authorityを使った証明について


Date: Mon, 9 Dec 96 19:12:14 JST
Subject: [JDA :2110] Use of Evidence1(Long)
 
しばらくご無沙汰しております。H.Iです。
 
 最近のMLの議論やディベートの試合を見ていてると、証拠の意義やその用
い方についてディベート界では共通した理解があるわけではなく、むしろずい
ぶん誤解している人も多いのではないか、と感じることがあります。
 
 先日ML上で証拠のAuthorityを詠むべきかどうかについて議論がありまし
たが(忙しくて発言できませんでしたが)、どうも議論が深まらずに、すれ違
いに終わってしまった感があります。
 また実際のディベートの試合でも、クレームと同じことしか書いていない、
いわゆる「一行エビ」が横行していたり、証拠にクレームと同じ趣旨のことが
書いてあるか書いていないか、という、低レベルの議論をしているディベー
ターもまだまだいるようです。
 
 このような状況下では、アカデミック・ディベートのレベルを上げるために
は、証拠の意義やその用いかたについて、一度きちっとした議論をする必要が
あるのではないか、と思います。
 
 以下、一行エビの当否やAuthorityについての考え方も含め、証拠の意義や
その用い方について、最近考えたことをまとめて書いてみます。長くなります
ので、興味のない人は飛ばして下さい。
 
 
1.一行エビは証拠となるか
 クレームと同じことしか書いていない、いわゆる「一行エビ」が証拠となる
かについては、MLでも議論がありました。証拠として適切でないという人も
いれば、専門家の意見であれば一行エビでも証拠となるという人もいたようで
す。
 
 これは、そもそも証拠とは何か、と議論にかかわります。アカデミック・
ディベートにおいては、自らの主張に信用性を与えるために、自らの主張と同
じ趣旨の専門家の意見を引用し、その引用した意見のことを「証拠」と考えて
いる人が多いようです。
 
 しかし本来証拠とは、主として事実の存否を判断するための客観的な根拠の
ことです。たとえば、「雪男は実在すると私は思う。」というだけでは、その
真偽を客観的に判断することはできませんが、「雪男は存在する。○○地方で
も雪男は目撃されている。」というように、客観的な根拠が出されれば、その
真偽を客観的に判断することができます。この「○○地方でも雪男は目撃され
ている。」という部分が、本来の意味の証拠です。
 
 「雪男は存在する。」ということの証拠として、「○○さんも雪男が存在す
ると述べている。」ということを持ち出すのは、適切ではありません。これ
は、他人の主観的な判断を持ち出して事実の存在を基礎付けようとしているの
であって、客観的な根拠は何ら示されていないからです。
 それが専門家の意見であっても同じです。専門家のいうことは常に正しいと
は限りませんし、何よりも専門家の意見を盲目的に信用するという態度は、批
判的精神を大切にするディベートにふさわしくない考え方でしょう。
 
 もし他人の意見を引用するのであれば、その人が客観的な根拠に基づき判断
していることを示す必要があります。雪男の例では、「○○さんは『雪男は必
ず存在します。私は××山で雪男のものとしか思えない足跡を目撃しまし
た。』と述べています。」ということがこれにあたるでしょう。
 このように考えると、客観的根拠が示されていない他者の意見の引用しても
(いわゆる一行エビ)、それが本来的意味の証拠とならないことはおわかりで
しょう。
 
 しかし、今のディベート界では「雪男は存在する」という他者の意見が引用
されれば、その客観的な根拠が示されてなくても証拠として認める一方、「×
×山で雪男のものとしか思えない足跡が目撃されている。」という根拠のみを
提示した場合は、「この証拠は雪男が存在するとまでは言っていない」という
意味不明の理由により、証拠として認めないことがままあります。これは全く
誤った態度であると私は思います。
 
 
2.すべての議論に証拠が必要か
 セオリーの議論にまで証明が必要と考えているディベーターがいることが、
このMLでも取り上げられました。証明が必要な事項、すなわち証拠を提出し
なければならない事項は何か、ということについてディベーターが混乱してい
るのは、やはり証拠とは何かを正しく理解していないせいだろうと私は考えて
います。
 
 従来ディベート界で理解されてきたように、自らの主張に信用性を与えるた
めに引用する専門家の意見のことを「証拠」と考えるのであれば、ありとあら
ゆることに証拠が必要なのは論理的な結論でしょう。そう考えると、セオリー
の議論にまで証拠を持ち出すディベーターがいることも理解できなくありま
せん。
 
 しかし、証拠とは「主として事実の存否を判断するための客観的な根拠」で
すから、証明が必要なのは、原則として事実の存在を主張する場合です。「雪
男は存在する」ということを主張するためには証明は必要ですが、「雪男も野
生動物(?)として保護すべきだ」と述べるために証拠は必要ではありません。
 
 以前、MLにおいて「証拠を用いない議論が最強の議論である。」という趣
旨の発言がありましたが、これが事実の存否をめぐる議論についても述べたも
のだとすれば、妥当とはいえないでしょう。事実の存否を客観的に判断するた
めには、証拠を用いることは不可欠です。証拠を用いずに「私は雪男は存在す
ると思う。」「いや、そんなものは存在するわけがない。」と議論しても、お
互いの主張は平行線をたどるばかりで決して実りのある議論とならないでしょ
う。
 誰でも知っているような公知の事実を除き、事実の存否に関する主張につい
ては、証明が必要と考えるべきでしょう。
 
 ただし、事実の存在を主張する以外にも証明が必要な場合もあり、この問題
はもうすこし細かく考える必要があります。まず、経験則(経験から得られた
知識・法則。自然法則なども含まれます。)については、常識的な経験則は証
明不要ですが、常識的とはいえない経験則については、やはり証明は必要で
しょう。
 
 例えば「基地がなくなればそこで働いている人は失業する。」というのは常
識的な経験則ですから証明は不要ですが、「失業した人は生活苦から犯罪に走
る。」というのは、常識的な経験則とはいえず、証明が必要です。
 この証明の方法としては、二つあります。一つは根拠となる事実を直接示す
ことです。失業者が犯罪を犯した例や、統計上の数字などを示すのがこれにあ
たります。もう一つが、経験則を理論的に根拠付けることです。「経済的な生
活苦は犯罪の引き金になりやすい」などといった専門家の分析を示すことがこ
れにあたります。
 
 一方「人権は大切だ」といった価値の評価については、証明は不要です。
ディベートではこのような価値の評価にまでいちいち「証拠」が提出されるこ
とが多くあります。それが全て適切ではないとは思いませんが、他人の意見を
引用するよりも、自ら考えるところを述べた方がはるかに説得的な場合も多い
ことを理解してもらいたいと思います。
 
 長くなりますので、残りは次のメールにします。次のメールでは、「専門家
の意見でなければ証拠とならないか」「証拠を提示するときにAuthorityを読
むことは必要か」について述べます。
 ご意見、ご批判があればお寄せ下さい。
 
 
H.I 
 
 

Date: Tue, 10 Dec 96 12:56:02 JST
Subject: [JDA :2112] Use of Evidence2
 
H.Iです。
 
 [JDA:2110]の続きです。アカデミック・ディベートにおける証拠の取扱いに
関し、「専門家の意見でなければ証拠とならないか」「証拠を提示するときに
Authorityを読むことは必要か」については、いずれもMLで議論になった事
柄ですが、私の考え方を以下に述べます。
 
 
3.専門家の意見でなければ証拠とならないか
 自らの主張に信用性を与えるために、自らの主張と同じ趣旨の専門家の意見
を引用するという従来のアカデミック・ディベートにおける証拠の理解では、
専門家以外の人の意見は、証拠として認められない(証明力がない)というの
が、論理的な帰結でしょう。
 
 しかし、実際のディベートでは証拠を引用するときにAuthorityを明示せ
ず、また専門家とはいえない人の意見も相当引用されるなど、考え方と実際の
運用に大きな差がありました。
 
 これは、事実の証明と経験則の証明に分けて考えていくことが必要だと思い
ます。
 事実の証明については、証拠が専門家の意見である必要は全くありません。
事実の存否をめぐる発言に証明力が認められるかは、その人が直接体験した事
実か、人から聞いた事実(伝聞証拠)か、発言する人が嘘をついたり誇張した
りする人ではないか、ということが焦点になりますが、これは専門家かどうか
とは関係のない事項です。
 
 例えば「○○山には雪男は現れてないという報告を受けている。」という専
門家(動物学者)の意見より、「私は○○山で確かに雪男を見た」という目撃
者の発言の方が信用できるケースが多いでしょう。また、統計や新聞による事
実報道などは、専門家の意見とは異なりますが、事実の証明については、これ
らの証拠に証明力が認められるのは当然でしょう。
 
 経験則の証明については、根拠となる事実を直接示す場合(失業者犯罪を犯
すことの証拠として、失業者が犯罪を犯した新聞記事や、統計上の数字などを
示すなど。)は、上記と同様、専門家の意見である必要はありません。
 
 一方、経験則を理論的に根拠づける場合(失業者が犯罪を犯すことの証拠と
して、「経済的な生活苦は犯罪の引き金になりやすい」などといった専門家の
分析を示すなど。)は、たしかに専門家の意見であることが必要なように思え
ます。
 
 しかしよく考えてみると、内容的に専門的な分析がされているかが問題で
あって、必ずしも専門家の意見である必要はありません。評論家の立花氏は医
学の専門家でありませんが、脳死についての医学的専門的な分析を行った著書
があります。科学技術に関する新聞・雑誌の記事でも、記者が科学的な分析を
行った上で執筆しているケースも多くあります。これらの書籍・記事を引用し
た証拠について、一切証明力が認められないというのは行き過ぎでしょう(た
だし、経験則の証明について相対する理論的な証拠が出された場合、専門家の
意見が非専門家の意見に優越するという判断はありうるでしょう。)。
 
 したがって、経験則を理論的に根拠付ける場合であっても、やはり専門家の
意見である必要はなく、その内容につき専門的な分析がなされていることが明
らかであればよい、ということになります。
 
 
4.証拠を読む際に著者の立場(Authority)を述べる必要があるか
 MLで議論された論点です。述べる必要があるという意見、述べなくてもよ
いという意見がありましたが、それぞれの根拠は必ずしも明らかでなかったよ
うな気がします。
 
 この点、もし「専門家の意見でなければ証明力がない」という立場であれ
ば、その証拠が専門家の意見であるかを明らかにするため、証拠を読む際に著
者の立場を明らかにしなければならない、という結論になるでしょう。
 
 私は、専門家の意見でなくても証明力を認めてよいという考えですが、証拠
を読む際には、著者の肩書を述べるべきであると考えています。他人の意見を
引用するときは、それが誰の意見なのかを明らかにすることが不可欠ですが、
肩書を付けずに単に名前だけ述べたのでは、誰の意見なのか正確にわからない
からです。
 
 例えば「鈴木'96」というだけでは、どの鈴木さんが述べたのかわかりま
せんが、「○○大学の鈴木太郎教授が1996年にこう述べた」といえば、誰の意
見なのかが明らかになります。
 新聞・雑誌において関係者の発言を引用するときは、「○○大学の鈴木太郎
教授は次のように指摘する。」「証券アナリストのY.S一郎氏は…と述べてい
る。」など、必ず姓名及び発言者の肩書を示して引用しています。アカデミッ
ク・ディベートでも同じようにすべきでしょう。
 
 NAFATの関東予選において、いくつかの大学は著者の名前・肩書を紹介
してから証拠を読んでいました。これは、とてもよい傾向であり、他の大学に
も広まるとよいと考えます。
 
 
 以上、とても長くなってしまい申し訳ありません。
 証拠とは、主に事実の存否を判断するための客観的な根拠であって、ディ
ベート界でいわれているように、自らの主張に信用性を与えるために引用す
る、主張と同じ趣旨の専門家の意見ではないというのが、私の基本的な考え方
です。
 ここで述べた考え方は、あるいはディベート界では異説かもしれませんが、
本来の証拠の意味にはむしろ忠実であると考えています。
 ご意見、ご批判があればお寄せ下さい。
 
 
H.I
 

Date: Wed, 11 Dec 96 01:08:33 JST
Subject: [JDA :2116] Re: Use of Evidence2
 
N.M@大阪外大卒です。
 
>>H.Iです。
 
H.Iさんのご意見について若干気になる点があったので、
投稿します。
 
> 例えば「鈴木'96」というだけでは、どの鈴木さんが述べたのかわかりま
>>せんが、「○○大学の鈴木太郎教授が1996年にこう述べた」といえば、誰の意
>>見なのかが明らかになります。
>> 新聞・雑誌において関係者の発言を引用するときは、「○○大学の鈴木太郎
>>教授は次のように指摘する。」「証券アナリストのY.S一郎氏は…と述べてい
>>る。」など、必ず姓名及び発言者の肩書を示して引用しています。アカデミッ
>>ク・ディベートでも同じようにすべきでしょう。
 
必ずしもそうとは言えないと思います。雑誌・図書の論文を読んでいても、
佐々木は「・・・・・・・」と述べているが、とかこれについては「・・・」
という意見もあるがと、発言者の名字のみや発言者名さえないケース
もあります。もちろん、脚注がついていて文末に引用文献が明らかにされて
いますが。
 
>> NAFATの関東予選において、いくつかの大学は著者の名前・肩書を紹介
>>してから証拠を読んでいました。これは、とてもよい傾向であり、他の大学に
>>も広まるとよいと考えます。
 
確かに関東の大学のチームの方が良くそのようなプレゼンテーション
をしていますね。もちろん望ましいことではありますが。ただ、ジャッジ
は高速デリバリーをされた場合、すべてのエビのオーソリティーを
フローに完璧に残し得るのかなという疑問もあります。ちなみに私は
できません。ただ、年代はなるだけ取るようにしていますが。
 
N.M
 

Date: Wed, 11 Dec 96 21:00:32 JST
Subject: [JDA :2121] Evidence
 
H.I君の[2112][2116]のメールに対して
 
1.「常識」と、「常識を覆す提言」
 
まず、ディベート界の常識でなく、一般の人が証拠をどう考えるか、つまり、証拠
を巡る「常識」を把握する必要があります。一般常識に捕らわれる必要はありません
が、一般常識をスタートポイントとして、その常識を覆すことにより、一般の人に対
してどのようにより説得的なディベートを行うことができることをディベーターに提
言すべきであると思います。
 
2. 一般での議論における、証拠を巡る「常識」
 
H.I君は、訴訟の例を念頭に置き、事実の存否と経験則を証明するものを証拠と定
義していますが、実社会で議論の対象になるのは、裁判の対象となるような、単純な
「過去の」事実の存否だけではなく、非常に幅広い議論が可能です。
 
価値観に関する議論、将来の予測、個人個人の行動の予想、などなど、現在行われ
ている政策ディベートでは、単純な過去の事実の存否のみで決着が付く議論はむしろ
少ないでしょう。
 
これらの議論どれをとっても、証拠を有効に活用することにより、主張に信憑性を
増すことができます。「証拠」(根拠と言ってもいいが)はもっといろいろな立証に
使えるものです。
 
そして、一般社会では、いろいろな立証の場合で、事実の存否の立証でさえ、議論
を効果的に行うために、著者の社会的地位や立場が有用な場合はたくさんあります。
いくつか例を挙げます。
 
・政府の認識が争点となる議論
 
「北朝鮮指導部が、現状をどのように認識しているか」
 
「日米安保が破棄された後、米軍はどこに行くか」
・個人の体験や考えが争点となる議論
 
従軍慰安婦が、「私は連行されたんです」と述べるような場合
 
被害者が、「私は侮辱されたんです」と主張する場合
 
イラク人が、「イラクでは、人権は尊重されていない」と述べる場合
・高度に専門的な議論(理由が専門的すぎて素人には理解できない場合)
 
医者が、「あなたは余命1ヶ月です。」という場合。
 
医者が、「この薬は、副作用があるから、一日1錠しか飲んだらいけません」とい
う場合。
 
建築の専門家が、「構造解析の結果、この程度の地震力にはこの建物は耐えられる
」という場合。
 
このような分野においては、証拠の著者の社会的地位や立場というのは、非常に大
きい意味を持ちます。大事なことは、いろいろな場面で、「一般の人は、著者の社会
的地位や立場が必要な場合がある」と認識しているということです。となると、ディ
ベーターは、「常識を覆す」議論をどのように行うか、ということが問題になります。
 
著者の社会的地位や立場は証明には不要であるというH.I君の議論には、この常識
を覆すだけの説得力を感じません。
 
3.立証の比較における、証拠の扱いに関する常識
 
証拠の役割に、相手が反証してきたときに、それに対してより説得力を持つ議論を
助けることがあります。
 
いくら常識的なことを言っていても、相手が何らかの資料を使い、それに反証して
きた場合は、事実の存否に関わる場合では、反論するための証拠が必要ですし、政策
判断の時や、高度に専門的な議論の場合などでも、反論するための証拠は必要となっ
てくるでしょう。
 
つまり、「常識的なことであれば証拠は不要」とは、一般的には言えません。相手
に依存するのです。これも常識でしょう。
 
また、常識的なことでも、一般的に、社会的地位のある人の意見と、学生(ディベ
ーター)の意見のどちらを信じるか、といわれれば、一般の人は社会的地位のある人
の意見を信じるでしょう。これも常識です。
 
価値的なことや、常識的なことには証拠や権威性は不要だ、というH.I君の議論に
は、この常識を覆すだけの説得力を感じません。
 
4.提言により、ディベーターの説得力が増すかどうか疑問
 
H.I君が言及している、現状での「一行エビ」の問題に関しては、著者の社会的地
位の議論とは無関係です。これの原因は、ディベーターが、結論だけより、それなり
の理由付けがあった方が説得力が増す、という事実に対して認識が低いと言うことだ
けです。
 
以上により、上で述べたような常識を持っている一般の人に対しては、「社会的地
位や立場」をつかった方が、説得力がある気がします。せっかく主張に信憑性を高め
ることの出来る手法を放棄しなければならないとする、H.I君の提言のメリットが見
えませんので、一般社会の常識と、ディベーターの常識を変更しなければならない必
要はないと考えます。
 
 
S.Y
 

Date: Thu, 12 Dec 96 20:54:27 JST
Subject: [JDA :2124] Re:Evidence
H.Iです。
S.Y君の[JDA:2121]Evidenceについて
 
 私の投稿について、先日の論争の当事者からきっちりコメント頂いて光栄で
す。この機会に証拠についての議論が深められればいいですね。なお、N.M君
の意見も楽しみに待っています。
 
 さて、S.Y君のコメント内容は多岐にわたっていますので、私なりに整理し
て回答していきたいと思います。
 
1.証拠の意味について
 
 S.Y君は、証拠をめぐる一般社会の常識として、@社会的地位や立場のある
人の意見を証拠として引用することにより、主張に信憑性を持たせることがで
きる、A証拠は事実の存否や経験則の証明以外の議論(ex.価値の証明)にも
用いることができる、というものがあると述べています。
 
 このことからすると、一般社会において証拠とは「主張の根拠として引用さ
れる社会的地位のある人の意見」と認識されていると、S.Y君は考えているよ
うです。(もし違っていれば、S.Y君の考えるところの証拠の意義を述べてい
ただければ幸いです。)
 
 証拠を「主張の根拠として引用される社会的地位のある人の意見」と考える
ことは妥当でないと思います。試しに手元の辞書(福武国語辞典)を引いてみ
ると、証拠とは「事実を証明する根拠、あかし、証左」とされ、「証拠の品、
証拠を残す」などの例が挙げられています。
 
 身近な例をあげてみましょう。「胸ポケットに入っていたキャバレーのマッ
チは夜遊びの動かぬ証拠です!」などという場合は、キャバレーのマッチとい
う物が、夜遊びという事実を証明する根拠として用いられています。
 
 ディベートではその性質上、書籍からの引用に証拠方法を限定しているた
め、証拠とは社会的地位のある人の意見の引用のことであるような誤解を抱き
がちですが、本来証拠とは、キャバレーのマッチのような物証や、契約書・領
収書などの書証、他人の証言など、事実を証明する根拠となるものを意味しま
す。このような理解が、むしろ一般社会における「常識」ではないでしょう
か。
 
