続・ディベートの目的・ジャッジングに関する議論

Date: Sat, 24 Aug 96 21:20:55 JST
Subject: [JDA :1531] Re: kansai judge 
 
At 13:12 96/08/23 JST, you wrote:
> M.S%関西ジャッジ, です.
 
初めてメールを出しますN.M(大阪外国語大学卒)です。
関西judgeの一人として発言させていただきとうございます。
 
> 最近はメジャーな大会にしか行っていない(行く暇がない!)ので, 
> 現状は良く分かりません.しかし,関西の大会の上位進出チームを
> 見ていて感じることは,エビデンスに付けるクレームが, いつまで
> たっても向上していないということです.ジェネラルコメントで
> クレームの付け方について文句を言っているときにふんふんと
> 頷いていたのは単なるポーズだったのかなぁ?と思います.
> 
> ジャッジがエビデンスを「聞き取ってくれない」にはいくつか
> 理由があるとおもいます.ジャッジの聞取能力が足りないというのも
> 確かにあるかも知れないのですが,私はそれ以外の大きな原因の1つに,
> 「ディベーター側がエビデンスを使って何を言いたいのか,自覚して
> いない」
> があると思います.何を言いたいのか自覚していないから,適切な
> クレームが付けられないし, エビデンスの読み方も単調になったり,
> 逆に不要なイントネーションを付けてしまったりする.適切なクレーム
> が付いていれば,多少聞き取り能力が足りないジャッジでも,クレーム
> から類推されるキーワードを手がかりにしてエビデンスのエッセンスを
> 取ることは出来ると思います.逆にクレームが下手だと,要らない情報を
> 書き取ることに腐心してしまって必要(とディベーターが思っている)
> 情報が取れないということが起こったりすると思います.(この辺の
> 意思の共有の難しさについてはY.Yさんの[JDA:1520]がさらに詳細な
> 議論をされています)
 
 ボベさん、まったく(暇がないという点も)同感です。現在の関西で行われている
ディベートをジャッジに行った時によく思うことですが、クレームのつけかた、でりばりーのひどさ
が目につきます。クレームのつけ方についてですが、例えばエビデンスにあるセンテンス
をとりだしてクレームにしているだけなど、自分の言いたいこととそのために言うべ
きことの区別がついていないでぃべーたーが多いと思われます。それゆえにクレームレベルで
ロジックのつながりが切れているケースなど目につくし、また下手なカードアタック
も目につきます。They said....., but their card never says so.など。
 
 デリバリーについても、抑揚のないものや発音記号も調べずにエビデンスをよんでいる
などディベーターの準備不足(指導者の指導不足)も。
 ディベーターへのアドバイスとしてはジャッジはエビデンスのコンテンツをパーフ
ェクトにとる機械でも神様でもありません。カードアタックをジャッジにとってもらおうと
思ったら、相手のエビデンスのセンテンスを読み、クレームとのrelevancyのないこ
となどを指摘するようにすればジャッジはディベーターのカードアタックに耳を傾けるだろ
うと思います。
現役時代、私はジャッジがエビのコンテンツまでしっかりとっているとは思っていません
でしたので、私はそうしてましたけど。所詮ジャッジも現役より1年〜経験があるだ
けですしジャッジの能力をディベーターは過大評価する必要もないですし、だからこそジャッ
ジももっと勉強をして自分のジャッジングを向上させなければいけないと思います。
 これからジャッジになる人へ、私の大学の先輩の言葉ですが、「ジャッジはディベ
ーターを引退したからといってできるものではなくそれ自体勉強がひつようである。」
 私もまだまだ、スキル不足を実感していますがみなさん頑張りましょう。では、ま
た会う日まで。まとまりのない文章でしたが。
 ただいま酔っ払っているN.Mでした。
 
 
Date: Mon, 26 Aug 96 19:32:31 JST
Subject: [JDA :1535] Re: kansai judge 
 
H.Iです。
 
 「関西におけるエビデンスをとらないジャッジ」について議論が続いていま
すが、M.S君、N.M君(お久しぶりです。元気ですか。)は、
 
   「ディベーターがエビデンスを使って何を言いたいか明確にせず、また
    デリバリーもひどいことが、ジャッジにエビデンスを取ってもらえな
    い原因である」
 
旨述べています([JDA:1527][JDA:1531])。
 
 関東の大会でも同様の例はありますが、このような状況下で、エビデンスを
取らない(取れないというべきですね。)ジャッジがいたとしても、それ自体
はirrationalとはいえないと思います。
 
 むしろ、問題は「そのアーギュメントをどうジャッジするか」ということで
しょう。ここでジャッジが「エビデンスの内容が聞き取れなくても、そのアー
ギュメントを取る」という立場を取れば、その人は「スピーチの勢いで判断す
る」などという印象を持たれかねません。
 
