命題の主語が判定に与える影響について


 
 
Date: Mon, 29 Mar 99 20:16:32 JST
Subject: [JDA :5625] Re: 5th JDA debate
 
A.Aさん、大会の運営ご苦労様でした。
 
 
決勝のジャッジをし、否定側に票を入れました。争点はいくつもあったのですが
最終的に「食糧援助して人命が少しでも助かればいいじゃないか」というレベル
の「メリット」しか残らず、「外交政策をとるべし」というにたる理由を認めら
れなかった、というのが私の判定理由です。
 
これについてもう1人のジャッジの方は「少しでも助かるなら」と肯定側に判定
を下しました。さらにもう1人の方は、デメリットを採って否定側に判定しまし
たが、質疑応答において、「人命が少しでも助かるなら直感的にメリットと見な
し、政策を採用する理由とする」と答えられていました。
 
私はこれらのコメントに軽いショックを受けました。と同時に興味をそそられま
した。一瞬、「自分は重過ぎる presumption を想定しているのだろうか」と
思ったものです。「ひとりでも助かればいいんじゃないですか」という会場から
の質問には、「肯定側は論題を肯定する立証責任を負っている。政策実行の結果
として直感的に良いことがあるというだけでは、必ずしも政策を正当化すること
にならない」と説明しましたが、どのくらいわかってもらえたかは自信がありま
せん。
 
帰り道にこの問題を考えていたのですが、「メリット・デメリット方式」という
簡易型の comparative advantage case が最近の日本語ディベートのデファクト
スタンダードとなっていることに問題がありはしないか、という気もします。こ
の点については、時間がかかるのでまた次の機会に書きたいと思いますが、何を
テーマにディベートしているのか、という論題に対する視点を欠くディベーター
が多い。これは残念なことです。メリット・デメリットを中心にリサーチをして
ケースを作り、試合をしてもある程度ディベートを学ぶことはできますが、それ
で終わってはずいぶん退屈だし、効率も悪い。
 
日本語ディベートの優れた role model がないことが弱点なのかもしれません。
これについてはもう少し考えてみます。
 
毎回のことながら、ジャッジをすると勉強になります。
 
Y.T

 
Date: Thu, 1 Apr 99 01:15:54 JST
Subject: [JDA :5630] Re: 5th JDA debate
 
O.Tです。
 
>>  また、Y.Tさんは、日本語ディベートの問題として、この問題をとらえています
>> が、これは外交政策についての判断基準に関する公共的議論の未発達に究極的には行
>> き着く問題で、現に、Y.Tさんがカルチャーショックを覚えた発言の発言者は、英語
>> ディベートを長らくやってきた人です。
 
ってそれ俺じゃん :-> 
 
確かに、少数でも人命が救われるのであればメリットと見なそうか、とは思うわけで
すが、私のコメントの後半部分で述べたように、否定側がそれをひっくり返す議論を
提出することはもちろん welcome です。
 
詳論はまた別の機会に行いたいですが、Y.Tさんのメールを読んで、確かに自分は益
と命題正当化との関係をあまり念頭においていなかったなと感じました。ただし、人
道的な名目のもとで外交政策が取られることは日常的にあるので、その意味では「人
命の救助」がある外交政策を取ることの正当化に用いられても、それほど奇異ではな
いでしょう(一人でも、とかすごく少数でも、という限定がつくとわかりませんが)。
 
>> メリットなりデメリットのインパクトなりvalueを評価するときに、主体の「べき」
>> を正当化するような価値なのかと考えれば足り、別途の論題の正当化
>> 「justification」の議論をたてる実益は小さい
>> というものです。
 
主体の「べき」というのは、この命題では、日本政府にとっての利益・義務、という
意味ですか?
 