 またS.Y君は、根拠と証拠という言葉を同じ意味で用いていますが、この二
つの言葉が違うことから見ても、「根拠」のうち事実の証明に用いられるもの
が「証拠」である、と考えるべきでしょう。(同じことは、以前私自身がY.K
さんから指摘されたことがありますが。)
 
 とすると、事実の存否・経験則の証明以外には、証拠は用いられないという
のは、一般社会における常識に即した議論であると理解していただけると思い
ます。
 
 
2.社会的地位のある人の意見は主張の信憑性を高めるか
 
 S.Y君は、「社会的地位や立場のある人の意見を引用することにより、主張
に信憑性を持たせることができる」ということを述べています。そう、まさに
ここをめぐる議論こそが、crucial pointであると私は考えています。
 
 議論を整理すると、社会的地位のある人が客観的な根拠に基づき意見を述べ
たのであれば、それが証拠となり得ることは私も同意見ですから、「社会的地
位のある人の客観的根拠のない意見」(ディベートにおける一行エビ)が主張
の根拠となるかが、見解の分かれるところです。
 
 S.Y君は、社会的地位のある人の意見の引用は一般の人に対する説得力があ
ると述べていますが、本当にそうでしょうか。例えば、論文において「大学教
授の○○さんがこうのべているから××は正しい。」というのは有効な論証た
りうるでしょうか。××が正しいことを証明するためには、その客観的根拠
(科学論文なら実験データ等)を示すことが必要であるというのが、むしろ普
通ではないでしょうか。
 
 また、社会的な地位のない学生の論文であっても、それが客観的データに基
づいた主張であれば説得力をもつというのが普通の考え方でしょう(そうでな
ければ学会の通説が覆されることはありえませんよね)。
 
 とすると、社会的地位のある人の意見であっても客観的な根拠がなければ、
その引用は主張の根拠とならないし、また社会的地位のない学生の意見であっ
ても、それが例えば客観的な実験データに基づくものであれば、その主張は説
得力を持つと考えるべきではないでしょうか。
 
 たしかに、一般社会では「あの人のいうことなら信用できる」として、社会
的地位のある人のいうことを「信用」することもままあります。しかし、人の
言うことを信用するとは、もっぱら感情的な側面に基づくものであり、物事の
根拠を理性的に追及することとは次元を異にします。
 
 人を信用するということは生きていく上で大事なことですが、理性的な議論
の場であるディベートにおいて、社会的地位のある人のいうことを信用して、
そこで思考停止してしまうという態度は妥当ではないでしょう。
 
 
3.社会的地位とは何か
 
 これまで、「社会的地位イコール権威のある専門家」という前提で述べてき
ましたが、S.Y君はどうも違う意味で「社会的地位」という言葉を用いている
かもしれません。S.Y君は「従軍慰安婦、被害者、イラク人」も「社会的地位
のある人」という扱いをしているからです。
 
 しかし「イラク人」が社会的地位であるとすると、長いこと日本にいるイラ
ク人が、何の根拠もなく「イラクでは人権が尊重されていない」といった場合
も、その発言は証拠となるのでしょうか。
 また、すべてのイラク人に社会的地位を認めるのではなく、個人的体験に基
づき発言するイラク人のみ「社会的地位」があるというのであれば、発言内容
に基づき証拠力の有無を判断しているのであって、「社会的地位」なるものを
観念する必要はないと思います。
 
 たしかに、イラク人が、個人の体験に基づき「イラクでは人権が尊重されて
いない」と述べた場合は、その発言は証拠となりうると私も思います。これ
は、イラク人に社会的地位があるからではなく、発言内容が自身の体験という
「客観的証拠」に基づくものだと考えればよいでしょう。
 
 …と私は考えるのでしょうが、S.Y君のいうところの「社会的地位」とは一
体何でしょうか。「社会的地位」のない人の意見とはいかなるものであるの
か、例を挙げてもらえれば幸いです。
 
 
4.公知の事実や常識的な経験則についての証明について
 
 S.Y君は「常識的であれば証拠は不要」というのは、相手が反論してくる可
能性がある以上、妥当といえない旨述べています。
 
 このコメントは多分に誤解に基づくものです。私が述べたのは「公知の事実
や常識的な経験則」については証明は不要であるということです。例えば「日
本と米国が日米安全保障条約を締結している」という公知の事実や、「基地が
なくなれば従業員が失業する」という常識的な経験則について、相手が反論し
てくるという状況は、私にはほとんど想定できません。
 
 仮に公知の事実や常識的な経験則について反証が可能だとしても、その反証
に対して再反論を行う場合のみ証明を要求すればよいのであって、相手からの
反論があることを想定して、全ての公知の事実や全ての常識的な経験則にまで
証明を要求するのは、明らかに妥当ではないでしょう(りんごを離すと下に落
ちるという万有引力の法則にまで証明を要求しますか?)。
 
 
4.提言のメリットについて
 
 S.Y君は私の提言がディベーターの説得力を増すか疑問であると述べていま
す。これについては簡単に答えることとしましょう。いわゆる一行エビが使わ
れなくなり、客観的根拠のある意見のみが引用されるようになれば、議論の質
は向上することは明らかですよね。
 
 簡単に回答しようと思っていたのですが大分長くなってしまいました。S.Y
君を含め、皆さんからのご意見をお待ちしております。
 
 
H.I 
 
 
 

Date: Thu, 12 Dec 96 23:33:23 JST
Subject: [JDA :2125] Re: Evidence
 
  どうも、H.T@新大(しんだい)です。
 
> 
> H.Iです。
 
>  とすると、社会的地位のある人の意見であっても客観的な根拠がなければ、
> その引用は主張の根拠とならないし、また社会的地位のない学生の意見であっ
> ても、それが例えば客観的な実験データに基づくものであれば、その主張は説
> 得力を持つと考えるべきではないでしょうか。
>(中略) 
>  人を信用するということは生きていく上で大事なことですが、理性的な議論
> の場であるディベートにおいて、社会的地位のある人のいうことを信用して、
> そこで思考停止してしまうという態度は妥当ではないでしょう。
 
  なるほど。そういえば、今のプロポだって、社会的地位の高い人がいいかげんな
センセーショナルなことを書籍に書いて出している、というケースが「絶対にありえ
ない」わけでは決してなさそうですが、もし、そんなものが「著者の社会的地位」だ
けでエヴィデンスとして通用することがあったら、問題ですね。
 
  多分、こんなことはないと思いますが、極端なケースは真っ先に考える必要が
あるもので。(なんか理系の専門の話みたいなこと言ってるような…)
 
  父に「活字になってれば何でも信用しやがって」と怒られた経験から記事を書い
てみました。それでは。
 
H.T 
 

Date: Thu, 12 Dec 96 23:41:39 JST
Subject: [JDA :2126] Re: Evidence 
 
慶応大学4年のH.Oと申します。
 
H.Iさんのメールを読んで疑問に思ったことが
2点あります。初歩的なことだったら申し訳ありませんが
ご返事をよろしくお願いします。
 
1つめは、証明する対象についてH.Iさんは、現在の事象
と将来起こることと2つに分けて、前者は事実によって、
後者は経験則と事実によって証明される。と述べておられますが
この2つを分ける理由はなにかあるのですか。
僕は、現在の事象に関しても「他の事実から導き出された理論」
によって推測することが可能な場合があると思います。
例えば、雪男の例なら遺伝子/進化の研究からそのような姿の人が
できる可能性がある。または、宇宙などで新しい−−の存在を
理論的に予測するということはよくあることだと思います。
もちろんこれらはさまざまなデーターから導かれているのでしょうが、
それが「経験則」であるばあい、その根拠となったデーターをいちいち
示すことは、「”失業者が犯罪を犯す”ことを研究したデーター」
同様必要はないと思うのです。
 
2つめは専門家の意見をどうするかについてです。
S.Yさんがおっしゃっていた用に、根拠としての事実として,誰かの
意見を引用することはあると思います。
例えば「雪男/UFOを見た」という住民の証言は、一行であっても雪男
またはUFOの存在を示唆すると思います。また、アメリカの大統領が
太平洋政策について述べたのならそれは理由がなくても「事実」として
用いられると思います。これと同様に、専門家の一行エビも扱えばいいと
思います。専門家が言っているというデータがどれほど主張を肯定しうる
のかは人によって意見は異なると思いますが、
必ずしも「一概にダメ」とは言い切れないのではと思います。
このように、理由のない一行エビをデータ同様に扱い、
「誰が言ったから本当にそうなのか」というのも議論するというのが
教育的でもあると僕は考えるのですがいかがでしょうか。
 
(この場合、ディベーターが”−−が言っているから”というデーターとして
 一行エビを使いたいのなら当然authorityを言うことは必要になると 
 思います。authorityを示さない一行エビは当然ダメだと思います。)
 
お忙しいところ申し訳ありませんがよろしくお願いします。
 
H.O
 
 

Date: Fri, 13 Dec 96 02:13:27 JST
Subject: [JDA :2128] Re:Evidence
 
N.Mです。
 
H.Iさんに楽しみに待たれてしまっては投稿せざるをえないですね。
明日も仕事やいうのに、、、
 
以前の私とS.Yさんの議論をも念頭に置き投稿します。
 
1 私の考えは殆どH.Iさん同様(若干異なる部分がありますが)
事実や価値の証明には専門家の権威は必ずしも必要ないと考えています。
ただし、H.Iさんのご意見が恐らく専攻されていた?訴訟法の考え方に
基づかれているのであろうことに対し、私の意見は論文作成手法の本における
論理的証明に関する部分(例「日本語と論理」、「対話のレトリック」など)や
「Advanced Debate」で読んだトールミンモデルに関する記述に基
づいています。
 
2 以前主張したことの繰り返しですが、一行エビを闇雲に否定してはいま
せんのでご注意下さい。
 
では本題へ、
 
1の議論について
 
 「エビ(証拠)の捉え方」
 
まず、これは「エビとは」という議論の前に
「アーギュメントとは、証明責任とは」ということから明らかにしないと
議論が進まないと思います。というのはそれによってエビの捉え方
が変化するからです。
 
トールミンモデルによるとアーギュメントとは簡単にいうとclaim(主張)、
data(根拠または前提と記述されている場合もあり)、
warrant(counterwarrantとは無関係)/inference(推論または論拠)の三点
で構成されるものだとしています。
 
(例)claim:明日雨が降る。data:天気予報で明日は雨だと予報している。
warrant:天気予報が言ってるのだから明日は雨が降ると言える。という論理
構成になります。もう少しディベートちっくに整理すると
 
明日は雨だ。
 
N.M'96/
天気予報によると明日は雨だそうだ。
 
になるでしょう。warrantは基本的に文言として現れず思考(推論)過程として
claimとdataの間のlinkになります。
 
これに基づくとエビがなぜ必要になるかというとdataの部分が主観的情報
ですとclaimに信用性が付与されないからです。だから、dataは第三者の
発言等の客観的情報
に基づくべしということでエビの出番になります。余談ですが、
エビのディストーションが不当とされるのはこのようなことが
最大の理由でしょう。
 
上記までに基づくとエビは専門家の意見や調査結果でなければならない
わけではないということが少しご理解いただけると思います。
 
専門家の意見であるべきかどうかはその次の問題です。それはwarrantです。
 
例えば、上の例を使います。warrant:天気予報がそういっているから
正しいということですが、これは天気予報という専門性に頼った推論にな
っています。
 
つまり、各アーギュメントの推論過程がエビの専門性に頼っているか否か
によってオーソリティーの有無が議論されるようになるからです。
言い換えるとオーソリティーは理由付けの深さを測る指標として
働くということです。
 
H.Iさんの例を拝借しますと、立花隆氏は脳死の専門家ではありませんが
彼の意見は彼が行った客観的・専門的調査結果に基づいているので一般社会
でもある程度説得性が付与されています。つまり、専門家の権威に頼らずとも
客観的であり、正しいdataであれば説得性をもちえるということです。
 
2 一行エビについて
 
私が好ましくないと考えている一行エビは「権威の明示されていないclaimと
同じセンテンスしかもたないエビ」です。
この場合、dataもwarrantも不明なので何故そのアーギュメントが正しいか
が不明になるからです。
 
S.Yさんは一行エビと権威は無関係と発言されていますが、それは違うと
思います。上記のような一行エビが有効になるためにはwarrantを
権威に頼らない限りアーギュメントの理由付けが不明瞭になるからです。
例えば
ダムは洪水を防がない。
山本96/
ダムは洪水を防がない。
では、何故そのような主張ができるのかさっぱり不明です。
 
そこで、この様な場合に
 
ダムは洪水を防がない。
ダム研究家 山本96/
ダムは洪水を防がない。
 
とするとダム研究家が言ってることだから恐らく正しいんだろうという推論
が働きます。
 
ですから、以前の主張の繰り返しになりますが、ディベーターは自分の
アーギュメントがどういう論理構成持っているかを自覚し、権威に頼った
warrantについてはオーソリティーを読めば良いだけだと思います。
 
まだ、考えがまとまっていませんが取り急ぎ投稿しました。
 
N.M
 

Date: Fri, 13 Dec 96 20:35:46 JST
Subject: [JDA :2133] Re: Evidence 
 
H.Iです。
 H.O君のメール[JDA:2126]の質問について答えます。なお、2つめの質問の
答えについては、N.M君のメール[JDA:2128]に述べられていることと共通する
部分もありますので、N.M君へのコメントも含めて述べたいと思います。
 
1.現在の事象における経験則
 
 H.O君は将来起こることのみならず、現在の事象についても経験則を適用す
ることができる場合があるとし、その経験則についても証明を不要としてよい
ものがあるのではないか、と述べています。
 
 そう、まさにおっしゃる通りです。私は現在の事象と将来起こることを区別
する意図はありません。現在の事象に適用する経験則についても、それが常識
的なものであれば、証明は不要でしょう。
 
 
2.専門家の意見をデータとすることの当否
 
 H.O君は、根拠の示されていない専門家の意見も、それ自体データとして扱
うことが可能なのではないか、と述べています。この点はN.M君が同趣旨のこ
とをやや詳しく述べています。すなわち、
 
 根拠:「ダムは洪水を防がない」とダム研究家が述べている。
 推論:専門家(ダム研究家)のいうことはおそらく正しい。
 結論:したがってダムは洪水を防がない。
 
 というロジックが成立するのではないか、ということでしょう。
(しかし「ダム研究家」というのはいかにも怪しい肩書で、週刊プレイボー
イなどに登場する「風俗評論家」だとか「UFO研究家」と同様、ほとんど
Authorityはないと思われますが、まあここでは一応専門家として扱うことと
しましょう。)
 
 これに対する私の意見を一言でいうと、「”専門家のいうことは正しい”と
いう推論は妥当ではなく、したがって上記の結論は導けない」ということにな
ります。その理由については、[JDA:2124]で既に述べている部分もあるもの
の、角度を変えてやや詳しく説明してみたいと思います。
 
 「専門家のいうことは正しい」というのは、正確には「専門的な事項につい
ての専門家の判断は正しい」と理解すべきでしょう。専門家が何の根拠もなし
にでまかせを言っている場合や、誤った事実に基づき判断した場合は、その主
張は正しくないことはいうまでもないでしょう。
 
 例えば「専門家はAという事実に基づきBと判断した」場合、それが彼の専
門分野であれば、A→Bという推論はおそらく正しいだろう、という推測が働
きます。
 
 一方「専門家はBと判断した」とされ、その根拠が明らかでない場合には、
専門家の判断が正しいことは直ちに導けません。この状況で専門家の判断が正
しいというためには、
「専門家は常に正確な事実(真実)に基づき判断している」
 
という前提条件を必要とします。
 
 問題はこのような前提条件をおくことが妥当かどうかです。専門家は全知全
能の神ではありませんし、また専門家全てが正直者であるとは限りませんか
ら、この前提条件は自明の理とは言えません。
 
 にもかかわらず、このような暗黙の前提条件をおいて「専門家のいうことは
正しい」とするのは、論理に基づくものというよりは、専門家に対する信頼に
基づくものに他ならないでしょう。
 
 もちろん、一般社会において「専門家に対する信頼」があることは、私も承
知しています。しかし信頼とは個人的・非論理的なものであって、「信頼に基
づく論証」は「根拠に基づく論証」と異なり、普遍的な説得力を有しません。
 
 例えば、ダムの有用性をめぐって議論している場合に、ダムのある川で洪水
が起こった過去の事例などを挙げながら「ダムは洪水を防がない」というので
あれば、反対の立場の人もその意見に一理あることを認めざるを得ませんが、
「○○という専門家がダムは洪水を防がないといっているから、ダムは洪水を
防がない」と述べた場合は、反対の立場の人から「私は○○の言うことなど信
頼しない」といわれればそれまでです。
 
 したがって、議論の場であるディベートにおいては、「信頼に基づく論証」
は普遍的な説得力を有しない以上、論証として認めるべきではないと考えま
す。
(余談ですが、真理を追究する学問の世界にも同じことがいえるでしょう。学
術論文において「○○先生が××と述べているから、××は正しい」という論
証が成立しないのは、それが普遍的な説得力を有しないからだと思います。)
 
 私がディベートにおいて「専門家のいうことは正しい」という推論を認め
ず、根拠のない意見は、たとえそれが専門家の意見であったとしても証拠力を
有しないとするのは、このような理由によるものです。
 
 
H.I 
 
 

Date: Sat, 14 Dec 96 00:39:49 JST
Subject: [JDA :2134] evidence2
 
H.I君のメールに対して
 
 
1.「常識」と、「常識を覆す提言」
 
意味のある提言をするためには、一般社会の常識をスタートとして、それを覆す
ことによってメリットがあることを証明する必要があることは御納得いただけた
ようです。
 
 
2. 一般での議論における、「裏付け資料」を巡る「常識」
 
(1)「裏付け資料」の定義
「証拠」の定義や、証明のモデルなどが議論されていますが、中心的争点ではな
いと思いますので省略します。
以後は、証拠という言葉を使わず、主張を裏付ける資料、「裏付け資料」といい
ます。主張を証明する、つまり、主張の信憑性、信頼性を高める役割を果たす、
資料、証言、その他一切を指すこととします。
 
(2)「社会的地位、立場」の意味とそれを巡る常識
 
一般社会では、いろいろな立証の場合で、事実の存否の主張でさえ、議論を効果
的に行うために、著者の社会的地位や立場が有用な場合はたくさんあります。
 
ここで、「社会的地位、立場」には、大きく言って二つの意味があります。
A)特定の立場、役割、権限を示す
B)専門性と権威性を示す
 
 
・政府の認識が争点となる議論
「北朝鮮指導部が、現状をどのように認識しているか」
「日米安保が破棄された後、米軍はどこに行くか」
・個人の体験や考えが争点となる議論
従軍慰安婦が、「私は連行されたんです」と述べるような場合
被害者が、「私は侮辱されたんです」と主張する場合
イラク人が、「イラクでは、人権は尊重されていない」と述べる場合
 
 これらの場合に当てはまるのは、A)です。従軍慰安婦や、一般的な被害者に
権威などはありません。これと同じように、政府の認識や将来の方針などを立証
するのにも、権威ではなく、立場と権限が問題になります。首相に専門性はない
です。
 それに、政府の認識を証明するためには、政府で権限を持つ人の発言を引用す
るのがほとんど唯一の立証方法になります。この場合、「発言者の政府での立場」
以外の理由はかならずしも必要なく、結論だけで十分です。
 従軍慰安婦などの場合も「強制連行の存否」の主張の際、非常に効果的な裏付
け資料になり得ます。これらは、直接的かつ信憑性が高い情報にふれることに依
拠した証明方法です。
 H.I君、N.M君ともA)に関しては、全くふれておりません。
 
 
 
・高度に専門的な議論(理由が専門的すぎて素人には理解できない場合)
医者が、「あなたは余命1ヶ月です。」という場合。
医者が、「この薬は、副作用があるから、一日1錠しか飲んだらいけません」と
いう場合。
建築の専門家が、「構造解析の結果、この程度の地震力にはこの建物は耐えられ
る」という場合。
 