 上記のジャッジが、聞き取れないアーギュメントを取るのは、「スピーチが
聞き取れないのは自らのリスニング能力が低いせいだ」と考えているからかも
しれません。
 
 かつて私自身もそのように考えていましたが、最近では、上記の状況下でエ
ビデンスが聞き取れないのは、リスニング能力とは無関係であると考えていま
す。
 というのは、相当早いスピーチでもクレームが明確でデリバリーも十分であ
ればフローが取れないということはなかったし、またクレームが不明確で、デ
リバリーも不十分なスピーチは、たとえ日本語でも聞き取れないからです(後
者については私は日本語ディベートにおいて実際に体験したことがありま
す。)。
 
 ジャッジは、ディベーターのクレームの付け方やデリバリーのまずさにより
聞き取れないアーギュメントは、取るべきではありません。(同様のことを、
Y.Yさんも[JDA:1520]で述べておられます。)
 「内容とかけ離れたクレームをつけても、まずい英語でエビデンスを読み飛
ばしても、ジャッジはアーギュメントを取ってくれる」という一部のディベー
ターの悪しき認識を改めさせない限り、彼らはいつまでたってもコミュニケー
ション力を上達させようとは思わないし、ディベーターの英語は益々ひどく
なっていくでしょうから。
 そして、クレームの付け方やデリバリーのまずいディベーターには、容赦な
くSpeechの点数を減点する(1点、2点をつける。)べきです。
 
 これまでは、私も含めた多数のジャッジは、このような断固とした姿勢は
取ってきませんでした。しかし、もし多くのジャッジがコミュニケーションを
無視したスピーチに対して厳しい姿勢で臨むようになれば、シーズン終盤に
は、コミュニケーション力に対するディベーターの態度は確実に変わるでしょ
うし、1年後には、スピーチのまずいディベートは相当減少すると思います。
 
H.I
 
Date: Mon, 26 Aug 96 20:53:03 JST
Subject: [JDA :1536] Re: kansai judge
 
H.Yです。
 
[JDA:1535]、H.Iさんの意見より、
	 ジャッジは、ディベーターのクレームの付け方やデリバリーのまずさにより
	聞き取れないアーギュメントは、取るべきではありません。(同様のことを、
	Y.Yさんも[JDA:1520]で述べておられます。)
	 「内容とかけ離れたクレームをつけても、まずい英語でエビデンスを読み飛
	ばしても、ジャッジはアーギュメントを取ってくれる」という一部のディベー
	ターの悪しき認識を改めさせない限り、彼らはいつまでたってもコミュニケー
	ション力を上達させようとは思わないし、ディベーターの英語は益々ひどく
	なっていくでしょうから。
	 そして、クレームの付け方やデリバリーのまずいディベーターには、容赦な
	くSpeechの点数を減点する(1点、2点をつける。)べきです。
 
私もこの意見に賛成で、実際にこのような考えでジャッジをしていました。
 
ただ、一度困った事がありました。
自分が理解できない(提示の仕方に問題があるためと判断した)として切り捨て
た
アーギュメントがラウンドの中でコンセンサスとなってしまったのです。
しかも、そのアーギュメントはPOLICY MAKING PARADIGMからのシフトを要求する
もので、これを提示したAFFは当然PLANを出してません。(UT卒のみなさん、たしかJNDT
かNAFATのファイナルでしたよね)
結局この議論を見とめず、AFFがPLANを出していないのでNEGにVOTEしたのですが
、
なんだか自分勝手にディシジョンを出したようで、後味の悪い思いをしました。
(人から批判を受けたことではなく、自分の頭の中ですっきりしなかったということです)
 
ディベートの問題点の一つとして、ディベーターの議論をジャッジがどの程度理
解したか、納得したかが試合が終わるまでわからないという事があると思います。
ディベーターは、自分の提示した議論がジャッジに受け入れられたかどうかはわ
かりません。
もしジャッジが理解できていないと知れば、もう一度より丁寧に説明し直すこと
ができますが、そのチャンスはありません。
競技ディベートでは「万人に一度で理解されうる議論をすること」を要求されて
いるのでしょうか?
競技ディベートでは「自分が何を言ったのか理解されなかったから議論を採用さ
れない」のと「自分の議論の内容に説得力がないから採用されない」のとは同じであると扱っ
てよいのでしょうか?
この疑問について、よきアドバイスを。
 
 
 
 H.Y
 
Date: Mon, 26 Aug 96 23:57:49 JST
Subject: [JDA :1537] Re: kansai judge 
 
M.Sです.
 
>> H.Yです。
 
久しぶりやね.元気にMTBやってる?
 
