反論されなかった主張をどのように取り扱うべきか

 


Date: Sat, 4 Jan 97 02:35:12 JST
Subject: [JDA :2190] How to judge unrealistic arguments?

N.Mです。JDA-MLのみなさま、明けましておめでとうございます。

「まとめ」
仮にジャッジの主観にとって、非現実的なシナリオであっても
それをジャッジが排除するのではなく、ディベーターの
アーギュメンテーションに処理を委ねるべきではないか?
<中略>
私個人の考えでは
1) 相手のディベーターがそのようなシナリオを排除すれば良い。できないディベーターのほうがスキルに問題あり。

 非常識であろうと論理的につじつまがあう限りはジャッジは採用して良いと思います。むやみにジャッジが切ってしまっては相手となったディベーターの批判的に相手のアーギュメントを理解する能力が養われないので教育的に良くないと思うからです。
その非常識性はコメントで指摘すべき。←ある意味で勝利至上主義的でないジャッジングといえるでしょう。

2) 個々のジャッジが設定しているミニマムレベルの証明責任
  が満たされていない場合に限っては積極的に排除して良い。

「最後のまとめ」
 ジャッジの主観に頼るようなディベートをディベーターにさせるべきではない。それではディベートで養成されるべき1.批判精神、2.コミュニケーション技術(以心伝心に頼らない)が育たない。


Date: Sun, 5 Jan 97 19:53:02 JST
Subject: [JDA :2192] RE: How to judge unrealistic arg

Y.Sです。あけましておめでとうございます。
Summary
ジャッジの主観による特定の議論の排除は、ディベーターのアーギュメント作成意欲をそぎ、かつゲームとしてのディベートの公平性を損なう。

私は次の二つの観点からこのHPの意見に反対です。
1)アーギュメント作成という観点から
アーギュメント作成の価値については前にしつこく述べたことがあります。アーギュメントを必死で作っている人に取ってみれば、頑張って作って、しかもきちんと証明を行っているにもかかわらず、「そんなの非常識だね」というジャッジの勝手な主観によって切られてしまっては、ディベーターはどんなアーギュメントを作ればいいのか、わからなくなります。せっかくやる気があるディベーターの意欲をそぐようなことをジャッジが積極的にやってよいとは思いません。


2)ジャッジングの公平性
 「常識」というのは幻想で、「常識」というものは個々人によって違い、世界普遍の「常識」などというものはありません。そうなると、当然ジャッジによって「常識」が違い、また、同じジャッジでも、分野によって得手不得手があるでしょう。「今回はあのジャッジに当たったから勝てた」などというギャンブル性を「常識によるジャッジング」は助長してしまい、ゲーム・勝負としてのディベートの公平性を損ないます。もちろんこれは現在でもある程度は存在する問題ではありますが。

3)ではどうすれば?
 どうしても「非現実的」な議論を排除したいのであれば、「非現実的」だとか「常識」を定義する必要があるでしょう。「赤字国債を大量発行すると景気に悪影響を与える」というのは「非現実的」なのか、「経済が悪化すると国民はNationalisticになる」というのはどうか、「Nationalisticになると戦争が起きる」など、何をもって「非常識」なのか明確にすれば上記二つの問題点は解決されます。ここで挙げた例はいずれも歴史上起こったことなのですが、ではどのように証明すればよいのか、ガイドラインが必要になります。
あんまり現実的&教育的とも思えませんが。
Y.S


Date: Sat, 11 Jan 97 00:18:09 JST
Subject: [JDA :2238] Common sense: Scylla and Charybdis

[JDA :2190]でのN.M君の投稿からの一連のスレッドについてコメントします。
<中略>
II.主観性と恣意性
 常識・現実を盾にするジャッジの主観的介入に対する批判も、それに対する常識・現実の擁護も、双方ともこの問題の一方の側面しか見ていないと思われます。常識・現実に関するこれらの諸問題は、まさに、Scylla and Charybdis(前門の虎、後門の狼)のようなものです。

 確かに、N.M君、Y.S君やH.K氏が批判するように、常識に安住して議論の内容を見ようとせずに恣意的判断を下すジャッジは問題です。いや、彼らは問題外のジャッジでしょう。これに関してはこれ以上言うことはありません。

 かつて、私やH.K氏は、常識を絶対視して恣意的判断を下すジャッジ(Scylla)に絶望し、NAFAをつくりました。

 (ところで、ここで注意して欲しいが、問題は主観性ではなく、判断の恣意性だと強調したい。我々の判断は主観的でしか有り得ないが、その判断をいかに公共的・客観的規範に沿って行うか(恣意的に行わない)かが問題なのです。単なる言葉の問題と思う方もいるかもしれないが、この主観という言葉と恣意性とい
う言葉との混同が、Tabula Rasa ジャッジその他のディベートでのジャッジに関する様々な問題の一つの源となっていると私は思う。)

まあ、フランス革命級だか、明治維新(これは革命とは言えないが)級だか知りませんが、大きな変革が生じたことは確かです(例えるなら科学革命が最も似つかわしい)。しかし、どの革命にも負の部分があるように、ディベート革命にも負の遺産はありました。

 それは、恣意性と主観性とを取り違え、後者を極力排除しようとして、結局実は、客観的・公共的な規範・規準に即していないという点で恣意的な判断に陥っているという問題です。
このCharybdisは、アメリカでもタブラ・ラサ批判という形で批判されていますが、日本では、革命が一応の終了を見る、1985,6年くらいから既に現れていましt。当時私は「ディベート・フォーラム」に「リバッタル・タブラ・ラサの妖怪」という小文を載せ、それにいち早く警鐘を鳴らしました。しかし、私や他の方々による同様な懸念・批判にも関わらず、その負の遺産は、みるみる巨大化し、やがてディベート界全体に大きな陰を落とすようになりました。

