Date: Thu, 15 Aug 96 08:55:55 JST Subject: [JDA :1488] risky games [JDA1461,1462]で、UFO DEBATEというものがK.Iさんにより紹介されたときに、その 潜在的問題性を感じ([1477]でY.T氏がY.M氏の経験談に対して指摘した危険に通じる ものがある、ディベートに関して誤解をある種の誤解を与えかねない)、指摘しよう かと思いましたが、そのままになっていました。ところが、 > 先日、[JDA1461,1462]にUFO DEBATEと称する初心者用の >簡単なGAMEを紹介しておきました。 > ここで、その優位性についていささか宣伝しようと >思います。 さらにしつこくこのGAMEが宣伝されていたので、又、実際に中高校でのディベート指 導に関わる方々のsubscriptionが増えていることにも鑑み、このメッセージを書くこ とにしました。 それに当たってちょっと考えてみたら、このゲームはかなり問題があると思い至りま した。 その最大の問題は、このゲームが与える印象に於いては、ディベートの本質的な点が イメージされず、逆にディベートとは似て非なる、単なる言い争い・中傷合戦に近い ものの印象が与えられることにあります。まさに、K.Iさんが憂慮するような >>debateが自分の意見を押しつけるだけのgameだという印象 が与えられかねないということです。 * 意図されるべき印象 先ず、どのような状況がディベートというものの漠然とした構図としてディベートを 知らない人に思い抱かれるべきかについて確認しておきましょう。 ある命題化された争点に関して、論理的に話しが行われ(議論がなされ)、そこでの 話し(談話)から、合理的に一定の帰結が判断される。 このような状況が意図されているものであることには異論はないでしょう。 (ところで注意して頂きたいのは、次のことです。 * 争点が命題化されていることは重要です。 * 「論理的」は広義に、実践的推論(practical reasoning)に関わる範囲まで含めて 理解して下さい。 そして、この構図で忘れてはならないのは、最終的な合理的判断の重要性です。たと え、現実には第三者の判断者がいない場合でも、ディベートは、議論の帰結が合理的 に判断されることを前提としています。この判断の合理性が、ディベートの性格を規 定するものといっても過言ではないほどこれは重要な要素ですが、しばしば十分に考 慮されていません。 このような構図は、実は、合理的意思決定の手段としてのディベート及び合理的意思 決定・合理的言語行為の訓練としてのアカデミック・ディベートの本質的特徴を十分 反映するものです。 * UFO DEBATEの問題 UFO DEBATEでは、上記のようなディベートの構図が伝わらない危険があります。 それは、トピックの不適切性と判断者についての規定とのためです。 このトピックは、簡単そうで実は非常に難しいトピックです。つまり、これに関して 何らかの判断を下すのが、非常に困難なものです。 誰が最後の一人として宇宙船に乗るべきかは、原理的には決定不可能です。むしろ、 誰もがその権利を持つというのが、一般に妥当とされる結論でしょう。何らかの道徳 的規準を持ち出すにしても、それに対抗することは、十分可能でしょう(例えば、「 悪人正機」説といった類のものを持ち出して、救済の機会均等性を維持する)。 つまり、論理的な議論の帰結としては、上記の線を越えて結論を出すのは原理的に不 可能であるはずだということです。 そうなると、このゲームに勝とうとするには、専ら判断者に対する印象をよくするこ としかないでしょうから、本来ディベートでは周辺的な要素が中心的なものとなって しまいます。 このようなトピックは、本来アカデミック・ディベートには向いていないものなのです。 アカデミック・ディベートでは、論理的な議論の結果、一定の前提の構成によって、 ある程度帰結が定まってくるものでないと、トピックとしては不適切です。これは、 勿論、論理学的・数学的命題の多くのように、帰結が一定の命題を指している訳では ありません。しかし、ある程度の客観性の規準に基づいて、議論の帰結に至るまでの かなりの部分が、ある程度決定され得ないと困るということです。 このトピックは、「猫と犬のどちらがかわいいか」といったようなものと同様に、結 論を出す上で、判断者の嗜好・傾向が、何よりも大きな役割を演じることにならざる を得ないものです。 (決定不能と思われるような命題でも、勿論、「他者の心は存在するか」、「外界は 存在するか」といったように、議論する価値があり、ディベートの対象となり得るも のもありますが、このトピックは、それらとも違います。) そういう次第で、合理的判断が難しいこのゲームでは、合理的意思決定としてのディ ベートという過程というイメージが伝わり難いと思われます。 むしろ、逆に、各参加者が、自己の長所の強調と他人の短所の強調とに明け暮れる、 単なる言い争いという印象しか伝わらないのではないかと思われます。 上記の問題は、判断者についての未規定性でさらに増幅されます。宇宙人が合理的判 断を客観的に下すもの(理想化された理性的判断者)であるという規定がされる必要 があります。 この判断者についての問題は、ゲームの設定をはっきりさせることによって解消され 得るとは思います。 * Policy comparison analogy K.Iさんは、このゲームが、policy comparisonをある点で擬しているという点で、 それがディベートの紹介として有効だとしていますが、これは大きな誤りです。 いわゆるpolicy making paradigmは、あくまで、偶然的なものであり、それは、単に 現在のディベート命題を論じる上で、便利な道具に過ぎません。 合理的意思決定・論理的言語行為の訓練というディベートの本質とは、それは原理的 には独立したものです。 いくら、各選択肢のメリット・デメリットが比較されても、それだけではディベート とは言えません。それは、ディベートを特徴付けるというよりも、一定の種類の命題 についてのディベートでしばしば現れる内容に過ぎません。 付け加えると、このゲームの場合、メリット・デメリットの尺度自体が、政策ディベ ートの場合のような公共的な善ではなく、訳の分からないもの(想定された宇宙人の 利益?)であるので、policy comparisonのanalogueとしても問題はありますが。 * アカデミック・ディベートの目標 さて、上記で前提していたアカデミック・ディベートの意義について簡単に記してお きます。 ディベートの(教育的)意義は、端的に言って、合理的言語行為の為の諸規範・実践 の教育、とりわけ、合理的意思決定を行う為の言語活動の諸規範・実践、にあると思 われます。 簡単に言えば、筋道を立てて、正しく議論すること、及び、他人の議論から合理的な 妥当な判断を下すこと、を実践を通して学んでもらうことです。(後者は一般に忘れ られがちですが) コミュニケーション能力その他は、その為に必要な要素に過ぎず、上記の実践を通し て結果的に得られることに過ぎません。それは、副産物であり、目的ではないのです。 (それでは、上記の二つのことはなぜ重要か、という話しになるでしょうが、根本的 にはそれは、社会的正義の実現の前提になるからです。つまり、合理的な言語活動に 基づく、合理的な意思決定というのが、少なくとも民主主義社会では、正義(justice )の前提となると思われます。この辺りの話は、ここでは詳しく書けませんが、直観 的には理解して頂けるかと思います。) そういう訳で、K.Iさんの話では、そもそもディベートの本質的側面を、その副産物 としての効果の一つ(communication 能力の向上)−もしくは、それにとって必要な 要素の一つ−だけで説明しようとするところに問題があります。 どうも、日本では、ディベートが、コミュニケーション能力の育成の手段として、そ の周辺的な側面でのみ捉えられることが多いようで困ったものです。まあ、合理的意 思決定の為の言語行為の訓練というのは、日本の伝統的意思決定構造・権力構造にと っては、余り都合がよくのかもしれませんが。又、ディベートが埋め込まれている文 化的諸規範は、日本の文化的伝統ともそりがあわないのかもしれません。 ディベートが、英語の授業の一環として扱われること自体にある意味では問題がある と思われます。国語教育の一環となるのが正しい姿でしょう。 (とは言え、現実に英語教員の方でディベートを教えざるを得ない方に於かれまして は、上記のようなディベートの本質的側面を忘れないで頂きたいと願いますが。) ディベート教育は、現在の体制の下では、論理学教育の一環となり得る実践的推論の 訓練の手段として捉えられるのが、最も適当だと思われます。 * alternative game 最後に、初心者への導入としてのゲームについてちょっと考えてみました。 最初に、前提となる命題を書いたカードを配って、それらのカードを基に、一定の結 論を正当化させるというのはどうでしょうか。前提には、一見相反すると見えるもの も含めておきます。 その場合、ディベートの命題は、未来についての予測に関するものなどが最初はよろ しいかと思います。 例えば、身近なもので、サッカーや野球についての予測を命題として、データや理論 を前提とするなど。 或いは、もっと一般的な時事問題をトピックとしてもよいでしょう。 こうすると、かなり、判定及びその合理的説明が簡単になり、ディベートのイメージ を伝えやすいと思われます。 さらに、ここから進んで、普通のアカデミック・ディベートで扱うような命題を使っ たりすればよいでしょう。 又、前提を書いたカードを配ることから進んで、いわゆる証拠資料を書いたカードを 配る、という風に変えていけばよいでしょう。 Y.K