短いですがこんなところで。
 
O.T
 

 
Date: Thu, 1 Apr 99 10:24:17 JST
Subject: [JDA :5632] Re: 5th JDA debate
 
こんにちは。S.Sです。
 
O.T氏曰く
 
>ただし、人道的な名目のもとで外交政策が取られることは*日常的に*あるので、
その意味では「人
>命の救助」がある外交政策を取ることの正当化に用いられても、それほど奇異ではな
>いでしょう
 
「日常的に」というのは本当でしょうか?
その是非はともかく、外交政策とはむき出しの「国益」のぶつかり合いであり、ある
外交政策を取るもっとも根源的な理由は、「国益」につきるような気がします。アメ
リカ外交の授業でも、アメリカがある外交政策を取る本質的な理由は、"Our
interest"であって、「人道的」云々を正当化の文脈で使っていても、それは宣伝効
果を狙ったものであるか、そうでなくても「国益」というメインな目的に従属的なも
のだと考えられています。
 
O.Tさんは、「日本政府が日本人(1億人)全員に毒入りカプセルを飲ませて日本人
を全滅させれば、地球環境が改善されて、インドで飢えて死ぬ人(2億人)を救え
る」としたら、日本政府はこのプランを取るべきだと思われますか?
 
ディベートにおける当為性(Should)の解釈はいろいろと難しいものですが、ディベー
トにおけるナイーブな人命至上主義が普遍性を持つものかどうかは議論の余地が大き
いと思います。
 
 

 
Date: Fri, 2 Apr 99 21:52:39 JST
Subject: [JDA :5646] Re: 5th JDA debate
 
Y.Tです。
 
私の随想についての、下記のY.Kさんの解釈は、100%合っています。
(ご丁寧にありがとうございます > Y.K様)
 
「本来の」comparative advantageであろうと、メリット・デメリット方式で
あろうと、それ自体は構わないのですが、一定の形式に頼り切ることにより
その形式が前提としているものや、省略しているものに気がつかないのでは
困るのです。
 
日本語ディベートにおいては、現在デファクトスタンダードになりつつある
メリット・デメリット方式によりかかってディベートをしている観が強く、
そのために本来考えるべき当たり前の理屈(なぜ政策を決定する理由になる
のか)が軽んじられているように思ったのです。
 
私が他のジャッジのコメントに「軽いショックを受けた」のは、この問題が
英語ディベートにおいては広く認識されていると思っていたからに他なりま
せん。認識されていることと、解決されていることとは全く異なります。た
だ、英語ディベートでジャッジをしてきた人たちは、私と同じような問題認
識を共有しているものと思い込んでいた。これは必ずしもそうではなかった
ようです。。。
 
 
<後略>

 
Date: Mon, 5 Apr 99 22:19:47 JST
Subject: [JDA :5658] what difference does it make?
 
ディベートコーチのS.Aです。
 
一連のスレッドを読ませていただいていて議論に参加するを躊躇していたのですがちょ
っとだけコメントさせてください。
 
(少なくとも教育ディベートというコンテクストにおいて)ある行為を正当化するため
の条件はその主体がアメリカ合衆国連邦政府であれ日本国であれ論理的には全く変わら
ないと思います。それがcedaでもndtでもnafatでもjuelでも、あるいはディベーターが
アメリカ人でもキューバ人でも、またジャッジがどこの国籍であってもです。
 
また、
 
ndt参加者(ジャッジも含めた)=アメリカ合衆国国籍を持つ人間=愛国者=アメリカ
万歳=America First!=Pat Buchanan
 
といったequation(日本語で「等式」とか言うのでしょうか?)は必ずしも成り立たな
いと思います。
 
 
Date: Tue, 6 Apr 99 01:37:35 JST
Subject: [JDA :5659] RE:  what difference does it make?
 