>> ただ、一度困った事がありました。
	<中略>
>> これを提示したAFFは当然PLANを出してません。(UT卒のみなさん、たしかJNDT
>> かNAFATの
>> ファイナルでしたよね)
 
多分,私も困ったラウンドだったと思います.
 
>> ディベートの問題点の一つとして、ディベーターの議論をジャッジがどの程度理
>> 解したか、
>> 納得したかが試合が終わるまでわからないという事があると思います。
>> ディベーターは、自分の提示した議論がジャッジに受け入れられたかどうかはわ
>> かりません。
 
しかし,フィロソフィーを見れば,ジャッジがどのような考え方を
しているかをある程度理解できると思いますし,そこから類推すれば, 
ある議論をディベートのフォーマットで制約された時間内で説明した
場合にどのくらい理解してくれそうかを予想できると思います.
 
>> もしジャッジが理解できていないと知れば、もう一度より丁寧に説明し直すこと
>> ができますが、
>> そのチャンスはありません。
>> 競技ディベートでは「万人に一度で理解されうる議論をすること」を要求されて
>> いるのでしょうか?
 
「万人に」ではなく,「ジャッジの出来るだけ多くに」一度で理解され
うるものが要求されていると思います.「自分の意見を限られた時間内
のスピーチにまとめて,相手に十分伝える」というのも,コミュニケー
ションの技術の1つだと思います.実際,同じ情報を異なる時間長で
説明する技術は,実社会のいろいろなコミュニケーションの場面で
要求されると思います.例えば, 研究内容を,学会で45分かけて説明
したものを会社の面接では10分で説明するとか.
 
その場合にどうしても必要になるのは,理解させたい相手のモデル
でしょう.基本的にどういう考え方をする人なのか, これから説明
しようとする内容に対する理解度はどれくらいなのか.
 
そのうえで言い直しなしの一度で理解してもらうには, ジャッジの
考え方を理解し,ジャッジに理解してもらうための説明を準備する
ことが必要と思います.準備のときの基準は,「最低限,これだけ
言えば分かってくれるだろう」です.
 
余談ですが,私がフィロソフィーを日本語で書いているのは,
1.ディベーターに私の考えを良く知ってもらいたい
2.私自身の英語表現力では,少ない文書量でディベーターに十分私の
 考え方を伝えることができない
3.あまりに長文だと,ディベーターがそれを試合前に読んで理解する
 時に負荷がかかりすぎて, 議論を楽しむための準備に必要な貴重な
 時間と体力を奪いかねない
というのが主な理由です.ディベーターにとって, より多くのvoteを
取るためにジャッジのモデルを作るのは大事ですが,モデル作りよりも
そのジャッジをどう動かすか,つまり,理解させるためのスピーチ作り
や議論の方が大事だと思うので,フィロソフィーがディベーターの
体力を奪ってしまわないように,と心掛けています.
 
>> 競技ディベートでは「自分が何を言ったのか理解されなかったから議論を採用さ
>> れない」のと
>> 「自分の議論の内容に説得力がないから採用されない」のとは同じであると扱っ
>> てよいのでしょうか?
 
私は同じ「ディベート技術の不足」として扱って良いと思います.
後者を採用しない理由についてはこれまでこのMLで議論されてきた
通りですが,前者は,「規定のフォーマットでジャッジの理解を
制御できなかった」という理由で採用しません.よく言うでしょ?
「あー失敗したぁ.時間が足りなくてうまく説明できなかったぁ」
って.あれですよ.
 
ただ,ジャッジもしっかりと自分のモデル(=フィロソフィー)を
自分自身で把握し, 分かりやすく提示する努力を怠ってはいけない
ことは言うまでもありません.ごく一部の素晴らしいジャッジング
技術を持った人を除いて,「私は何でもとります」とだけフィロ
ソフィーを書くことは, ディベーターを惑わせてしまうという点で
非常に無責任だと思います.
 
ではでは.
 
Date: Tue, 27 Aug 96 02:06:09 JST
Subject: [JDA :1538] Re: kansai judge & お願い
 
はじめまして。
T.Y(同志社大卒)です。
 
関西ジャッジだった一人ですが、いくつか意見を述べさせていただきます。
 
[JDA:1524]、I.K君の意見より、
  ..本当にevidenceの内容をjudgingに関係ないものと考えているjudgeが
 いるとは最近では聞いたことがないのですが(昔 スーパータブラジャッジと
 いう人たちが多かったころは、こーいうjudgeも多かったのかもしれません。
 
 ここでいう、スーパータブラジャッジが私がジャッジをしていた頃のジャッジなら、
エヴィデンスの内容をジャッジングに関係ないものと考えている知り合いはいません
でした。
 