に当てはまるのがB)です。これに関しては、H.I君は、学生の論文が、学会で評
価されることがあることを理由として、専門性は不要であるという主張を行って
いますが、この主張は私の主張とは無関係です。
 わたしは、「理由が専門的すぎて素人には理解できない場合」に限定して権威
性による有効性を主張しており、学会のような専門家集団の場合での議論につい
て言及しているわけではないからです。
 また、専門家が間違える可能性についても言及していますが、この場合でも、
H.I君は、ジャッジが専門家の付した理由を理解できることを前提としており、
私の主張とは無関係な議論です。
 いくら理由が付いていても、内容が理解できなければ、その真偽は判断できま
せん。そのような場合は、複数の専門家の意見を聞く、あるいは専門家間の協議、
ピュアレビューを行い、その「結果」を尊重するのが普通です。この場合でも、
結局、結論だけが問題となります。
 
 
 結論として、社会的地位や立場は主張の証明には非常に有効であるという一般の
認識には相当の理由があり、くつがえす必要を感じません。
 
 
3.立証の比較における、裏付け資料の扱いに関する常識
 
 裏付け資料の役割に、相手が反証してきたときに、それに対して比較優位を持た
せることがあります。
 一般的に、社会的地位のある人の意見と、学生(ディベーター)の意見のどちら
を信じるか、といわれれば、一般の人は社会的地位のある人の意見を信じるでし
ょう。
 
 同じ程度の理由付けがなされている場合、著者の社会的地位と立場を明らかにす
ることにより、主張に比較優位をもたらすことが可能です。H.I君は、この点に
ついても何らふれておりません。
 
 
4.提言を採用するメリットが不明
 
・「一行エビ」を排除するメリットは、提言に固有なものではない。
 
 H.I君が言及している、現状での「一行エビ」の問題に関しては、まず、「一行
エビ」を排除するには、客観的根拠があった方がより強い証明、裏付けであるこ
とを認識させることによって可能です。つまり、この問題は、社会的地位や立場
を利用した証明方法を排除することによる「固有な」メリットではありません。
 さらに、社会的地位や立場が有効でないと言う常識の転換を図ることにより、
一般の人に対して有効で効果的な証明方法を失うというデメリットを伴います。
 従って、これだけ広く受け入れられている考え方を否定する必然性が全くあり
ません。
 
・ベストな提言は、他の証明方法の有効性を理解してもらうこと。
 
総じて言えば、最も効果的な提言は、社会的地位、立場をつかった裏付け資料に
「加えて」ほかの証明方法も同時に行うべきである、という提言でしょう。
 
 
S.Y
 

Date: Sat, 14 Dec 96 03:21:37 JST
Subject: [JDA :2135] Re: Evidence 
 
N.Mです。
 
H.Iさんは専門家の意見といえども根拠が明らかでないエビによる
アーギュメントは認めないという立場を取られているようですが、
これについてコメントしたいと思います。
 
「ジャッジがそこまで厳格な証明責任をディベーターに求める必要が
あるのでしょうか?」
 
 
>> にもかかわらず、このような暗黙の前提条件をおいて「専門家のいうことは
>>正しい」とするのは、論理に基づくものというよりは、専門家に対する信頼に
>>基づくものに他ならないでしょう。
 
確かにそのような前提条件(reservation)は専門家に依存する推論では存在し、
その前提条件は自明の理ではありません。
 
しかし、だからといってジャッジがいきなりそれを排除するのはいかがなもの
でしょうか?あまり厳格な証明責任をディベーターに求めると、ディベーター
が相手のアーギュメントを批判的に見てアタックする機会が減少します。
私にはそれはあまり教育的とは思えませんし、そこまでジャッジが先に考えて
しまうとディベーターにとってディベートがつまらなくなってしまうのではな
いかと思います。
それはジャッジではなくディベーターが理由付けの不備をチェックする
ポイントと思います。私は普段のジャッジングでもそのようなチェック
をしたディベーターにはreasoningのポイントで高得点をあげています。
 
>> 私がディベートにおいて「専門家のいうことは正しい」という推論を認め
>>ず、根拠のない意見は、たとえそれが専門家の意見であったとしても証拠力を
>>有しないとするのは、このような理由によるものです。
 
私は逆に最初は証明責任を軽くしておき、後のスピーチで批判的・相対的に
ディベーターがrefutationを行うことを期待したフィロソフィーを持っています。
N.M
 

Date: Sat, 14 Dec 96 04:56:20 JST
Subject: [JDA :2136] Re: Evidence
 
 こんにちは、名古屋大学のK.Mです。S.YさんとH.Iさんのあいだで
おもしろそうな話が進んでいますが、少し参加させてください。
 
まず僕は、H.Iさん寄りの意見です。
 
1   A)論拠となるdata
     B)意見 (theory?)
 
  エビデンスの中身にはA)とB)とがあると思いますが、ぼくもA)
の引用だけでdebateはできると思います。
  現実世界では、S.Yさんが強調しておられるようにA)をくっつけた
B)を専門家に言わせて引用すると、説得力が増すという点は認めます。
。
 
 
2 しかし、問題はdebate界で、B)のみからなるエビデンス、つまり
「ある専門家がdと主張した」といったものに対して
 
*debaterが反論できない
*judgeがついてゆけない(いわゆるアサーションでエビをきるの
が恐いのか、そう信じているのかは分からないが、それとも聞き取れな
いのか)
 
という悲しい現実があることです。
 この現実を打破するために、H.Iさんはあのような提言をされたのだ
と思いますが、恐らくその提言の論調が過激に聞えたため、反論を呼ん
だのでしょう。
 
 
3これに対してS.Yさんは
 
*現実世界での、説得性
*高度に専門的なことは、どうせ説明しても理解できないから専門家の
専門性を信頼する
 
といった論点で反論されています。これに少し反論したいと思います。
 
 
4「ある専門家がcにもとづきdと主張した」
  「ある専門家がdと主張した」
 
 上でcの部分に求められているのは、専門的な説明でしょうか。そう
ではなく、常識的にdが推論できる材料ではないでしょうか。又H.Iさ
んが主張される証拠dataもそんなに専門的なものである必要はない
と思います。
 問題は「ある専門家がcにもとづきdと主張した」の中ので真に大事
なのはcの部分であるにもかかわらず、それに気づかないばかりか、
「ある専門家がdと主張した」という文章と摩り替えられても同じ評価
をしてしまうことではないでしょうか。
 S.Yさんが強調されている、実世界の説得性がauthorityにあるとは思
いますが、その点こそが落とし穴であり、逆に言えば専門家が言えばな
んでも信じるのかということになると思います。
 
 
5「authority」を強調することにより、肝心の「論拠となるべき証拠」
を忘れてしまうくらいなら「authority」などいらない、というのがH.I
さんの言いたかったことだと思うのですがいかがでしょうか。
 問題は、2で述べたような現実に気づき、judgeが毅然と不備なエビデ
ンスを切り捨てることだと思います。そのためには、エビデンスに対す
る盲信(まるでquoteとunquoteのあいだは催眠術をかけられているよう
な)を止めるべきだと思います。あるいはjudgeは「ある専門家がdと主
張した」といわれて、納得してしまう「一般の人」であってはいけない
のかもしれません。
 
 こういった観点から、僕はエビデンスを全然重要視していません(とい
うと誤解されそうですが長くなるのでこの話はやめます)。
 
勝手に話を組み立てましたが、誤解があれば、ご指摘ください。
 
 
K.M
 

Date: Sat, 14 Dec 96 18:35:05 JST
Subject: [JDA :2137] evidence3
 
K.M君のメールに対して
 
 
1.「常識」と、「常識を覆す提言」
 
何かの提言を行う時は、それが現状よりメリットがあるか、あるいは、それがベスト
の提言かを検討しなければなりません。私は、K.M君の提言がベストの提言ではない
と思います。
 
 
2. 一般での議論における、「裏付け資料」を巡る「常識」
 
 
・「社会的地位、立場」の意味とそれを巡る常識
 
一般社会では、いろいろな立証の場合で、事実の存否の主張でさえ、議論を効果
的に行うために、著者の社会的地位や立場が有用な場合はたくさんあります。
 
ここで、「社会的地位、立場」には、大きく言って二つの意味があります。
A)特定の立場、役割、権限を示す
B)専門性と権威性を示す
 
K.M君も、B)のことだけをピックアップしていますが、A)は必要であると考えるわけ
ですね。
 
また、B)に関しても、その有効性は認めているようです。
 
 
3.立証の比較における、裏付け資料の扱いに関する常識
 
 裏付け資料の役割に、相手が反証してきたときに、それに対して比較優位を持た
せることがあります。
 一般的に、社会的地位のある人の意見と、学生(ディベーター)の意見のどちら
を信じるか、といわれれば、一般の人は社会的地位のある人の意見を信じるでし
ょう。
 
この点に関しても、認めておられるようです。
 
 
4.提言はベストなものではない。
 
・「一行エビ」を排除するメリットは、提言に固有なものではない。
 
これも無視されていますが、いかがでしょう。K.M君の主張する、「理由」が明確に
されている裏付け資料を使ようになるだろう、というメリットは、別の手段で実現で
きることです。
N.M君も述べていますが、私がコーチなら、専門家の一行エビにたいして、「それ以
上の詳しい理由を付けた専門家の反対意見を裏付け資料として提出しろ」、といいま
す。それで、一行エビなるものは排除できます。それだけのことです。リサーチする
だけでしょう?
 
これが、実社会で一番役に立つ、適切な態度であると思います。
 
 
さらに、K.M君の「ジャッジが無視する」という提言が実行されると、2.3.で述べた
ような、実社会で有効な証明手段の使い方を学ぶことが出来なくなると言うデメリッ
トが発生します。
 
システムアナリシスで考えれば、としては、「社会的地位、立場を使った証明方法に
頼りすぎず、他の証明手法と併せて使うようにしなさい」という提言がベストな提言
でしょう。
(capture all AD, avoid DAのC-Pというやつですな)
 
 
5. 「限界」を教えてあげるのが教育の最も大事なこと。
 
システムアナリシスはともかくとして、この問題を考えるときのフィロソフィーとし
ては、実社会で使える議論の練習として、ディベーターに何を学んで欲しいのか、と
いうことです。
 
 「使える手法は使う、ただし、その手法の限界をわきまえ、一つの手法に頼りすぎ
ないようにする」、ということをディベーターに学んでもらうのが、一番実社会に出
て役に立つことだと思います。
 
「ナイフはけがするかもしれないから、使ってはいけません」、というより、「ナイ
フは役に立つけど、誤った使い方をすると危ないよ」、と教えてあげるのがあるべき
教育であると思います。
 
S.Y
 

Date: Sat, 14 Dec 96 18:46:41 JST
Subject: [JDA :2139] Re:evidence2
 
 
H.Iです。
S.Y君の[JDA:2134]についてお答え致します。
 
 
1.証拠をめぐる「常識」について
 
S.Y君いわく
>意味のある提言をするためには、一般社会の常識をスタートとして、それを
>覆すことによってメリットがあることを証明する必要があることは御納得い
>ただけたようです。
 
 はいはい、納得しております。ただ[JDA:2124]で述べたとおり、私の議論が
「証拠」の意義や用例についての一般的な常識を踏まえながら議論を組み立て
ていることも、ご理解いただいていると思います。
 
 また、S.Y君が「〜が常識である」と述べたことについて、私のみならず馬
越君やK.M君からも異論があることを考えると、ディベート界においても、証
拠の意義やその利用法についてのコンセンサスが確立していないことも、同様
にご理解いただけると思います。
 
 一番最初のメールで述べた通り、証拠の意義やその利用法はディベートにお
いて重要なテーマの一つであるにもかかわらず、ディベート界では突っ込んだ
考察が行われておらず、その理論的基礎についてもコンセンサスは得られてい
ないと私は考えています。今回そのことが明らかになっただけでも大きな収穫
ですね。
 
 
2.社会的地位(A)について
 
 S.Y君は、「社会的地位」には「特定の立場、役割、権限」の意味があると
し、「政府の認識を証明」するためには、政府で権限を持つ人の発言を引用す
るのが唯一の立証方法であり、また「従軍慰安婦の強制連行の存否」を調べる
ためには、従軍慰安婦の証言のみで証明可能であり、いずれもそれ以上の理由
は不要と述べています。
 
 その通りです。私は、証拠とは「事実の存否を確かめるための客観的な根
拠」であることが必要と述べているのであって、これらの証言が客観的な根拠
になることは否定していません。
 
 S.Y君が挙げた「イラクでは人権が尊重されていないとイラク人が述べてい
る」という例について、私が述べたことをもう一度繰り返します。
[JDA:2124]より
> たしかに、イラク人が、個人の体験に基づき「イラクでは人権が尊重され
>ていない」と述べた場合は、その発言は証拠となりうると私も思います。こ
>れは、イラク人に社会的地位があるからではなく、発言内容が自身の体験と
>いう「客観的証拠」に基づくものだと考えればよいでしょう。
 
 まったくもう、ちゃんと読んで下さいな。なお、引用部分の「客観的証拠」
の部分は「客観的根拠」の間違いですね。
 
 ただ、上記の例が証拠となりうることの説明として「社会的地位」を持ち出
すことは感心しません。
 そもそもS.Y君は「社会的地位」とは「特定の立場、役割、権限」であると
述べていますが、どのような立場や地位の人の発言なら「裏付資料」になるの
かが説明されていない以上、「社会的地位」という概念は証拠力の存否を見分
けるメルクマールとして機能しません。
 
 また、社会的地位があるかどうかは発言内容との関連で決まるというのな
ら、発言内容が「客観的根拠」となり得るかどうかで判断すれば足り、「社会
的地位」なるものを観念する必要はありません(この点についても[JDA:2124]
を参照)。
 
 
3.社会的地位(B)について
 
 S.Y君は「社会的地位」とは「専門性・権威性」の意味もあるとし、理由が
専門的すぎて素人に分からない場合は、発言の根拠がなくても専門性・権威性
に頼った論証が可能であるとしています。
 
 この点についての私の批判については、S.Y君は次のように述べています。
[JDA:2134]より
> わたしは、「理由が専門的すぎて素人には理解できない場合」に限定して
>権威性による有効性を主張しており、学会のような専門家集団の場合での議
>論について言及しているわけではないからです。
 
 まず確認しておきたいんですが、S.Y君は、理由が専門的すぎて素人には理解
できない場合に「限定して」権威性による有効性を主張するとしています。とす
ると「理由が素人に理解できる場合」については、権威性のみに頼った論証は有
効でないと認めるんですね。
 
 その上で、ディベートにおいて「理由が専門的すぎて素人には理解できない」
場合がありうるかどうかを考えてみましょう。これはK.M君が[JDA:2136]で述べ
ている通りだと思います。K.M君の発言を引用してみましょう。
 
[JDA:2136]より
>4「ある専門家がcにもとづきdと主張した」
>「ある専門家がdと主張した」
>
> 上でcの部分に求められているのは、専門的な説明でしょうか。そうではな
>く、常識的にdが推論できる材料ではないでしょうか。又H.Iさんが主張される
>証拠dataもそんなに専門的なものである必要はないと思います。
 
 その通りだと私も思います。たとえ専門的な事項についても、専門家の主張す
ることを常識的に推論できる材料というのはあるはずです。そうだからこそ、
「原子力発電所の安全性」「陪審制の当否」「脳死者からの臓器移植」などの専
門的な事柄について、についてアカデミック・ディベートにおいて議論できたの
ではないでしょうか。
 
 過去の経験から見ても、ディベートにおいては専門的な事柄についても、その
主張の当否を検討にするのに必要な範囲においては、根拠を提示して十分議論で
きるし、またジャッジもそれを理解することが可能だと思います。「理由が専門
的にすぎて素人には理解できない場合」を、ディベートにおいて軽々しく想定す
べきではないでしょう。
 
 そうである以上、ディベートにおいては、権威性のみに頼った論証は不要であ
ると考えます。
 
 
4.権威性・専門性の有用性について
 
 どうも私は「権威性・専門性は証拠力とは一切関係ない」と主張していると誤
解されているようです。S.Y君は次のように述べています。
 
[JDA:2134]より
> 一般的に、社会的地位のある人の意見と、学生(ディベーター)の意見のど
>ちらを信じるか、といわれれば、一般の人は社会的地位のある人の意見を信じ
>るでしょう。
> 同じ程度の理由付けがなされている場合、著者の社会的地位と立場を明らか
>にすることにより、主張に比較優位をもたらすことが可能です。
 
 この点は特に異論ありません。私が述べているのは、「客観的根拠のない専門
家の意見」は証拠にならないということであって、客観的根拠のある専門家の意
見が証拠となりうることは当然ですし、またそれが専門家の発言ゆえに、非専門
家の意見に優越することもありうるでしょう。
 
 
5.提言のメリット(?)について
 
 S.Y君は提言がディベーターにとってどういうメリットがあるかに随分こだ
わっているようです。私は提言のメリットよりも、証拠の意義についての正確な
理解を得ることに主要な関心があります(真理の探究というべきでしょうか)。
また、証拠の意義や利用法について正確な理解が進めば、それだけで十分メリッ
トになると私は思いますけど。
 
ただ、提言(?)のメリットの有無はS.Y君が力説している点なので、若干コメン
トしておきます。
[JDA:2134]より
> H.I君が言及している、現状での「一行エビ」の問題に関しては、まず、
>「一行エビ」を排除するには、客観的根拠があった方がより強い証明、裏付
>けであることを認識させることによって可能です。つまり、この問題は、社
>会的地位や立場を利用した証明方法を排除することによる「固有な」メリッ
>トではありません。
 
 「客観的根拠があればより強い証明である」といっても、客観的根拠がなく
ても「社会的地位」のある人の発言であれば証拠(裏付資料?)として採用す
るのですから、S.Y君の立場ではいわゆる「一行エビ」を完全に排除すること
はできないでしょう。
 
 さらに言えば、S.Y君の立場では「社会的地位」の範囲が不明確な以上、あ
りとあらゆる「一行エビ」が横行するおそれすらあります。
 
 また、S.Y君の立場では「根拠のない専門家の発言」と、「客観的根拠に基
づく非専門家の発言」のどちらが優越するかも明らかではありません。「社会
的地位や立場は証明に非常に有功」とするS.Y君の発言からすると「根拠のな
い専門家の発言」が優越しそうな印象を受けます。
 
 とすると、ディベーターが主張の根拠をとことん突き詰めることをやめ、安
易に専門家の権威に頼った論証に流れるおそれがあります。理由付けの比較で
はなく、Authorityの権威性とbiasの有無のみが論じられるディベートほど空
しいものはないでしょう。
 
 これが極端なケースであることは承知していますし、私自身ここで論争する
気はありません。ただS.Y君が提言のメリットにこだわるので、あえてS.Y君
の意見に潜む危険性を指摘したまでです。
 
 K.M君の表現を借りるならば、ディベーターもジャッジも「まるでquoteと
unquoteの間は催眠術をかけられているようなエビデンスに対する盲信」をや
めて、主張の背後にある根拠の有無をきちっと検討するようになってはじめ
て、いいディベートができると思います。
 
 
H.I
 
 

Date: Sat, 14 Dec 96 18:46:40 JST
Subject: [JDA :2138] Re: Evidence 
 
H.Iです。
N.M君のメール[JDA:2135]について
 
 N.M君と私の間では、それほど大きな考え方の差はないと考えています。ま
ず、専門家の意見でなくても、客観的根拠があれば証拠となり得るという点は
同じ意見です。またN.M君も、専門家による一行エビを認めるとはいえ、それ
がわずかな証明力しか有しないとして、権威性による論証には大きな価値を認
めていないと思います(そうですよね)。
 
 意見が異なるのは、客観的根拠のない専門家の意見についてでしょう。私が
一切証明力を認めないのに対して、N.M君は「それはいくらなんでも行き過ぎ
で、一般社会に対してある程度の説得力がある以上、少しは証明力を認めても
いいのではないか。」と考えている点でしょう。
 