こんばんは、H.Iです。
 
[jda:5658]
>(少なくとも教育ディベートというコンテクストにおいて)ある行為を正当
>化するための条件はその主体がアメリカ合衆国連邦政府であれ日本国であれ論
>理的には全く変わらないと思います。それがcedaでもndtでもnafatでもjuelで
>も、あるいはディベーターがアメリカ人でもキューバ人でも、またジャッジが
>どこの国籍であってもです。
 
まったく同感です。
 
一連の議論については、「主体が違えば求められる行為も違う」という考え方
自体は、間違っていないと思います。北朝鮮の食糧問題への対応について、日
本、米国、韓国ではとるべき政策が違うこともありうるでしょう。
 
しかし、その後の「政府は、他国民よりも自国民の利益を優先すべき」という
議論には、全く賛成できません。申し訳ないが、これはどう読んでも自己中心
主義を正当化する考え方にしか見えません。詳細なコメントはここでは避けま
すが、我々は、エゴイズムを正当化する理屈を学ぶためにディベートをやって
いるのではありません。ジャッジが米国の人でも、日本の人でも、北朝鮮の人
でも、Voteを取れるようなディベートを目指すべきではないですか。
 
主体の違いを考えるのならば、国家毎の役割の違いに目を向けられてはいかが
ですか。日本は国際社会の中でどのような役割を果たすのが、日本を含めた世
界にとってベストの選択か、という観点から考えていけば、日本という主体を
意識した議論も可能でしょう。そちらの方が、よほど建設的な議論だと思いま
す。
 
 
----------------------------------
◆◇ H.I
 
 

 
Date: Tue, 6 Apr 99 14:21:14 JST
Subject: [JDA :5661] Re: what difference does it make?
 
お二方の意見は、尤もな点もありますが、倫理教育的観点が折り込まれ過ぎているよ
うな気がします。その点で、K.Nさんの議論の意図というものの善意の解釈に欠けて
いるような気がします。
 
>(少なくとも教育ディベートというコンテクストにおいて)ある行為を正当化するため
>の条件はその主体がアメリカ合衆国連邦政府であれ日本国であれ論理的には全く変わら
>ないと思います。それがcedaでもndtでもnafatでもjuelでも、あるいはディベーター
>がアメリカ人でもキューバ人でも、またジャッジがどこの国籍であってもです。
>
 
後半は、S.Sさんの問いの絡みでしょうから、前半にしかコメントしませんが...
 
先ず、「論理的」には、ある行為を正当化する条件は決定不能です。そういう条件が
論理的に全く変わらないというのは、変えなければならないということはないという
点でのみ言えますが、これは意図された意味ではないでしょう。
 
逆に言うと、「論理的には」、K.Nさんが主張なさっているような格率を当為にする
ことは十分可能であり、つまり、主体によって条件を変えるように前提を立てること
を妨げるものはありません。
 
 
行為の正当化の条件は、行為の可能性、妥当性、当為性、等々についての諸前提によ
ると思いますが、それらが主体によって不変であるとするのは確かに可能な立場で、
且つ当為性に限れば非常に有力な立場だとは思いますが、教育ディベートのコンテク
ストでそれに限定されると断言し、その他の可能性は顧慮さえしない根拠はどこにあ
るのでしょうか。結論としては、そうなるかとは思いますが、そういう立場をとる根
拠は必ずしも、一見して疑う余地のない程自明ではないと思います。
 
 
 
>しかし、その後の「政府は、他国民よりも自国民の利益を優先すべき」という
>議論には、全く賛成できません。申し訳ないが、これはどう読んでも自己中心
>主義を正当化する考え方にしか見えません。詳細なコメントはここでは避けま
>すが、我々は、エゴイズムを正当化する理屈を学ぶためにディベートをやって
>いるのではありません。ジャッジが米国の人でも、日本の人でも、北朝鮮の人
>でも、Voteを取れるようなディベートを目指すべきではないですか。
>
 
おっしゃりたいことは分かりますが、こういう風な批判の仕方を学ぶためにディベー
トをやっているのでもないのではないかと思います。又、最後のジャッジ云々はちょ
っとirrelevantな批判かと思います(今回の議論に即していない)。
それから、昨日書いたように、K.Nさんの主張の眼目は、必ずしも「政府は、他国民
よりも自国民の利益を優先すべき」ということを当為とすることにはならないのでは
と思います。
 
Y.K

 
 
Date: Tue, 6 Apr 99 17:04:04 JST
Subject: [JDA :5662] Re: what difference does it make?
 