 私は、アーギュメントが高級すぎて理解できない場合でも、スピーチが下手で理解
できない場合でもコンセンサスには(従い方がわかるので)従っていましたので、こ
のときは結果的には、エヴィデンスを無視していたことになるのかもしれません。
 
 [JDA:1536]でH.Y君が困っていたファイナルでも、私はすべてを理解していたと
は思いませんが、トピカルならUTにいれていたはずです(ノントピカルと判断した
ので上智大にいれた)。
 
 但し、私が満足しない点に関してはポイントを相対的に低めに、チームレートも低
めに付けていたと思います。ディシジョンはラストリバッタルでおこなったディベー
ターのスピーチ(ニューを除く)をもとに、ポイントは私のかなりの独断のもとにつ
けていたと思います。バロットにも...と言っていたが、...という反論により
...と判断した。というふうにリバッタルのスピーチをもとにリーズン フォー
ディシジョンを書くことが多かった用に思いますが、このスピーチがエヴィデンス
と一致してない(拡大解釈している)こともあったと思います(コンスト、あるいは
1リバで相手がだまされている)。これもエヴィデンスを無視していると思われたの
か?
 
 現役時代に自分がスピーチが特に下手だったということもあり、後輩にはそうなっ
てほしくはないという意味も込めて、理解できたものしかとらないし、ラウンド後、
たとえエヴィデンスの内容がわからなかっても決して見に行くことはありませんでし
た(これもエヴィデンスを無視していると思われたのか?)。
 
 話は変わりますが、マナーの悪い人にも積極的に減点をすべきだと思います。例え
ば、プレパレーションタイムをとめてもなかなかスピーチを始めない人とか。
 
 ところで、最近のジャッジはジャッジングの仕方が変わってきているのでしょうか?
ジャッジング フィロソフィー集をNAFAのホームページで作ることはできませんか?
 
 
Date: Tue, 27 Aug 96 02:40:53 JST
Subject: [JDA :1539] Re: risky games; debate for whom
 
最近メールを読んでいなかったのですが、その間にかなりの議論が展開していますね
。K.Iさんの[JDA :1495] に対するコメントを書こうと思っていたのですが、その後
に出た書議論全般に関して申し上げます。
 
* ディベートの目的に関して
 
ディベートの目的に関しては、Y.Y氏には悪いが、やはり、合理的な言語行為に関す
る諸規範・実践の教育という規定ははずせないと思います。
 
ここで、注意していただきたいのは、ディベートという活動を捉える範囲というか、
視点です。ディベートを、単に、「ディベータ個々人の行為」だけを見て規定しよう
とするのは、余りに局所的な見方です。「ディベータ及びジャッジを含めた複数の人
々の相互的な行為」として見る必要があるということです。
 
ディベートに於ける合理的な言語行為、広義の論理的な言語行為の中心性は、意思決
定を伴うような公共的言語行為に於ける規範の重要性は、後者のような観点からディ
ベートを見ないと、理解しにくいと思います。
 
単にディベータ個人の発話行為だけ見ていると、ディベートは、コミュニケーション
能力を養うためにある、という見方に陥りがちですが、それは、ディベートのミクロ
的な局面に過ぎないでしょう。
Y.Y氏が指摘するようなコミュニケーションの能力(「情報の(1)理解力, (2)分析
力と,自説の (3)構成力と, (4)伝達力」)というのは、基本的には、およそあらゆ
るコミュニケーションに必要な能力であり、我々が言語行為を行う上で、日々習得し
ている能力です。理解力と伝達力は明らかにどのようなコミュニケーションでも必要
でしょう。そして、分析力と構成力は、一見すると、議論の状況に於いて求められる
と思われるかもしれませんが、実際には、どのようなコミュニケーションでも必要で
しょう。自覚的に分析や構成がなされるかどうかは別ですが。両者が顕著に目に付く
のは、議論の状況でのコミュニケーション内容のように、広い意味で論理的な構成を
内容が持っている場合でしょうが。
 
ディベートでなくても、あらゆるコミュニケーション状況で、それらの能力は必要で
あり、それらを養うのは、ディベートに特有であるとは言えないでしょう。
特にディベートでなくても、相手に自分の考えを理解させる場でのあらゆる実践は、
構成力と伝達力との向上に役立つでしょう。ディベートのような形態よりもむしろ、
コミュニケーションを行っている人々の間でのその場でのフィードバックが多い形態
の方が、そういう能力の向上にはより寄与できるでしょう。
ディベートの結果として、それらの能力が向上するのは確かでしょうし、有効なコミ
ュニケーションの可能性がディベートの前提となっているも確かでしょうが、ディベ
ートを主としてそういう能力の向上に向けられたものとするのは、ディベートの活動
全体を考慮しないことだと思われます。
 