Date: Mon, 19 Aug 96 14:27:55 JST Subject: [JDA :1494] Re: risky games T.Oです。 >> Regarding [JDA :1488] adds: か> * 意図されるべき印象 か> 先ず、どのような状況がディベートというものの漠然とした構図としてディベー か> トを知らない人に思い抱かれるべきかについて確認しておきましょう。 か> ある命題化された争点に関して、論理的に話しが行われ(議論がなされ)、そ か> こでの話し(談話)から、合理的に一定の帰結が判断される。 か> このような状況が意図されているものであることには異論はないでしょう。 か> (ところで注意して頂きたいのは、次のことです。* 争点が命題化されている か> ことは重要です。* 「論理的」は広義に、実践的推論(practical reasoning) か> に関わる範囲まで含めて理解して下さい。 か> そして、この構図で忘れてはならないのは、最終的な合理的判断の重要性です。 か> たとえ、現実には第三者の判断者がいない場合でも、ディベートは、議論の帰 か> 結が合理的に判断されることを前提としています。この判断の合理性が、ディ か> ベートの性格を規定するものといっても過言ではないほどこれは重要な要素で か> すが、しばしば十分に考慮されていません。 ふっと思いついただけであまり深く突き詰めた上での考えではないのですが、 上記のような印象を与えることが意図されているのなら、初学者にとっては 試合に参加するより先に、ディベートのジャッジをする ことのほうが有効だという気がしました。 UFOゲームでもディベートの試合でも同じですが、そこに勝負がかかっている以上、 参加者は「勝とう」という動機付けがなされます。その勝とうという意志が、合 理的な判断を産み出す方向に向かない、というのが UFO ディベートに対するY.K (はっはっは、最初からイニシャルにすることはないか) Y.Kさんの批判だと読み ました。 「合理的な判断をする」という方向で、最も動機付けられているのはジャッジで す。なぜなら、他人に説明できないような非合理的な判断を行えば、ディベーター から真っ先に批判されるのは彼だからです。 であれば、 ・経験のある人と初心者が同じ試合を見る ・両者にディシジョンを書いてもらう ・後でその適否について議論する (議論の取りこぼしや背景知識の不適切な導入が あれば指摘される) というようにジャッジからスタートするほうが、「紹介」のための方法(ゲーム?) としてはヨリ適切でしょう。 (K.I君のUFOディベートより、『集客力』という点では劣るかもしれませんが :-) ------- 私はディベート甲子園でジャッジを三回やらせていただいたのですが、 一番きつかったのが、 「ジャッジはバロットを書かず、その場でディシジョンを出し、 口頭で説明する」 というルールでした。ただ、上記の観点から見るとこのルールにも長所があるの で、議論してみたいと思います。 私が普段ジャッジをするときには、一旦ディシジョンルームに戻ってから、おも むろにバロットを書き出していました(もちろん大抵の場合には 2AR の段階で自 分の中のディシジョンが出ていますが)。 ですからディベート甲子園のこのスタイルが持つ緊張感は、独特なものがありま す。注視する中高生ディベーター、後ろで控えている引率の先生の視線、たまた ま試合に外れたので私のいる部屋に来たY.Tさんの突っ込み(これは冗談)、そん な環境の中で 「五分でディシジョンを出し、十分で解説/発表をして下さい」 などといわれると「ひょえ〜(*1)」とびびってしまい、マワる頭もマワラな くなってしまいます。 (*1) 私の上司の口癖。 「T.O君、あの仕事はできたかね」「いえまだです」「ひょえ〜」 しかし観客には、この「口頭で説明する」というスタイルのほうがよいのではな いかと思いました。普段の試合だと、ジャッジがどのような思考過程の後に結論 に辿り着いたかなどは、実際にバロットを手にするディベーターしか確認できま せん。しかしディベート甲子園スタイルだと、その場にいる全ての人に伝わりま す。 彼らには、ああこういう考えでT.Oは議論を裁いていったのだな、という考えの 筋道は伝わったことでしょう(私のディシジョンの適/不適は別にして)。 このようにジャッジの思考過程をみせるということは、甲子園のように勝負のか かった試合だけではなく、むしろ初めてディベートを見るという人が多い模範試 合でも重要でしょう。 その意味では、毎年1月あたりに開かれる NAFA 教育リーグっていうのは、 新三年生と古いジャッジが議論しあって面白いのですが、いかんせん肝心の 試合の方がよくない(いいのもあるけど)。 結局のところ、実質的な討論がほとんど行われなくて「どっちにいれても正しい 判定」といわざるを得ないような試合だと、あまり判断の教育にもなんにもなら ないんだよね。 か> * alternative game か> 最初に、前提となる命題を書いたカードを配って、それらのカードを基に、一 か> 定の結論を正当化させるというのはどうでしょうか。前提には、一見相反する か> と見えるものも含めておきます。 命題は最初から与えられるわけではないのですね?であれば、これもジャッジが いかに自分の判断を正当化するか、という訓練になっているんじゃないかしらん。 T.O
Date: Mon, 19 Aug 96 22:04:56 JST Subject: [JDA :1495] Re: risky games; debate for whom K.Iです。 こんにちは、相変わらず暑いですね。 でも、私はY.Kさんからのご指摘を受け身も凍る 思いです。 本当なら、「参りました」と引き下がってしまい たいのですが、少しばかり反駁の機会をお与え下さい。 Summary of this article このメールの主目的は、DEBATEが一体誰の為に存在するのかを 確かめたいというものです。その為に、DEBATEの目標とその目標への 橋渡しとなるUFO DEBATEについて述べています。長いですので 気合いを入れて読んで下さい。 Regarding * 意図されるべき印象 & * アカデミックディベートの目標 [JDA1488;risky games]のメールの内容が多岐に渡っているので、 何から申し上げればよいか難しいところですが、 まず、議論の前提となっているのが、 "What debate is" であると思われます。DEBATE(ACADEMIC DEBATE)が何であるか、 何を目指しているのか、ということの確認作業をしましょう。 Y.Kさんの言われる、 >ある命題化された争点に関して、論理的に話しが行われ(議論がなされ)、そこでの >話し(談話)から、合理的に一定の帰結が判断される。 ですが、私は「そうですよねー。」という素直な感想を持つ一方で、 日本の大学DEBATE界において、逆行する(?)ような現象が起きている ことが事実として存在することを副次的である、といって片付けずに 日本でのDEBATEの在り方を模索し、再構築していくことも重要であると 考えます。 Y.Kさんご自身も、 >どうも、日本では、ディベートが、コミュニケーション能力の育成の手段として、そ >の周辺的な側面でのみ捉えられることが多いようで困ったものです。まあ、合理的意 >思決定の為の言語行為の訓練というのは、日本の伝統的意思決定構造・権力構造にと >っては、余り都合がよくのかもしれませんが。又、ディベートが埋め込まれている文 >化的諸規範は、日本の文化的伝統ともそりがあわないのかもしれません。 と、ご指摘されているように、いわゆる「論理的思考能力」を狙った ACADEMIC DEBATEが日本の文化的CONTEXTと合っていないのです。 さらに私が思いますには、悲しいことに、人間が「論理的思考が 出来る層」と「論理的思考が出来ない層」とに分かれてしまい、 ACADEMIC DEBATEが必ずしも全ての階層に受け入れられないという 絶対的な事実が、DEBATE教育の行く手に立ち塞がっているということです。 このことは、現在の大学DEBATEにもいえることです。「論理的思考能力」 を備え要求するJUDGEが、論理的思考を不得手とするDEBATERにそれを 無理に押しつけようとすることです。上が下に「これぐらいわかれよ。 わからなあかんで。」と強要するのです。 私は美術が専攻なので、例に使わせてもらうと19世紀から20世紀に かけていわゆる「前衛芸術」や「POSTMODERN ARTS]が跳梁跋扈した時代が 続きました。それは大衆を意識したものではなく、「わかれよな。」 というような突き放した態度のものでした。そこで、登場してきているのが いわゆる「POP(ularity) ARTS」です。これは、上から下に手を伸ばした いわば芸術の完成形ともいわれる(異論多々あり)芸術なのです。 真実が恒に正しいと言わず、敢えてLEVELを下げ、人間全体の行き着く先を 示唆しているこの芸術の傾向にACADEMIC DEBATEも何か学ぶところが あるのではないでしょうか? さて、前述のその逆行する現象というのが、いわゆる「印象派」です。 (もう、芸術の話ではありませんよ。) 知らず知らず「印象派」になっている人もいれば、自ずから「印象派」 になっている人もいます。スピーチの印象からargumentやdecisionを 決定する人たちのことですが、これがY.Kさんがご指摘のcommunication 能力の向上を考える派閥だとしましょう。(違うかもしれませんが、 こうして頂くとこれからの議論が進めやすいので...それと 私はこのようにはCOMMUNIATIONを理解していないのですが、詳しく言及して 来なかったのでVOLUNTARY HARMだと受け止めておきます。) 一方で、論理的思考のみにより結論を導き出す人もいるわけですが、 DEBATE界に現在、主流を、誰もが気付かぬうちになしてきている、 (特に関西のJUDGEのほとんどが本人の知らぬ間にそうなっている。) このスピーチ(勢い)重視型の考え方に一定の正当性を与えておかなければ ACADEMIC DEBATEの目指す先と、その実際とがどんどんかけ離れていくのでは ないでしょうか。 