 私自身、N.M君の穏当な立場も十分理解できますが、折角ですからもう少し
議論してみたいと思います。
 
 
1.ディベートはつまらなくなるか
 
 N.M君は、ジャッジがいきなり一行エビを排除してしまうとディベーターに
よる議論がなくなりディベートがつまらなくなる、と述べています。
 
 これは若干の誤解に基づくものだと思います。私はいわゆる「一行エビ」に
は証明力がないと述べているのであって、証拠としてラウンドに提出すること
を否定しているわけではありません。すなわち「一行エビ」にも証拠能力は認
めているわけです。
 
 したがって、私の立場においても「一行エビ」が試合に出されることはあり
ますし、相手がその証拠の理由の不備をチェックすることは十分可能です。ま
た、そのディベーターが高得点を取ることは、私の立場においても同じです。
 
 N.M君の立場では、ディベーターが相手の証拠の理由の不備を指摘した場合
にどのような扱いをするのでしょうか。
 
 もし「理由付けのない証拠も当初は証明力ありとするが、相手から理由付け
がないことを指摘された場合は証明力なしとする」という立場を取るのであれ
ば、それは妥当性に欠けるような気がします。相手から指摘があろうとなかろ
うと、証拠の理由付けがないのは当初から変わらないのですから(これは証拠
の意義にかかわる議論というより、フィロソフィーにかかわる議論になります
が)。
 
 
2.ディベーターにとって厳しい結果となるか
 
 いわゆる「一行エビ」を一切証明力なしとするのは、ディベーターにとって
厳しい結果となるでしょうか。私はそうは思いません。現在でも、根拠の明記
された証拠によって議論を組み立てている大学はたくさんあります。読む時間
を節約するために結論のみ引用するのはやめて、根拠が書かれた部分まで引用
すれば良いだけの話です。
 
 また私の立場では、客観的な根拠が存在し、かつ主張と根拠との推論が明確
でさえあれば、少々Overclaim気味の証拠も十分証明力を有するのですから、
ちゃんとリサーチするディベーターにとっては、「この証拠は言っていない」
という理由によりOverclaim気味の証拠は一切採用しないジャッジに比べて有
利な点もあります。
 
 確かに、実際の試合において「何が一行エビか」という基準を引くのは結構
困難ですし、私自身きちんと詰めていません。S.Y君があげた例でいうと、
「構造解析の結果、この程度の地震力にはこの建物は耐えられる。」というの
は、根拠ありとするのかなしとするのかは、人によって判断が分かれるところ
でしょう。
 
 ただ、根拠があるなしの基準を設けるのが困難であるとしても、「一行エ
ビ」をなし崩し的に認めないためには、原理原則については妥協せずに明確に
しておくことが必要だと考えています。
 
 
H.I
 
 

Date: Sat, 14 Dec 96 22:31:20 JST
Subject: [JDA :2140] Re: Evidence 
 
N.Mです。
 
>>H.Iです。
>>N.M君のメール[JDA:2135]について
 
H.Iさんのメール[JDA2138]にて、H.Iさんからご質問頂いている部分も
ありますので、それを含めて回答したいと思います。
 
1「私のジャッジングフィロソフィーについて」
 
>> N.M君と私の間では、それほど大きな考え方の差はないと考えています。ま
>>ず、専門家の意見でなくても、客観的根拠があれば証拠となり得るという点は
>>同じ意見です。またN.M君も、専門家による一行エビを認めるとはいえ、それ
>>がわずかな証明力しか有しないとして、権威性による論証には大きな価値を認
>>めていないと思います(そうですよね)。
 
その通りです。少し付け加えますと、私のジャッジングフィロソフィーの説明に
なりますが、constructive speechにおいて各アーギュメントが提示された
時点ではその証明方法に関係なく全てのアーギュメントを同列に扱います。
そして、その後のspeechに基づいて優劣を決定するという立場を取っています。
 
2「一行エビについて」
 
一つ確認したいのですが、このエビに関する議論での「一行エビ」という
言葉はどのような定義のもとに皆さん議論されているのでしょうか?
恐らく皆さんも一緒だと思いますが
私の場合「claimと同じsentenceしか持たないエビ」と捉えているの
ですが、、、念のため。
 
>> これは若干の誤解に基づくものだと思います。私はいわゆる「一行エビ」に
>>は証明力がないと述べているのであって、証拠としてラウンドに提出すること
>>を否定しているわけではありません。すなわち「一行エビ」にも証拠能力は認
>>めているわけです。
 
そうだったんですか。ただ、H.Iさんは前回のメールにて専門家への依存
に基づく推論は認めないという趣旨のことを述べられてましたが、
もしディベーターがH.Iさんの前で「一行エビ」を提出した場合どのような
ジャッジングをされるのかが今一つ分かりません。ラウンドが終わってから
バロットに「理由のないエビだったからこのアーギュメントは却下します。」
とでも書かれるのでしょうか?もしそうだとすると、下記のような
ディベーターの議論はdecisionに影響されず無駄なものになり、また不意打ち
くさいとも思うのですが。いかがなんでしょうか?
 
 
>> したがって、私の立場においても「一行エビ」が試合に出されることはあり
>>ますし、相手がその証拠の理由の不備をチェックすることは十分可能です。ま
>>た、そのディベーターが高得点を取ることは、私の立場においても同じです。
 
3「H.Iさんのご質問への回答」
 
>> もし「理由付けのない証拠も当初は証明力ありとするが、相手から理由付け
>>がないことを指摘された場合は証明力なしとする」という立場を取るのであれ
>>ば、それは妥当性に欠けるような気がします。相手から指摘があろうとなかろ
>>うと、証拠の理由付けがないのは当初から変わらないのですから(これは証拠
>>の意義にかかわる議論というより、フィロソフィーにかかわる議論になります
>>が)。
 
少し話を整理させて下さい。私は理由付けのない「アーギュメント」は
却下しますが、理由付けのない「エビ」は却下しません。というのはエビ
はあくまでdataに過ぎず、アーギュメントの理由付けの材料にすぎない
からです。
従って、仮にエビに理由がなくてもその「材料」に基づいて「アーギュメント」
の理由付け(推論過程)さえディベーターが説明すれば私は採用します。
ただ、「理由付けのあるエビ」の方が「理由付けのないエビ」より比較
すると強くなるのは確かです。
 
4「リサーチしてもエビが取れないというディベーターへの助言」
 
>> また私の立場では、客観的な根拠が存在し、かつ主張と根拠との推論が明確
>>でさえあれば、少々Overclaim気味の証拠も十分証明力を有するのですから、
 
私もまったく同じ立場です。このH.Iさんの2行の文章はディベーターに
とって非常に有益な助言です。「リサーチはしているんだけどエビがとれない」
というみなさんは恐らく本を見る際に「自分のclaimと同じこと言ってる箇所は
ないかな」というリサーチをしていませんか?もしそうならoverclaimをする
ことを勧めます。繰り返しますが、エビ=アーギュメントではありません。
エビ=自分のclaimを正当化する材料です。そもそもoverclaimという言葉
自体が何なのかという気がします。
 
5「claimと同じsentenceをエビが持っていないからといって却下するのは
ジャッジの不当な介入」
 
>>ちゃんとリサーチするディベーターにとっては、「この証拠は言っていない」
>>という理由によりOverclaim気味の証拠は一切採用しないジャッジに比べて有
>>利な点もあります。
 
私はむしろ、そのようなジャッジングは妥当でないというか非常に問題
のあるジャッジングだと思います。というのは、エビはあくまでclaimを
正当化する材料でしかありません。そのエビを用いて推論を行った結論
がclaimです。しかし、その推論過程は最初のspeechでは文言にして表れない
ので分からない場合もありますが、
だからといってディベーターの推論を無視して
「エビが言っていないから取らない」というのはディベーターが
行っている議論への不当な介入だと思います。
 
6「今回のエビの議論全般について」
 
付け足しになりますが、私はアーギュメントの構成やジャッジがディベーター
に求める証明責任を明らかにしない限りこのエビの議論は進まないと
思います。エビ=アーギュメントという立場を取らない限り説明の
つかない主張がされている部分が散見されます。エビとアーギュメントが
ごっちゃになっているので、この議論はあまり以前から進んでいない気
がするのは私だけでしょうか?
 
以上
 
N.M
 

Date: Sat, 14 Dec 96 22:54:14 JST
Subject: [JDA :2141] Re:evidence3
 
N.Mです。
 
S.Yさんのメールへのコメントが滞っていたので投稿します。
 
「S.Yさんの言うところの「社会的地位・立場」A)について」
 
>>ここで、「社会的地位、立場」には、大きく言って二つの意味があります。
>>A)特定の立場、役割、権限を示す
>>B)専門性と権威性を示す
 
A)については私の考えとS.Yさんの考えに大きな違いはありません。
 
要するにそのような「社会的地位・立場」に依存した推論でアーギュメント
を組み立てる場合はその推論をディベーターが明らかにすれば良いだけの
話だということです。
 
 

Date: Sat, 14 Dec 96 23:23:27 JST
Subject: [JDA :2142] Re: evidence2
 
N.Mです。
このメールは特にH.Iさんへの反論ではありませんが、
私の言いたいことを言って下さったことへのthanksと、
私も以前言いましたよとアピールです。
 
1「証拠の意義を議論するならアーギュメントを組み立てる際の
証拠の位置づけというところを明らかにしましょうよ」
 
>> また、S.Y君が「〜が常識である」と述べたことについて、私のみならず馬
>>越君やK.M君からも異論があることを考えると、ディベート界においても、証
>>拠の意義やその利用法についてのコンセンサスが確立していないことも、同様
>>にご理解いただけると思います。
 
その通りだと思いますが、皆さんアーギュメントとその構成要素である
証拠を切り離して議論している気がします。それではコンセンサスは
築けないと思いますがいかがでしょうか。
 
2「専門家じゃない方が良い場合もあるのでは?」
 
ます。たとえ専門的な事項についても、専門家の主張す
>>ることを常識的に推論できる材料というのはあるはずです。そうだからこそ、
>>「原子力発電所の安全性」「陪審制の当否」「脳死者からの臓器移植」などの専
>>門的な事柄について、についてアカデミック・ディベートにおいて議論できたの
>>ではないでしょうか。
 
「陪審制」での議論の内容では専門家(裁判官のジャッジング)は駄目だとい
うのが肯定側の議論の中にありましたがいかがでしょうかね?
 
3「私もそれが言いたかったし、以前言ってますよ」
 
>> また、S.Y君の立場では「根拠のない専門家の発言」と、「客観的根拠に基
>>づく非専門家の発言」のどちらが優越するかも明らかではありません。「社会
>>的地位や立場は証明に非常に有功」とするS.Y君の発言からすると「根拠のな
>>い専門家の発言」が優越しそうな印象を受けます。
 
>> とすると、ディベーターが主張の根拠をとことん突き詰めることをやめ、安
>>易に専門家の権威に頼った論証に流れるおそれがあります。理由付けの比較で
>>はなく、Authorityの権威性とbiasの有無のみが論じられるディベートほど空
>>しいものはないでしょう。
 
>> これが極端なケースであることは承知していますし、私自身ここで論争する
>>気はありません。ただS.Y君が提言のメリットにこだわるので、あえてS.Y君
>>の意見に潜む危険性を指摘したまでです。
 
私の言いたかったことと正にその通りですが、以前[JDA:1980],[JDA:2002]にて
同様のことを発言しました。
 
>> K.M君の表現を借りるならば、ディベーターもジャッジも「まるでquoteと
>>unquoteの間は催眠術をかけられているようなエビデンスに対する盲信」をや
>>めて、主張の背後にある根拠の有無をきちっと検討するようになってはじめ
>>て、いいディベートができると思います。
 
そうですよね。今後もそのように努力していきたいと思います(そろそろ
完全引退しようかとも思いますが)
 
N.M
 

Date: Sun, 15 Dec 96 03:00:04 JST
Subject: [JDA :2143] Re: evidence3
 
 
 こんにちは、名古屋大学のK.Mです。多少、僕の立場がごかいされて
いるかもしれないので、反論します。
 まず、僕の一番の論点は
「根拠のない専門家の発言」は社会的には説得力をもつが、debateの中
でそれは何ら立証にはなっていないことにjudgeが気づくべきというこ
とです。
 
1まず、僕はauthorityそのものが説得に有用であることは認めていま
す。S.Yさんは、[JDA :2137]で書かれました。
> 
> 2. 一般での議論における、「裏付け資料」を巡る「常識」
> 
> 
> ・「社会的地位、立場」の意味とそれを巡る常識
> 
> 一般社会では、いろいろな立証の場合で、事実の存否の主張でさえ、
議論を効果
> 的に行うために、著者の社会的地位や立場が有用な場合はたくさんあ
ります。
> 
> ここで、「社会的地位、立場」には、大きく言って二つの意味があり
ます。
> A)特定の立場、役割、権限を示す
> B)専門性と権威性を示す
> 
> K.M君も、B)のことだけをピックアップしていますが、A)は必要であ
ると考えるわけ
> ですね。
> 
> また、B)に関しても、その有効性は認めているようです。
> 
> 
> 3.立証の比較における、裏付け資料の扱いに関する常識
> 
>  裏付け資料の役割に、相手が反証してきたときに、それに対して比
較優位を持た
> せることがあります。
>  一般的に、社会的地位のある人の意見と、学生(ディベーター)の
意見のどちら
> を信じるか、といわれれば、一般の人は社会的地位のある人の意見を
信じるでし
> ょう。
> 
> この点に関しても、認めておられるようです。
> 
 
ここまでは全く認めます。
 
 
2僕の主張は「根拠のない専門家の発言」より「客観的根拠に基づく非
専門家(debater)の発言」が優越し、さらに、「根拠のない専門家の
発言」は本来の意味での証拠でありえないと思いますので、相手からの
一言の指摘でジャッジは切り捨てる程度のものでしかない、ということ
です。S.Yさんには「ジャッジが無視する」と表現されていますが、こ
れはあくまでも相手のdebaterの指摘があった上での話です。
 S.Yさんは[JDA :2137]で書かれました。
 
> 4.提言はベストなものではない。
> 
> ・「一行エビ」を排除するメリットは、提言に固有なものではない。
> 
> これも無視されていますが、いかがでしょう。K.M君の主張する、「
理由」が明確に
> されている裏付け資料を使ようになるだろう、というメリットは、別
の手段で実現で
> きることです。
> N.M君も述べていますが、私がコーチなら、専門家の一行エビにたい
して、「それ以
> 上の詳しい理由を付けた専門家の反対意見を裏付け資料として提出し
ろ」、といいま
> す。それで、一行エビなるものは排除できます。それだけのことです
。リサーチする
> だけでしょう?
> 
> これが、実社会で一番役に立つ、適切な態度であると思います。
> 
> さらに、K.M君の「ジャッジが無視する」という提言が実行されると
、2.3.で述べた
> ような、実社会で有効な証明手段の使い方を学ぶことが出来なくなる
と言うデメリッ
> トが発生します。
> 
 
 これに関しては、根拠のない空論に対してわざわざプレパする必要は
ありません。試合中に一言、論拠の無さを指摘すればよいのです。もち
ろん「それ以上の詳しい理由を付けた専門家の反対意見を裏付け資料と
して提出する」ことによって、相手の主張をさらに強く否定できるでし
ょうが、そこまでする必要の無いエビデンスが存在することも事実です
。S.Yさんの考え方では、そういうエビデンスが、H.Iさんが 言われ
ているように
  ”客観的根拠がなくても「社会的地位」のある人の発言であれば証拠
(裏付資料?)として採用するのですから、S.Y君の立場ではいわゆる
「一行エビ」を完全に排除することはできないでしょう。”
という結果に終るのではないでしょうか。
 
 
3僕の立場は、authorityの有用性を何ら否定するものではありません
。authorityが証拠のcoreであることを否定するのです。真に大切なの
は客観的根拠であり、そこから常識的に導き出される主張であるべきで
、authorityはそれを修飾するもの(言い過ぎかもしれませんが)にす
ぎないと思います。
 
 
4僕がこう考えているのは、実体験に基づきます。つまり、現役時代に
NAFA系のある試合で僕は、相手のエビデンスがまったく理由を持たない
ナンセンスな主張であるといったのですが、相手が
「1 no counter analysis.2 authority of our evidence is 
professor. hence reliable」
といった内容のことをいったら、judgeのコメントが
「いやあ、相手はエビ呼んでるしねえ、アサーションじゃあ、切れない
よ」でした。
 
 これを呼んで、そんな馬鹿なと思われる方もいらっしゃると思います
が、程度の問題で、実際の試合でジャッジするときは、エビデンスに対
するそもそもの認識はこんなものである方がけっこういらっしゃると思
います。つまり、エビを読まれるとアサーションアタックでは、きる勇
気が無いのです。それは、実社会で人々が権威にだまされるのと何ら違
いはないと思います。
 
僕が言いたいのは、judgeという立場では権威を盲信しないでください
ということです。
 
 
 
p.s  エビを読むときにauthorityを読むことには賛成です。役に立
ちますもん。
 
K.M
 

Date: Sun, 15 Dec 96 21:50:05 JST
Subject: [JDA :2145] RE:
 
こんにちは、WESAのY.Sです。
Evidenceに関する議論が盛り上がっているようですが、一言だけ。
 
Exec. Summary
 
「例え1行エビでも、そのAuthority自体を否定しない限り、Authoritative warrant
は有効。そのため、反論する側には、そのAuthoritative warrantを上回るwarrant
を提示する責任があり、それをしなかった場合は、むしろ1行エビを"No reason!!"
というクレームだけで切ってはいけない」
 
本文
 
>NAFA系のある試合で僕は、相手のエビデンスがまったく理由を持たない
<中略>
>「いやあ、相手はエビ呼んでるしねえ、アサーションじゃあ、切れない
 
相手が1行エビを読んで、それに対するレスポンスが"No Reason!!"と叫ぶだけ
だったら、1行エビであろうと、Authoritative warrantはあるわけであり、
そのAuthority attackをしない限り1行エビは取られるべきだと思います。
 
つまり、しなければいけなかった反論は、「このエビデンスには理由がない。
よって、このエビデンスはAuthoritarive warrantによってのみ有効性が立証される。
しかし、そのAuthoritative warrantはこのような理由により、このコンテクストでは
Authorityとなり得ない」というべきものです。
 
>います。つまり、エビを読まれるとアサーションアタックでは、きる勇
>気が無いのです。それは、実社会で人々が権威にだまされるのと何ら違
 
Assertionの内容によりますね。私はジャッジとして、理由がないAuthority(つま
り1行エビ)よりは、納得の行くAssertionを優先します。例えば、相手の
エビデンスなどを巧みに使って、「相手が言ったエビデンスのこの内容が本当ならば、
このようなことが起きてしかるべきだ」というようなものですね。
 
例えば、今回のプロポで、「中国が台湾を攻撃し、アメリカが介入して核戦争とな
って世界壊滅」というDAがありました。そのリンクとなっている「中国が台湾を
攻める」というのが1行エビの場合は、
 
1.  Their link is supported by --- card, which has no reason.  Hence, only
    warrant here is the authoritative warrant.
 
2.  However, if China knows that her attack to Taiwan invites US retaliation,
    she will obviously stop the attack BECAUSE she does not want to be de
    destroyed by US.  Apply their --- card which proves that China's priority 
    is her survival.
 