ディベート活動全体を考慮すると、即ち、ディベータが議論をし、ジャッジがそれに
対して判断を下すという活動を全体として見ると、そこで働くべき規範というものの
尊重ということを実践に於いて学ぶことがディベートにより可能であることは明らか
でしょう。そこでの規範は、議論での規範であり、それを実践を通して学ぶことはデ
ィベートにより最も有効に成し遂げられることも明らかでしょう。
 
そういう議論という言語ゲームのルールを実践を通して学ぶこと、これ以外に、基底
的となるようなディベートの目的は有り得ないと言ってもよいと思います。
 
そのような規範、ルールは、合理的な言語行為に於いて働くものであり、最も単純な
形では「このような前提の下では、このように判断するべきだ。」と定式化される規
定の網の目です。勿論それらは、完全に枚挙されているものではないし、背景的なも
のとしてしか意識されないものも含んでいます。これらは、我々のコミュニケーショ
ンが、一定の状況(公共的意思決定のための話をするとき、etc)に於いて従うべき
とされる(あるいはそのように見なそうと我々が努める)規範です。
 
ディベート教育は、単なるコミュニケーションの技能ではなく、一定の状況でのコミ
ュニケーションの規範に向けられるとされるのが適切でしょう。
 
因みに、この点から言うと、「論理的な話し方」の教育それ自体は、ディベートの目
的の一部でしかないでしょう。議論を論理的に判断することも、それと不可分に教え
られる必要があります。
 
 
* その他
 
S.Y氏の比喩に関して言えば、
 
ディベートでは、「一定の前提の下で、何が黒いとされるか。」を様々な前提の下で
判断できることが最も重要と言えましょう。(但しここでの判断は二重の意味合いが
あります。つまり、ディベータとしての判断及びジャッジとしての判断です。そうい
う判断を主張・説明することも、それらの主張・説明を聞いて、(メタ的に)判断す
ることも両方重要です。)
 
「勢い重視」ジャッジに関して
 
言うまでもなく、人間は常に(論理的・合理的に)正しい判断をしている訳ではあり
ませんが、[JDA: 1495]でのK.Iさんの議論は、そういう現実を、規範に優先させよ
うとしているような気がします。それは本末転倒でしょう。
勢い重視ジャッジは、単に、正しくジャッジしていないことの口実に「勢い」や「レ
トリック」を持ち出しているだけでしょう。
 
もうどうでもよいことですが、UFO DEBATEについて
 
初心者にジャッジの役割をさせるのが一番よい改良法でしょう(それだと面白さが減
るでしょうが。)
 
Date: Wed, 28 Aug 96 12:45:23 JST
Subject: [JDA :1549] Re[2]: risky games; debate for whom
 
H.Iです。
ディベートの目的についてのY.Kさんのメール([JDA:1539])を読んで
 
1.ディベートの目的について
 Y.Kさんは、ディベートの目的を「合理的な言語行為に関する諸規範・実践
の教育」と捉えておられます。
 Y.Kさん自身の言葉を用いて説明するならば、これは「筋道を立てて、正し
く議論すること、及び、他人の議論から合理的な妥当な判断を下すこと、を実
践を通して学んでもらうこと([JDA:1520]より)」ということになります。
 
 ディベートの意義としては、私もこれが最も妥当であると考えます。ただ
し、「それがなぜ有益なのか」という点については、説明を要するかもしれま
せん。
 
 私自身は、次のように考えています。
 
 議論(他人の議論の判断も含みます。)を行えば、人は自己と違う考え方を
知ることができ、また論点について考察を深めることができます。すなわち、
議論のテーマについて、より多面的な考察、より深い分析を行うことができま
す。その結果、テーマについてより合理的な判断を下すことができます。よっ
て「正しい議論の仕方(ジャッジの仕方も含みます。)」を学ぶことは有用な
のです。
 
 このことは、経験的にも理解してもらえると思います。学問の世界では、論
争を通じて学問が発展することはしばしばありますし、またJDA-MLでも議論を
通じてそのテーマについての考察が深まっていくのは、皆さんも実感されると
ころだと思います。
 
 「正しい議論」は、民主主義にとっても不可欠な要素だと思います。議会に
おいて、各議員が各人の意見をぶつけ合い、議論を通じて考察を深め、国民全
体の見地から判断して多数決を行う(この場合の多数決は、Audience Voteに
類似するかもしれません。)ことにより、はじめて国家としての合理的な意思
決定が可能になり、多数決という意思決定方法が正当化されるのではないで
しょうか。このようなプロセスを経ない多数決は、単に多数派が少数派を押し
切ったということにすぎません。(まあ、現実の国会がこのような理想から程
遠い状況なのは、皆さんご承知の通りですが。)
 