T.S君が指摘しているようなことがまさにそれです。

>>主観排除を曲解した常識的センスの麻痺
 以下で説明するような広い意味での「常識」の抑圧により、客観的には意味を為さないとされるような議論が堂々とまかり通ったり、その逆が起こったりしています。これは、まさに、恣意的な規準による誤った判断に他なりません。
 この点をよく見るために、広い意味での「常識」について次に見てみます。

III.常識というヤヌス
先ず、私の考える、広い意味での常識という概念を規定します。
 私は、ここでは、常識という言葉を、我々の言語理解(コミュニケーション)の前提となっていることの相対を指して使います。我々の話が通じるのは、一定の常識を我々が共有しているからです。それがなければ、相互理解は不可能でしょう。
 この類の常識には、我々の言語に関する様々な(統語論的、意味論的、語用論的な)知識・ノウハウから、事実的な様々な知識(地球は存在する。etc.)が含まれると思われます。
これらは、相互に関連し合っており、全体として、我々の言語及び常識を構成していると思われます。
 しかし、言語以外のこれらの常識は、いずれも、絶対的ではありません。つまり、阻却可能な訳です。それなのに、それに囚われすぎるのは明らかに問題です。

 我々の相互理解の前提としての常識の側面とそれにも関わらずそれらが阻却可能であることとを両方とも認識しない限り、常識の全体は捉えられないでしょう。

 ディベート界をむしばんだ、二つの病は、このような常識の性質を捉え損なったところにあると言えましょう。あらゆる常識は、阻却可能であり、「核戦争は絶対起こらない。」と信じて、それに反する議論を誤りと決めつけるのは、常識の阻却可能性を理解していません。(Scylla)

 しかし、常識に反するような議論を行っている時にも、依然として前提とされている常識はあります。又、あらゆる議論に於いて、それが言語によって為されている以上、前提とされる言語使用を一人前に行う人の常識も又存在します。これらの常識の存在を無視して、まるでアーギュメントが為されていないことについては、何も正しいと前提できることがないようかのように振る舞い、意味がないとしか言い様のないアーギュメントを意味のあるように扱うことも、又、「常識」の理解の前提としての性格に気付いていない、誤った態度です。(Charybdis)

 ScyllaとCharybdisとを両方とも退治することが今後のディベート界の課題だと言えましょう。

 今のディベート界については、実地に見聞していないのでよくわかりませんが、私が得ている情報の限りで判断すると、ScyllaもCharybdisもそれなりに跋扈しているという最悪の事態に近いような印象も受けます。
Y.K


Date: Sat, 11 Jan 97 16:25:40 JST
Subject: [JDA :2248] RE:Critic of argumen  まとめ t

こんにちは、Y.Sです。
<中略>
 で、上の1、2を前提として、T.Sくんの問題提起に始まり、議論が続いているのが次の点です。というか、Y.Sが問題提起したのは「ジャッジが、アーギュメントを切る、切らないについては一貫性を持て」というレベルにとどまったので、「ではどのレベルで一貫性を持つか」すなわち、「ジャッジのアーギュメントに対する受容性はどこか」という話になるのは当然の帰結です。

これに関しては、2 schools of thoughtsがあります。

 1つは、T.Eさん、H.Kさん、そしてY.Sが徹底批判したような「ジャッジが神様となって、勝手に決めて良い」というもの。これに関しては「問題外」ということで決着が着いたようです。
もう1つは、これの対極で、

「リベラル、あるいは、非介入という名の、ジャッジの責任放棄です。」という形でK.SさんがJDA:2241で批判された、ドロップされたアーギュメントは100%起こるという考え方です。

 全てのジャッジの、アーギュメントに対する受容性は、この間のどこかに落ちつくはずですね。この点については、JDA:2238で、蟹池さんがまとめられていらっしゃいます。

 もともとのY.Sの問題提起というのは、「まず、勝手に切るのはやめてくれ」というのと、「どこで線を引くかについては、一貫性を持て」ということでした。そこまではいいとして、ではどこで線をひくか、というのが問題になります。

 ここでは意見が割れていて、Y.Sの現在の認識は、「勝手に切る、あるいはリスクの評価が恣意的なジャッジが多すぎる」ということだったので、「もっとジャッジはアーギュメントの受容性を寛容に行え」、T.Sくん、K.Sさん、「今のジャッジはルースに過ぎるので、もっと厳しくなれ」、蟹池さんは「両方ともばっこ(うう、変換されない・・・)している」というものです。

 Y.Sの考え方は、「何でも勝手に切るジャッジよりは、なんでもとるジャッジの方がはるかに良い」というスタンスです。それは、ディベーターに、新しいアーギュメントを出すインセンティブを与えるからです。詳しくは、JDA:2013-2014のY.Sの発言を見てください。

 「こんなのが、どうどうとまかり通ったら、質の良いエビデンスを探そうなんて気が失せてきますよね。」(JDA:2241)というK.Sさんのご批判もありますが、ジャッジの、アーギュメントに対する見方が厳しいと、そもそも「エビデンスの質」の問題以前に、アーギュメントをつくる気がなくなってしまいます。Y.Sが一番恐れているのがそれです。96年後期について言えば、そうなってしまっている、というのが私の認識です。この認識が間違っていればいいんですけどね。最も最近の時代をY.Sが憂慮しているため、K.Sさんがおっしゃる「過去の賛美」になってしまうのは、当然です。
<後略>Y.S


Date: Sun, 12 Jan 97 01:54:58 JST
Subject: [JDA :2252] RE:Evaluating Scenario Credibil

こんにちは、Y.Sです。四面楚歌ってやつですね(^^)。
<要旨>
ジャッジは、ドロップされた議論はとるべきだが、その上限は当然ジャッジが理解した範囲内にとどまるべき。

>ジャッジが、本当は理解できていないシナリオを、理解できた
>ふりをして、「Attackさ>れていないので」という理由で100%
>成立とみなす。このようなジャッジングスタンスは「理解」と
>「納得」は違います。私の論旨は、「たとえ納得がいかなくと
>も、理解できたアーギュメントは取れ」ということです。