つまり、今まで周辺部と見なされていたスピーチのテクニックやレトリック といったものを、もとの「論理的思考能力」と相関付けた新しいDEBATEの 目標の設立が必要となっているのではないでしょうか。 そこで、現在のJUDGESに受け入れられているARGUMENTの構造を少しだけ、 単純化してみてみましょう。 事象Aが事象Bに辿り着くまでのLINKをLINK(C)とします。ここで、あくまでも 分かり易くするために(POLICY COMPARISONのANALOGYだと一蹴されては困るので) もうひとつ、事象A',事象B',LINK(C')を用意します。 事象どうしを結びつけた方が勝ちだとすると、事象がつながるLINKを繋げた 方が勝ちとなります。相手のLINKを切り、自分のLINKだけ繋げればよいのですが そうもいかず、両方のLINKがつながったとします。 すると、今度はそのLINKの太さでどちらかが上回るという議論が展開される ことになります。と、ここまでが今までのARGUMENTに対する考え方ですが、 ここに、言語で会話している以上、PERSON[SIDE]という要素が好むと好まざる にかかわらず、出現してきます。すなわち、そのARGUMENTを話している人(SIDE) に対する信頼性がARGUMENTに加味されていくのです。 つまり、LINK(C)の太さを現実の事象という要素と同位置で、 SIDEに対する信頼性が(勝手に)決定していくのです。 演繹的なアプローチのみではなく、帰納的に考えていくことも 大切でしょう[FEED BACK]。このように実際に行っていることを 無視してしまうのはかえって混乱を招きます。素直に現実を見て 受け入れるか否か決定しなくてはなりません。 このようなモデルがこれからのARGUMENT構造を説明するのに相応しい のではないでしょうか。言い換えれば、スピーチのテクニックを目指す といった意味のCOMMUNICATION能力の向上といったものも、 目標に加えられても良いのではないでしょうか。 もっとも、これはもちろん、一つの意見に過ぎません。 「そんなものは、ACADEMICじゃない、パーラーでやっておいで。」 と言われれば、そう私も思いますし、上記のモデルを推進することは DEBATEのCOREの部分であるはずの「論理的思考能力」の軽視に つながるということも、もちろんあると思います。 ここで、結論として言えるのは、色々のDEBATEに対する考え方が 存在しうるし、それが副次的であるにせよそれを目指すひとも いるという事実を軽視してはならない、ということです。 そうすると、論理的思考能力を狙うDEBATEというのと、 コミュニケーション能力を大切にするというDEBATEというものが 両方存在してもよいのではないでしょうか。 とは言え、Y.Kさんの、 >(それでは、上記の二つのことはなぜ重要か、という話しになるでしょうが、根本的 >にはそれは、社会的正義の実現の前提になるからです。つまり、合理的な言語活動に >基づく、合理的な意思決定というのが、少なくとも民主主義社会では、正義(justice >)の前提となると思われます。この辺りの話は、ここでは詳しく書けませんが、直観 >的には理解して頂けるかと思います。) というお話に「そうですよねー」と感銘を受けたりもします。 難しいですね、DEBATEの目標というのは。 実は、私自身も「論理的思考能力(I mean communication.)」が 目標だと思っていますが。 >ディベートが、英語の授業の一環として扱われること自体にある意味では問題がある >と思われます。国語教育の一環となるのが正しい姿でしょう。 >(とは言え、現実に英語教員の方でディベートを教えざるを得ない方に於かれまして >は、上記のようなディベートの本質的側面を忘れないで頂きたいと願いますが。) >ディベート教育は、現在の体制の下では、論理学教育の一環となり得る実践的推論の >訓練の手段として捉えられるのが、最も適当だと思われます。 ですが、私の論を通していくならば反論しておかなければいけませんね。 すると、DEBATE教育の実際の現場においてどうしていけばよいのでしょうか? それは、私が思いますに、指導者が指導者自身で考えたDEBATEのGOALというものを 設定しそれに見合ったFORMATやSTYLEのDEBATEを構築していけばよいのでは ないでしょうか? また、COMMUNICATIONを目指すところから入り、 その中で、論理的思考の大切さに触れていくことも可能でしょう。 Regarding * UFO DEBATEの問題 さて、前提の話であるWHAT DEBATE ISをしたら、前提が私の論のなかで 確立しなかったので、UFO DEBATEの再構築をするのに意味があまり 見いだせなくなってしまいましたが、 ひょっとしてこのUFO DEBATEを扱ってくれる人のために もう一度、しつこくしつこく、宣伝しておきます。 しかし、ここではY.Kさんのおっしゃるように >ある命題化された争点に関して、論理的に話しが行われ(議論がなされ)、そこでの >話し(談話)から、合理的に一定の帰結が判断される。 だとして話を進めていきます。 最初にY.Kさんから数々のご批判がUFO DEBATEについて ありましたが、 >それは、トピックの不適切性と判断者についての規定とのためです。 その通りであると言えます。しかしそれは,あくまでも傾向として 強いというだけであり、全くUFO DEBATEだけがその点について 悪いとはいえないと思います。現在のESS DEBATEにおいても 誤解が生じているくらいですから,これはSIDEを持った議論を 扱うGAMEの払拭できない宿命とでも言えるのではないでしょうか。 さらに >誰が最後の一人として宇宙船に乗るべきかは、原理的には決定不可能です。むしろ、 >誰もがその権利を持つというのが、一般に妥当とされる結論でしょう。何らかの道徳 >的規準を持ち出すにしても、それに対抗することは、十分可能でしょう(例えば、「 >悪人正機」説といった類のものを持ち出して、救済の機会均等性を維持する)。 >つまり、論理的な議論の帰結としては、上記の線を越えて結論を出すのは原理的に不 >可能であるはずだということです。 というのはどうでしょうか?確かに道義的にそうである言えるかも しれませんが、このこと(UFOによる救済)が仮に起こったとするならば 誰かが犠牲になり誰かが救われるというのはあり得る話ですし、 その際に,最初に規定されていなかったにせよ,何かが判断基準となることは 十分考えられますし、GAMEとしてだけ存在することも可能だと言えます。 Y.Kさんはそれが単に嗜好中心になってしまうと危惧されるわけですが, 実践してみても,そんなことは起こらないばかりか,逆にESS DEBATE以上に 論点を明確にし、筋道をつなげていくことが,何故だか(おそらく、 TOPICに対する親近感や楽しさがかえって,眠っている「論理的思考能力」を 呼び覚ましたのではないでしょうか?)全くのDEBATE初心者をして 起こってしまうのです。 そしてこのことは,GAME指導者の効果的なINSTRUCTIONにより さらに深まり,あらぬ方向へ脱線することを未然に防げるのです。 さらにY.Kさんが御指摘のように判断基準を事前に説明してやる ということで,かなり議論に方向性を与えられ、その帰結に 合理的判断を与えることができるのです。 (逆に敢えて設定しないことで議論に幅を持たせることも 可能です。) しかもこのことは,EMP.PROVEN.です。大学で3年の試用期間を 経て世に送り出す自信作です。 また、以前にも書きましたが,UFO DEBATEはあくまで導入用のGAMEであり 興味関心をDEBATEというものに向ける為に作られています。つまり、 その為に「論理的思考能力」が高められない,もしくは意識できない可能性 が生じたとしても(実際にはそんなことはないはずですが...)ある程度 しょうがないということです。 ここで再び話を私事でさせてもらうと,私は以前キャンプ場のお兄さん (指導員)をしていたのですが(おそらくは無理矢理連れてこられた 今のファミコン世代の)子供たちに,初めから「山はいいゾ。さぁテントを 張るんだ。」と言ってもだらだらと非能率的に作業を行うだけで 山や自然そのものに興味を向けませんし、集団での生活に嫌気を示します。 ところが,オリエンテーリングや集団でのGAMEを行ったり、夜に星の話や 火と人間の関わりについて話をすれば,山や自然への興味を向け、 カレーライスも積極的に作るようになるのです。 何が言いたいかと言えば,例えそれが実際のものとはかけ離れていても 本当にいいものを与える為に、心を鬼にして?ある程度の工夫や細工と いったものが必要だということです。 そうしたとき、UFO DEBATEは興味を引きつける手段として、大変有効 だということです。何故ならそれは、面白いからです。 (開き直りかもしれませんが,面白いということは大変いいことです。 議論が間違った方向へ行く危険性を孕みながらもすべてを(もちろん 議論も)円滑にする働きをしてくれるのです。) そして、段階的にACADEMIC DEBATEへの導入を興味を持たせたまま 行えるのです。ACADEMIC DEBATEという論理詰めのものに初めから 全ての人が興味を向けるでしょうか? ほとんどの人は、論理という 漢字にすら抵抗を示し、一部の頭のいい人たちの行うものだという 印象を持っているのではないでしょうか。 いずれにせよ、DEBATE指導者のインストラクションが対象者、目的、 手法をきっちり踏まえられた上で、UFO DEBATEにせよ何にせよ、 DEBATE教育を行っていくことが肝要です。 ここでお詫びしておかなくてはならないのは、私が[JDA1461,1462]での UFO DEBATEの説明において手を抜いたばかりに色々と危険性をはらんだ UFO DEBATEを提供しようとしていたことです。 そこで以下を取り扱い説明書に添付して下さい。 !!!