というような反論があれば、その1行エビは切るべきです(まさに「勇気を持って」)
。しかし、「これは1行エビでNo Reasonだから取るな!」と言われても、Authoritati
vewarrantを否定していない以上、その1行エビを切るのはむしろ非論理的な行為です。
 
>僕が言いたいのは、judgeという立場では権威を盲信しないでください
>ということです。
 
そう思ったらしっかりその「権威」をまさに理由をつけて叩くべきです。なぜその権威
がここでは役に立たないのかを証明する責任は、反論する側のディベーターにあるわけ
で、ジャッジにあるわけではありません。逆にもしジャッジが「1行エビだから」その
エビデンスを"No reason"というクレームだけで切るというクリティックをするのは行
き過ぎです。
 
もし、K.MさんがそのようなAssertionを展開していたのならばごめんなさい。その
ような場合は「勇気」を持ってそのジャッジを叩いてください(^^;)。
 
WESA Y.S
 

Date: Mon, 16 Dec 96 18:24:44 JST
Subject: [JDA :2155] scope of proof
 
 
H.Iです。
証拠に関する議論がこれほど盛んになるとは予想もしていませんでした。
 
 これまで議論されてきた、根拠のない専門家の意見に基づくArgumentが成立
するか、という論点についてはほぼ意見が出尽くしたと思います。さらに議論
してもかまいませんが、私としては、別の論点についても、皆さんの意見をお
伺いしたいと思います。
 
〔問題〕
ディベートにおいて証明が必要な事項、すなわちargumentの根拠として証拠を
提出しなければならない事項は何か。価値の評価やDebate Theoryの議論にま
で証明を必要とするか。
 
〔私見〕
 事実・経験則の存否に関するargumentについては、その根拠を証拠として提
出しない限り、argumentが成立しない。ただし、公知の事実や常識的な経験則
については、証拠として提出することは不要。ディベーターが自らの言葉で説
明すればよい。
 
 上記以外のargument(ex.価値の評価・Debate Theoryに関するargument)につ
いては、その根拠を証拠として提出する必要はなく、ディベーターがargument
の根拠を自らの言葉で述べればよい。
 
〔本論〕
 「なぜディベートでは何を言うにも証拠が必要なのだろうか」というのは、
私がかねてから抱いていた疑問の一つです。もちろん、全てのargumentについ
てその根拠(data/warrant)を述べることが必要なのは当然のことです。しか
し、その根拠を証拠という形で提出しなければならないかは、また別の問題で
しょう。
 
 アカデミック・ディベートでは、立論においては最初から最後まで「証拠」
の引用が続きますが、国会の論戦や大統領選の候補者のディベートなどでは、
これほど過剰な「証拠の引用」は見られません。たしかに、これらの論戦にお
いても、事実の存否をめぐる議論については、新聞記事や統計資料などが、
arugmentの根拠として引用されていることもあります。しかし、それ以外の部
分では、皆他者の意見を引用せず、自らの言葉で意見を述べているケースがほ
とんどです。
 
 私は、本来証拠とは、事実や経験則の存否をめぐる議論の客観的根拠であ
り、それ以外の議論については「証拠」の提出は不要と考えています。事実
や経験則についても、公知の事実や常識的な経験則といった、証拠によらず
に確定できるものは、証拠の提出を要求する必要はないでしょう。
 
 もちろん、価値の評価に関する議論について哲学者の意見を引用するなどし
て、自らのargumentの信憑性を高めることは可能ですし、またそれが望ましい
場合もあることは否定しません。
 
 しかし、ディベーターがargumentの根拠を自らの言葉で述べたにもかかわら
ず、「証拠」が提出されていないことを理由にargumentが不成立とするのは妥
当な立場ではないと考えます。ちょっと考えればわかることですが、全ての議
論に証拠が必要だとすると、既存の意見と異なる革新的な意見は出てこないこ
とになりますが、それはおかしな結論ではないでしょうか。
 
 皆さんはこの問題についてどう考えますか。意見があればお聞かせ下さい。
 
 
H.I 
 
 

Date: Mon, 16 Dec 96 21:50:28 JST
Subject: [JDA :2156] evidence4
 
主にH.I君のメール[2139]に対して
 
 
1.「常識」と、「常識を覆す提言」
 
何かの提言を行う時は、それが現状よりメリットがあるか、あるいは、それがベスト
の提言かを検討しなければなりません。私は、H.I君の提言がベストの提言ではない
と思います。
 
 
2. 一般での議論における、「裏付け資料」を巡る「常識」
 
 
・「社会的地位、立場」の意味とそれを巡る常識
 
一般社会では、いろいろな立証の場合で、事実の存否の主張でさえ、議論を効果
的に行うために、著者の社会的地位や立場が有用な場合はたくさんあります。
 
ここで、「社会的地位、立場」には、大きく言って二つの意味があります。
A)特定の立場、役割、権限を示す
B)専門性と権威性を示す
 
A)に関しては、その有効性はお認め頂けたようです。
 
また、B)に関しては、頑張っておられます。実際のところ、私の意見とH.I君の意見
はほとんど差がないのですが、御納得いただけるためにもう少し詳しく説明しましょう。
 
私は、一般の人と同じように、その分野の専門家である、という事実だけで、「最低
限」の証明は成立すると思います。
 
 
(1)H.I君の言う「常識的推定」には、「専門家への信頼」が前提にされている
 
「この建物はこの程度の地震には耐えられる」ことを証明するときに、「地震では10
0ガルしか加速度が発生しない」ということと、「150ガル程度の加速度に耐えられる
という解析結果」だけで証明されるというのがH.I君いうの常識的推定でしょう。し
かし、もうすこしつっこんで考えてみると、この推定が為されるためには、実際には
、解析コードの内容を理解し、それが適切なコードか、また、誤り無くきちんとパラ
メーターが入力されているかをチェックしなければなりません。しかし、専門的知識
がなければ、解析コードの内容も、パラメーターも適切かどうかは判断できず、ブラ
ックボックス化しています。つまり、H.I君の言う常識的推定の中には、専門家への
信頼という前提が不可欠なのです。
 
(2)「信頼」の程度はどの程度か
 
 問題は、この「信頼」がどの程度のものか、ということでしょう。
 もちろん、H.I君の言うように、とことん客観的根拠を追求するにこしたことはあ
りませんが、そのためには、どのような専門性の高い分野でも、徹底して妥協無く、
全ての細かい点についてまで一般の人が理解できる、という必要がありますが、全て
の裏付け資料についてこれを要求するのは、時間的制約、知識的制約によって、不可
能でしょう。従って、多くの場合、「常識的」には、細かいプロセスは専門家への信
頼によって証明されると言う扱いがなされています。
 
 「150ガルに耐える」が正しいかどうかの証明等の細かいプロセスで専門性による
証明を認めるならば、「地震に耐えられる」という証明全体としても、専門性や権威
性のみでも「最低限」の証明は成立すると考えるのが一貫した姿勢でしょう。
 
(3)権威性による証明の必要性は、さまざまな制約の存在
 
 つまり、この証明方法は、時間的、知識的制約が存在するときに、便宜的に発生し
ている便法のようなものであって、最低限のものであり、専門家でなくても客観的根
拠を連ねて反論すれば、排除されてしまう程度のものです。しかし、実際のところ、
時間的、知識的制約というのは、さまざま議論で現実として存在し、したがって、い
ろいろな場面でこれに頼らざるを得ないわけです。
 
3.立証の比較における、裏付け資料の扱いに関する常識
 
 このような専門家への信頼がベースとなって、一般的に、社会的地位のある人の意
見と、学生(ディベーター)の意見のどちらを信じるか、といわれれば、一般の人は
社会的地位のある人の意見を信じるのです。
 裏付け資料を比較する際に、このような優劣が発生するのはH.I君も認めていると
ころです。
 
 
 
4.社会的地位、立場による証明を否定する必要は特にない。
 
・「権威性による証明が反論可能」という意識があれば、問題は解決可能
 
 H.I君とK.M君は「専門性による証明には反論できない」という意識があるようで
すね。
私は、上で述べたように、この証明は便法であり、きちんとした客観的証拠があれば
、そちらの方が優越する、と考えています。
 ただし、根拠のない専門家の発言は、専門家であることが「理由」となっています
ので、"no reason"だけでは否定できません。否定するためには、専門性への信頼と
いう理由よりも「強い」理由、例えば客観的根拠などで否定する必要はありますが。
 
 この程度であるなら、さほど恐れる必要もなければ、それに依存することもないで
すね。ですから、H.I君の言うように、根拠のない裏付け資料が蔓延する、という状
況というのは起きないと思います。実際にも起きてないと思いますし。(モデルのエ
ビだらけだからと言う説はあるが)
 
 つまり、提言としては、「専門性による証明は、便法であって、客観的根拠があれ
ば排除できることを認識させる」といえば、十分ですね。別にその証明方法の有効性
自体を否定する必要はありません。
 
システムアナリシスで考えれば、としては、「社会的地位、立場を使った証明方法の
限界を知り、また反論方法を知りなさい」という提言がベストな提言でしょう。(ca
pture all AD, avoid DAのC-P)
 
 
5. 「限界」を教えてあげるのが教育の最も大事なこと。
 
 現実に、社会的地位、立場を使った証明は日常茶飯事で行われ、未来永劫無くなる
ことはないでしょう。2.で述べたような必要性があるからです。であるなら、その証
明の限界を知り、うまく使いことなすこと、その証明に対して適切に反論できる技術
を学ぶことが大切です。それが、常識をふまえた教育だと思います。
 
 「ナイフはけがするかもしれないから、使ってはいけません」、というより、「ナ
イフは役に立つけど、誤った使い方をすると危ないよ」、「ナイフをもって攻撃され
たら、こうやって対処するんだよ」と教えてあげるのがあるべき教育であると思いま
す。世の中からナイフが消えることはないんですから。
 
 
 
S.Y
 

Date: Mon, 16 Dec 96 23:26:00 JST
Subject: [JDA :2157] Re: Evidence
 
忙しいので一言、二言(と言いつつ長くなってしまった。)
 
[JDA: 2110]でH.I君が多分私のpostingに言及して、
 
> 以前、MLにおいて「証拠を用いない議論が最強の議論である。」という趣
>旨の発言がありましたが、これが事実の存否をめぐる議論についても述べたも
>のだとすれば、妥当とはいえないでしょう。事実の存否を客観的に判断するた
 
と書かれていました。
 
どうも、誤解されているようです。
 
私は次のように書きました。
>ついでに言えば、最も強い、理想の、アーギュメントとは、エビデンスを一枚も使わ
>ないものである(最も典型的には論理的真理を表す文の証明)ということをディベー
>タは認識すべきです。
 
括弧内を読めば分かるでしょうが、上記は、「理想のアーギュメントは、エビデンス
を一枚も使うことなく証明されているものである。」という意味です。
単に、経験的事実を根拠にすることのないアプリオリなアーギュメントが、最も強い
と言っただけです。
事実に関するアーギュメントは、必ず「エビデンスを使う」訳ですから、上記の引用
部の表現は当然それを指示しません。
 
 
 
H.I君の意見は、その他に関しては、非常にもっともだと思います。(大体のことは
、私が既に別々の機会にここで述べたことに含まれていますが。)
 
 
 
それに対して、S.Y君の[JDA: 2121]には、問題があります。
 
どうも、S.Y君は、事実と規範とを混同しています。
 
人がアーギュメントの妥当性を判断をするときの心理状態の記述と、アーギュメント
の妥当性を判断する規範とは別物です。これらの混同及びその他の混乱の結果として
、発言者のauthorityを過大評価するような主張が為されていると思われます。
 
 
先ず、確認したいのは、ディベートでのアーギュメントの判断は、論理的帰結関係に
ついての諸規範に基づいて為されなければならないという前提です。
それらの諸規範は、我々が一般に認めるものとしてのもので、自然界に存在するよう
なもののように我々とは独立に存在するものではないとしても、我々の実際の振る舞
いの記述とは異なるものであることには変わりありません。
 
そうすると、ある議論が妥当とされるかどうかは、一般社会の人々の議論判断時の心
理状態とは関係がなく、議論の内容によってのみ決定されるということはアプリオリ
に認めて良いでしょう。
このアプリオリな前提により、H.I君の議論は強く支持されており、説得力を十分持
ち、presumptionとなり得ます。
 
>著者の社会的地位や立場は証明には不要であるというH.I君の議論には、この常識
>を覆すだけの説得力を感じません。
 
S.Y君は、逆を考えているようですが、S.Y君の言うディベータや世間の常識という
のは、規範と事実とを混同して、アーギュメントの妥当な根拠に関する規範について
語るときに議論を行う際の人々の行動・心理についての事実を持ち込んでくる単なる
カテゴリーミステークに過ぎず、従って、それは覆されるべきpresumptionでは何ら
ありません。
 
>また、常識的なことでも、一般的に、社会的地位のある人の意見と、学生(ディベ
>ーター)の意見のどちらを信じるか、といわれれば、一般の人は社会的地位のある人
>の意見を信じるでしょう。これも常識です。
 
実際これなどは、まさに一般の人が陥りやすい誤った傾向であり、規範的には戒めら
れている傾向でしょう。議論の規範を学ぶ活動であるディベートでは、そういう傾向
は当然戒められるでしょう。
 
 
 
* それでは、S.Y君の挙げる事実は、上記の我々の規範についての一種の反例となっ
ているでしょうか。
 
全くそうではありません。彼が挙げるような事実は、我々の規範の妥当性に関わるよ
うなものではなく、引用を行う際に、一体何が証拠として機能するかということ、及
び証明の許される省略に関わるだけです。
そういった点が見過ごされている故に、一見すると、アーギュメントの内容以外の要
素がアーギュメントの妥当性の判断に関わるように見えるだけです。
 
 
ある文Sを引用する場合、
 
i)その文S自体を証拠として使う場合
ii)その文Sをある人Pが書いた(言った)ことを証拠として使う場合
 
の二つが考えられます。
i)の場合は、S.Y君が挙げる二番目の例に相当します。
 
>・高度に専門的な議論(理由が専門的すぎて素人には理解できない場合)
>
>建築の専門家が、「構造解析の結果、この程度の地震力にはこの建物は耐えられる
>」という場合。
>
>このような分野においては、証拠の著者の社会的地位や立場というのは、非常に大
>きい意味を持ちます。大事なことは、いろいろな場面で、「一般の人は、著者の社会
>的地位や立場が必要な場合がある」と認識しているということです。となると、ディ
>ベーターは、「常識を覆す」議論をどのように行うか、ということが問題になります。
 
一般には、i)の場合がディベートでは多いでしょうが、このときには、発言者のqual
ification(authority)というのは、文Sの真理値を保証することに確かに一定の寄与
をしていますが、authorityそれ自体が真理値の根拠になっているのはありません。
 
ここでの寄与というのは、著者のいわば証明能力に一定の信用が与えられることで、
通常の証明の省略が許されることになるということです。
authorityが根拠になっているのではなく、一定の証明の省略を許しているだけです
。それは、アーギュメントの証明に於ける単なる実際上便宜的な補助手段に過ぎません。
 
従って、アーギュメントの正当化の根拠は、authorityにあるのではなく、その著者
が省略している議論の過程(建築家の例では、「構造分析」の詳細)にあるのです。
(H.I君が[JDA: 2112]の3.で述べている内容はこれに近いものです。)
 
 
上記の引用で触れられているような一般の人の心理は、このような省略の認可に対応
するものですが、アーギュメントの妥当性の根拠が、このような心理状態や省略にあ
るのではありません。あくまで、省略されたステップが根拠として働いているのです。
 
このような省略は、我々の周知の事柄についての証明の省略に平行しています。
 
周知の事柄については、我々一般が承認しているから証明の省略がされるのですが、
専門家の見解については、我々一般の一部であるところの専門家集団が承認している
から証明の省略が為される訳です(一種の分業が行われている)。
 
 
 
 
ii)の場合が、S.Y君が挙げる最初の方の例に当たるもので、他にも誰かの書いたテ
キストの解釈によりその人の意図についての議論をする場合等もこれに入るでしょう。
 
>そして、一般社会では、いろいろな立証の場合で、事実の存否の立証でさえ、議論
>を効果的に行うために、著者の社会的地位や立場が有用な場合はたくさんあります。
>いくつか例を挙げます。
>
>
>・政府の認識が争点となる議論
>
>「北朝鮮指導部が、現状をどのように認識しているか」
>・個人の体験や考えが争点となる議論
>
>従軍慰安婦が、「私は連行されたんです」と述べるような場合
>
 
この場合、発言者(著者)の社会的地位が、その発言の受け入れに影響するというよ
りも、その発言がその人により為されたということ自体が一つの事実として扱われて
いるのです。
 
ある人が「私はこうしたい。」と発言した場合に、それは、「その人がこうしたがっ
ている。」という主張の証拠となるのは当たり前のことですが、この場合の推論では
、「この場合の発言が誠実なものである。」ということを前提として、「人が意図を
発言した場合に、その人はその発言された意図に忠実に行動するはずである。」とい
う一種の我々の行為についての規範的前提が働いているだけです。
ここでは、発言者とその発言とその後の発言者の行為についての言明とを結ぶ推論が
、その発言者がこの発言をしたという事実に根拠付けられているだけなのです。
 
ここでのアーギュメントの根拠はそのような事実全体であり、発言者のauthorityで
はありません。
 
>事実の存否の立証でさえ、議論を効果的に行うために、著者の社会的地位や立場が
>有用な場合はたくさんあります。
 
これは、何が事実に入るのかという範囲の誤認に基づくもので、「著者の社会的地位
や立場」を含めた事実がそういう場合には問題になっているだけです。
 
 
 
(補足)
 
常識的なことと証拠との関係についてのH.I君の諸指摘も、もっともだと思います。
 
但し、因果的言明(彼は経験則と呼んでいる)は、事実とは分類できないかもしれま
せんが、経験的な真理を表す命題としては、事実と共通するところがありますから、
これについては、原則として事実と同様に扱うとして構わないと思います。
 
それから、証明は、どんな議論にも(事実、因果的言明、アプリオリな言明、等々を
問わず)原則的には必要です。H.I君が「常識的とはいえない経験則については、や
はり証明は必要でしょう。」と言っているのは、「証拠が必要でしょう」というべき
でしょう。
 
当初証明が提示不要な場合は、議論の種類を問わず一般に、それが周知の場合として
いいでしょう。
(例えば、誰もピタゴラスの定理を使うときに証明をしないでしょう。)
 
 
Y.K
 

Date: Wed, 18 Dec 96 05:55:32 JST
Subject: [JDA :2163] Re:evidence4
 
 
H.Iです。
S.Y君のメール[JDA:2156]についてひとこと。
 
 
1.「社会的立場」のある非専門家の発言について
 
>ここで、「社会的地位、立場」には、大きく言って二つの意味があります。
>A)特定の立場、役割、権限を示すB)専門性と権威性を示す
>
>A)に関しては、その有効性はお認め頂けたようです。
 
 証拠として用いることができるという結論は同じですが、「社会的地位」を
持出して説明するのは妥当ではないことは、これまでも繰り返し申し上げまし
た。[JDA:2124][JDA:2139]を参照。
 
 
2.専門家の発言について
 
 S.Y君は、根拠のない専門家の発言に基づきArgumentが成立するかという論
点について、次のような説明をしています。
 
> 「150ガルに耐える」が正しいかどうかの証明等の細かいプロセスで専門性
>による証明を認めるならば、「地震に耐えられる」という証明全体として
>も、専門性や権威性のみでも「最低限」の証明は成立すると考えるのが一貫
>した姿勢でしょう。
 
 ここでS.Y君は「最低限の証明」は成立すると述べており、[JDA:2121]にお
いて「証拠の著者の社会的地位や立場というのは、非常に大きな意味を持つ」
と述べていたのに対して、だいぶ論調が変わってきたなと感じます。
 
 それはともかく、上記の議論は残念ながら正しくありません。推論のプロセ
スを一部省略してもArgumentは成立しますが、根拠を省略するとArgumentとし
て成り立たないからです。以下、詳しく説明しましょう。
 
 S.Y君の述べているのは、本来Argumentが成立するためには「D1→D2→D3→
C」という推論プロセスを述べなければならないが、専門家が述べる場合、専
門家に対する信頼に基づき「D'→C」という推論が許されている、というこ
とでしょう。(D'というのは、D1の場合もありますし、D1からD3までを概括
的に指すこともあるでしょう。)
 
 このことから、S.Y君は専門家が「C」とのみ述べた場合もArgumentが成立
する(S.Y君の言葉では「最低限の証明が成立する」)と述べています。ここ
に論理の飛躍があります。
 