 
2.ディベートとコミュニケーション能力
 上記のディベートの意義にかんがみると、ディベートにおいて習得すべきも
のは、一般的なコミュニケーション能力ではなく、「正しい議論(ジャッジも
含みます。)をするために必要な能力」です。両者には相当隔たりがあるで
しょう。(例えば、ディベートの意義を一般的なコミュニケーション能力の向
上とすると、「他人の議論を正しく判断する」というジャッジの役割が軽視さ
れるおそれがあります。)
 
 ただし、私はディベートを行う上で、コミュニケーション能力は非常に重要
な要素と考えています(ただし、「正しい議論を行うために必要な」という限
定を付けたコミュニケーション能力ですが。)。
 
 ディベートは、異なる考え方を持った者の間でなされるものです。同じ考え
方を持つ者の間では、「共通のコンセンサスを前提とした曖昧なコミュニケー
ション」であっても用は足りますが、異なる考え方を持つ者に自己の主張を正
確に伝えるためには、自己の考え方を論理的かつ明確に伝える必要がありま
す。
 そして、議論においてコミュニケーションが不十分であれば、「議論を通じ
てテーマについての考察を深める」ことは非常に困難です。いいアーギュメン
トを出していながら説明が下手なために、その論点について議論が深まらな
かった試合を見た経験は皆さんもあると思います。
 
 このように、ディベートにおいて目指すのは、コミュニケーション能力の向
上ではありませんが、「異なる考え方を持つ者の間のコミュニケーションの困
難性」に着目するならば、より有益な議論を行うための First Stepとしてコ
ミュニケーション能力の向上を心がけることは、方法論として間違ってはいな
いと思います。
 
 Y.Kさんのメールは、コミュニケーション能力の向上の重要性を否定するも
のではなく、コミュニケーション能力の向上が Ultimate Goalでないことを指
摘するものであると、私は理解しています。
 
P.S.
 ディベートの意義を抽象的に論じるよりも、現状でディベーターやジャッジ
が何をすべきか考えるべきでは、という意見もあるでしょうが、「何を目指す
べきか」を検討することなしに、「現状で何をすべきか」は決まらないでしょ
う。その意味では、ディベートの意義を論じることは、〜現役ディベーターに
とっても〜、あながち無意味な議論とはいえないと思います。
 
 「ディベートは楽しけりゃいいじゃないか」という意見もあるでしょうが、
ディベートの「楽しさ」というのは、ディベートの意義と密接に関連している
と思います。下手なスピーチや、いわゆる「勢い重視」ジャッジが横行するよ
うなディベートでは、誰も楽しめないんじゃないかな。
 
 
H.I
 
 
Date: Tue, 27 Aug 96 21:42:20 JST
Subject: [JDA :1543] 勢い重視judge について
 
 N.Mです。最近judgeについての議論
が盛んですが、もう一言言わせて下さい。
 勢い重視judgeのことです。私の頭のなかでの定義なのですが、
「個々のargumentの内容の吟味、argument間のつながりの吟味を
せず(できず)、pull and drop重視及びspeech skilのあるチームの議論に流されて
しまうjudge」との仮定で話をさせてください。
 私はそうしたjudgeは二通りいると思います。すなわち、故意の場合と無意識の場合
です。故意そういうjudgingをする人もいるかもしれませんが、絶対的に少数でしょう。
(あくまで、judgeにそういう人はいないと私は思います)むしろ、多くの場合は無
意識の内にそういうjudgingをしてしまっていると思われます。しかし、私が考えるところなの
ですが、こういう人たち(私もふくまれるかも)は単にjudgeとして未熟なだけではないので
しょうか。
確固たる証明はできませんが、初心者またはjudge未経験の現役debaterの人たちがro
undを見ていてどのチームが勝っているとか判断する際にjudgingについて深く考えていな
いがためにこうした傾向があります。(私の経験ですが、私自身の経験も含む)それと同じなだ
けと思います。
つまり、個々のjudgeが自分のjudgingphilosophyを確立できていない、または自らのskill不足
が故に深く考えることをあきらめてしまう、というのが原因であり、真相なのではないでしょうか。
 そうすると、私はいたづらにそういった人々を非難したり、排除したりする動き(こんな動き
があればですが)に賛同できません。debateまたはjudgingはたかだか1年や2年で
しっかりと理解できるはずもなく奥深いものであり、だからこそ毎シーズンjudgeとして足繁く通う方もいらっしゃるはずです。私もjudgeをさせてもらって3年めになりますが、2年めのときに少し自
分の目指すべきjudgingが見えてきたかなという程度です。
 ですからdebatecommunity全体としては、こうしたjudgingに対する議論が盛り上がるのは良い
ことなのですがdebatecommunityのmember一人、一人が自己の向上をめざし助け合い、切磋琢磨
するという流れをつくっていけば、こうした問題も消えて行くだろうと私は考えています。
 