危険!!! 1。 このUFO DEBATEは、ACADEMIC DEBATEの本質部分である 「論理的思考能力」を逸脱する危険性がありますので くれぐれも指導の際には、指導者自身がDEBATEの目的を しっかりと持った上で指導して下さい。 2。 宇宙人であるJUDGEが判定を下す際には、必ず主観や嗜好を 除くようにし、ROUNDでその様な議論が出た際には、 「う・ちゅ・う・じ・ん・は・しゅ・か・ん・や・ し・こ・う・を・も・ち・ま・せ・ん」と 声色を変えて告げた上でDECISIONから外して下さい。 3。 対象者(参加者)から判断して、事前に判断基準を 発表するかどうか決めて下さい。 !!!危険!!! Regarding * Policy Comparison Analogy >K.Iさんは、このゲームが、policy comparisonをある点で擬しているという点で、 それがディベートの紹介として有効だとしていますが、これは大きな誤りです。 ですが、ご指摘の通りです。しかし、 >いわゆるpolicy making paradigmは、あくまで、偶然的なものであり、それは、単に >現在のディベート命題を論じる上で、便利な道具に過ぎません。 >合理的意思決定・論理的言語行為の訓練というディベートの本質とは、それは原理的 >には独立したものです。 果たしてそう言い切れるでしょうか。POLICY MAKING PARADIGM のSIDEという概念を盛り込んだパラダイムが受け入れられ定着 している現実を考えれば、既に前述したとおり、その発生が 道具としてであったにせよ、あらたにDEBATEの意味を考え直す 材料にはなるのではないでしょうか。つまり、ここでもPMPが 定着する以前からPMPが持つ「論理的思考能力」以外の部分の 要素を求める潜在的要求がありそれをPMPが満たしたということが 言えるのではないでしょうか? これは、あくまでも一つの意見 ですが... Regarding * alternative game 残念ながら私にはせっかくご提案していただいたgameの具体的 イメージがわきません。そこで質問があります。 このgameは楽しいですか? 最後にこのメールの発信が遅れたことをお詫びしておきます。 メールボックスを覗くのが遅かったものですから。 急いで書きましたので、誤字脱字など多々あると思いますが お許し下さい。 何かこうタブーともいうべきDEBATEのGOALについて書いてしまった ので幾多の反論があちらこちらから返ってきそうで恐いですが、 臆せず送信作業を行うものとします。
Date: Tue, 20 Aug 96 00:47:27 JST Subject: [JDA :1496] Re: risky games; debate for whom M.Sです. >> K.Iです。 こんにちわ. このUFOディベート,その他の「ディベートに興味を持ってもらうための 模擬的ゲーム」についてですが,ゲームそのものの是非はともかく,非常に 気になる節がいくつかありましたので,出てきました. 1.論理的思考が日本人に向いていない, また,ディベートが日本人に向いて いない,という決めつけは,ディベートの指導を工夫する努力の放棄に つながる可能性が高いので良くないと思います. >> Y.Kさんご自身も、 >> >> >どうも、日本では、ディベートが、コミュニケーション能力の育成の手段として、そ >> >の周辺的な側面でのみ捉えられることが多いようで困ったものです。まあ、合理的意 >> >思決定の為の言語行為の訓練というのは、日本の伝統的意思決定構造・権力構造にと >> >っては、余り都合がよくのかもしれませんが。又、ディベートが埋め込まれている文 >> >化的諸規範は、日本の文化的伝統ともそりがあわないのかもしれません。 >> >> と、ご指摘されているように、いわゆる「論理的思考能力」を狙った >> ACADEMIC DEBATEが日本の文化的CONTEXTと合っていないのです。 こういう日本人論はいろんな場面でいろんな人が述べてきたことで, その 是非をいまさら議論しようとは思いませんが,「合っていない」という 思い込みや, >> さらに私が思いますには、悲しいことに、人間が「論理的思考が >> 出来る層」と「論理的思考が出来ない層」とに分かれてしまい、 >> ACADEMIC DEBATEが必ずしも全ての階層に受け入れられないという >> 絶対的な事実が、DEBATE教育の行く手に立ち塞がっているということです。 >> このことは、現在の大学DEBATEにもいえることです。「論理的思考能力」 >> を備え要求するJUDGEが、論理的思考を不得手とするDEBATERにそれを こういう決めつけが, >> 無理に押しつけようとすることです。上が下に「これぐらいわかれよ。 >> わからなあかんで。」と強要するのです。 K.Iさんの言うところの「上から下への強要」につながる危険性を 最もはらんでいると思います. ありがちな「先輩」の思考パターン: 「彼らは日本人で,大学に入るまで論理的に思考する訓練を受けていない から,論理的に議論する方法論を初めに教えてもだめだろう.でも,記憶力は とっても鍛えられてきたはずだから,ディベートの形式をいっぱい詰め 込んでやれば, なんとか恥をかかない程度の試合はできるようになる だろう.とりあえずケースを暗記させて,DAの用語を全部教えて...」 . . . つまり,「どうせ分かってはくれない」とか,「文化的基盤が合わない から理解してくれない」という安直な決めつけは, アカデミックディベート を分かりやすく教える,という努力の放棄につながってしまうことが多いと 思うのです. アカデミックディベートを分かりやすく教えるには,大変な努力が 必要です.まず,自分なりのディベート観(==哲学)を構築した上で,それを 教えるテクニックも重要になります.形式的な話や抽象論ばかり展開すれば 聞く人は興味を失いますし,具体的な話ばかりだと応用力が育たない. で,しんどいからと言って, 陳腐な(失礼!)日本人文化論を盾にとって, いかに分かりやすく指導するか,という努力を放棄するのは間違って いると思います.本来の目的と違う方向へディベーターをミスリード してしまう可能性があるゲームを,「楽しくて集客能力があるから」 という理由「だけ」で取り入れてしまうのは, 努力の放棄にしか見えません. 私がどういう「努力」をNAFAセミナーなどの場で個人的にしているか, という話は, メールが長くなり過ぎてしまいそうなのでまたの機会に させて頂きます. 余談ですが,私はここ数年,関西のNAFAセミナーで初級者コースを担当させて 頂いています. 受講者には1〜2回大会に出たことがある,という初級者も いるのですが, 彼らからの質問は,形式からディベートに入ったことを 匂わせるものばかりです.「DAのNot-Uniqueという返しに対して,どんな反駁を したらいいのですか?」「TopicalityのReasonable と Better, どっちが 強いスタンダードですか?」. . . 残念ながら,手間のかからない形式重視の 指導をしている「先輩」がたが多いようです. 2.現役ディベーターも数多く参加しているMLで, 根拠の不明な発言は 控えてください. >> 一方で、論理的思考のみにより結論を導き出す人もいるわけですが、 >> DEBATE界に現在、主流を、誰もが気付かぬうちになしてきている、 >> (特に関西のJUDGEのほとんどが本人の知らぬ間にそうなっている。) >> このスピーチ(勢い)重視型の考え方に一定の正当性を与えておかなければ >> ACADEMIC DEBATEの目指す先と、その実際とがどんどんかけ離れていくのでは >> ないでしょうか。 すみませんが,関西のJUDGEのほとんどが「勢い重視」とは,どういう 意味でしょうか?関西で開かれる大会では,論理がめちゃくちゃでも 勢いのあるチーム(?????)が優勝している,ということですか?何を 根拠にそういうことをおっしゃっているのかちゃんと明示しないと, 関西の大会に参加を予定しているチームに, 余計な不安を抱かせる ことになりかねないと思います. 3.結論:ミスリードを生む危険があるなら,無理に「模擬ゲーム」を 取り入れる必要はないと思う >> すると、DEBATE教育の実際の現場においてどうしていけばよいのでしょうか? これは永遠のテーマだと思います. ただ,「楽しい」ゲームを取り入れなくても論理的思考の大切さ,楽しさ, をディベート初心者に実感してもらうことは可能だと思います. 彼氏にバッグをねだるとき,友だちと休日に遊びに行く先が競合して しまったとき,就職の面接,などなど,今の我々の回りには, 「論理的に」 「決められた時間内で」「相手を説得する」技術が必要な場面が いろいろあります.そういう場面をシミュレートさせて,同様のことを 論じる方法をアカデミックディベートでは研究し,実践している, と いうことを示すと,大抵の初級者は「おおー」と感心してくれます. 「今君は,会社に入れて欲しい,って繰り返したけど,君が会社にとって, 投資に見合うものでないと,会社は雇ってくれないよねぇ.例えば,"私の 持つ技術はあなたの会社のA部門の売り上げを伸ばす"と,いうことが うまく説明できればいいよね.アカデミックディベートでは,これは "ケース"と呼ばれるイシューで説明されるもので,会社にとっての君の 重要性,は"significance"にあたるんだよ」 >> そして、段階的にACADEMIC DEBATEへの導入を興味を持たせたまま >> 行えるのです。ACADEMIC DEBATEという論理詰めのものに初めから >> 全ての人が興味を向けるでしょうか? ほとんどの人は、論理という >> 漢字にすら抵抗を示し、一部の頭のいい人たちの行うものだという >> 印象を持っているのではないでしょうか。 繰り返しますが,「論理の印象」が悪いのであれば,それを良くする努力 をすればいいと思います.まだまだ,工夫の余地はあります. ではでは.