>Y.Sさんのおっしゃることもよくわかるのです。実際に「シナ
>リオを理解できるかどうか」は、ジャッジの持っている先入観
>や「常識」観に大きく依存してきます。

「先入観」や「知識」は、アーギュメントの「納得度」には相当な影響を与えますが、アーギュメントの「理解度」には影響を与えにくいでしょう。
 逆に、タブラジャッジだからこそ、丁寧に(特にラストレバッタルでは)説明してくれないと、困ってしまいます。最初は自分には全く予備知識がないものとしてラウンドに望みますので。当然、説明の度合いに応じて理解度が高くなるので、アーギュメントがその分だけ強くなることになります。

>理解できなかったアーギュメントを切る勇気あるジャッジ」と
>「先入観を持って介入する悪いジャッジ」の差は、紙一重なの
>かもしれません。

その2者は全く違います。紙一重どころの差ではありません。

 私が批判しているのは、「理解はしたけれど納得していないアーギュメントを恣意的に切るジャッジ」です。ドロップした責任はドロップした側にあるように、ジャッジを理解させられなかった責任は、そのディベーターが負うべきです。

 逆に、ジャッジとしては、たとえそのアーギュメントに納得行かなくとも、「理解」しようと努める責任があります。その上で理解できなかったら、それは切るべきです。というか、理解できなかったアーギュメントを勝手に理解してしまうのもまずいです。それも「介入」ですからね。
<後略>
Y.S


Date: Sun, 12 Jan 97 22:59:50 JST
Subject: [JDA :2254] None

 一部のメールで、相手がドロップした場合、ジャッジはそれ以上の判断をせず、機械的に必ず100%採用する、というスタンスを容認する趣旨の発言が見受けられますので、主にこれに対してコメントします。

まとめ
 ジャッジは証明責任の原則にのっとり、主張に対する反論の有無に関わらず、提示された裏付け資料に基づき、その主張がどの程度証明されているかを適切に「判断」する必要がある。

1.証明責任
 アカデミック・ディベートにおいては、基本的に、ジャッジというのは主張を採用する際には、「納得する」、「確信を持つ」ことを要します。これは、証明責任という概念です。
ジャッジに自らの主張を納得させるため、主張は何らかの裏付けにより証明されることを要します(主観的証明責任)。
 そして、主張が証明されたか否かを判断するのはジャッジです。ジャッジが、口頭によって提示された主張及び裏付け資料では、主張が証明されたと確信を持てないときには、主張した側に不利益を与える判断、つまり、主張を認めない、という判断を行います。(客観的主張責任)

 ディベートにおいては、「S.Yは結婚している」などという、単純な事実関係に関する主張だけでなく、「日米安保が廃止された場合に、北朝鮮が日本に攻めてくる」などという、複雑な主張が争点になることもあるので、0か1かという判断でなく、どの程度証明が成立するか、という確率論的評価を行う必要がありますが、証明責任の原則は変わりません。

2.証明責任と、「反論の有無」の関係
(1) さて、この証明責任の原則は、「相手が反論の有無」とどのような関係があるのでしょうか。民事訴訟など、「当事者間の紛争を解決する」ことのみを目的としているような議論においては、逐次的にも、弁論の弁趣旨を通じても、反論していないことが認められれば、その主張に証明責任は課されません。(弁論主義)一方、刑事訴訟のように、「事実を究明して、犯罪者を罰するか否かを判断する」などの様な場合においては、相手が反論した、しないに関わらず証明責任は果たす必要があります。(疑わしきは被告人の利益に)

(2)アカデミック・ディベートにおいては、反論されなかった主張に対する証明責任はどのような扱いを受けるべきでしょうか。これは、ジャッジが自らの結論に関し、当事者以外の第三者に対して責任を持つ必要があるか否かによって決定されます。

「S.YがH.I君から500円借りている」か否かを争う場合は、ジャッジは、S.Y、H.I君という当事者以外にはなんら責任を負わず結論を出すことが出来ます。他の人にはなんの関係もない議論だからです。

 一方、ある会社の役員会で、海外進出の有無をめぐり、専務と常務の意見が対立し、社長が裁断しなければならない場合は、社長は、常務と専務のみならず、全社員に対して自分の決断に責任を持つ必要があります。つまり、狭い意味での当事者である専務と常務のみならず、社員全員という第三者にたいしても説得力のある結論を下す必要があります。

 刑事訴訟も同様で、検察官は国民の代表であり、裁判官は判決を下す際には、検察官と被告人という狭い意味での当事者のみならず、一般不特定多数の国民を納得させるに足る判決を書く必要があります。

 このように、当事者以外の第三者をも納得させるに足る結論を得るためには、提示された主張が裏付け資料によって十分に証明されているか、主張に対して確信が得られるかを自らの経験則に照らし、慎重に判断することが求められます。
 従って、刑事訴訟においては、相手が反論しなくても証明責任は課されたままですし、例であげた役員会の議論においても、証明責任は課されたままです。

このように、実社会における議論の多くは、反論の有無に関わらず、全ての主張には証明責任が課されています。

(3)ディベートではいかにあるべきか
 ディベートは、当事者であるディベーターが納得すればそれでいいとも言えます。しかし、これはあまりにも視野の狭い議論です。
 実社会で為されるdecision making processにおいては、ジャッジは会社の上司等、当事者以外の第三者に対する責任を有する場合がほとんどです。ということは、実社会においては反論があろうが無かろうが、全ての主張に証明責任が課されている状態での議論がほとんどです。
 ディベートの目的である、「実社会における議論の練習」という目的に照らしてみると、「反論しなかったから採る」という態度では、実社会を十分シュミレートできておらず、ディベーターにとって、「第三者をも説得する」議論の練習になりません。また、ジャッジにとっても、「第三者をも説得する」ディシジョンを書く練習を行えないことになります。
 以上により、ディベートにおいては、反論の有無を問わず、主張には全て証明責任を課す、という態度が望ましいことがわかります。

