして、ケースアタックやDAを出して反論するAnon-
topicalとみなす、の2通りがおおざっぱな方法として考えられると思います。
 
 ここで私がみなさんにお尋ねしたいのは、negがAの方法を選択した時です。
negはどのようにしたらshouldはshallの過去形ではないことを証明することが
できるのでしょうか。
 
 ある人にこれを尋ねたところ、debate contextというstandardをもってきて
should=bestということをいったり、should=past tense of shallという解釈は
ジャッジのパラダイムを変えることになるのに、そのようなことはaffから指摘
されていないことをいったり、ディベートはshould argumentであってwould
argumentではないと言えばいいのではないか、と言われました。
 
 正直言って私はこの解答の意味がよくわかりません。should=bestとはどのよ
うなことをいうのでしょうか。また、should=desirebleという言葉もよく聞き
ますが、これもどういう意味なのでしょうか。ディベートはshould argument
であり、would argumentではないというのは具体的にはどのようなことなので
しょうか。
 
 また、上のような解答はまだまだ不十分である、こういう風にとらえた方が
いい、という意見もあったらぜひご教示ください。
 
H.O
 
P.S.実際の試合を見ていると、このような試合ではnegはtopicalとみなし
 てケースアタックなどで反論していることが多いように思うのですが、
 これはtopicalityで反論するよりも効率的であるからなのでしょうか。
 この点につきましてもお答え頂けたらと思います。
 

 

Date: Wed, 3 Jul 96 08:42:11 JST

Subject: [JDA :1364] Re: Q&A;(should)

 
H.Iです。
H.O君の質問[JDA:1349]について
 
質問の趣旨は、「肯定側がshouldをいわゆるshallの過去形と定義して、過去
の事実の行為が価値的であったか否かについてディベートをしようと試みた場
合(例:陪審裁判の時のプロポでは、戦前の陪審裁判が価値的であったか否か
について論じる。)、否定側が肯定側の行為をNon-topicalとする(=命題を
肯定する行為ではないと主張する)には、どのようにしたらよいか。」という
ことだと思います。
 
 
 この場合「どのようにしたらよいか」について、Debate界で定説があるわけ
ではないので、「どのような考え方が取りうるのか」という筋道を紹介するこ
ととします。
 
 
 このケースの特殊性は、肯定側の行為がDebateにおけるDecision Making 
Model(以下DMMといいます。パラダイムとほぼ同義ですが、ここでパラダ
イムという用語を使うのが適切か迷ったのでDMMとしました。)を変更しよ
うとするものであるということでしょう。とすると問題は、DMMを"should"
の解釈のみで決定してよいか、ということになります。さしあたって、次の考
え方が思い浮かびます。
 
*ここでいう「"should"の解釈」とは、命題の他の語と同じように、辞書の定
義を引用することにより(つまりDMMの妥当性などを考慮することなく)、
"should"を解釈することをいうものとします。
 
 
(A)DMMは命題の解釈により決定すべきものだから、"should"の解釈
   にあわせてDMMも決定するのは当然である。
 
(B)DMMは、もっぱらdebateの目的・教育的価値性・公平性などの見
   地から決定すべきであり、"should"の解釈に依存すべきでない。
   言い換えれば"should"の解釈に基づきDMMを決定するのではなく、
   DMMに基づき"should"の解釈を決定することとなります。
 
(C)DMMは、debateの目的・教育的価値・公平性などの見地と、
   "should"の解釈の両方を考慮して決めるべきである。
 
 
 このうちA説に立てば、否定側は普通のTopicalityと同じように"should"の
Tを提示して議論してくこととなります。従来のTについての考え方をここに
当てはめると、presumptionは肯定側ということになりますから、否定側は苦
しい戦いを強いられることになります。
 
 一方B説に立てば、否定側は、例えば、DebateはPolicy Makingの考え方に
より勝敗を決定すべきだというDMMを提示し、このDMMを変更するには
debateの目的・教育的価値・公平性などの見地から実質的な理由を提示しなけ
ればならず、単に"should"の解釈を提示しただけではDMMは変更できない。
そして、Policy MakingというDMMに照らして判断するならば、肯定側の行
為は何ら命題を肯定するものではない、と主張すればよいでしょう。
 
 またC説に立つのであれば、否定側は、例えば、DebateはPolicy Makingの
考え方により勝敗を決定すべきだというDMMを提示し、同時にPolicy 
Makingの考え方に基づく"should"のTを提示して、攻撃していくことになりま
す。
 この場合、否定側は、"should"の解釈にあたってはどのDMMを取るべきか
ということも考慮すべきであるから、肯定側が「過去の事実の行為が価値的で
あったか否か」ということについてdebateすべき合理的な理由を提示できない
限り、肯定側の定義は妥当(resonable)とは言えない、あるいは否定側の定義
の方が優れている(Better)と主張していくこととなるでしょう。言い換える
と、"should"の定義を比べる基準として、その定義から導かれるDMMの妥当
性を用いようという考え方であるともいえます。
 否定側から見ると、C説の方が、A説に比べて肯定側のpresumptionを容易
に突破できるという利点があるでしょう。
 
 これまで書いてきたことは、ジャッジのDMM(パラダイム)を考慮してお
りません。ジャッジがPolicy Makingの考え方でジャッジする旨Philosophyに
明記してある場合は否定側は何をすべきか、ジャッジが自己のDMMを容易に
変更するスタンスの場合はどうか、説得力のある十分な理由が示されない限り
変更しないというスタンスの場合はどうか、についてはH.O君の方で(あるい
は皆さんの方で)考えて見てください。
 