 私の個人的な想いとして、judgeは真摯にdebate round に臨み、自己を批判する誠意と
勇気を持ち、judgeとして自分がdebaterに対してなにができるかというjudgeとして
の自己の存在意義を自らに問うこと(たとえば、なぜ一般にjudgeをしているのが、引退したdebat
erであり現役のdebaterでもなければ近所のおばちゃんでもないのかというようなこと)を忘れない
でいたいし、忘れないでほしいということを最後の言葉にして、私はひとまずこの議論から遠ざか
り、初心者教育について今後考えてみたいと思います。
 
 真面目な文章を真面目に書き、疲れた。それにしても、現役debaterはこの手の議論
を見ていて楽しいのでしょうかね。もっと気軽に現役の(特に関東以外の地区の)debaterから、あの
大会のこのroundはおもしろかったとか、このargumentが分からないから教えて下さいとかの書き込みがあったら良いのになあとも思います。
 
Date: Thu, 29 Aug 96 19:44:18 JST
Subject: [JDA :1563] Re: risky games; debate for whom
 
Y.Tです。
 
ディベートという活動を「コミュニケーション能力の養成」というような、行為目的
で規定するのは誤りだ、というY.Kさんの主張には、全面的に同意します。ただ、私
は「コミュニケーション能力」というのは、行為目的と捕えても、まだ狭すぎると考
えています。このことは、ちょうど1年前に述べたことがあります([JDA :43] Re: 
Debate and norms )。そこで述べたのは以下のようなことでした(引用)。
 
  ディベートをコミュニケーション訓練としてのみ捕えるのでは不十分だと
  思います。ディベートを行うには、言語による意思疎通を行うより前の作
  業が不可欠だからです。現実を観察し、分析・統合し、自分の思考を徹底
  的に吟味する過程がまず最初にあり、コミュニケーションはその後の段階
  です。
 
Communicate のプロセスが面白くて有意義なのは、コミュニケートする内容(what)
があり、その方法(how)を考えるからです。知ることと考えること(批判的思考)
が先で、次にコミュニケーションがあり、そこからまた批判的思考が繰り返される。
「勢い重視」云々も、この批判的思考に対する無理解から生まれているのではない
かと私は思います。そして、合理的意思決定、批判的思考といった概念から、現行
のディベートの規範(norm)が形成されていると考えてよいでしょう。
 
さて、
 
kaniike@cogsci.l.chiba-u.ac.jp (Yoichi Kaniike) wrote on Tue, 27 Aug 96:
>ディベート活動全体を考慮すると、即ち、ディベータが議論をし、ジャッジがそれに
>対して判断を下すという活動を全体として見ると、そこで働くべき規範というものの
>尊重ということを実践に於いて学ぶことがディベートにより可能であることは明らか
>でしょう。そこでの規範は、議論での規範であり、それを実践を通して学ぶことはデ
>ィベートにより最も有効に成し遂げられることも明らかでしょう。
>
>そういう議論という言語ゲームのルールを実践を通して学ぶこと、これ以外に、基底
>的となるようなディベートの目的は有り得ないと言ってもよいと思います。
 
Y.Kさんの議論の難点は、ディベートがそれ自体を他と区別するための正当な理由が
必要である、という命題から演繹して、正当な理由はそのユニークな規範である、と
規定している点です。これは合理主義的であって、合理的でない、demarcation とい
う目的にとらわれて、本質を見失いかねない議論だと思います。
 
#「活動の正当化」という政治的な立脚点に立つならば話は別ですが。
 
Date: Fri, 30 Aug 96 00:06:17 JST
Subject: [JDA :1566] To Mr. Kaniike, From Kaoru I
 
同志社のK.Iです。
しばらく潜んでいるつもりでしたが
のこのこと現れました。
 
Y.Kさんに質問があります。
 
[JDA:1539]を読みましたが、
ディベートの目的に関する部分で、Y.Kさんの
おっしゃることは、解る気がするのですが、
いまいち、ピンときません。
 
私の理解したのは、
 
>ディベートの目的に関しては、Y.Y氏には悪いが、やはり、合理的な言語行為に関す
>る諸規範・実践の教育という規定ははずせないと思います。
 
>ディベート教育は、単なるコミュニケーションの技能ではなく、一定の状況でのコミ
>ュニケーションの規範に向けられるとされるのが適切でしょう。
 
ということですが、そうでなくてはならないという部分に
おいて、どうもY.Kさんの主張は(生意気言ってすいません。)
欠けていると思うのです。
 
それは、IMPACTの欠如だと思うのですが、
 
>(それでは、上記の二つのことはなぜ重要か、という話しになるでしょうが、根本的
>にはそれは、社会的正義の実現の前提になるからです。つまり、合理的な言語活動に
>基づく、合理的な意思決定というのが、少なくとも民主主義社会では、正義(justice
>)の前提となると思われます。この辺りの話は、ここでは詳しく書けませんが、直観
>的には理解して頂けるかと思います。)
FROM[JDA :1488] risky games
 