3.ジャッジの役割
 証明責任が課されている主張に関して、証明が成立しているか否かを自らの経験則等に照らし、判断するのはジャッジの職務です。(自由心証主義) ディベーターは、証明責任が課されている状況では、反論の有無に関わらず、自らの主張を行うことはできても、その主張にジャッジを従わせることはできません。

4.相手が反論しなかった場合のジャッジの態度
 以上述べてきたように、相手が反論した、しない、という事実は、ジャッジが主張を採用の判断プロセスにはほとんど影響しないことがわかります。ジャッジは、「全ての主張」に対して証明責任を課し、提示された主張が、裏付け資料によってどの程度証明されているか、どの程度確信を持てるかを自らの経験則や、知識に基づき判断することになります。

5. 「証明」とは何か
 では次に、「証明された」とはどの様な状態をいうのでしょう。最高裁の判例を引くまでもなく、証明とは、一般的な知識を有する大多数の人が合理的な疑問をもたない程度の蓋然性が示されることをいいます。無論、みんなが知っているような事実に関しては、証明が省略されることもあります。

 ディベートにおいては、その時間的、あるいは知識的な制約に鑑みて、厳しい蓋然性を要求するのは不合理です。そういう意味では、証明に対して厳しすぎるジャッジは問題があるでしょう。しかし、だからといって、「証明なんて不要」という態度では、ディベーターが実社会で相手や第三者を説得する技術が身に付きません。

 基本的には、「合理的な疑問」を持つ程度を比較的ゆるくし、(この基準を一貫させるのは当然)主張に対してある程度の蓋然性があれば、確率的に多少は成立する、という態度をとり、反面、とうてい一般人の第三者を説得できないような、どうしようもない裏付けしか為されていないときは、相手が反論していようがいまいが自らの判断で「証明されていない」として主張を退ける態度のが大切になります。

 例として、「S.Yがリンゴを食べたら核戦争が起こる」という主張がなされ、その裏付けとして「今年のリンゴはできがよい」という証拠が出移出されて、相手側が反論しなかった場合を考えてみます。
 ジャッジは、「今年のリンゴはできがよい」が、「リンゴを食べたら核戦争が起こる」を裏付けることが出来るかを判断し、それが不可能であることを判断し、この主張を退けることになります。

6. 明確に説明できない基準であっても使用することはできる。
 ここで、どんな基準で判断するのかが不明だから判断するな、との反論は空虚な反論です。なるほど、そのような基準を包括的かつ具体的に明確に説明するのは不可能でしょう。ですが、明確に説明できないから使用不能かというとそんなことはなく、裁判官や会社の上司の例を引くまでもなく、人間というのは、何らかの主張に関して裏付け資料を提示され、その裏付け資料によってその主張が成立するか否かをきちんと合理的に判断する能力を、訓練によって得ることができます。そもそも、そのような判断の出来ない人は、実社会では通用しません。

 判断能力がない人間は、判断できる訓練を積むべきであって、判断できないからと言って、「ドロップしたから採る」と、判断を回避していたらいつまで立っても合理的な判断の出来る人間にはなりません。

以上まとめますと、

 ジャッジは、「growthは採らない」とか、「相手が反論しなかったから採る」といった「判断を回避」する、安易な姿勢ではなく、困難ではあっても、提示された裏付け資料に真摯に向き合い、どの程度証明が成立しているかを自らの経験則や知識に基づき合理的に判断するという姿勢をとる必要があるのです。それが、ディベーター、ジャッジ共に実社会で議論する際に役に立つ能力を醸成するために必要なことなのです。
S.Y


Date: Sun, 12 Jan 97 23:46:25 JST
Subject: [JDA :2256] RE:RE:Critic of argumen

みなさん、こんにちは。
>Y.Sの考え方は、「何でも勝手に切るジャッジよりは、なんで
>もとるジャッジの方がはるかに良い」というスタンスです。

 あのね、これ、「ジャッジは、相手からの反論がなかったら、ディベーターの”クレイム”どおりになんでもとれ、そのほうがいい」って言ってるんですか?
 一連のY.S君の話の流れですと、そう読めるんですけど。ジャッジは、相手から反論が無くても、ディベーターの主張するクレイムの確からしさを、それを支持するエビデンス、何らかの理由づけに基づいて評価するんですよ。こういうのを「勝手に切る」っていってる訳ですか、ホントに?ジャッジが自分自身でクレイムの確からしさを評価しないっていうことは、結局、ドロップされたアーギュメントは、その理由付けの強さは議論になっていないんだから考えずに、クレイムをそのまま100%正しいものとしてとれ、ってことじゃないですか。
<中略>
>以下はJDA:2241、K.Sさんへ
>ちょっと本筋から離れますが、現役時代によくあったのが、
>First Lineでちょっと薄目に出して置いたDAを2ACがドロ
>ップしたため、本来ならば2コンで山のようにカードを読む予
>定だったDAが1NCよりあまり深まらず、ジャッジにクリテ
>ィックアウトされた、ということです。ドロップした責任は、
>ドロップした側にあるはずですが。ジャッジにあるわけではあ
>りません。

 だって、書いてあるとおり、2コンしようとして「ちょっと薄めに出しておいた」DAなんでしょ。2ACがドロップしても、もともと自分たちのせいで薄めなDAなんだから、もっと2NCで「山のように」カード読む必要あるに決まってるじゃないですか。もともと薄いDAをそれ以降の説明がないので「1NCの薄さのまま」評価したジャッジに責任なんかある分けないでしょう。