 H.O君は具体的な返し方を紹介して、それはどういう意味かという質問をし
ているのに、それに触れない回答となってしまいました。それは、Debate界で
十分議論されていない問題に対して、「このような返し方がある」という説明
をするのは適当でない(その返しが有効かについて議論が分かれる可能性があ
る)と考えたからです。上に述べた議論の整理を参考にして、自ら考えてみる
ことをお勧めします。
 
 
H.I
 

 

Date: Fri, 5 Jul 96 01:15:37 JST

Subject: [JDA :1374] Re: Q&A;(N-T of C-P)

 
>  H.Oです。shouldをshallの過去形とaffが判断した場合の
>negの対処法については、H.Iさんより明解な回答を頂きましたので、これを
>参考に考えさせて頂きます。ありがとうございました。まだこの議論について
>追加すべきところがあるとお考えの方は、引き続き述べていただければ幸いで
>す。
 
うう〜あの解答で全てだと思ってもらっては困ります。
 
はっきり言って、こういう議論は、英語力不足から来るとしか言いようがありません。
 
shouldは、shallの過去形と言うのは、否定しようのない事実ですが、それと過去の
行為の当為性の肯定的判断をshouldが表すと解釈できるかどうかとは全く別です。
 
shallの過去形であるshouldは、通常の動詞でないので、単純に原形の意味に過去様
相を加えれば過去形の意味が分かるとはなりません。過去形の形で用いられるときに
は、その他の場合にはない、義務様相など特有の意味で使われるのです。
 
はっきりいって、上記のような解釈は不可能です。
そのような意図された解釈は、should have ~ でしか表現されません。
 
これに関しては、一年ほどまでこのリストで話題になりました。JDA:70-130くらいの
範囲でいくつか関連メールがあります。
 
それから、H.I氏のコメントは、申し訳ありませんが、多少的外れです。
この場合はそういう問題以前の事柄だと思います。
 
 
Y.K
 

 

Date: Fri, 5 Jul 96 10:14:03 JST

Subject: [JDA :1375] Re: Q&A;(N-T of C-P)

 
H.Iです。
Y.Kさんのメールについて
 
[JDA:1374]
>shouldは、shallの過去形と言うのは、否定しようのない事実ですが、それと
>過去の行為の当為性の肯定的判断をshouldが表すと解釈できるかどうかとは
>全く別です。
>
>shallの過去形であるshouldは、通常の動詞でないので、単純に原形の意味に
>過去様相を加えれば過去形の意味が分かるとはなりません。過去形の形で用
>いられるときには、その他の場合にはない、義務様相など特有の意味で使わ
>れるのです。
>
>はっきりいって、上記のような解釈は不可能です。
>そのような意図された解釈は、should have ~ でしか表現されません。
 
 ここで述べられていることは、shouldについてのaffの解釈の不合理性を指
摘すればよいということに過ぎません。negにとってそのような反論ができる
のは当たり前のことです。
 
 [JDA:1364]で述べているのは、命題の解釈以前の問題として、そもそも
ジャッジのDecision Makingの方法を変更するような事柄を、shouldの解釈の
Tとして議論することが妥当がどうか、という議論も可能であるということで
す。
 
 
H.I
 

 

Date: Wed, 10 Jul 96 01:04:07 JST

Subject: [JDA :1393] Re: Q&A;(N-T of C-P)

 
At 10:14 AM 7/5/96 +0900, Hirotaka-HQ Iida wrote:
>H.Iです。
>Y.Kさんのメールについて
>
> ここで述べられていることは、shouldについてのaffの解釈の不合理性を指
>摘すればよいということに過ぎません。negにとってそのような反論ができる
>のは当たり前のことです。
>     
> [JDA:1364]で述べているのは、命題の解釈以前の問題として、そもそも
>ジャッジのDecision Makingの方法を変更するような事柄を、shouldの解釈の
>Tとして議論することが妥当がどうか、という議論も可能であるということで
>す。
 
それはそうでしょうが、あのような議論では、それは牛刀を以て鶏を裂くことではな
いかというのが私の感想です。
又、あのような議論は、命題解釈として自明的に不合理であることをディベータには
再認識して欲しいと思ったので、敢えて「当たり前のこと」を指摘したのでもあります。
 
 
それから、何年か前にT.H君をそそのかしてJNDTで、たまたまその時出していたケー
スを、命題を政府の義務を規定した行為義務と解釈するような形で出すようしむけた
ときに見られた幾人かのジャッジの反応からも感じたことですが、命題の解釈により
、DMMを変更する必要が生じるのかどうかは疑問です。
 
確かに、Policy Making Metaphor(モデルというと、私は命題解釈との関係の方を連
想しますのでメタファーという言葉を使います)を使っては評価できないような状況
が命題解釈によっては生じることがあるでしょう。
しかし、その場合は単にそのメタファーが使えないというだけでしょう。それを捨て
なければならないという訳ではありません。差し控えることと放棄することとは別です。
その状況は、何らかのメタファーを使って解釈するまでもない直観的に理解可能なも
のでしょうから、そこでジャッジは困ることは何もなく、メタファーなしに議論を評
価すればよいだけです。(そもそも、今のディベートでのParadigm (metaphor) は、
不必要な単なる表面上の飾りに過ぎない場合が多いように思います。)
ジャッジが特定のDMMに常に固執する方がおかしいと言えます。DMMは、単なる便宜的
な道具であり、状況に応じてそれを使い分けるのが本来的な姿でしょう。
ディベート命題が、政策例として解釈されなければならない、という前提こそ、単な
る慣習に騙された、根拠なきものとされるべきでしょう。
 
Y.K
 
 
 

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