S.A@日本国です。Y.Kさん、コメントありがとうございます。
 
>>行為の正当化の条件は、行為の可能性、妥当性、当為性、等々についての諸前提によ
>>ると思いますが、それらが主体によって不変であるとするのは確かに可能な立場で、
>>且つ当為性に限れば非常に有力な立場だとは思いますが、教育ディベートのコンテク
>>ストでそれに限定されると断言し、その他の可能性は顧慮さえしない根拠はどこにあ
>>るのでしょうか。結論としては、そうなるかとは思いますが、そういう立場をとる根
>>拠は必ずしも、一見して疑う余地のない程自明ではないと思います
 
そうですね。「一見して疑う余地のない程自明」ではないかもしれませんね。
 
ただ逆に、
 
「政府は、他国民よりも自国民の利益を優先すべき」
 
ということを当為とする(というか何も考えずに「デフォルト」としている)ジャッジ
の方々も結構いらっしゃるようですよ、現在の日本の英語トーナメントディベート界で
は。私が入っている某大学ESSディベートセクションのメーリングリストでも偶然そん
な話が現役ディベーターからでていました。
 
それと私に限っては(H.Iさんもそうかもしれません)、今回(+前回)ポストをする
にあたって特定の人の議論に対してスペシフィックに反駁しようといった意図は全くあり
ませんでした。ですから引用もしませんでしたし、スレッドのタイトルも変えたわけで
す。気を悪くされたらごめんなさいね、K.Nさん。
 

 
 
Date: Tue, 6 Apr 99 20:27:22 JST
Subject: [JDA :5663] decision criteria
 
S.Yです。
 
 
「自国と自国民の利益を優先する」、という考え方と、「もっとuniversalな
価値観を使うべきだ」、という両意見がでている気がしますが、私から見ると
両方もっともです。
 
ただ、実際の外交政策の策定は、「階層的な価値観」を採用しているのでは、
と思います。
 
つまり、
 
(1) 国家(政府)の存立目的として、国家と国民の生存と繁栄を図る必要がある
 
ことから、外交政策は、自国と自国民に損害を与えない範囲で行うこと(もしく
は、損害を与えられる場合はそれに抵抗すること)が求められます。
 
次に、
 
(2) 外交政策の究極の目標は、世界全体の繁栄の増進である
 (多少異論があるかもしれませんが、建前として)
 
ことから、(1)の範囲内であれば、universalな価値観に基づき、世界全体にとっ
てのベストの政策を希求することになると思います。
 
この階層的な価値観で世界をみてみると、
 
コソボ問題にNATO(米国)が介入するのは、まず、米国と米国民の生存と繁栄を
損なわないことを前提としつつ、民族浄化という虐殺を許さない、という世界的
合意に基づいて行われているのでしょう。(手段として武力を行使して良いのか、
という問題は別)
 
北朝鮮の援助に関しては、日本と日本国民の生存の繁栄を損なわなければ、飢餓
に苦しむ人を救おう、等のuniversalな価値観で行くのが自然だと思います。
 
また、援助によって日本の安全が脅かされる、ということがあるならば、たとえ
飢餓で死者が出ていても援助すべきでない、という日本の安全保障優先の考え方
になるだろうと思います。
 
 
S.Y
 

 
Date: Wed, 7 Apr 99 01:09:42 JST
Subject: [JDA :5664] RE: Re: what difference does it make?
 
こんにちは、H.Iです。
 
前回のメールはやや説明不足だったので、補足しておきます。「主体が異なれ
ば行うべき行為は異なるのではないか」という問題提起はよく理解できます。
しかし、それを自国民の利益と他国民の利益の比較の観点から検討しようとす
れば「自己中心主義」の陥穽に陥る危険性があります。今までの議論では、こ
の点をどうクリアして説得的な規範を立てるかという配慮があまりなされてい
ないように思います。
 