 ジャッジは「素直に」否定側が証明したとおりに取っているだけなんだから。これで、自分たちの「薄い」シナリオが相手がドロップしたせいで伸ばせないとか、それなのにジャッジが「リスク小さいね」ってとったとかいってるディベーターは、自分が悪いのに気づいてないんですかね。こんなディベーターがいないことを願います。

今回私が、書いたことが、すべて私の、Y.S君の文章の
解釈ミスであることを願って。


Date: Mon, 13 Jan 97 01:10:08 JST
Subject: [JDA :2259] RE:RE:RE:Critic of argumen

K.Sさん、こんにちは、Y.Sです。
色々な方から意見が出ていますが、かなり補足が必要な状況に成ってきたようですね。

 私の議論の前提は、当然アーギュメントがPrima Facie Burdenを満たしている場合ですよ。そうなると、かなりすっきりすると思うんですが。

>あのね、これ、「ジャッジは、相手からの反論がなかったら、
>ディベーターの”クレイム”どおりになんでもとれ、そのほう>がいい」って言ってるんですか?

「 何でもとる」のが最高だとは言っていませんが(^^;)。そんなことを言ったら、"Vote for the Affirmative"というクレームが
ドロップされていたら、とらなくてはいけなくなってしまいます。

クレームどおりに何でもとったら、ジャッジはできませんよね???それこそ、Case Outweighs DA! というクレームはどうやって処理するのか、という話にすらなってしまいます。

 ArgumentがPrima Facie Burdenを満たしている場合に、それを自分の意見で勝手に「そんなの嘘だ」と言って切るジャッジよりは、「まあPrima Facie(一見明白)だから取ってあげよう」というジャッジの方が良くありませんか?というのが言いたかったわけですけど。

>ジャッジは、相手から反論が無くても、ディベーターの主張す>るクレイムの確からしさを、それを支持するエビデンス、何ら>かの理由づけに基づいて

 通常はエビデンスに基づいて、Prima Facie Burdenを満たしているかどうかを決めるわけですよね? それを満たしている(すなわち、ある程度の確からしさがある)にもかかわらず、切ったらまずいでしょう。
<後略>
Y.S


Date: Mon, 13 Jan 97 12:15:45 JST
Subject: [JDA :2262] Scylla and Charybdis - a la Kaniike

Y.Tです。
>私の議論の前提は、当然アーギュメントがPrima Facie Burden
>を満たしている場合ですよ。そうなると、かなりすっきりする
>と思うんですが。

Your heart is in the right place, but your formulation is prone to abuse.

「Prima Facie Burdenを満たしているか」としてしまえば「Prima Facie とは何か」というところへ議論が戻ってしまうでしょう。85年以前の大勢のジャッジはまさにPrima Facie Burdenという名目で恣意的な介入を正当化してきたのです。

自己流に議論を排除する態度(Scylla)と、無批判にナンセンスを受け入れる態度(Charybdis)とは 行動の現われとしては両極端でありながら、その恣意性は全くの同根です。恣意性を排除するということは、ディベートにおける意思決定の本質に迫る課題だと思います。現実とは何か、事実とは何か、そうした判断が依拠すべき「常識」とは何か、ジャッジは考え、結論を出す必要があります。

Y.S君の意見が「誤解」されたとすれば、「常識だの、現実的だのということは誰にもわからないことだ(だから何でも受け入れるべきだ)」という不可知論的な部分に恣意性が残っており、無批判な態度と映ったからではないですか。
Y.T


Date: Tue, 14 Jan 97 01:28:33 JST
Subject: [JDA :2265] RE: None

こんにちは、Y.Sです。
>S.Y君へ
あげあしとりがしたいわけではないので、主旨と違っていたら、言ってください。議論はかなり収斂したと思いますので、確認がしたいだけです。

>ると、「反論しなかったから採る」という態度では、実社会を
>十分シュミレートできておらず、ディベーターにとって、「第
>三者をも説得する」議論の練習になりません
>。また、ジャッジにとっても、「第三者をも説得する」ディシ
>ジョンを書く練習を行えないことになります。

「ドロップしても、このアーギュメントならジャッジが切ってくれるからいいや」というような認識をディベーターに持たせるようなジャッジングスタンスもまた問題があると思います。

現実社会においては、むしろ、反論があればその場で明らかにする必要があることもかなり多いでしょう。すなわち、ドロップしたら、同意したとみなす、というのはかなりあり得る話です。私は現在外資系のメーカーに勤務中ですが、例えば会議中に反論したかったのに、発言せず、後で言っても「あの場で言わなかったおまえが悪い。既に会議で決定してしまった」ということになることが度々あります。ですので、ドロップ=同意というのは、あながちありえない話ではありえません。

さらに、質の悪い議論が、なぜ質が悪いのかを説明するのも、「第三者をも説得する」「実社会で通用する議論」の技術に入るでしょう。だから、ドロップをしないようにするインセンティブがどこかで必要になるでしょう。

>以上述べてきたように、相手が反論した、しない、という事実
>は、ジャッジが主張を採用の判断プロセスにはほとんど影響し
>ないことがわかります。

ということは、「これはひどいアーギュメントだな」と思ったら、ディベーターがわざとドロップしても、ジャッジが切ってくれるからいい、ということですか?例えば、質の悪いカードを相手が読んでも、カードアタックする必要がないということですか? 敢えて貴重なスピーチタイムを使って反論しなくとも、ジャッジ
が切ってくれるわけですから。

それとも、Prima Facie Burdenが満たされたかどうかをジャッジが決定する際「のみ」においては、ディベーターの反論の有無は関係なく、一度Prima FacieBurdenが満たされ、アーギュメントを取る、と決めた後で、初めて反論が有効になる、ということですか? (それでも、やっぱりカードがひどい場合には、カードアタックの必要性がなくなりはしますが)
<後略>
Y.S


Date: Wed, 15 Jan 97 23:47:51 JST
Subject: [JDA :2272] Implication of a drop

 ジャッジに関する最近の一連のスレッドに関連して思ったのですが、アーギュメントがドロップされた場合にどうするかについて、もっと丁寧に考える必要があるでしょう。以下に、私が、ジャッジを活発にしていた頃から考えていたことを記します。