 「D'→C」という発言には、推論プロセスは一部省略されているものの、
主張を基礎付ける根拠(Data)と推論(Warrant)がそれぞれ含まれています。と
ころが「C」という発言には、それを基礎付ける根拠も推論もありません。し
たがって、「D'→C」がArgumentとして成立するなら「C」もArgumentとし
て成立するというのは正しくありません。
 
 これにより、「証明等の細かいプロセス」の省略と根拠の不存在とは、同列
に論じるべきことではなく、全く次元の違う話であることがお分かりいただけ
ると思います。
 
 
3.権威に基づく説得が現実に使われていることについて
 
 権威に基づく説得が現実に使われているからといって、それをディベートに
取り入れるべきという結論は導けません。例えば「情に訴える説得」は一定の
場面においては非常に効果的ですし、現実にも多用されていますが、これを
ディベートに取り入れるべきでないことは明らかでしょう。
 
 
 …この論点についてはほぼ議論が出尽くしており、いつまでも論じるつもり
はありません。しかし、一般の方も陥りやすそうな誤解については、その限り
において正しておくことが有益であり、あえてMLに投稿した次第です。
 
 
H.I
 
 

Date: Wed, 18 Dec 96 21:01:02 JST
Subject: [JDA :2164] evidence5
 
 
私の説明が悪いのか、私の考え方を理解していただいていないので、私の考え方
と、H.I君の考え方の違いをもう少し詳しく説明します。
 
結論
「権威性」のみでも最低限の立証が成立する考え方は、便法として必要不可欠。
 
まとめ
・H.I君のモデルでいう「客観的根拠」は、常識的な議論では、正しい意味での
「客観的根拠」ではなく、「証明された結果」であることが多い。
・それは、「権威性」のみによって「証明」されている場合が多い。
・下位の階層の証明で「権威性」のみによる証明を認めるならば、上位の階層の
証明でも認めるべき。
・逆に、「客観的根拠のない、権威性のみの証明」を認めなければ、時間的、知
識的制約により、証明自体が成立しなくなる場合がある。
 
-----------------------------------------------------------------------
1.証明の階層構造
(1)H.I君の証明モデルD1→D2→D3→Cは、正しいモデルですが、
D1が、「客観的根拠」であるという前提条件が必要です。専門的な分野での議論
では、この前提条件が簡単には成立しない場合があります。実際にはD1が客観的
根拠か否かの証明は「階層構造」になっています。
 
(2)もう少し詳しいモデル化を行います。
1「原子力発電所が安全である」を証明するのに、
1-1「専門家がそういっている」
1-2「建物が地震に耐えられる」
1-3「飛行機が落ちても耐えられる」
等の中から一つまたは複数選んで裏付けとする事が可能で、
 
1-2「建物が地震に耐えられる」を証明するのに、
1-2-1「専門家が耐えられると言っている」
1-2-2「耐震解析したところ、耐えられる」
1-2-3「地震は100ガルの加速度を発生させる」「建物は150ガルに耐えられる」
等の中から一つまたは複数選んで裏付けとする事が可能で、
 
次に、1-2-3「地震は、100ガルの加速度を発生させる」を証明するために、
1-2-3-1「専門家が100ガルだといっている」
1-2-3-2「解析したところ100ガルだった」
1-2-3-3「阪神大震災の時刻歴応答を解析コードに入力する」「解析コードが最大
加速度100ガルという結果を出した」
等の中から一つまたは複数選んで裏付けとする事が可能で、
 
次に、1-2-3-3「解析コードが最大加速度100ガルという結果を出した」を証明す
るためには、
1-2-3-3-1「専門家が解析コードは正しい結果を出すと言っている」
1-2-3-3-2「簡単な縮尺模型を実際に振動させた実験の実測値」と「解析コードの
解析結果が一致する」
等の中から一つまたは複数選んで裏付けとする事が可能です。
 
1-2-3-3-2は、自然科学で唯一の「客観的根拠」である「実験値」を裏付けとして
います。
つっこむともっとたくさんありますが、この辺でやめます。
 
 証明ルートには複数ありますが、例えば、1は、1-2を裏付けとする証明の結果
であり、1-2は、1-2-3を裏付けとする証明の結果であり、1-2-3は、1-2-3-3を裏
付けとする証明の結果であり、1-2-3-3は、1-2-3-3-2を裏付けとする証明の結果
なのです。1-2-3-3-2のみが、客観的根拠である実験値を裏付けとしています。証
明は、このような階層構造を採ります。
 
これがdataで、これがwarrant、なんて簡単に行かないわけです。
 
(2) H.I君の言う「客観的根拠」は、「証明された結果」にすぎない場合が多い
 
 これら1-2や、1-2-3等は、全て独立したdataとwarrantが必要な「証明」の結果
のはずです。
 ところが、H.I君に限らず、多くの人は、1-2-3を「客観的根拠」と「みなす」
ということを行っています。しかも多くの場合、このH.I君のいう客観的根拠の
正体は、例えば、1-2-3-1を裏付けとする、dataなし、「権威への信頼」をwarra
ntとする「証明の結果」にすぎません。
 
 
2.階層が違うからといって、証明の最低限の立証の基準を変えるのは一貫性を
欠く
 
 証明には階層構造がありますが、どの階層での証明も、証明であることには代
わりありません。一つの階層での証明に、「権威性」warrantのみによる証明を認
めるなら、上位の階層の証明にも認めてしかるべきです。上位の階層の証明では
権威性による証明は認めないが、下位の階層の証明には認める、というスタンス
は一貫性を欠きます。
 
 専門家に言わせれば、「地震は100ガルの加速度を発生させる」だけでは、裏付
け資料としては意味のない、真偽不明なしろものです。それなのに、この裏付け
が正しいと見なされる(客観的根拠?)いうことは、専門家を信じているからと
しか考えられません。であれば、「地震は100ガルの加速度を発生させる」という
裏付けは「専門家が耐えられると言ったから」と本質的にはあまり変わらないと
思います。印象は違いますけどね。
 
 極端な話、「地震は100ガルの加速度を発生させる」が権威性warantのみで何ら
の客観的根拠なしに正しいと証明されたとみなすならば、最上位階層の証明であ
る「原子力発電所は安全である」も、「専門家がそういったから」と言えば、そ
れは最低限の立証は果たした、とするのが一貫性のあるスタンスであると思いま
す。
 無論、反論するのは別の裏付け資料を使って反論すれば、それが優越します。
 
3.「権威性」のみによる証明を認めないと、議論が成立しないことがある。
 
 H.I君の言うように、とことん本当に客観的根拠を追い求めるならば、証明1-
2-3-3-2まで徹底的にやる必要がありますが、時間的、知識的制約によって、困難
です。
 
 従って、1-2-3に限らず、1-2-3-3など、いろいろな階層での証明で、1-2-3-3-
1のみを裏付けとする等の、「権威性」warrantのみの「客観的根拠」dataなしの
証明を行い、その結果を「客観的根拠」と称してその上の階層の証明の裏付けに
使うことは日常的に行われています。
 
 H.I君が、権威性による証明を一切認めないというなら、専門的な分野を議論
する際には、ディベートという制約条件下では、本当の「客観的根拠」に基づく
証明は、非常に困難を極めるでしょう。
 
4.「客観的根拠」とは何か
 
H.I君の言う、「客観的根拠」とは何か、是非お聞きしたいです。自然科学ほど
厳しくなくないんですか?法廷でも、客観的根拠、というためには、かなり厳し
い立証責任が課されると思うのですが。
 
5.結論
 
「権威性」のみでも最低限の立証が成立する考え方は、便法として必要不可欠。
 
S.Y

Date: Thu, 19 Dec 96 11:51:33 JST
Subject: [JDA :2168] RE:  evidence
 
「権威性」を証明のwarrantに使えるか否かについての議論、面白く読ませてもらっ  
ています。
 
提言:ディベートの証明における「権威性」の使用には、1)時間の制約、2)論争  
当事者の知の限界の制約、の2つの問題がからんでいるのではないか。
 
1
  Y.K[JDA :2157]さんのピタゴラスの定理の例を用いた、「権威性」を証明過程の  
省略であるとする主張はもっともなことだと思います。また、Y.K、H.I両氏の(可  
能であれば)論理的合理性のみによって論争を行おうとする立場も理想的なものとし  
て理解できます。ところが、アカデミックディベートの場合(に限らず現実的にはす  
べてそうなんでしょうが)、様々な制約があってその通りにいかない、という点に関  
しては、合意がなされているような気がします。証明における「権威性」の使用も、  
セカンドベストの解決策としてみなさんに認識されているとみなしてよいのではない  
かと思います。
 
2
  今までの、「権威性」の使用は証明過程の省略のためにあるとする見解は、その制  
約を主に時間的なものとみなすことによってなされている気がします。ピタゴラスの  
定理の例も、その証明の省略は、授業の中で一旦なされた後に行なわれるもので、答  
案作成者も採点者もその証明を求められればできることが前提されて、定理そのもの  
の証明を省略しての使用が認められていると思います。ディベートにおいてもS.Y  
[JDA :2164]さんが示したように、耐震性の証明ひとつをとってみても、権威性に頼  
らずとも、ある程度そうかなと思えるような段階まで証明するためには、実にたくさ  
んの証明事項が必要になるし、仮に誰もがアプリオリに認める事実にまで立ち返って  
証明しようなどとなると、通常のアカデミックディベートの時間的枠内では実際上難  
しいと思われます。したがって、証明における「権威性」の使用は、第一には時間的  
制約のためであるということが出来るでしょう。
 
3
  ディベートにおける「権威性」の問題は、もうひとつ、すなわち論争当事者(ジャ  
ッジもオーディエンスも含めて)の知の限界の問題を含んでいると思います。そして  
それは、時間の制約の問題よりはるかに本質的な問題でしょう。
アメリカの保守層の中には、今でも進化論を認めていない人々がいて、地域的にそう  
いう傾向の人が集ると、学校で進化論を教えてはいけない、あるいは教えるとしたら  
、聖書にある記述と両論併記で両者とも正しい可能性を残したものとして教えること  
を主張しています。「地球は丸いというのを信じるものの大多数は、学校で教師がそ  
う言ったり、教科書に書いてあったりしたから、すなわち誰かにそうだと言われてそ  
うだと信じているだけであって、実際にロケットに乗って地球を外から眺めて確かめ  
てみたわけではないだろう。だとすれば、教会が地球は平らであると言ってそれを信  
じているのとどこに違いがあるのだ」というのが、彼らの言い分です。だから進化論  
についても、さるをそこにおいておいて、人間になるのを見たものは誰もいないわけ  
であるから、確からしさのレベルとしては、聖書の記述にまさるものではありえない  
、というわけです。
さて、ここで地球が本当に丸いかとか、さるは本当に人間になったのか(そもそもそ  
ういうとらえかた自体が誤謬のもとですが、つっこまないでください)とかいう場合  
、地球がまるいかどうかなら、時間がかかっても飛行機で地球のまわりを一周してみ  
るとか、金がかかってもロケットをあげて実際に自分で見てみるとか手はあるでしょ  
うが、さるが人間になったかどうかについては、骨が出てきた地層がどうのとか、骨  
のここの形がどうのとか、DNAのこの並びかたがどうのとか、そういう話になって  
くるんだと思うのです。そして、少なくとも私にとっては、本当にわかったかと聞か  
れても、ウーンとうなって、結局のところ教科書にそう書いてあるからとか、だれだ  
れ先生がそう言ったからといったレベルで、そうであると思っている程度のものであ  
るような気がします。
ここで問題となるのは、ディベートにおいては、実際のところその種の議論にならざ  
るを得ないことが多いのではないか。いや、ほとんどそうなんじゃないか、というこ  
とです。そしてこれを、よしとするのか、駄目だというのかということだと思うので  
す。もしも、「権威性」の使用を、時間の制約の上によってのみ認めるとすると、ピ  
タゴラスの定理の証明のように、ディベーターはもとめられれば、どこまででも専門  
的に、しかも万人がそうであると思うような事実にまで立ち返って証明ができなけれ  
ばならないことになります。そうでなければ、ディベーターはいかなる主張もしては  
いかん、すなわち、バカはディベートするなという話になると、いったい何人のディ  
ベーターが生き残るのでしょうか。反対に、わけがわかっていなくても、専門家とし  
ての肩書きがある人が言ったり書いたりしたことであれば、何でも使ってかまわない  
とすると、権威性への盲信とか、ディベートが単なるカードの出し合いに堕するとか  
いう(Y.K、H.I氏が危惧しているだろう)問題が出てくるでしょう。今回の論争は  
、そうした折り合いを、アカデミックディベートという形式の知的訓練のなかで、ど  
うつけていくかという問題だと思います。
 
4
というわけで、長々と書いて結論がありませんでした。最後までつきあわせてごめん  
なさい。

 
Date: Sat, 21 Dec 96 01:02:44 JST
Subject: [JDA :2170] Re: evidence
 
サーバーが先週末から月曜まで落ちていたので、JDA:2124-2155は受け取っておらず
、又まだとってきてもいないので、この論争の経過を全部読んだ訳ではありませんが
、[JDA,2163,2164]を見て、以下のように述べさせていただきます。
 
(I) [JDA:2164]でも、規範と事実との混同という点は、依然として改まっていない。
 
どうもS.Y君は、この点に関しては全く理解していない又は無視しているようですが
(証明の省略を認めることは、実質的に権威性による証明を認めることだと解してい
るように見える)、
 
あくまで、権利問題として、正当化に於いて、証明の省略を許すことは、著者の権威
に基づいてそのいかなる発言をも妥当とみなすことではありません。
 
権威性による証明というものが妥当とされるならば、
 
権威者がPと言っているならば、Pである − A
 
という図式が成り立ちます。
 
しかし、証明の省略が許されている場合の図式は、
 
専門家が専門家集団に於いて認められた方法と事実とに基づきPと言っているならば
、ここでは差し当たっては証明を省略してPと証明されているとみなす。 − B
 
です。
 
Aでは、「権威者がPと言っている。」ことが、「Pであること。」の十分条件であり
、それによってPが証明されます。
 
しかし、Bでは、「専門家が〜Pと言っている。」ことは、「Pを証明されているとみ
なす。」こと
の十分条件に過ぎず、それによってPが証明される訳ではありません。Pは、議論の実
際上に於いて暫定的な安定的扱いを受けるに過ぎないのであり、その証明について本
来提出されるべき情報が、偶々その場合には提出を免れるというだけに過ぎません。
そして、Bでは、実際に証明がどこかでなされていることが確認されていることが前
提となります。(この後者の点で言うと、今のディベートでの「証明の省略の認可」
は、適切に行われているとは言い難いとも言える。)
 
両者の認識論的・存在論的な差は、大きなものです。H.I君の言っている「証明の省
略」と「根拠の不在」という差異も、こういう意味での話です。
 
 
しかし、恐らく、議論の実質では変わらないではないかとS.Y君は考えているのでし
ょう。
 
そんなことはありません。結果として許される推論が、両者は異なりますし、Aにつ
いてはそこから問題が出てきます。
 
 
結果として許容される推論について外延的に言えば、Aの場合、どんなコンテクスト
でも、権威者がPと言うならば、Pとなりますが、Bの場合、そういう無制限なことは
言えず、Pの適切な証明の存在が問題になってきます。
 
Aの場合にそういう無制限なことが許容されるとはS.Y君でも考えていないでしょう
。恐らく、専門家が自分の専門分野に関する発言について、という限定をつけること
が考えられるかもしれません。
それでも、例えば、エイズ研究者がエイズに関して、全く根拠のないことをでたらめ
に言っても、Aの図式だとそれを一応妥当な議論であると認めざるを得なくなります。
 
 
明らかに、Aの図式を認めることには、問題があると言えるでしょう。
権威性のみでの証明は、妥当とは認められ得ません。
 
 
現実の人々の行動だけを見ると、Aを誤って読みとることもあるでしょうが、議論の
妥当性の規範としては、Bしか認められません。
 
 
S.Y君の言いたい実質も、多分、権威による証明の正当性を主張すると言うよりも、
専門家のテクストの引用による証明の省略の正当性を主張することの方にあるのでは
ないかと思います。
 
 
その場合、物理的制約との兼ね合いで、どこまで省略することを許すか、という点が
、実践的問題として出てくるでしょう。
 
 
(II) 証明の省略は可能な限り少なくするべきである。又、どこで省略してもよいと
は言えない。
 
S.Y君が、「権威性の証明」と言っているのを、「証明の省略」と置き換えて以下考
えます。
 
そうすると、S.Y君は、証明の省略が、一つの議論の証明の連鎖の一段階で認められ
るならば、「任意の」(any)段階に於いて認められてしかるべきである、と言ってい
ると私はみなします。
 
このこと自体は、妥当であるように見えます。又、物理的制約上、証明の省略なしで
済ませることも又不可能でしょう。
 
 
しかしながら、本来的には、省略はしない方が良いわけですから、
 
証明の省略は、可能な限り少なくするべきである。
 
という格率を先ず立てることも妥当かと思います。
 
 
さらに、それでは、どこで専門家による省略を認めるかということについても一定の
優先順位を立てることも、可能かもしれません。
 
ここで、参考になるのが、自明な議論についての証明の省略です。
 
この場合証明の省略が、許されているのは、我々がそれについて合意しているからで
す。つまり、その根拠について議論する必要がないと考えているからです。
 
このアナロジーをとると、その根拠について議論する必要を我々が余り感じていない
ことについては、専門家による省略がより許されてよいだろうと言えます。
 
逆に、我々がその根拠について議論する必要があると見なしているところほど、省略
は許されないでしょう。
 
 
ディベートの命題を正当化するときに、出てくる諸命題の推論の連鎖で、推論図で、
大まかに言って最終的な命題に近いところにあるものほど、省略されてはならないと
言ってよいかと思います。
 
さらに、異論が出た論点についても証明の省略は許されないでしょう。
 
 
例えば、「日米安保条約は廃棄されるべきである。」という命題の証明に於いて、い
くら国際関係学者の発言でも「日米安保条約は廃棄されるべきである。」というもの
について証明の省略を許すわけにはいかないでしょう。
又、同じ命題の下で、「安保が廃棄されれば、日本が戦争に巻き込まれることがなく
なる。」ということが根拠として出されているときに、同じことを言っている専門家
の発言を以てその証明を省略することは許されないでしょう。
 
 
この省略の認可についての考慮には、又、議論の理解についての我々の姿勢も反映さ
れるでしょう。つまり、ある論点についての議論に於いて、その論点に関する判断を
下す上で最低限必要だと我々が見なす情報が何であるかによっても左右されるでしょう。
 
「原発が安全である。」という命題が正しいかどうかを判断する上で、当然我々は、
専門家のそのような断言以上の何らかの根拠を求めます。逆に、「ジルカロイの融点
はn℃である。」という命題については、専門家の実験に基づいた結論で満足するか
もしれません。しかし、その場合でも、この融点が全体の議論で決定的な役割を果た
すことになれば、そういう結論を出した実験について詳しい情報を求めるでしょう。
 
そうなると、我々の常識、世界観等の我々の持っている情報とそれらの相互関連・階
層及び、当該の議論での、様々な命題の相互関係、の両方が全体論的に関わってくる
ことになるでしょう。
 
河合さんが、指摘されているような、我々の「知識」の制約(「知性」の制約ではな
いと思います。「知性」の制約という場合には、もっと別のことが関わってくるでし
ょう。)も、関連してくるでしょう。
 
 
 
どうもこうなると、どういう場合に省略が許されるかについて明確な原則を立てるこ
とはできないと思いますが(恐らく、我々が議論するときの「実践知」、「技能」が
関わってくるのでしょう。)、S.Y君が言っているように、どこで省略をしてもよい
はずであるとは言えないことは確かだと思います。
 
 
Y.K

Date: Tue, 24 Dec 96 13:14:57 JST
Subject: [JDA :2173] Re:Evidence5
 
 
H.Iです。
S.Y君の[JDA:2164]については、答えなければと思いつつ、忙しさにかまけて
放置しているとY.Kさんに先を越されてしまいました。重複にならないよう
に、私なりにコメントしてみます。
 