Date: Wed, 21 Aug 96 09:37:21 JST Subject: [JDA :1505] Re: re: risky games; debate for whom K.Iです。 おはようございます(今は朝です。)。 M.Sさんからもメールを頂き 大変恐縮です。 脱帽いたしました。 M.Sさんの素晴らしいアドバイスに触れ、 教育とはかくあるべきかと 思い直しました。 有り難うございました。 また、前回の投稿で 一部不適切な表現があり誤解を 招きましたことをお詫びいたします。 それでは、みなさんさようなら。
Date: Wed, 21 Aug 96 19:35:51 JST Subject: [JDA :1508] Re: risky games; debate S.Yです。 K.I君のメール[1495]に関して。 私は、situational conversationは嫌いではありませんし、一定の教育効果もあり、 わかりやすくて楽しいことから、導入として使用することにはそれほど反対する つもりはないのです、が一点だけ気になるところがありましたので、コメントします。 >一方で、論理的思考のみにより結論を導き出す人もいるわけですが、 >DEBATE界に現在、主流を、誰もが気付かぬうちになしてきている、 >(特に関西のJUDGEのほとんどが本人の知らぬ間にそうなっている。) >このスピーチ(勢い)重視型の考え方に一定の正当性を与えておかなければ >ACADEMIC DEBATEの目指す先と、その実際とがどんどんかけ離れていくのでは >ないでしょうか。 >つまり、今まで周辺部と見なされていたスピーチのテクニックやレトリック >といったものを、もとの「論理的思考能力」と相関付けた新しいDEBATEの >目標の設立が必要となっているのではないでしょうか。 このような考え方が実際に広まっているとは信じたくありませんが、複数の筋から このような考え方が広がっていることを聞いていました。今回、メーリングリスト でもこのような投稿があったことから、やはり一定の広がりはあるようです。 結論から言うと、 スピーチやレトリックを重視しすぎるジャッジは、ジャッジとして失格。 です。 1.ディベートを通じて学んで欲しいのは、「黒いものを黒い」と判断できる能力 なのです。どんなにスピーチ能力のある悪い奴が「黒いものを白い」と言いくるめ ようとしても、「黒いものは黒い」と判断できる能力さえあれば、コミュニケーシ ョン力が無かろうが、スピーチがへただろうが全然問題ありません。最低限、これ を学んで欲しいと思います。 2.次に必要になるのは、「黒いものを白い」と第三者を言いくるめようとする悪 い奴らに対して、第三者を「黒いものは黒い」と根拠を持って説得できることです。 これは、副次的な要素で、できるに越したことはない、といった程度です。 3.絶対なって欲しくないのは、スピーチ能力を悪用して、「黒いものを白い」と 言いくるめる人間です。ディベーターを学んでこんな人間になってしまうなら、デ ィベートなんか学ばない方がいいのです。 4.1や2の能力を持つディベーターと、3のディベーターの違いは、「事実」に 対する謙虚な姿勢です。「黒いものは黒い」ことが認識できれば、それを最大限尊 重する必要があるという認識を持たなければなりません。レトリックや、スピーチ のテクニックより、「事実」を尊重する、という認識が無ければ、3のような人間 になってしまうでしょう。 結論として、 ジャッジは、事実に基づく合理的な意志決定をできる人間を育てるため、 自分自身が事実に基づく合理的な意志決定をやって見せなければならないのです。 それができないジャッジは、失格です。 ------------------------- なお、「事実」と何度も言いましたがこれは「確からしいと判断できる事象」 といった程度の意味です。さまざまな立証手法により、「確からしい」と判断 できれば、それに基づいて判断をすべきであるということです。 ------------------------------------------ ------------------------------------------ 付言として、 K.I君の説明自体、いささかおかしいところがあるので指摘しておきます。 >事象Aが事象Bに辿り着くまでのLINKをLINK(C)とします。 >もうひとつ、事象A',事象B',LINK(C')を用意します。 >両方のLINKがつながったとします。 >ここに、言語で会話している以上、PERSON[SIDE]という要素が好むと好まざる >にかかわらず、出現してきます。すなわち、そのARGUMENTを話している人(SIDE) >に対する信頼性がARGUMENTに加味されていくのです。 >このように実際に行っていることを >無視してしまうのはかえって混乱を招きます。素直に現実を見て >受け入れるか否か決定しなくてはなりません。 これは、当たり前の話で、エビデンスの権威性ーどこそこの大学教授が言ったー を認めているのと同じ理屈です。 このような場合には、単に権威性の比較 ー大学生であるスピーカーと、大学教授のどちらに説得力があるかー ーどちらがより確からしいかーで判断すればそれでよいのです。 つまり、K.I君の言うように、論理的思考するジャッジは、素直な現実的判断を行 っているのです。 誰だって、大学教授の方が説得力があると「素直な現実的判断」をするでしょ。 だから、このような例をもって、 >言い換えれば、スピーチのテクニックを目指す >といった意味のCOMMUNICATION能力の向上といったものも、 >目標に加えられても良いのではないでしょうか。 という理由にはなりませんね。これらはあくまで副次的な要素です。 S.Y
Date: Wed, 21 Aug 96 20:43:45 JST Subject: [JDA :1509] Re: risky games; debate I.Kです。 私はjudgeをはじめて3年目なのですが、S.Yさんのメール[1508]に関して 質問があります。 >私は、situational conversationは嫌いではありませんし、一定の教育効果もあり、 >わかりやすくて楽しいことから、導入として使用することにはそれほど反対する >つもりはないのです、が一点だけ気になるところがありましたので、コメントします。 > >>一方で、論理的思考のみにより結論を導き出す人もいるわけですが、 >>DEBATE界に現在、主流を、誰もが気付かぬうちになしてきている、 >>(特に関西のJUDGEのほとんどが本人の知らぬ間にそうなっている。) >>このスピーチ(勢い)重視型の考え方に一定の正当性を与えておかなければ >>ACADEMIC DEBATEの目指す先と、その実際とがどんどんかけ離れていくのでは >>ないでしょうか。 >>つまり、今まで周辺部と見なされていたスピーチのテクニックやレトリック >>といったものを、もとの「論理的思考能力」と相関付けた新しいDEBATEの >>目標の設立が必要となっているのではないでしょうか。 > >このような考え方が実際に広まっているとは信じたくありませんが、複数の筋から >このような考え方が広がっていることを聞いていました。今回、メーリングリスト >でもこのような投稿があったことから、やはり一定の広がりはあるようです。 > >結論から言うと、 > >スピーチやレトリックを重視しすぎるジャッジは、ジャッジとして失格。 > >です。 スピーチやレトリックを重視するjudgingというのは いまいち正確に 把握できないのですが、 多分、roundに提出された 相反するevidence, argumentのうち、judgeの意(judge が 提出されたevidenceから考えて、 相対的に正しかろうと判断すること)に反して、参加者(本来肯定されるべき) のevaluation 能力が 相対的にたりなかったため、相手側=悪いやつ の evidence, ひいてはargumentを採用する。 ということでしょうか? すなわち comparison の部分に関してはroundに介入することなく、参加者の 行ったevaluationのみから superiorityの判断を下す。 以前から、自分のjudging philosophyを考える時に こういった形のjudging方法が よいのか、それとも、自分でevaluateするほうがよいのか考えていました。 結論からいって、私は、前者=レトリックを重んじるタイプなのですが、まずいでし ょうか? 私の考えとしては、 まず第一にevidence, claim ,warrantの三用件が 満たされているなら、相反するふたつのargumentの内で、どちらかが絶対的に 正しい、言い換えると、どちらかが絶対的に まちがっていて、悪いやつだ とは言えないのではないか と思います。 S.Yさん自身もそれらしきことを書いています >------------------------- >なお、「事実」と何度も言いましたがこれは「確からしいと判断できる事象」 >といった程度の意味です。さまざまな立証手法により、「確からしい」と判断 >できれば、それに基づいて判断をすべきであるということです。 >------------------------------------------ 第二に judgeが自らevaluationをしないことにより、参加者が試合中にevaluation に心掛ける結果となり、comparison能力が発展してよいのではないでしょうか。 (私はdebateのゴールを 1.logicalに話を伝えられること、2.反対意見を踏まえた上で 相対的な優位性を伝えられること。と考えています) 第三に 黒いものは絶対に黒 という判断方法は、私の2番目のゴールへの道を邪魔 すると 考えます。 相対的なspeech=comparisonで一番重要になってくるのは、相手の話を 理解することであると思います。絶対的に 黒は黒と判断する方法は えてして相手 の話を 軽視して、聞かない、理解しようとしない。といった問題点がでてくると思います。 ただし evidence, claim ,warrantの三用件が満たされていないargumentに関しては、 相手も理解しえないし、comparison以前の問題ですので、judgeが合理的にそのargument を棄却することに 賛成です。またそのほうがlogicalなspeech能力の発展のために よいと 思います。(上と矛盾してる? ) つまり、linkやwarrantがない場合はどんどんそのargumentを切っていくtypeのJudge でしょうか。 (コンスト クリチック? ) K.I君のUFO debateからはだいぶはなれてしまいましたが、関西在住のjudgeとして は、K.I君の発言は きがきでなりません。(えーおれも 無意識のうちに勢い重視型のjudgingしてたか ? 確かに 試合直後に勝ってそうなチームは、decisionも勝ってることが多いな?まずいかな? と思っています) 返事をよろしく御願いします。 I.K