私としては、諸氏の議論を批判することを目的としているのではありません。
この種の考え方は、ディベートへの適用において、とかく本来の趣旨を外れて
濫用されやすいことを危惧しているのです。今回のML上の議論を「濫用」し
て「日本人が少しでも犠牲になる可能性があれば、北朝鮮の人が何人死んでい
ようと助けるべきではない」などという卑小な自己中心主義的議論を展開する
ディベーターや、それを良しとするジャッジが出てくる可能性も、ゼロとは言
えないでしょう。
 
[JDA:5661] Y.Kさん曰く、
>おっしゃりたいことは分かりますが、こういう風な批判の仕方を学ぶために
ディベートをやっているのでもないのではないかと思います。又、最後の
ジャッジ云々はちょっとirrelevantな批判かと思います(今回の議論に即して
いない)。
 
倫理を学ぶためにディベートを行うのではないことは、ご指摘の通りです。し
かし、一般の人々にも説得力のある議論を目指すのであれば、一般的な価値
観、倫理観を考慮せずに議論を組み立てても意味がないのではないかと考えま
す。
 
◆◇ H.I

 
 
Date: Tue, 13 Apr 99 00:14:19 JST
Subject: [JDA :5691] today's national interest
 
S.Yです。
 
 
国益について、以前、階層的価値観のことを述べましたが、私の説明がわかりにくか
ったせいか、誤解されている方がおられるのでもう一度書きます。
 
 
最近、(第2次対戦以降、特に冷戦以降)においては、国家の主権が限定されて
きており、既存の領土と、国民の生命と繁栄を「防衛」することのみが国家の主権
の範囲内と見なされるようになってきています。
 
無限定に国益(領土と国民の生存と繁栄)を追求することが許されるなら、他国を
侵略することも正当化しえます。帝国主義の時代はそうでした。
 
ところが、今は、そのようなことは許されません。いかなる理由があろうとも、
侵略行為は許されないことが湾岸戦争でも明らかになりました。
 
ですから、まず、第1の階層では、国家の目的として、
 
「国家の領土と国民の生命と繁栄を保持する」ことが求められますが、これは、
積極的に繁栄を拡大することではなく、あくまでdefensiveなものになりました。
 
そういう意味で、「国民の利益」を「無限定に最優先する」という哲学はすでにあ
りません。単に、政策決定のひとつの条件(損害を与えないこと)にすぎません。
 
次にこの条件をクリアした後の第2の階層では、
 
 
「普遍的な価値に基づく世界全体の利益の増進」を目的として、政策決定が
なされると思います。
 
 
いわば、「普遍的な価値に基づく世界利益の増進」が今日の外交政策決定の原則で
あり、「国民の生命と繁栄に損害を与えない」ことが条件として付け加わっている
というのが今日的な外交の様相であろうと思います。
 
 
この傾向は、EUの通貨統合をみればわかるように、加速しつつあります。
湾岸戦争にせよ、コソボにせよ、ボスニアにせよ、
「普遍的な価値を破る者」VS「多国籍軍」という構図が定着したこともそれを裏付
けます。
 
非常に楽観的に言えば、徐々に国境は意味をなくし、普遍的な価値による外交
(いずれ外交という概念自体が消滅するかも)が主体となっていくと思います。
 
 
 
S.Y
 

 
Date: Wed, 14 Apr 99 01:02:45 JST
Subject: [JDA :5696] Ethics in Debate
 
こんにちは、H.Iです。
ちょっと前のS.Sさん、O.Tさんからの指摘について
 
[JDA:5678]S.Sさん
>一方、内的当為性の問題点は、H.Iさんの指摘されていたように「利己主義
>的な非倫理的議論がまかり通る」ということがあると思いますが、ディベート
>の目的をアーギュメンテーション教育と考える場合〔社会科教育の一環として
>ディベートを行う場合はまた別かもしれません)においては、それは本質的な
>問題たりえないと思います。ディベートの試合の中で「非倫理的な」ことを
>言っているエビデンスが読まれることもありますが、だからといってディベー
>トの教育効果が損なわれるわけではないでしょう。
 
非論理的な議論がまかり通ってもアーギュメント教育効果が損なわれないとい
うのは本当ですか?非倫理的な議論で人を説得することはできないし、S.Sさ
んだって、それが良いディベートだと思っている訳ではないでしょう? 良い
アーギュメンテーション、良いディベートを目指すのであれば、非倫理的な議
論は排除する方向で考えるべきではないですか?
 