 あるアーギュメントがドロップされた場合、それを元々主張していた側のアーギュメントがそのままとられるべきである、或いはそれをジャッジが適切に評価すべきである、と言われていますが、私は、もっと細かい網の目でアーギュメントのドロップと
いうのを扱うべきだと思います。

 私は、アーギュメントがドロップされたという事実は、当該の論点についての片方の議論をディベートラウンドから消去することを即意味しないと思います。

 ドロップするというのは、そもそも、論点全体の放棄の宣言ではなく、ディベートの時間的過程の中での、直前の相手の議論に対する反論の放棄に過ぎない、という点を考慮すべきです。

 つまり、あるアーギュメントがドロップされたということは、その論点に関する議論がその時点までで終わったということしか、ジャッジが考慮する対象のアーギュメントがその論点に関しては、そこまでで出尽くしたということしか、本来意味しないと
いうことです。

 ですから、Y.S君の言葉を使って言えば、100%取られる(額面通り取られる)のは、ドロップされる直前の反対側の議論だけであり、それ以前のその側の議論が全て額面通り取られるべきではないし、又、その反対側の議論(ドロップした側の反論)が全て消去されるべきでもないと思います。

 例えば、NegがあるDAを出して、Affが反論としてa,b,c三つの議論を出したとします。そして、Negが、反論1,2,3をしたが、Affが次にそのDAをドロップしたとします。その場合には、元のDAの議論と議論1,2,3とAffの反論a,b,cが比較考量されるべきです。

 通常この場合、元のDAの議論がそのまま受け入れがちですが、それは誤りでしょう。

 もし、Affの反論a,b,cの中、bに対する反論が、1,2,3によっても有効に反駁されていないと一見して明白であれば、bは、依然として有効な反論として考慮されるべきであり、この論点がドロップされたからと言って、bは消去されるべきではないと思います。
Y.K


Date: Wed, 15 Jan 97 23:47:56 JST
Subject: [JDA :2273] Criticism of Non-interventionism once again

 ここ数日のメッセージを見ていると、Y.S君に代表される非介入主義(と一応呼びましょう)は、その実践的帰結だけを見ると、それ程問題はないことが顕かになったようです。

Y.S君が言うには、
>「何でもとる」のが最高だとは言っていませんが(^^;)。
>そんなことを言ったら、"Vote for the Affirmative"というクレー
>ムがドロップされていたら、とらなくてはいけなくなってしま>います。
>クレームどおりに何でもとったら、ジャッジはできませんよ
>ね???それこそ、Case Outweighs DA! というクレームはど
>うやって処理するのか、という話にすらなってしまいます。
>ArgumentがPrima Facie Burdenを満たしている場合に、それを>自分の意見で勝手に「そんなの嘘だ」と言って切るジャッジよ>りは、「まあPrima Facie(一見明白)だから取ってあげよう」>というジャッジの方が良くありませんか?
>というのが言いたかったわけですけど。

このような見方は、ほとんどK.S君、T.S君その他(私も含めて)の解釈主義(と一応呼びましょう)の見解と変わりありません。

ここでは、Y.S君は、無意識に、私が言うところの常識に依拠している訳です。どういうアーギュメントがprima facieに(一見明白に)妥当と言えるかという判断を下すことを可能にしているのが、(いわば論理的・言語的)常識と言えましょう。
又、Y.S君は、いわゆるタブラ・ラサの考えが維持不可能なことを上記で認めています。

 今回の一連のスレッドで非介入主義的立場を表明していらっしゃるY.S君やT.Eさんには、健全な常識があるようなので、実践上さほど問題はないかと思います。
 しかし、ジャッジの中には、そういう常識が欠如している人もいるようであり、Y.S君の立場の定式化が、Y.S君自身が上記で否定しているような立場(「何も考えずに何でもとる」charybdis)を正当化することになりかねないのが問題です。

Y.S君は、
>私の議論の前提は、当然アーギュメントがPrima Facie Burden

>満たしている場合ですよ。そうなると、かなりすっきりすると>思うんですが。

 と言います。Y.S君の立場は確かにこれですっきりするでしょうが、prima facieという概念を使って、タブララサ主義を修正して、維持可能な非介入主義とすることは、実はできません。

 そのことの一端は、[JDA: 2262]でY.T氏が示唆しています。
prima facie 等という概念を使う以上、既にそこで、非介入主義者は自らが禁じる介入をしていることになります。一体この介入と同様にprima facieという概念に基づく恣意的ジャッジの介入とはどう違うのか、この問いにY.S君が標榜する非介入主義は答える必要があるでしょう。

 もし、ここでY.S君が恣意性の有無を指摘するとすれば、結局、私やK.S氏、T.S君その他の主張と同じになり、非介入主義という原理そのものを掲げる必要がないということになるでしょう。

 prima facieの概念をより形式的に規定しようとすることも考えられるかもしれませんが、ディベートでのアーギュメントはそもそも論理学で言うような形式的なものではない以上、結局のところ、あるアーギュメントがprima facieに妥当かどうかは、ジャッジの解釈に依存するしかないことになります。

 非介入主義は、以下に説明するようにそもそも原理的に不可能な立場なのです。そして、それを修正することも又、問題を抱えています。今まで触れたことと複なりますが、ここ二、三日のML上の投稿を見て、書く必要があるかと思い、書くことにしました。

1. 非介入主義の不可能性
 タブラ・ラサ主義をプロトタイプとする非介入主義の最大の問題点は、i)アーギュメントというものを、通常の物のように考えて、そのようなアーギュメントをそのまま思考の中で操作することができる考えていること、です。