Date: Wed, 21 Aug 96 22:50:42 JST Subject: [JDA :1510] Re: risky games >T.Oです。 >ふっと思いついただけであまり深く突き詰めた上での考えではないのですが、 >上記のような印象を与えることが意図されているのなら、初学者にとっては > > 試合に参加するより先に、ディベートのジャッジをする > >ことのほうが有効だという気がしました。 > > ・経験のある人と初心者が同じ試合を見る > ・両者にディシジョンを書いてもらう > ・後でその適否について議論する > (議論の取りこぼしや背景知識の不適切な導入が > あれば指摘される) > >というようにジャッジからスタートするほうが、「紹介」のための方法(ゲーム?) >としてはヨリ適切でしょう。 まさしくその通りでしょう。 私もNAFAのセミナーでの先日のレクチャーで触れましたが、ディベート教育は、ディ ベートを行うこととそれを判断することとの両面を通して実は行われるべきものでし ょう。 Y.K
Date: Thu, 22 Aug 96 13:31:34 JST Subject: [JDA :1516] Re: risky games; debate H.Iです。 いわゆる「スピーチ重視型のジャッジ」の議論についてひとこと [JDA:1495]でK.Iさんが「スピーチ(勢い)重視型のジャッジが増えてい る」と述べて、これに対してS.Y君が「スピーチやレトリックを重視しすぎる ジャッジは、ジャッジとして失格」である旨述べています。([JDA:1508]) この議論を続けるのであれば、「スピーチ(勢い)重視型」とは何か、「ス ピーチやレトリックを重視しすぎる」とはどういうことか、それは一般的な (又はあるべき姿の)ジャッジとどう異なるか、ということを明確にすべきで しょう。 (そもそも、ディベートにおいて「スピーチの上手さ」と「議論の上手さ」を 区別できるのか、区別すべきかという点からして、疑問があります。) また、S.Y君が[JDA:1508]で述べていたことについてですが、 >1.ディベートを通じて学んで欲しいのは、「黒いものを黒い」と判断でき >る能力なのです。どんなにスピーチ能力のある悪い奴が「黒いものを白い」 >と言いくるめようとしても、「黒いものは黒い」と判断できる能力さえあれ >ば、コミュニケーション力が無かろうが、スピーチがへただろうが全然問題 >ありません。最低限、これを学んで欲しいと思います。 果たしてディベートにおいて議論される事柄は「黒いものは黒い」と判断で きることでしょうか。価値に関する議論、例えば「尊厳死を迎える権利を認め るべきか」には賛否両論あり黒白付けることはできないでしょうし、事実に関 する議論でも「放射能はガンの原因となるか」といったことは、簡単に黒白付 けられるものでないことは、いうまでもないでしょう。 大事なのはこれらの議論について「真実は何か」を考えることではなく、自 己の主張の根拠を明らかにして、論理的・説得的に伝える(スピーチする)こ とだと思います。その意味では、 >「黒いものは黒い」と判断できる能力さえあれば、コミュニケーション力が >無かろうが、スピーチがへただろうが全然問題ありません。 と言い切ってしまうことは問題があると思います。 (もっとも、S.Y君もここに引用した文のすぐ後で説得的に主張することの重 要性を述べていますが、それについて「副次的な要素で、できるに越したこと はない、といった程度」という評価をしているのはいささか疑問です。) 具体的なディベートのジャッジ方法に関する議論についてはここでは立入る 余裕がありませんが、ディベートにおける議論が上記のような性質を持つ以 上、ジャッジが「黒いものは黒い」と信じるところにしたがい、自分で議論を 組み立ててディシジョンを出すことは、不当な介入であって許されないことは いうまでもないことです。(K.IさんもS.Y君もそのようなことを主張してい るとは思っていませんけど、ね。)
Date: Thu, 22 Aug 96 17:11:28 JST Subject: [JDA :1517] Re: risky games; debate for whom 同志社のK.Iです。 私はすでに玉砕してしまった身なので、 しばらくmlを傍観していようと思います。 私の発言で色々の人が思っていることを 投稿してくれると面白いのですが... ところで、S.Yさんの、 >1.ディベートを通じて学んで欲しいのは、「黒いものを黒い」と判断できる能力 >なのです。どんなにスピーチ能力のある悪い奴が「黒いものを白い」と言いくるめ >ようとしても、「黒いものは黒い」と判断できる能力さえあれば、コミュニケーシ >ョン力が無かろうが、スピーチがへただろうが全然問題ありません。最低限、これ >を学んで欲しいと思います。 >2.次に必要になるのは、「黒いものを白い」と第三者を言いくるめようとする悪 >い奴らに対して、第三者を「黒いものは黒い」と根拠を持って説得できることです。 >これは、副次的な要素で、できるに越したことはない、といった程度です。 >3.絶対なって欲しくないのは、スピーチ能力を悪用して、「黒いものを白い」と >言いくるめる人間です。ディベーターを学んでこんな人間になってしまうなら、デ >ィベートなんか学ばない方がいいのです。 >4.1や2の能力を持つディベーターと、3のディベーターの違いは、「事実」に >対する謙虚な姿勢です。「黒いものは黒い」ことが認識できれば、それを最大限尊 >重する必要があるという認識を持たなければなりません。レトリックや、スピーチ >のテクニックより、「事実」を尊重する、という認識が無ければ、3のような人間 >になってしまうでしょう。 の分類が如実にこの話題(どの話題だ?)に関する議論の難しさを現していると 思いませんか? 簡単に言えば、その人のその時、置かれている立場や 状況で、1.から4.のどの要素を大切にするかというのが決まってくるのですから。 純粋な学者は1.のみを追いかけるでしょうし、 弁護士や検事は2.を大切にするでしょうし、 守るべきもの(家族や国)を持った人(Jさん?)は3.を 大切にするでしょう。 結論を言えば、この議論(どの議論だ?)は採るべき立場の違いに決着をつけなければ 終止符を打てない、ということです。 つまり、同一の土俵で勝負出来ないのではないでしょうか? でも確かに言えることは、1.なしには他のどれもありえない。 ということですよね。 それと、 >K.I君の説明自体、いささかおかしいところがあるので指摘しておきます。 ですが、私の意図したことは、I.Kさんの[JDA:1509]で説明されて いるようなことです。 またもや拙い説明で申し訳ありませんでした。 それでは。
Date: Thu, 22 Aug 96 18:08:00 JST Subject: [JDA :1518] Re: risky games; debate Y.Tです。ちょっとやり取りに行き違いがあるようなので、私の観察を述べます。 "H. I wrote on Thu, 22 Aug 96: > 果たしてディベートにおいて議論される事柄は「黒いものは黒い」と判断で >きることでしょうか。価値に関する議論、例えば「尊厳死を迎える権利を認め >るべきか」には賛否両論あり黒白付けることはできないでしょうし、事実に関 >する議論でも「放射能はガンの原因となるか」といったことは、簡単に黒白付 >けられるものでないことは、いうまでもないでしょう。 ディベートで議論される事柄は、言うまでもなく白黒がつけにくい性質のものです。 そもそも白黒つけにくいからディベートするのです。しかしそれは命題や価値判断 についてであって、命題や価値を論ずるには、白黒の事実の認定が必要なのです。 問題は、事実に基づいて議論する、というのが初めの一歩として(ジャッジの常識 として)認識されているか、だと思います。ですから、 >1.ディベートを通じて学んで欲しいのは、「黒いものを黒い」と判断できる能力 >なのです。どんなにスピーチ能力のある悪い奴が「黒いものを白い」と言いくるめ >ようとしても、「黒いものは黒い」と判断できる能力さえあれば、コミュニケーシ >ョン力が無かろうが、スピーチがへただろうが全然問題ありません。最低限、これ >を学んで欲しいと思います。 これはいささか言葉不足だろうと思います。ディベートを通じて学ぶことの主たる内 容を「黒いものを黒いと判断できる能力」と言ってしまっては、「そんなことはディ ベートなど学ばなくてもわかっているよ」と言われてしまうでしょう。 「黒いものを黒い」と判断できる能力は「初めの一歩」であり、議論を行う上での必 要条件です。議論の技術が向上してくると、必要条件を無視した議論を行いかねない ので、そうした逸脱に対する警鐘としては理解できる主張です。 >2.次に必要になるのは、「黒いものを白い」と第三者を言いくるめようとする悪 >い奴らに対して、第三者を「黒いものは黒い」と根拠を持って説得できることです。 >これは、副次的な要素で、できるに越したことはない、といった程度です。 私も、これは言葉が過ぎると思います(最初に見たときは気づきませんでしたが)。 単純に言えば、現実を認識することが第一で、認識した事実を分析・統合し、他人に 理解させるのが第二であり、どちらも必須の作業です。後者の作業を副次的というの は、あまりに言い過ぎでしょう。 説得(あるいは言い負かし)がディベートの全てだと誤解している人に対し、「いや 事実を認識することが先なのだ」と言いたいのだろうと、私は(善意に)解釈したの ですが。 # スピーチ重視云々について、詳しくはまた別の機会に譲ります。 Y.T
Date: Thu, 22 Aug 96 20:43:59 JST Subject: [JDA :1519] Re: risky games; debate S.Yです。 私が言いたかったことは、 ジャッジは、スピーチの印象、見た目、(勢い?)等に目を奪われるのでなく、主張 された議論がどの程度「確からしいか」(根拠があるかといってもよい)で判断 すべきだということです。 ディベーターに求められる能力として、上記判断をわかりやすく説明する技術が 必要なのは否定しませんが、その技術を用いる際には、ディベーターは上記の観点 保つ必要があるということです。 いつもいつも説明がへたで申し訳ないです。(メールで議論するのは難しい) S.Y