 
[JDA:5681]O.Tさん
>「原発」を取り上げるのは、あくまで議論練習に適した「例」だからであっ
>て、なにかそのことによって特定の立場にコミットしよう、というわけではな
>い、という理解は浸透しているでしょう。同様に、「国益」重視モデルをディ
>ベートで採用するのは、あくまで議論練習に適した「わかりやすさ」と「概念
>的なよりどころろがあること」によるものであって、なにかそのことによって
>特定の立場にコミットしよう、というわけではないことは、あまり了解が得ら
>れていないな、という気がします。
 
ディベートで論じることが特定の立場にコミットするのではないことは、O.T
さんのいう通りですし、そもそも私も「国益」重視の考え方をディベートに採
用することに別に反対していません。問題にしているのは、「国益」重視のモ
デルが「日本人の生命は外国人の生命よりも価値がある」という外国人差別の
価値観に向うことです。それとは別の観点から国益について論じるのは、大い
に結構なことだと思います。
 
O.Tさんは「非倫理的な主張をするのは、あくまで議論練習の例であり、それ
にコミットするものではないので許されるべきだ」ということを主張している
のではないと思います。しかし、中には、そのような疑問を持つ人もいるかも
しれませんので、ネタにして申し訳ありませんが、あえて話を続けます。
 
議論練習の例として非倫理的な主張をすることが許されるなら、議論練習の例
として名誉毀損を含む主張をすることも許されることになります。それはおか
しいですよね?そもそも、非倫理的や名誉毀損の主張なんて「議論練習」にな
りません。原発反対の議論とは、根本的に異なることをご理解頂きたいと思い
ます。
 
 
----------------------------------
◆◇ H.I
 
 

 
Date: Thu, 3 Jun 99 23:57:46 JST
 
1.自国の利益の保護について
 
「日本政府は日本人の生命を保護すべき」だからといって、「日本政府は、外
国人の生命よりも日本人の生命を優先すべき」と論理必然に結び付くわけでは
ありません。「会社員は会社の仕事にベストを尽くすべき」だからといって、
「会社員は家族より仕事を優先すべき」とは言えないですよね?
 
たしかに、日本政府は日本の利益を保護すべきです。しかし、これを他のすべ
ての価値に優先するものとして理解する必要はありません。例えば、外国で多
くの人が苦しんでおり、それを救う政策にはある程度の不利益(危険な任務、
コストの負担)を伴うが、利益が不利益より大きい場合にはその政策を採択す
べきだというのは合理的な結論であると思いますし、「日本政府は日本の利益
を保護すべき」という要請に矛盾するものとも思いません。
 
「日本政府は日本の利益を保護すべきである。したがって、日本政府は、危険
を伴う国際貢献(例えば地雷除去作業)には一切協力すべきではない」という
のは、説得的な結論でしょうか? 利益の大きさと危険の度合によっては、積
極的に協力すべき場合もあるのではないですか。
 
100人の外国人を救うために99人の日本人を犠牲にしてよいかと聞かれれば、
たしかにイエスとは答えにくいでしょう。しかし、考えてみれば、100人の日
本人を救うために99人の日本人を犠牲にしてよいかという質問にも、同様に答
えにくいはずです。すなわち、この回答の難しさは、外国の利益か日本の利益
かという点にあるのではないと思います。
 
 
2.国益の追求について
 
国家が外交政策において国益を追求するというのは、既に何人もの方が指摘さ
れた通りだと思いますが、常富さんが指摘したように「国益」の内容はあいま
いなままです。
 
ディベートとの関係で「国益」を論じることは手に余りますが、ここでは「普
遍的な価値観」は「世界統一の価値体系」に基づくため、「国益の追求」とい
う外交の特質に合致せず、「一国功利主義」のみが「国益の追求」に基づく外
交を説明しうるという見解に疑問を呈しておきたいと思います。
 