というのが、おそらく重要性を説明しているんですよね。
もちろん、うっすらと正義の前提というのはわかるのですが、
うっすらとだけです。
よろしければ、この上記の記述について
もう少し、説明を頂けますか?
 
[JDA :1549] Re[2]: risky games; debate fにおいて
H.Iさんがおっしゃっていることが
この説明にあたりますか?
 
憲法や国際法の教科書を見ても、
諸権利の大切さについて、「大切なんだろうな。」
とはいつも思うのですがいまいち
実感が伝わらないことがままあります。
私の今の感覚はそんな感じです。
 
この質問はひょっとして、
DEBATEから遠のきますか?
それとも核心に少しは
近づけますか?
 
 
Date: Fri, 30 Aug 96 19:48:20 JST
Subject: [JDA :1570] Re: risky games; debate
S.Yです。
 
これは、以前田村さんがやられたことですが、非常に効果的であったと思うので、
もう一度させていただきます。
 
 
Y.Kさんのメールの中の単語を以下のように置き換えます。
 
ディベート=スポーツ、ディベーター=プレーヤー、発話行為=プレー、
コミュニケーション能力=運動能力、言語行為=運動行為、理解力=認識能力
分析力=予測能力、構成力=瞬発力、伝達力=持久力、議論=スポーツ、規範=ルール
 
>* スポーツの目的に関して
>
>単にプレーヤー個人のプレーだけ見ていると、スポーツは、運動
>能力を養うためにある、という見方に陥りがちですが、それは、スポーツのミクロ
>的な局面に過ぎないでしょう。
>Y.Y氏が指摘するような運動の能力(「相手のプレーの(1) 認識能力, (2) 予測能力
>と,自分自身の (3) 瞬発力と, (4) 持久力」)というのは、基本的には、およそあらゆ
>る運動に必要な能力であり、我々が運動行為を行う上で、日々習得し
>ている能力です。
>
>スポーツの結果として、それらの能力が向上するのは確かでしょうし、有効なスポーツ
>の可能性がスポーツの前提となっているも確かでしょうが、スポーツ
>を主としてそういう能力の向上に向けられたものとするのは、スポーツの活動
>全体を考慮しないことだと思われます。
>
>スポーツ活動全体を考慮すると、即ち、プレーヤーが運動をし、審判がそれに
>対して判断を下すという活動を全体として見ると、そこで働くべきルールというものの
>尊重ということを実践に於いて学ぶことがスポーツにより可能であることは明らか
>でしょう。そこでのルールは、運動でのルールであり、それを実践を通して学ぶことはスポーツ
>により最も有効に成し遂げられることも明らかでしょう。
>
>そういう運動というスポーツ・ゲームのルールを実践を通して学ぶこと、これ以外に、基底
>的となるようなスポーツの目的は有り得ないと言ってもよいと思います。
>スポーツ教育は、単なる運動の技能ではなく、一定の状況での運動
>のルールに向けられるとされるのが適切でしょう。
 
----------------------------------------------------------------
うーん、スポーツ教育によって、ルール(秩序)を尊ぶようになる、まあ、
それも一理あります。(高校野球など、学校教育でのスポーツ教育はたしかに
これを重視している気はする)
 
しかし、誰から見ても、「スポーツ」の主要な価値として、運動能力の獲得があるのは間違
いないでしょう。
 
-----------------------------------------------
さて、ディベートの話に戻りますと、
 
Y.Kさんが、「規範」ということばで一体何をいわんとしているのかは不明ですが、
個人的には、ディベートの本質的なルールというのは、「合理的に、根拠をもって判断する」
ということだと思いますので、「ディベートを手段とする教育」の目的は、そのよ
うなルールを尊重することを学ぶ、ということでしょう。これは大事なことだと
思います。
 
さらに、「ディベート」の主要な目的に、ディベートというゲームを通じて、Y.Y
さんのおっしゃるような、正しいコミュニケーション能力を身につける、という
ことが含まれるのは間違いないと思います。
 
結局、両方大事なのではないでしょうか。
 
 
#かえって話をややこしくしてしまった気が・・・
 
S.Y
 

 

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