Date: Thu, 22 Aug 96 21:15:21 JST Subject: [JDA :1520] Re: risky games; debate 夏期休暇中につき学生不在のメーリング・リストの皆様 残暑お見舞い申し上げます 朝,S.Yくんのメールを読んで,これは「反論する必要があるな」と感じていたのです が,仕事が忙しかったので,やむなくうっちゃり,晩にまた覗いてみると既に反論が山 のように来ていました。みなさん反応が早いですね。 H.Iくんと,Y.Tさんの言葉にはおおむね賛同いたしますが,私自身の観点から,二, 三久しぶりに述べたいと思います。 ディベート ≠ 論理 + スピーチ ------------------------------- 昔から日本のディベート界に通用してしまっている悪しき二項対立に,「論理か,ス ピーチか」というのがあるのですが,K.IくんやS.Yくんの議論を読んでいると,どう もこの論理対スピーチ図式を,議論の前提においてディベート談義をしてしまっている ことが強く感じられます。 実はこれDebate Forumに以前書いたので,S.Yくんのexcellentなホームページで「デ ィベート談義」に関するバックナンバーの番号を調べて,出版担当の中村くんに電子 メールを出して注文して,読んでいただけると有り難いのですが,ディベート大会と言 うのは,論理的な話し方を習得するだけの場でもなく,(英語)スピーチ(発音)の上 達だけを目指す場でもなく,もっと重要なことに,その両者を身に着けるだけの場所で もありません。 もちろん,ディベート大会が社交の場であるなんて,それこそ「副次的な」ことを言い たいのではありません。ディベート能力を,論理能力とスピーチ能力の二項に還元しよ うとすること自体が問題だというのです。 どこでも言ってきたことですが,私自身は,コミュニケーションの情報の流れに即し て,ディベート能力を四つに分けるのが有効だと考えております。情報・他人の議論の (1)理解力, (2)分析力と,自説の (3)構成力と, (4)伝達力です。 ジャッジをする際に何を重視すべきかということを考えるのなら,やはり古臭い二分法 そのものから疑ってかかる必要があるのではないでしょうか。そうでなくては,私の経 験に即して言うなら,結局実りある議論にはなりません。(H.Iくんが,「スピーチ重 視」という言葉を明確にせよと言っているのは,恐らく筋としては同じことでしょう。) 「論理的な話し方」はディベートの本質ではない ---------------------------------------------- なお,余談ですし,絶対に異論の方が多いとは思いますが,私は「論理的に話すことを 教える」ことは,ディベート教育の本質的な目的ではなく,ディベートの定義などには 少なくとも入れるべきではないと考えております。私は,日本におけるディベート教育 の本質的な目標は,実りある現実的な価値討議を行うことのできるコミュニケーション 能力を持った社会人の育成におくべきだと考えてます。 もちろん早とちりしないで欲しいのですが,「論理的な話し方」をディベート教育で教 えるべきでないとか,いわゆる「レトリック」重視にすべきだとか言いたいのでもあり ません。「論理的な話し方」はディベート教育のプロセスで身に付けさせるべきなので すが,それはあくまで上のコミュニケーション能力を習得するための一つの「手段」に すぎないと考えているのです。 いわゆる「論理的な話し方」を教えるべきなのは,「論理的」に他人の話を分析し, 「論理的」に自分の議論を構成する話しかたarticulationが,現代の多くの社会や文化 のさまざまなコミュニケーションでは,経験的に有効であることが確かめられているか ら,ただそれだけの理由である,というのが,私の立場なんですが,間違いなく今のデ ィベート界では異端でしょうね。 ディベートとコミュニケーション能力 ---------------------------------- そうした偏ったディベート観に限らず,ジャッジの役割として絶対に忘れて欲しくない のは,ディベートは,上で述べた中での議論の (3)構成力と, (4)伝達力を上達させる 局面であるべきだということです。 話し手が言いたいことを聞き手に伝えて,話し手が意図したような影響を,聞き手にお よぼすというのは,大変難しいことです。簡単に考えても,コミュニケーション過程に は三つの次元で誤解や食い違いの生じる可能性があるのです。 1. 言葉の表現そのものを聞き間違えたり,聞き落とす可能性 これは,話し手の方に責任がある場合とそうでない場合もあるでしょうが,ディ ベートでは例えば,英語の発音が悪くて聞き取れないとか,うっかり接続詞を聞き落と して逆の意図に取ってしまうとか,言語表現(記号表現)そのものが意図通りには伝わ らない可能性 2. 言葉の表現は伝わっても,意図通りの内容は伝わらない可能性 最も簡単な例では,言葉の発音は伝わってもジャッジの知らない専門用語をディ ベーターが無神経に使って議論しているので伝わらないとか。ある言葉がさしている内 容が,ジャッジの頭の中と,発言者のなかでは違うとか。有名な例では,「Totally irrelevant. 全体主義とファシズムは違う」というのがありましたね,T.Oくん。これ は,完結した良い議論になりうるのですが,その試合のジャッジには伝わりませんでし た。ジャッジの言語センスでは少なくとも,その両者の違いは全く無かったのです。 (もちろん死者に鞭打つようで申し訳ないですが,これはジャッジが悪いと言う例では 全くなく,ディベーターがあと一言その違いに言及すれば良かったのです) 3. 言葉の表現も内容も意図通り伝わっても,意図通りの効果が上がらない可能性 日常でも色々例はあるとは思いますが,最近見たディベートの例で言うなら,脳死 移植を認めると優勢思想がはびこり老人や障害者が犠牲になるという議論への反論の一 つに,「たとえそれが起こったとしても,重要性が少ない。なぜなら私たちは健康な人 を救い,それは老人と障害者に比べて価値がある」というのを取り入れた人がいまし た。この場合,ディベーターはこれは所詮ゲームだから,何でも良いから言っておこう と考えて,論理的には有りえるシグニフィカンス攻撃をしたつもりなのでしょう。そし てジャッジである私には,言葉の内容は完全に伝わっていました。だが,それは意図通 り有効な反論になるどころか,私はその発言の非倫理性をvote againstの理由にしよう かと真面目に考えたほど嫌悪感を感じました。 恐らくどこまで練習しても完全にこうしたコミュニケーションの齟齬の可能性を取り除 くのは無理でしょうが,ディベート教育というのは,人間社会にとって不可欠なコミュ ニケーション能力の上達に寄与できる可能性が極めて高いのです。そしてジャッジはそ れに寄与するようにとりくむべきなのです。具体的な出発点としては,ディベーターの 発音がヒドすぎて聞き取れなかったエビデンスまでを聞き取ったものとしてしまう最近 のジャッジの傾向は断固改めるべきなのです。 先のS.Yくんのメールでの議論もそうだし,最新号のS.Yくんの「ジャッジ論」でも強 く感じた不満は,そのコミュニケーションの過程の難しさがまるっきり配慮されていな いということです。ディベーターたちとジャッジの全員に,議論や「事実」が同じよう に頭の中で共有されるという事態は,ほとんどありえないということに強く配慮してジ ャッジ論を考えて欲しいものです。 最近の関西ジャッジの懸念される傾向?! ------------------------------------ 実はK.Iくん達が念頭に置いているジャッジがどういうジャッジなのかは知らないので すが,最近関西に行ったというある若手ジャッジから,「関西ではジャッジはエビデン スの中身は聞きとらないし,エビデンスの中身はディベートとは関係無いと考えている から,エビデンス攻撃をしても意味はない」ということをある関西のディベーターから 聞いたという話を,聞きました。つまり二重に間接的な伝聞に過ぎないのですが,よも やこのようなジャッジが実在し,それが「スピーチ(勢い)重視型」というジャッジの 正体だということなのでしょうか。 その場合は,スピーチ重視というよりは,意味は不明ですが「勢い重視」ジャッジに過 ぎないと言うべきでしょう。そして察するにそうした何も分かっていないジャッジが判 断できる「勢い」というのは,実はディベーターの出身サークルの「勢力」などであ り,そうしたディベーターの属性でジャッジが行われている懸念すらあります。 ちょっと長くなりましたが,こうしたジャッジが関西に万が一にでも,実在するのな ら,ここで強調すべきは,やはり本当の意味での「スピーチ重視」いや,上で述べたよ うに「コミュニケーション過程・伝達力」重視のジャッジでしょう。 K.IくんやI.Kくん,君達が戦っている病原体はきわめて悪質な可能性がありま すぜ。諸君の健闘を期待する
Date: Thu, 22 Aug 96 22:12:55 JST Subject: [JDA :1522] kansai judge M.Tです。 最近のディベート目的論は、それぞれ面白く読ましていただいています(I!タ Y.Y先生が、[JDA :1520]で少し触れられていたことについて 関西の方々に質問があります(I!タ >ぢ実はK.Iくん達が念頭に置いているジャッジがどういうジャッジなのかは知らないので >すが,最近関西に行ったというある若手ジャッジから,「関西ではジャッジはエビデン >スの中身は聞きとらないし,エビデンスの中身はディベートとは関係無いと考えている >から,エビデンス攻撃をしても意味はない」ということをある関西のディベーターから >聞いたという話を,聞きました。つまり二重に間接的な伝聞に過ぎないのですが,よも >やこのようなジャッジが実在し,それが「スピーチ(勢い)重視型」というジャッジの >正体だということなのでしょうか。 関西ではジャッジの現状が上のような状態なのでしょうか? この態度は楽な方に流れているジャッジの取るものだと思います(I!タ 試合の勢いのみで決めるのは(I$ぢ誰からも文句がでないので確かに楽は楽だと思います(I!タ しかし、この態度はディベートをないがしろにしています(I!タ わたしはジャッジが持つべきは、 ディベーターの議論に対する謙虚で真摯な態度だと思っています(I!タ 各議論がどれほど確からしいかを、自分なりの判断基準によって判断し(I$タ それを明確に表現する(ディシジョンを出す)ことだと思っています(I!タ 大変なことですが、非常に大切なことだと思います(I!タ (ここんとこジャッジしていないのですが、そこは大目に見て下さい。) ディベーターもジャッジも真剣に議論と向き合ったときにこそ ディベートは楽しくなるのではないでしょうか? 少なくとも、私が関西でジャッジをしていた頃(1991-1994)には(I$タ それぞれ思想を持ったジャッジが活躍していたと思います(I!タ 現在は、どうなのでしょうか(I!タ ぜひ、「スピーチ(勢い)重視型」がどのような状態か(I$ぢレポートして下さい(I!タ もちろん、関西のジャッジの状態が誤解であることを願っています(I!タ では。