 こういう考え方が誤っていることは、もはや散々言われてきたことで、わざわざここで繰り返して言うこともないと思いますが、一応簡単に触れます。

 そもそもアーギュメントという何らかの実体があるわけではなく、物理的に存在するのは、ディベータの音声記号とそれに対応するジャッジの書いた文字記号だけです。
 我々がアーギュメントと言っているのは、ディベータの発する記号の、それを認知した人による解釈です。
 つまり、アーギュメントがそのようなものとして存在するためには、記号列が解釈される必要があるのであり、主観による解釈のないアーギュメントそのものなどという、物理的な物のような実体は、存在しない訳です。

 タブラ・ラサは、ジャッジの心にそれとは独立に存在する実体としてのアーギュメントが書き込まれると考える点で、そもそもの出発点で誤っています。

 このことは、多分、素朴な人以外は(つまり、多少ものを考えたり、先人の思考の跡を辿ったことのある人なら)、認めない人はいないでしょう。
 しかし、プラトンのイデアとか、ロックの観念とかいったように、概念を実体化するタイプの考え方が哲学史に於いても屡々見られてきたように、なかなかこの手の考え方は、消え去りにくいようで、「アーギュメントをそのままとる。」と言った言い方にその痕跡を見て取ることができます。

 自然科学に影響されて、科学が観察結果に基づくように、ディベートのジャッジもディベータの発話のみに基づくべきだというような考え方をとる非介入主義者もいるかもしれません。この考えも又誤っていることは上記の説明で既に示されていますが、敢えて説明すれば、i)自然科学での観察対象とディベータの発話とは異なり、後者は顕かにジャッジの解釈なしでは意味をなさない、ii)そもそも自然科学での観察すら、観察者の理論に依存している(同じ現象を見ても観察者の知識・理論・世界観によ
り、観察言明は異なる)、といったところでしょう。

それでもなおかつ、次のような反論をする人もいるかもしれません。

 ディベータが「A」と言ったなら、そのアーギュメントはAであり、それ以外何ものでもない。アーギュメントをそのままとるというのはそういうことである。

 しかし、この場合、Aはその他のアーギュメントB,C,...や証拠文X,Y,...とどういう関係にあるのか、結果として得られる結論は何かといったことは、ジャッジの主観による解釈なしには分かりません。この場合に最後に得られる結論は、Affは、こうい
ったし、Negはこういった、ということだけです。このような場合について、Y.S君も認めるように、タブラ・ラサでは、ディベートのジャッジはできません。

2. 非介入主義の修正の問題
 それでは、非介入主義に修正を施すとどうなるでしょうか。
多くの場合、少なくとも、言語理解が可能で、アーギュメントが妥当かどうかを最低限判断できる程度の介入を許すことで修正が図られるようです。

 というよりも、そういうことも自らの言う主観の介入に入ってしまうということを非介入主義者は気付いていないことが多いというのが実態でしょうか。

 しかし、それでお茶を濁すことはできないはずです。
 そもそも主観による解釈は、常に存在する訳であり、それを排除することは不可能である以上、どういう主観的解釈が問題であるのかということを明確に出来ない限り、「主観による解釈をしてはいけない。」等という「原則」を掲げてはならないでしょう。

 非介入主義者は、自らの立場を誤って表現しており、それによって自らの首を絞めているとしか言いようがありません。

 そして、そのような誤った表現から数々の誤解が生じ、K.S君が指摘するような問題的判断をするジャッジが生じているのです。つまり、本来はそれなしでは、議論の是非の判断ができないはずの一定の解釈まで「これは主観的解釈だから」と言って抑圧し(或いはそれをすることをさぼって)、結果として不合理で、過程としては恣意的な、判断を下すジャッジが生じているのです。

 そういう訳で、常識を十分に持った場合にうまく機能するからといって、いわゆる「非介入主義」を原則として認めるのは問題があります。

 恣意的な判断を行うジャッジへの批判は、前にも述べましたように、まさにその解釈の恣意性の批判として(論理的判断での客観的な規範からの逸脱の批判として)なされるべきことで、非介入主義の標榜によってなされるべきではありません。

(ところで、Y.S君は、要はどこで線を引くかの問題だと言っていましたが、その線は、命題的に規定されるようなものではなく、我々が、判断を行う場合のノウハウにより引かれているのです。)
Y.K


Date: Fri, 17 Jan 97 22:59:57 JST
Subject: [JDA :2278] Re:Evaluating Scenario Credibillity

H.Iです。
依然続いているジャッジに関する議論について、ひとこと意見を述べさせていただきます。最初に断っておきますが、私は、K.Sさん、S.Y君、T.K君と同じが、それに近い立場をとっています。

【要約】
1.これまでの議論では「ジャッジはどのアーギュメントを審査の対象とすべきか」という論点が本格的に議論されていなかった。
2.ドロップしたアーギュメントは100%とるというジャッジは「主観排除」型ジャッジというより、ディベーターの意見が対立した点のみ審査を行うという、「限定審査」型のジャッジとして理解すべきである。
3.時間に制約のあるディベートにおいては、限定審査主義のジャッジの下では、スプレッド戦略が横行するおそれが強い。
4.限定審査を基本としつつ、Prima Facieを満たす議論のみ採用するという立場は、審査を「限定」しておらず、自己矛盾を犯している。

【本論】
1.これまでの議論
 Y.Sさんの一連のメールを機に始まった当初の議論は、主に、ジャッジにおいて「恣意性」を排除するためには、ジャッジの「主観」を交えずにジャッジすることが必要か、という観点から論じられてきたように思います。

 そしてこの議論は、「ジャッジの主観を交えずに判断することは原理的に不可能であり、あえてそれを行おうとすると、理由のないアーギュメントを採択しなければならないなどの不合理な結果となる。」という結論にほぼ落ち着いたように思います。

2.ジャッジの審査範囲
 しかし、この問題については、もう一つの論点がいまだ本格的に論じられていないように思います。それは「ジャッジは、どの範囲のアーギュメントを審査の対象とすべきか」という論点です。