〔要約〕
1.時間的制約の中では、根拠の裏付けを省略しなければならない場合もあ
り、またそれでも証明が成立する場合もあるという点は、S.Y君と意見を同じ
くする。
2.しかし、S.Y君の立場を厳格に貫くと、根拠を示した専門家の意見と、根
拠を示さない専門家の発言は、証明の程度は変わらないというおかしな結論に
なる。
3.また、非専門家は「権威への信頼」を有しないため、専門的な分野につい
て根拠を示した上で意見を述べても、時間的制約の中では、ほとんど証明が成
立しないという不合理な結論となる。
4.根拠の裏付けが省略できる場合があるのは、「権威への信頼」があるから
ではなく、根拠を示すことにより主張が正しいとされる蓋然性が高まるからで
あると考えるべきである。
 
 
〔本論〕
1.S.Y君と私の意見の相違点
 最初に言葉の定義をしておきます。D1→D2→Cという証明モデルにおいて、
Cを「主張」、D2を「根拠」、D1を「根拠の裏付け」ということにします。
 
 S.Y君の述べているのは、「本来根拠についてもその裏付けが必要なはずで
あるが、時間的制約の中では、根拠の裏付けを示さずに証明がなされることも
多い。ここで、根拠の裏付けが示されなくても根拠が成り立つとされるのは
「権威への信頼」があるからである。とすると、「権威への信頼」があれば、
主張についての根拠を示さなくても、証明が成立すると考えるべきである。」
ということになると思います。
 
 たしかに、時間的制約の中では、根拠の裏付けを省略しなければならない場
合もありますし、またそれでも証明が成立する場合もあるという点は、私も、
S.Y君と意見を同じくします。
 
 しかし、根拠の裏付けが省略できるのは「権威への信頼」があるからであ
る、という点については同意できません。S.Y君の意見は、一見非常に説得力
がありますが、よく考えるといろいろ不合理な点があるように思います。
 
 
2.根拠があってもなくても同じか?
 S.Y君の考えを徹底すると、次の専門家の意見は、両方とも「権威への信
頼」に基づくものであり、その証明の程度は変わらないという結論になりま
す。
 
専門家A:「原子力発電所の建物は、阪神大震災級の地震に耐えられない。」
専門家B:「原子力発電所の建物は、阪神大震災級の地震に耐えられる。阪神
     大震災級の地震では100ガルの加速度を発生させるが、原子力発電
     所は150ガルまでの加速度に耐えられるように設計してあるからで
     ある。」
 
 S.Y君の考えによると、専門家Aの主張は主張レベルで「権威への信頼」に
基づいており、専門家Bの主張は根拠のレベルで「権威への信頼」に基づいて
おり、両者の主張は「印象は異なるが本質的にはあまり違いがない」というこ
とになるでしょう。しかし、これは、根拠のない専門家の意見より根拠のある
意見の方が優越するというS.Y君の立場に矛盾するのみならず、我々の一般的
な感覚からしても不合理な結論であるといわざるをえません。
 
 
3.非専門家の発言は証明とならない?
 また、S.Y君のいうとおり、時間的制約の中では、根拠の裏付け(さらにそ
の裏付け)まで示して証明することは非常に困難でしょう。とすると「権威へ
の信頼」を用いることのできない非専門家は、根拠を示して意見を述べたとし
てもほとんど証明が成立しないことになります。
 
 例えば、立花氏はその著書「脳死」において、厚生省の脳死判定基準では誤
診のおそれがあることを述べていますが、その論述は100ページ以上にも及び
ます。脳死はきわめて専門的な問題であることから、立花氏は「脳死問題の本
質を知っていただくためには、やはりこの程度の大部の書物は必要」と述べて
います。
 
 時間的制約があることを前提にすると、ディベーターが試合において立花氏
の意見を引用して、厚生省の判定基準が誤診のおそれがあることを述べる場
合、なぜ誤診が生じるかの根拠は示せても、「脳死」に書かれている根拠の詳
細な裏付けを示すことは、ほとんど不可能に近いでしょう。
 
 とすると、S.Y君の立場では、ディベーターがこの分野の非専門家である立
花氏(彼は自らそう言明しています。)の意見に基づき証明することは、たと
え根拠が示されていたとしてもほとんど不可能になります。これは、専門家の
意見であればたとえ根拠がなくても証明が成立することと比べてもあまりにも
アンバランスであるし、また妥当性を欠くものと考えられます。
 
 
4.なぜ根拠の裏付けが省略できるか
 ここでメールを終えることができるといいのですが、さらに「権威への信頼
に基づくものでないとすれば、なぜ根拠の裏付けが省略できる場合があるか」
という、S.Y君の提起した問題に答えなければなりません。
 これは「証明とは何か」にかかわる非常に困難な問題ですが、私なりの試論
を述べてみることとします。
 
 先ほどの「原子力発電所の建物は、阪神大震災級の地震に耐えられる。阪神
大震災級の地震では100ガルの加速度を発生させるが、原子力発電所は150ガル
までの加速度に耐えられるように設計してあるからである。」という主張Xに
おいては、本来は
「阪神大震災級の地震では100ガルの加速度を発生させる」(M)
「原子力発電所は150ガルの加速度に耐えられるように設計してある」(N)
 
という根拠の裏付けを示すことが必要になり、また場合によっては、さらにそ
の裏付けを示さなければ証明は成立しないとも考えられます。
 
 しかし、根拠M・Nが示されていれば、その裏付けが示されていなかったと
しても、「M・Nが間違っていないい限り、主張Xは正しい」という留保条件
付きで、主張Xが正しいことを確認することができます。とすると、根拠M・
Nを示した場合は、主張Xが根拠なしで提示された場合と比べて、正しさの蓋
然性が高まったものとみることができます。
 
 さらに根拠M・Nの裏付けとなるO・Pが示された場合(阪神大震災で観測
された加速度は100ガルだった等)は「O・Pが間違っていない限り、M・N
は正しい」とされ、根拠M・Nの正しさの蓋然性が高まりますから、主張Xの
正しさの蓋然性も高まります。これは、詳しい根拠を聞けば聞くほど主張が正
しいと感じる我々の一般的感覚にも合致します。
 
 一方、主張Xが根拠なしで提示された場合は「主張Xが間違っていない限
り、主張Xは正しい」という循環が生じ、留保条件として成立ないため、主張
が正しいかどうかは確認できません。
 
 そして、第三者からみて、正しさの蓋然性の上昇が十分なレベルまで達した
場合には、「特段の事情のない限り、主張Xは成立する」として、相手方から
反証のない限り、主張Xが証明されたものとみなしてよいと考えます。根拠
M・Nが議論の焦点でない場合や、我々の公知の事項、あるいは専門分野にお
ける通説であるような場合には、その裏付けがなくても、主張Xが証明された
と考えてよい場合が多いでしょう。
 
 「蓋然性」で証明の成立が認められるのは、一般の議論における証明が自然
科学における証明と異なるからです。自然科学における証明とは、反証の余地
を与えない論理必然的な立証であるのに対し、議論における証明とは、第三者
がその主張を真実であると認めうる程度の正しさの蓋然性があれば足りるもの
と考えます。
 
 証明の程度については、裁判でも基本的に同じ考え方を取っているのは、安
井君もご存知の通りです。過去、薬害をめぐる訴訟などで「薬と被害の因果関
係が科学的に立証されていない」という被告の主張を、裁判所が「訴訟におけ
る証明と自然科学における証明は異なる」として退けた例はいくつもありま
す。
 
 私とS.Y君の考え方の違いは、S.Y君は、根拠の裏付けの省略が認められる
のは「権威による信頼」に基づくものであって、基本的にどのレベル(主張・
根拠・根拠の裏付け)でも証明の省略を認めるのに対し、私は、根拠の裏付け
の省略が認められるのは「根拠を示したことによる正しさの蓋然性の上昇」に
よるものし、少なくとも根拠を省略することは認めず、また根拠の裏付けを示
した方が、さらに主張の正しさの蓋然性が高まると考える点です。
 
 また、S.Y君と異なり、私は「根拠を示すことによる正しさの蓋然性の上
昇」は、専門家の権威と一切関係ないと考えます。したがって、非専門家が専
門的な分野に関して述べた意見であっても、その根拠が示されれば、証明とし
て成立すると考えます。
 
H.I

Date: Sun, 5 Jan 97 02:06:51 JST
Subject: [JDA :2191] Evidence6
 
JDAmlの皆様
 
正月もあけましたが、証明の話について今一度。
興味のない人はとばして下さい。
-----------------------------------------------
まとめ
 
1. 根拠は最下層の裏付けであると言うにすぎず、本来的な区別はなく、裏付けが省
略可能であれば、根拠も省略可能である。
2. 証明を省略する「レベル」は、個人の知識的な制限に依存してに設定される。し
たがって、このレベルは、証明の対象となる命題との相対的な蓋然性の差ではなく、
絶対的に設定される。
3.専門家は、専門分野に精通している人間であり、客観的根拠に到るまでの深い知
識を有し、その知識への信頼によって、一般の人は証明の省略を行う。
 
-----------------------------------------------
説明を容易にするため、もう一度、モデルを提示します。
 
1「原子力発電所が安全である」を証明するのに、
1-1「専門家がそういっている」
1-2「建物が地震に耐えられる」
 
1-2「建物が地震に耐えられる」を証明するのに、
1-2-1「専門家が耐えられると言っている」
1-2-2「地震は100ガルの加速度を発生させる」「建物は150ガルに耐えられる」
 
次に、1-2-2「地震は、100ガルの加速度を発生させる」を証明するために、
1-2-2-1「専門家が100ガルだといっている」
1-2-2-2「阪神大震災の時刻歴応答を解析コードに入力する」「解析コードが最大加
速度100ガルという結果を出した」
 
次に、1-2-2-2「解析コードが最大加速度100ガルという結果を出した」を証明するた
めには、
1-2-2-2-1「専門家が解析コードは正しい結果を出すと言っている」
1-2-2-2-2「簡単な縮尺模型を実際に振動させた実験の実測値」と「解析コードの解
析結果が一致する」
----------------------------------------------------------
I 根拠も省略可能
 
1. 根拠の定義
 
(1)証明には裏付けが必要とされます。裏付けというのは、読んで時のごとく、証明
された命題が正しいことを裏付けるものです。
 
では、「根拠」とは、なんなのでしょうか。
 
「証明には根拠が必要」一見、あたりまえに見えるこの命題に落とし穴があります。
それは、根拠の定義です。
 
上の例で、「原子力発電所は安全である」という命題を証明するときに、根拠となっ
ているのはなんでしょう。「実験値」しかありません。あるいは、証明が省略される
なら、その階層の証明の対象が、根拠とされるわけです。
 
 根拠とは、読んで時のごとく、物事の根っこになる証拠ですから、それ以上「証明
が不要」(裏付けが不要)なものをいうというのが適切な解釈だと考えます。従って
、根拠は、証明の階層構造でいえば、必ず最下層に来るはずです。最下層の裏付けと
言ってもいいでしょう。
 
(2)H.I君のモデルでの「根拠」の用法は正しくない
 
つまり、D1→D2→Cで、D1を根拠と呼び、D2をその裏付けと呼ぶ、というH.I君のモ
デルそのものが適切ではありません。D1→D2→D3→Cという証明モデルであるなら、D
1のみが根拠であり、その他は、D1を根拠としてそれぞれの段階で証明されていく「
裏付け」にすぎません。
 
2. 根拠は省略不可ではない
 
(1)H.I君の言う根拠と裏付けは区別不能
 
 さて、仮に、H.Iモデルに従って考えてみると、上で言う根拠以外に関しては、根
拠と裏付けの関係は相対的なものです。H.I君によれば、主張が1である場合、1-1
の階層が根拠となり、1-2-1の階層がその裏付けとなります。しかし、主張が1-1であ
る場合、1-1-1が根拠となり、1-2-2-1の階層がその裏付けとなります。これからわか
るように、H.I君の言う根拠と裏付けの違いは主張の階層に依存し、絶対的な違いは
ありません。両者を区別する必要もなければ、区別もできません。
 
(2)裏付けを省略できるなら、根拠も省略できる
 
 以上により、時間的、知識的制約によって、ある階層の証明を省略する、つまり裏
付けを省略するのであれば、主張の階層を一段下げれば、その証明は、H.I君の言う
根拠を省略していることになります。裏付けは省略可能で、根拠は省略不可というの
は、主張の階層の任意性を考えると、一般的には成立しない考え方です。
 
 
II 証明を省略するレベルは、知識的制限により、絶対的に定まっている
 
さて、以後は根拠ということばを、証明不要な最下層の裏付けとして使います。
これ以外は、単なる裏付けとします。
 
では、一体どういう状態になったときに、証明不要、と思うのでしょうか。
実験値、など、事実として万人に認められるようなものであれば、当然証明不要とい
うことになるのですが、それ以外のものについて考えると、二つの要因があると思い
ます。
 
一つは知識的な制限、もう一つは時間的な制限です。
 
1. 知識的な制限
 
 普通の人は、「もうこれ以上証明は不要」と考えているレベルは主張に関わらずだ
いたい一定していて、証明の対象がある階層、例えば1-2-2-2まで落ちると、「解析
コード」は正しい、と「みなす」ということを普通します。これは、解析コードの真
偽を理解できるには、相当な基礎知識を必要として、一般の人にはその知識がないか
らです。
 解析コードの開発を実際に行った人は、理論と実験値のギャップをいかに埋めるか
、解析の条件の違いによる結果のばらつきなどをよく知っていますから、「解析コー
ドが正しい」とだけいわれてもそんなもの信じません。しかし、解析コードが一体ど
のような構成で動いているかさえ知らない人は、正しい、と言われると、なるほど、
と思ってしまいます。疑問がわいてくるためには、何らかの基礎知識が必要になって
くるわけです。
 つまり、ある分野に関する個人の知識というのは、突然記憶喪失にでもならない限
り、一定していますから、証明不要とみなす階層のレベルというのは、相対的に定ま
るものでなくだいたい絶対的に決定しているものでしょう。
 
2. 時間的な制約について
 
 これは、実社会ではあまり本質的な制約にはなりません。相手を納得させるまで議
論が続くのが普通で、時間切れですから納得した、ということには普通なりません。
時間切れで多数決で決議が出たとしても、反対した本人は、納得しないものは納得し
ないでしょう。
 ディベートでも、時間がないからといって、証明を省略できるか、というと、ジャ
ッジは合理的な疑いを持てばその主張を採用しないことになりますのでできません。
実際には、時間がないことを念頭に、ジャッジは「証明を不要とする」「根拠とみな
す」レベルを実際の自分の知識の限界によるレベルより数段高めに設定すると言うこ
とをしているんだと思います。
 
3. 全ては個人の「証明不要」とみなす階層に依存する
 
 結局のところ、裏付けを不要として証明省略する、とする階層をどこに設定するか
によって、主張に対してどの程度の裏付けが必要かが決まってくるようです。「裏付
け不要」とする階層よりも上の階層の証明であれば、本当の根拠か、「根拠とみなす
」もの(証明不要な命題)をジャッジが求めるのはH.I君の言うとおりでしょう。
 このレベルの設定は一般的には任意に行うことができ、個人の知識に依存して、個
別にどの階層に設定されるかが決定されます。
 
 
III 専門知識への信頼が、証明の省略の際には不可欠
 
1. 「専門家」とは何か
 
 専門家というのは、ある分野を専門的に研究し、それに精通している人を言います
。決して大学教授などの肩書きを持っている人「だけ」を専門家というわけではあり
ません。一般的の人よりも十分深い知識を有していれば、専門家として遇されること
もあります。
 自分が「証明を省略する」レベルよりも詳しい知識を有していれば、その人は専門
家として遇されます。無論、詳しい知識を有していることを何らかの手段で証明する
必要があります。その手段が「著者の職業、社会的地位」なわけです。他の手段も無
論可能です。「立花隆は脳死に関して専門的な内容の本を何冊も書き、この問題には
精通しており、信頼できる」とか。
 
 
2. 専門家の意見の役割
 
上で述べてきた証明のモデルと、「証明を省略する」レベルについての考え方と、専
門家の意見との関連について考えてみます。
 
 証明不要で、「根拠とみなされるもの」は、本物の根拠ではありません。一般の人
は、「解析コードは正しい」と言われても、客観的根拠を持って正しいといえるのか
どうか不明です。ですが、専門家なら、一般の人にはない知見を持って本物の客観的
根拠にいたる知識を有しているはずです。その知識を有している人が、「間違いない
」と言ってくれれば、「専門家は、十分な専門的知識を持っていて、客観的根拠に基
づき物事を判断しているはず」なので、証明不要で「根拠とみなす」ことができるの
です。
 
 専門家は、一般の人の知識の不足によって、それが本当に客観的根拠を持っている
かどうか確かめ得ないときに、一般の人に変わって客観的根拠まで突き詰めてくれる
存在といえるでしょう。
 
 
IV H.I君の考え方に関して
 
1. なぜ証明を省略できるかについて
 
 H.I君は、階層1を主張とすると、階層1-1,1-2-1, 1-2-2-1,と深めていくと、蓋
然性が増していき、例えば1-2-2-1でもう証明の省略をしてかまわない状態になると
いいます。つまり、H.I君は主張と、最下層の階層の裏付けの階層の「差」
がある程度あれば、証明を省略して良い、という相対的な考え方をしているわけです。
 
 しかし、IIで述べたとおり、「証明を省略」するレベルはある程度絶対的に定まる
ものですから、最初から主張が1-2-2-2「解析コードは信頼できる」の階層である場
合、普通の人は、知識的な制約よって、「証明を省略」してしまいます。とすると、
この主張はやはり、裏付けなしに成立する主張になるのではないでしょうか。結局こ
の議論は、個人が「証明を省略」するレベルに依存します。
 
2. 根拠を示した専門家の意見と、根拠を示さない専門家の意見が同じ扱いを受ける
 
 上で述べたように、専門家の意見による証明の省略は、「証明は不要」とみなして
いるレベル以下でのみ行われるものです。証明が不要なわけですから、根拠を示そう
が示すまいが同じ扱いになります。「解析コードは正しい」を証明省略で受け入れて
いる人に対して、「解析コードの内容は・・・」と説明する意味はないでしょう。
 
3. 非専門家が、専門的な分野できちんとした根拠を示すことは困難で、証明ができ
なくなる
 
 H.I君の「証明を省略」する階層が1-2-2-1の階層であるとして、主張のレベルが1
-1である場合、1-2-2-1にいたるまでの裏付けは必要とされます。専門家であろうと
なかろうとです。専門家でも、1-2-2-1の階層にたどり着くことができなければ証明
は成立しませんし、非専門家でも1-2-2-1の階層にたどり着くことができれば証明は
成立します。
 「証明を省略」するレベルを異常にマニアックに低い階層に設定していない限り、
非専門家であろうと証明は可能です。
 
 
4. 証明の省略には、権威性は不要
 
 権威性という言葉の定義は、「専門家は、専門分野については精通していて、きち
んとした客観的根拠に基づき物事を判断しているはず」という信頼です。信頼されて
いるから権威があるわけです。
 
 普通の人は知識的な制約によって、これ以上客観的根拠を追い求めることができな
いような階層の証明でも、無条件に「証明を省略」はしません。やっぱり、何かの客
観的根拠がないと信じられません。この、客観的根拠への道筋を埋めるのが「専門家
は、十分な専門的知識を持っていて、客観的根拠に基づき物事を判断しているはず」
である専門家の役割です。一般の人にはできません。
 
 立花氏が良い例ですが、立花氏は医師からよく話を聞き、医師の知見をベースにし
て主張を行っています。例えば、PET(ラジオアイソトープを使った血流検査の機器)
が実在する、また、有効である、というところは専門家である医師の説明を鵜呑みに
し、「証明を省略」しています。(本の中でも「ある病院に設置されていて、有効に
運用されている」という記述しかない)
 
 本来なら、PETの構造や原理、(オートラジオグラフィやイメージプレートの原理
、放射線の原理、放射性同位体の特性など)を証明する必要があるはずなのに、「病
院が使っている」と省略しているわけです。ここで、「H.I君がPETは有効だといっ
ている」といっても、だれも信じません。こういうことを考えると、証明の省略を行
うときには、専門家の意見が必要だと考えるのが妥当でしょう。
 