Date: Fri, 23 Aug 96 03:15:13 JST Subject: [JDA :1524] Re: kansai judge I.K 最近よくmail を書いてますが、これは たまった研究課題からの逃避行動です。 M.Tさんや Y.Yさんから関西のjudgeの危惧が届いていますが、深刻な問題だと思 います。 >徐ぢ実はK.Iくん達が念頭に置いているジャッジがどういうジャッジなのかは知らない >ので >>すが,最近関西に行ったというある若手ジャッジから,「関西ではジャッジはエビデン >>スの中身は聞きとらないし,エビデンスの中身はディベートとは関係無いと考えている >>から,エビデンス攻撃をしても意味はない」ということをある関西のディベーターから >>聞いたという話を,聞きました。つまり二重に間接的な伝聞に過ぎないのですが,よも >>やこのようなジャッジが実在し,それが「スピーチ(勢い)重視型」というジャッジの >>正体だということなのでしょうか。 私もこの発言は聞いたことがあります。ちょっと違うのは”evidenceの内容をフロー に書か ない”といった内容であったと思いますが、現役関西judgeとして弁明させてもらえば、 evidenceは重要であっても、それを書き残すことが重要であるとは言えない という 判断でし ょうか。私は多分にこれにあてはまります。というのも あんまり速く書き残すこと ができ ません。現役時代からそうでしたが、書き残す努力より、evidenceの内容をしっかい 聞く努力 をしてきた結果、こーいう非難されてもしかたのないjudgeになってしまいました。 具体的な問題点として、試合後にevidenceの内容を確かめにいくことが多くなる と いうこと あげられると思います。 こーいった dictation poor judgeではなく、本当にevidenceの内容をjudgingに関 係ないものと考え ているjudgeがいるとは 最近では聞いたことがないのですが(昔 スーパータブラ ジャッジ という人たちが多かったころは、こーいうjudgeも多かったのかもしれません。私の 師匠はその 一人だと思います)、今でも継承している人がいるのかも知れません。 他に 関西によくjudgeに来ているかたがたどうでしょう? (M.Sさん、I.O君) >少なくとも、私が関西でジャッジをしていた頃(1991-1994)には(Iyタ >それぞれ思想を持ったジャッジが活躍していたと思います(I!タ >現在は、どうなのでしょうか(I!タ 一つ大きな問題点としてあげられるのが、卒業生judgeがほとんどいなくなった、と いう問題が あげられます。今年卒業した人、昨年、そのもう一年前の卒業生を合わせて、春シー ズンにjudge に来てくれた人は5 or 6名程度です。卒業生judgeが来ることで、試合後のサークル ごとの打ち上げ 会で、4年生judge ひいては現役生とjudgingに関して語り合うことができると思う のですが、現状 では 卒業生が来ない、来ても自分の大学の4回judgeがいない、ということでほと んど酒の席での 熱いjudging論争が行なわれなくなってしまったのではないでしょうか。その結果jud geとしての思想 を確固としてもつことなく、また日々 自分のjudgingにたいして批判的な目をもつ ことないjudgeが 増えてしまったのかもしれません。 飲み会 西のI.K (東はY君) としては 大学のかきねをこえた飲み会の重要 性を感じると ともに、これから どんどん幹事をして judgingに関して4年生、上回生と語りあ いたいと思います。 NAFAの専務理事の皆さんなんかは、どんどん卒業生judgeや他の4年生を誘って 試 合後に打ち上げ 会をしてくれるとうれしいと思います。 もちろん 卒業生judgeがもっときてくれると もっとうれしい。 > >もちろん、関西のジャッジの状態が誤解であることを願っています(I!タ 関西在住の皆さんは、願うだけでなく 実際に行動していきましょう。 I.K
Date: Fri, 23 Aug 96 10:13:00 JST Subject: [JDA :1525] Re: risky games; debate >その場合は,スピーチ重視というよりは,意味は不明ですが「勢い重視」ジャッジに過 >ぎないと言うべきでしょう。そして察するにそうした何も分かっていないジャッジが判 >断できる「勢い」というのは,実はディベーターの出身サークルの「勢力」などであ >り,そうしたディベーターの属性でジャッジが行われている懸念すらあります。 > >ちょっと長くなりましたが,こうしたジャッジが関西に万が一にでも,実在するのな >ら,ここで強調すべきは,やはり本当の意味での「スピーチ重視」いや,上で述べたよ >うに「コミュニケーション過程・伝達力」重視のジャッジでしょう。 >K.IくんやI.Kくん,君達が戦っている病原体はきわめて悪質な可能性がありま >すぜ。諸君の健闘を期待する これは、まさに、NAFAが、設立当初に、戦った相手であります。 H.K
Date: Fri, 23 Aug 96 13:08:59 JST Subject: [JDA :1526] Re: kansai judge I.Oと申します。はじめまして。 1996年08月22日(木) 21時15分頃、 [JDA :1520]においてY.Yさんは書きました。 >最近の関西ジャッジの懸念される傾向?! >------------------------------------ >実はK.Iくん達が念頭に置いているジャッジがどういうジャッジなのかは知らないので >すが,最近関西に行ったというある若手ジャッジから,「関西ではジャッジはエビデン >スの中身は聞きとらないし,エビデンスの中身はディベートとは関係無いと考えている >から,エビデンス攻撃をしても意味はない」ということをある関西のディベーターから >聞いたという話を,聞きました。 今年の春は関西のほとんどの大会にジャッジとして行きましたが、 エビデンスを聞きとらないジャッジがいるというのは初耳です。 ラウンド後の会話を聞いていても、エビデンスを無視するような 考え方をするジャッジはいない(すくなくとも一般的ではない) ように見えます。 また、「エビデンス攻撃をしても意味はない」などと教えている 人も見たことはありません。 (むしろ、「エビデンスを重視しすぎる」ということのほうが 現状での問題として大きいのではないかと思うくらいです) 「ある関西のディベーター」の個人的な思い込みなのではないでしょうか?
Date: Fri, 23 Aug 96 13:12:43 JST Subject: [JDA :1527] Re: kansai judge M.S@関西ジャッジ, です. >> M.Tです。 たまにゃー飲み会に顔出せよ. (^^) >> >すが,最近関西に行ったというある若手ジャッジから,「関西ではジャッジはエビデン >> >スの中身は聞きとらないし,エビデンスの中身はディベートとは関係無いと考えている >> >から,エビデンス攻撃をしても意味はない」ということをある関西のディベーターから >> >聞いたという話を,聞きました。つまり二重に間接的な伝聞に過ぎないのですが,よも >> >やこのようなジャッジが実在し,それが「スピーチ(勢い)重視型」というジャッジの >> >正体だということなのでしょうか。 >> >> 関西ではジャッジの現状が上のような状態なのでしょうか? 最近はメジャーな大会にしか行っていない(行く暇がない!)ので, 現状は良く分かりません.しかし,関西の大会の上位進出チームを 見ていて感じることは,エビデンスに付けるクレームが, いつまで たっても向上していないということです.ジェネラルコメントで クレームの付け方について文句を言っているときにふんふんと 頷いていたのは単なるポーズだったのかなぁ?と思います. ジャッジがエビデンスを「聞き取ってくれない」にはいくつか 理由があるとおもいます.ジャッジの聞取能力が足りないというのも 確かにあるかも知れないのですが,私はそれ以外の大きな原因の1つに, 「ディベーター側がエビデンスを使って何を言いたいのか,自覚して いない」 があると思います.何を言いたいのか自覚していないから,適切な クレームが付けられないし, エビデンスの読み方も単調になったり, 逆に不要なイントネーションを付けてしまったりする.適切なクレーム が付いていれば,多少聞き取り能力が足りないジャッジでも,クレーム から類推されるキーワードを手がかりにしてエビデンスのエッセンスを 取ることは出来ると思います.逆にクレームが下手だと,要らない情報を 書き取ることに腐心してしまって必要(とディベーターが思っている) 情報が取れないということが起こったりすると思います.(この辺の 意思の共有の難しさについては矢野さんの[JDA:1520]がさらに詳細な 議論をされています) 某大会のセミファイナルやファイナルで, 下手なクレームのあとに スーパーラピッドスピーチを聞かされたときには, 帰りたくなりました. どこを聞いてほしいのか分からない状態でエビデンスを早「棒」読み して,後から 「実はコンテンツのこの部分がタイブレーカーなのだ」 「実はコンテンツのこの部分が肝心なのだ」 とか言われると,腹が立ちます.「なら,最初からそう言えよ」と, 言いたくなります.現実の世界で,何を言いたいのか考えずに 証拠だけを見せまくることなんてないですよね.議論する相手に わざと分かりにくく証拠を提示することなんてないですよね. とりあえず,その「エビデンスの中身を無視された関西ディベーター」 と話がしてみたいですね.もし,彼/彼女のスピーチに落ち度がなくて, かつエビデンスの中身がディベートと関係ないようなデシジョンを 出すジャッジが複数いるならば,それは由々しき問題だと思います. で,私には今,そういうジャッジがどのくらい居るのか, どの程度 ひどいのか,分からない状態なので,これ以上対策もたてられません. 憶測で議論を進めるには問題が難しすぎると思います. 話は変わって... 最近のジャッジルームでいつも感じるのは,同世代の人たちが いなくて寂しいなぁ、ということです. 上の代の人に至っては, A.Oさんが転勤されてしまって,根尾さんくらいしか 来られてませんしね.あ,そういえばEさんもたまに 来られます.おかげで,後輩ジャッジの知り合いが増えました. うれしいやら悲しいやら... で,昔よくあった,「ぼべ,ここはおかしいんじゃないか?」という 類いの突っ込みから始まるフィロソフィー論争, デシジョン論争が, 最近ほとんどありません.先輩,ということで, 遠慮してるんで しょうか?阪大の後輩からはたまに質問を受けたりもしますが, 他大学の人からはほとんど無いです.最近ではうちの小島君ぐらい しか議論した覚えがないですね.寂しいです. >> ディベーターもジャッジも真剣に議論と向き合ったときにこそ >> ディベートは楽しくなるのではないでしょうか? 全くその通りだと思います. ではでは.