 一つには、ディベートを主に当事者間における「対話」として捉え、当事者の意見が対立してない点についてはジャッジは判断せず、当事者が対立した論点についてのみ判断すればよい、という考え方があります(これを「限定審査主義」ということとします。)。

 限定審査主義では、一方が主張し他方がドロップした議論については、一方の主張の通り採択することになるでしょう。このようなジャッジは、非論理的な判断であるとして批判されますが、限定審査主義のジャッジは、「非論理的」な判断を行っているというよりは、むしろその論点について「判断を控えている」のかもしれません。

 もう一つは、「第三者に対する説得力を競う」という観点からディベートを捉え、ジャッジは、全てのアーギュメントについて、説得力があるか審査するという考え方です(これを「全面審査主義」ということとします。)。私はこの立場を取っています。

 限定審査主義のジャッジからは、相手がドロップしたアーギュメントまでジャッジの判断で不成立とすることがあるのはおかしいのではないか、という批判があります。
 しかし、全面審査主義の立場からは、これは当然のことです。もともと30の説得力しかないアーギュメントは、たとえ相手がドロップしたとしても、それによって100の説得力を持つわけではありません。30の説得力しかないアーギュメントを相手がドロップした場合、ジャッジは、それを30の説得力を持つアーギュメントとして採用する、ただそれだけです。

 したがって、全面審査主義の立場からは、上記のアーギュメントを相手がドロップした場合と、「このアーギュメントは根拠が不明確であり、30しか説得力がありません。」と相手が指摘した場合とで、ディシジョンに何ら差はありません。

3.両者の差異
 これまでの議論は、それぞれ自分の観点から相手を批判していたために、今一つ話がかみ合っていなかったように思います。議論を明確にするために、両者の差異についてもう少し話を続けます。

 限定審査主義の人は「ラウンドへの介入」という言葉をよく使い、「介入を最小限にする」という考えを示すことがあります。

 しかし、全面審査主義においては、そもそも「介入」などという概念はありません。たとえて言えば、学生の答案を教授が採点するとき、教授は学生の答案に「介入」するとは誰も言わないでしょう。
 その意味において、限定審査主義の人が、全面審査主義に対して「ラウンドへの不当な介入」という批判をするのは、的を得た批判とはいえません。

 一方、限定審査主義のジャッジを「主観排除」型ジャッジとして理解するのは、必ずしも正確ではないかもしれません。
 限定審査主義のジャッジは、まさに審査対象を「限定」しているのであって、審査すべき点、すなわち両者の意見が対立している点については、自らの「主観」に基づき、両者のアーギュメントを比較してディシジョンを出すわけです。
 かつて、Y.Sさんのジャッジを拝見する機会がありましたが、争点についてのY.Sさんの判断は、両者の議論を入念に検討した上で下された妥当な判断であって、決して「何でもとる」などという乱暴なものではなかったことを覚えています。

 ジャッジのタイプとしては、限定審査主義も全面審査主義も、両方ともあり得ると思います。問題は、アカデミック・ディベートのジャッジとしては、どちらのタイプが望ましいか、ということになると思います。

4.限定審査主義の問題点
 にもかかわらず、私は限定審査主義はやはり問題があると思います。
 ディベートにおいては、時間の制約があることと、複数の論点についての議論が平行して進むという特徴があります。このような条件下で限定審査主義を採用すると、「議論の量で相手を凌駕して、相手のドロップを誘う」というスプレッド戦略の横行を許してしまうからです。

 限定審査主義では、相手のドロップした議論は、ジャッジはそのままとってくれますから、説得力のある議論を出して相手に正面から議論を挑むよりも、議論の量で相手を凌駕してドロップさせた方が、より簡単に勝てることになります。そして、たくさんの議論を出すためには、根拠はすべて省略することが効率的です。

 とすると、根拠のないアーギュメントを早口で大量に読み飛ばし、議論のクラッシュはなるべく避けるというのが、限定審査主義のジャッジに対する最も有効な戦略になります。このようなディベートは面白くもないし、教育的でもないことは、いうまでもないでしょう。

5.限定審査主義の修正
 このような弊害を避けるため、限定審査主義に修正を加える考え方があります。当事者の意見の対立のない(片方がドロップした)アーギュメントといえども、Prima Facie Burdenを満たしていない場合は採用しないというのも、その試みの一つでしょう。
 しかし、これはPrima Facie とは何かという問題にぶつかると同時に、限定審査主義の基本的な立場とも矛盾するように思えます。

 限定審査主義の立場からすれば、当事者の争いのないアーギュメントに対して「審査」すること自体が、「ラウンドへの介入」として不当と評価されるのですから、それが Prima Facieを満たしているかどうかの審査であったとして
も、やはり「不当な介入」であろうと思います。

 そうだとすると、Prima Facie Burdenという考え方を持ち出した時点で、限定審査主義の考え方は、自己崩壊をおこしているような気がします(すなわち、審査を「限定」していない。)。

6.結論
 おそらく時間の制約のない場面では、限定審査主義もうまく機能すると思います。民事訴訟は、当事者の意見の対立のない点については、裁判所は当事者の主張をそのまま採用するという、限定審査主義に近い審査を行っています。
しかし、裁判では反論の時間はたっぷりありますから、スプレッドなどという馬鹿なことをする人がいても、全く効果はないでしょう。

 しかし、時間の制約があり、多数の論点が並行して議論されるという特徴を持つディベートにおいて、議論の質を高め、よりクラッシュ(当事者の応酬が行われる点)を増やすためには、全面審査主義を採用することが必要であろうと、私は考えています。
H.I


 

一つ前のページ戻る


syasui@st.rim.or.jp
<!--#config timefmt="%Y年%m月%d日"-->最終更新<!--#echo var="LAST_MODIFIED"-->
URL:http://www.st.rim.or.jp/~syasui/jda