Date: Tue, 7 Jan 97 12:23:31 JST
Subject: [JDA :2213] Re: Evidence6
 
 
H.Iです。
なんと年越しの論争になってしまいました。S.Y君の[JDA:2191]について。
 
 今回のS.Y君のメールでは、論点が少し不明確になってきたように思いま
す。もっとも、これはS.Y君のせいばかりではなく、私が[JDA:2173]において
述べたことが必ずしも論点を的確に捉えてないことも原因のひとつと思われま
す。このメールでは、ずれてきた論点を修正しつつ、S.Y君の指摘に答えてい
きたいと思います。
 
【要約】
1.「権威による証明」はあくまで認められない。ここにおける論点は「証明
の省略」がいかなる範囲で行えるかである。
2.「証明の省略」は少なければ少ないほど、その主張が正しいものとして取
扱うべきである。また根拠(裏付け)が全く示されず証明が完全に省略されて
いる場合は、証明が成立しないものとして取扱うべきである。
3.S.Y君は考え方を変更しており、彼の新しい考え方では「一般人が証明が
必要とみなすレベル」においては、主張のみで根拠のない専門家の発言を引用
することによって証明を行うことは認められないこととなる。この点は私と意
見が一致する。
4.証明が省略できるレベルは主張との関係で相対的に決まる。また、専門性
と証明の省略は基本的には関係がない。
 
 
【本論】
1.「権威による証明」か「証明の省略」か
 そもそもこの論争は、主張のみで根拠のない専門家の発言(いわゆる一行エ
ビ)を引用することによって証明を行うことが可能か、すなわち「権威による
証明」を認めるべきかをめぐって始まりました。
 
 この点について私は、議論の妥当性はあくまでその内容で判断すべきであ
り、「権威による証明」は認めるべきではない、たしかに一定の場合に「証明
の省略」が認められる場合があるが、だからといって根拠がなくてもよいとは
いえないと考えています。([JDA:2163]参照。)
 
 Y.Kさんの[JDA:2170]に述べられているように、両者は全くことなるもので
す。「権威による証明」は専門家のいうことだから正しいと考え、根拠がなく
ても証明が成立することを認めることであり、「証明の省略」は、既に別のと
ころで証明されている部分については、その説明を省略して証明を行うことを
認めることです。
 実際上「権威による証明」では、専門家が専門分野についていうことであれ
ば無条件で妥当であると考えるのに対し、「証明の省略」ではおのずから適用
範囲も限定されてくるでしょう。
 
 この点におけるS.Y君の考えはどうなのでしょうか。
 [JDA:2164]までは、S.Y君は「権威による証明」が成立することを主張して
いたものと思われます。
 しかし、[JDA:2191]では「権威による証明」という言葉を使わず、もっぱら
「証明の省略」について論じていることからみて、現在は、S.Y君は「権威に
よる証明」が成立するというのではなく、専門家の意見を引用することにより
「証明の省略」が正当化されることを主張しているものと思われます(もし
違ったらご指摘ください)。
 
 そうだとすると「権威による証明」(いわゆるAuthority Warrant)が成立
しないことについては意見の一致を見たわけであり(これは非常に重要な点で
あると思います。)、ここでの論点は、「証明の省略」がいかなる場面で認め
られるか、ということになってくると思います。
 
 
2.「証明の省略」についての私見
 「証明の省略」がいかなる場面で認められるかについて、私が[JDA:2173]で
述べたことは、必ずしも適切な説明ではなく、議論に無用の混乱を引き起こし
たようです。おわびするとともに、ここで改めて私見を説明させていただきま
す。
 
 私がいいたかったのは、要するにこういうことです。
 
「証明の省略が少なければ少ないほど、その主張が正しいものとして取扱うべ
きである。また根拠(裏付け)が全く示されず証明が完全に省略されている場
合は、証明が成立しないものとして取扱うべきである。」
 
 例をあげて説明しましょう。D1→D2→D3→Cという証明プロセスがある場
合、"D3→C"よりも"D2→D3→C"の方が、証明の省略が少ない分だけ正しいもの
と考えます。一方、D1からD3を全く示さずに単に"C"とのみ述べた場合は、根
拠が全く示されなかった場合と同様に、証明が成立しないものと考えます。
 
 どの程度の根拠が示されれば証明が成立するかは、証明プロセスについての
我々の関心の程度に左右されると思います。証明の省略された部分が公知の事
実であったり、主張の当否の判断を大きく左右する事項でないと我々が考えた
場合は、その部分の証明が省略されても証明が成立するとしてもよいでしょ
う。
 逆に主張の当否の判断を大きく左右する事項については、それがどのような
分野であれ証明の省略は許されないでしょう。
 
 そして、いかなる証明であれ、証明のプロセスを全て省略し根拠を全く示さ
なかった場合は、その主張の当否を判断することができないため、証明は成立
しないと考えます。
 
 
3.「証明の省略」についてのS.Y君の考え方
  [JDA:2164]では、S.Y君は根拠自体の省略も認められるとし、例えば「原
子力発電所は安全である」という専門家の発言によっても「最低限の証明」は
成立するものと述べていました(もっともこのときは、S.Y君は「証明の省
略」を主張していたのではなく「権威による証明」が成立することを主張して
いたものと思われます。)。
 
 これについて私は次のように反論しました。
[JDA:2173]
>専門家A:「原子力発電所は、阪神大震災級の地震に耐えられない。」
>専門家B:「原子力発電所は、阪神大震災級の地震には耐えられる。阪神大
>      震災は100ガルの加速度を発生させたが、原子力発電所は150ガ
>      ルの加速度に耐えられるように設計してあるからである。」
>
>S.Y君の考えによると、専門家Aの主張は主張レベルで「権威への信頼」に
>基づいており、専門家Bの主張は根拠のレベルで「権威への信頼」に基づい
>ており、両者の主張は「印象は異なるが本質的にはあまり違いがない」とい
>うことになるでしょう。しかしこれは、根拠のない専門家の意見より根拠の
>ある意見の方が優越するというS.Y君自身の立場に矛盾するのみならず、
>我々の一般的な感覚からしても不合理な結論といわざるを得ません。
 
 これに対して、S.Y君は専門知識への信頼による証明の省略は一般の人が知
識の不足により「証明は不要」とみなすレベル以下で行われるとし、次のよう
に根拠(裏付け)の省略の適用範囲を限定するようになりました。
[JDA:2191]
>H.I君の「証明を省略」する階層が1-2-2-1の階層であるとして、主張のレベ
>ルが1-1である場合、1-2-2-1にいたるまでの裏付けは必要とされます。専門
>家であろうとなかろうとです。専門家でも、1-2-2-1の階層にたどり着くこと
>ができなければ証明は成立しませんし、非専門家でも1-2-2-1の階層にたどり
>着くことができれば証明は成立します。
(引用者注:1-2-2-1とは、原子力発電所の建物が地震に耐えられることの根
拠(裏付け)である「地震は100ガルの加速度を発生させる」ことの証明)
 
 これによると、証明が省略できるのは「一般人が証明は不要とみなすレベ
ル」であり、上記の例についていえば「地震は100ガルの加速度を発生させ
る」というレベルだということになるでしょう。
 
 
4.S.Y君との意見の一致点
 このS.Y君の新しい考え方は、私の考え方との差がだいぶ縮まってきたと思
います。S.Y君の新しい考え方では「一般人が証明は必要とみなすレベル」で
は証明が省略できませんから、例えば「原子力発電所は、阪神大震災級の地震
に耐えられない。」という専門家Aの発言は根拠がなく、その引用による証明
は成立しないものとなると思います。
 
 とすると、S.Y君の考え方によっても、主張のみで根拠のない専門家の発言
(いわゆる一行エビ)を引用することによって証明を行うことは、ほとんどの
場合認められないことになりますから、この論争は、ほとんどの部分において
実質的には決着がついたと考えてよいでしょう。
 
 意見が一致したと思われる点をあげておきます。
(1) 「権威による証明」は認められない。ただし一定の場合において証明の省
略を行うことは認めてよい。
(2) 「一般人が証明が必要とみなすレベル」においては、主張のみで根拠のな
い専門家の発言(いわゆる一行エビ)を引用することによって証明を行うこと
は認められない。(この結果、ほとんどの一行エビによっては証明が成立しな
くなる。)
 
 
5.証明が省略できるレベルの設定
 次にS.Y君との意見の相違点について説明します。「証明が省略できるレベ
ル」については、S.Y君は一般人の知識が及ばないレベルであり、そのレベル
はある程度絶対的に設定できると考えているのに対して、私は「証明が省略で
きるレベル」は、主張との関係で相対的に決まると考えている点です。
 
 例えば「建物が地震に耐えられる。(a)」という主張については、S.Y君も
私も「地震は100ガルの加速度を発生されるが、建物は150ガルの加速度に耐え
られる。」という根拠を要求します。
 しかし「地震が100ガルの加速度を発生させる。(b)」という主張について
は、S.Y君はそれが専門家の発言であれば根拠がなくても証明が成立するとす
るのに対し(ただし一般人の知識の及ばないレベルであることが前提)、私は
その根拠(e.g.阪神大震災では100ガルの加速度を発生させた)がなければ主
張が成立しないと考えます。
 
 S.Y君は、(a)の主張において「地震が100ガルの加速度を発生させる。」と
いう以上の根拠を求めず、(b)の主張においてそれを求めるのは一貫しないと
批判しますが、私はそうは思いません。争点が異なれば、我々が関心を示す部
分も異なるわけですから、議論の焦点が(a)の主張から(b)の主張に移ったとき
に、より詳しい根拠を要求するのはむしろ当然のことでしょう。
 
 
6.証明の省略と専門家
 S.Y君は、「専門家のみが一般人の理解できないレベルの根拠を理解できる
のだから、証明を省略するためには、専門家の意見を引用することが必要」と
述べています。
 
 私は必ずしもそうは思いません。一般人が理解できかつ証明できることで
あっても、主張の当否の判断にはほとんど影響のないささいな部分や、論者の
間で既に了解されている部分についての証明を省略することはありうるし、そ
れを認めてもよいと思います。
 
 もっとも専門的な事柄については、正しく「証明を省略」するためには、既
にそのことが別のところで証明されていることが必要ですから、専門家又はそ
の分野に精通した人の意見を引用することが必要であり、その分野に無知な人
の意見を引用したのでは「証明を省略」したことにはならないでしょう。その
限りにおいて、S.Y君のいうことも正しいと思います。
 
H.I
 

Date: Wed, 8 Jan 97 23:41:23 JST
Subject: [JDA :2223] Re: Evidence (very long)
 
再びH.I、S.Y両君の応酬が見られ、H.I君の[JDA: 2213]により、大体の決着は付
いたように思われますが、根本的な点で、指摘するべきことがありコメントします。
 
H.I君が[JDA: 2213]で指摘するように、S.Y君の主張は当初のものから変わり、権
威性に基づく推論の妥当性の主張は撤回され、単に我々の日常での専門家の意見への
依存という事実から来る直観を強調するだけとなりました。そうして、証明の省略に
関する細かい対立が残ったようですが、両君の主張は実はどちらもある意味では正し
いと言えます。しかし、このことを説明するためにも、ある根本的な混同を指摘しな
ければなりません。
 
その混同は、「証明の省略」という言葉を用いた私にも責任があることですが、論理
的な問題である証明の問題と、認識論的な問題である真理性の信念の賦与の問題との
混同です。
 
何を真と認めるかという信念体系の問題として考えると、証明の省略は、我々の知識
又は専門家集団の知識に基づいてなされることが分かります。そして、現実の議論で
ある命題が真であることの証明の省略が為されるかどうかは、行為の文脈に依存する
、つまり、その命題の議論全体での位置と、その議論を行うときに前提にされること
に依存します。
 
 
I.証明と事実認識との区別
 
この論争の初期に問題になっていたのは、いわゆるwarrant−これは我々の日常の論
証的行為に於いてのいわば定理のようなものですが−として、権威性による推論が許
容されるかということですが、これは確かに証明に直接関する問題です。
 
つまり、ある前提から結論が導き出される道筋が正しいかどうかという問題です。(
注1)
 
 
それに対して、最近問題にされているのは、権威性に基づき証明の省略を認めるか、
論証の文脈の中での命題の相対的位置に基づいて証明の省略を認めるかということで
すが、これは実は証明についての問題ではありません。
 
ある命題の証明が省略され得るのは、それが既に証明されているか、若しくは証明に
ついての又は一般的な前提であるか、どちらかの場合です。
証明についての、論理的な問題としては、これ以外の答えはないでしょう。
 
しかし、それとは別の次元の問題として、既に証明されているということをどのよう
に認めるか、ということは依然として問題となり得るし、一般的な前提としていいか
どうかも問題となり得ます。
 
つまり、どういう命題を真なる前提として認め、どういう命題をそれに対する正当化
が必要なものとして見なすか、という問題はあり、これは、真であるという信念をど
の程度どの命題に与えるかという「認識に関する問題」です(知識の正当化の問題で
もある)。
証明の省略の場合で問題になることは、こちらの方です。
 
この区別がこの論争では非常に曖昧にされています。特に、ここ二、三回の応酬では
、混同が顕著で、それがいくつかのずれにつながっていたように思います。
 
 
II. 信念体系と正当化
 
上記のように、「証明の省略」は、何を真だと認めるかという問題に帰着します(証
明が既に為されたかどうかということも、「〜という証明が存在する。」という事実
命題の真偽に還元されますから、どの命題を真とするかと言う問題に帰着します。)
 
それでは、どういう命題を真であると認めるかということは、どうやって決められる
でしょうか。
 
クワインがいみじくも指摘したように、我々は、これについて、一定の信念の全体論
的体系(相互の関係によってのみ、真であるという信念の度合いが決まるような体系
)を持っています。そして、個々の命題についての信念は、命題間の相互関係によっ
て規定される以上、変更が可能であり、絶対的に真であるような命題はありません。
(注2)
 
その体系によって我々は、様々な命題について真と見なすかどうか決めますが、我々
全てが同じような信念の体系を持っている訳ではありません。
 
基本的な信念の体系というものはあるでしょうが、専門家集団など、一定の集団だけ
が持っているような、より細かい体系もあります。
 
我々は基本的な体系では真かどうか十分規定されていない命題について、専門家集団
などの、我々の共同体の部分共同体の信念体系を借りてくることがあります。
専門的なことについて、それが専門家の間で真と認められていれば、それを我々はや
はり真と認める訳です。
 
この点で、確かに、S.Y君の言うように、真なる前提の認知(事実の認知)としての
「証明の省略」は、権威性、というよりもそれについての信念の賦与を我々がまかせ
ていいと思っている部分共同体への帰属、によることもあると言えるでしょう。
 
しかし、この場合でも、注意すべきは、真であるという信念は常に変更可能(「阻却
可能」(defeasible)であると専門用語では言いますが)だということです。つまり、
いつでもそれが本当に真であるかどうかを問うことは原則的に可能だということです。
H.I君が言うように(又私もこの論争の初期に於けるコメントで述べましたが)、議
論の文脈によって、ある命題の真偽を問うことが焦点になっているような場合には、
例え、専門家集団が真であると認めていても、阻却可能性故に、改めてそれを正当化
することが求められる訳です。
 
 
このように、「証明が省略された」(正当化を省略された)命題の真理性は、我々が
皆認めるようなこと(いわゆる周知の事実)については、我々の知識に基づいており
、それ以外では、当該の命題の真偽の判断をcompetentに行えると我々が認める部分
集団の判断に基づきます。
そして、それを実際に行うかどうかは、我々の言語行為の文脈(それぞれの議論の場
での当該の命題の相対的位置)により決定されます。我々の言語行為の文脈によって
は、いかなる命題もその真偽を改めて問われ、その正当化を要求されることがあり得
ます。
 
 
III. 証明(正当化)の省略の構図
 
証明(正当化)の省略を許すかどうかは、一つには、当該の命題の議論全体に占める
位置に依存します。個人の知識を越える命題でも、それを正当化することが焦点にな
っている場合には、やはり省略は許されないでしょう。
 
もう一つには、それは、どういうことを前提として認めるかという、その場の議論で
の枠組みによります。例えば、論理と観察による事実しか前提として認めない場合に
は、非常に細かいところまで正当化が要求されます。(それでも何らかの証明(正当
化)の省略はあります。)それに対して、我々の常識及び専門集団での常識を全て受
け入れる場合には、そういう常識についての専門家の理由を示さない証言もそのまま
正当な命題として認められるでしょう。
この枠組みの決定には、様々な要素が入ってくるでしょうが、議論に参加する個人の
知識もその一要素とはなり得るでしょう。
 
(但し、あくまで一要素であり、S.Y君の言うように、個人の知識により証明の省略
可能性が絶対的に決まるわけはない。そんな単純なものではない。
個人の知識が一意的に決定するのは、我々の知識に基づいて正当化を省略するのか、
我々の部分集団の知識に基づいて正当化を省略するのかということだけである。つま
り、個人の知識は、何に基づいて正当化を省略するかの境界を引くだけである。)
 
 
証明(正当化)の省略を許す(行う)かどうかは、このように、非常に実践的で、行
為文脈依存的な問題です。
 
 
(余談)
今回の論争を見て、S.Y君の「社会的立場」を考慮すると、彼の言う一般の人々の常
識というのは、霞ヶ関の常識又は役人にとって都合の良い国民像を反映しているので
はと思ってしまった。少しばかりtechnofacismの危険を感じた。(I'm just kidding.)
 
 
(注)
 
以下の注は、論理学、哲学のことはほとんど知らない方でそれらに関心のある方への
ものです。ある程度知っておられる方、及び関心のない方は無視して下さって結構です。
 
(注1)
論理学では、証明論と意味論という区別があります。
 
証明というのは、単純に言えば、ある明示された前件及び明示されていないが公認さ
れた前提の下で、許された推論規則の下で、ある後件が導出される道筋を示すことで
すが、ここで問題になっているのは、あくまで導出のされ方であり、道筋であって、
後件が真であるかどうかではありません。
A1,A2...An -> Bを証明する場合には、A1,...Anが全て真である場合に、Bが真である
ということが示されるだけで、実際Bが真かどうかは又別の話です。このような道筋
を扱うのが証明論です。
 
それに対して、ある命題が真であることを示すことは、上記の証明で出てくるそれぞ
れの命題に真偽の解釈を与えることです。
A -> B
を証明してAが真であると示せばBが真であることが示されます。
このような解釈の下での真ということを扱うのが意味論です。
 
前者のような場合での推論(A |− B と書く)と後者の場合での推論(A |= B 
と書く)とは区別されますが、前者を統語論的推論、後者を意味論的推論と言うこと
もあります。
 
(注2)
クワインの主張では、論理学の規則でさえも、そういう信念の一つに過ぎず、単にそ
れが非常に安定しているだけということになります。
これは、いかなる命題も絶対的に真であるということはなく(従って分析的真理/総
合的真理という区別はなく)、信念体系の全体的関係の中にあるのだという主張です。
 
クワインのこの全体論をそのまま受け入れるかどうかは別として、我々が色々な命題
についての、どれが真であるかについての信念を持っており、且つその信念の安定度
が様々であり、その安定度は、命題同士の相互関係によっているということは、認め
てよいでしょう。
 
例えば、「地球は存在する」といった命題を我々は真であると認め、これはかなり安
定しています。しかし、我々は何らかの幻想で地球があると錯覚していることを示す
様々な証拠や理論が現れれば、それは偽となりますが、その場合、我々の信念体系の
非常に大幅な変化が伴うでしょう。
それに対して、「北野宏明氏は独身者である。」という命題の場合は、真ですが、そ
れ程安定的ではなく、偶然彼が既に結婚していたのにそれが知られていなかっただけ
ということが判明したりしたら、それは偽となるでしょう(又、ある日彼が結婚した
ときに偽となります)。しかし、その場合も我々の信念の圧倒的大部分は変わりません。
 
 
Y.K
 

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