(1) 「国益の追求」には、特定の価値観を主張するものではなく、その国の特
性に応じたベストの政策を追求するものがあります。「日本は工業製品の貿易
を促進することが日本の国益に合致する」という「国益の追求」がこれにあた
ります。この意味での「国益」は各国異なります。工業製品の貿易を促進する
国もあれば、農業を推進する国もあるでしょうし、観光立国を目指す国もある
でしょう。そして「普遍的な価値観」は、このような各国の特性に応じた「国
益の追求」となんら対立するものではありません。
 
(2) 他方「国益の追求」には、他国に対して特定の価値観を主張するものもあ
ります。米国が「核不拡散」を主張し、インド、パキスタンが「自衛のための
核武装」を主張するのはその例です。しかし、ここでもそれぞれの国は「一国
功利主義」を主張しているのではなく、それぞれの見解に基づく「普遍的価値
観」を主張していると理解すべきです。米国にとっては「核不拡散」が普遍的
価値観であり、インド・パキスタンにとっては「自衛のための核武装」が普遍
的価値観であり、その主張が結果として「国益」に合致しているのです。
 
「普遍的な価値観」は「世界統一の価値体系」を帰結するものではありませ
ん。また「普遍的な価値観」を前提としても、(1)(2)の「国益の追求」は十分
に説明しうるのであって、「一国功利主義」を持ち出さなければ、国益の説明
ができないということはありません。
 
 
3.ディベートにおける適用
 
日本政府という主体を行為した当為をディベートでどう論じるかは難しい問題
です。しかし、方向性としては、「一国功利主義」に走るのではなく、日本の
特性や国際社会における日本の役割を踏まえつつベストの政策を検討するとい
う方向で考えていくべきだと思います。
 
 
◆◇ H.I
 

 
 
Date: Wed, 14 Apr 99 10:44:09 JST
Subject: [JDA :5698] RE: Ethics in Debate
 
S.Sです。
H.Iさんの指摘について、とりあえず一点だけ述べます。
 
>問題にしているのは、「国益」重視のモデルが「日本人の生命は外国人の生命より
>も価値がある」という外国人差別の価値観に向うことです。
 
「日本政府としては外国人の生命よりも日本人の生命を重要視すべきだ」という主張
と、「日本人の生命は外国人の生命よりも価値がある」という主張は本質的にまった
く異なる主張です。前者から後者はまったく導かれません。前者は日本政府のミッ
ション(もちろんその中身はディベータブルですが、例えば日本国憲法に書かれてい
る価値観の達成が挙げられるでしょう)をもとに日本政府の行動規範を示した主張で
あり、人の生命の価値について序列を示したものではありません。後者は非倫理的だ
と思いますが、前者は倫理的には中立だと思います。
憲法の学説でも、一定の範囲内で外国人の人権享有主体性には制限があるとの見方が
有力です。〔間違いがありましたらご指摘下さい。)しかし、それは別に外国人の人
権に価値がないからではなく、日本という国家の役割として、日本人の人権と外国人
の人権の扱いが異なる場合があるということに過ぎません。
 
常富さんの宿題、国益とは何かという問題については稿を改めます。
 
 

 
Date: Wed, 14 Apr 99 22:47:30 JST
Subject: [JDA :5699] RE: RE: Ethics in Debate
 
こんばんは、H.Iです。
 
[JDA :5698] RE: Ethics in Debate
>「日本政府としては外国人の生命よりも日本人の生命を重要視すべきだ」と
>いう主張と、「日本人の生命は外国人の生命よりも価値がある」という主張は
>本質的にまったく異なる主張です。前者から後者はまったく導かれません。前
>者は日本政府のミッション(もちろんその中身はディベータブルですが、例え
>ば日本国憲法に書かれている価値観の達成が挙げられるでしょう)をもとに日
>本政府の行動規範を示した主張であり、人の生命の価値について序列を示した
>ものではありません。後者は非倫理的だと思いますが、前者は倫理的には中立
>だと思います。
 
たしかに、前者のような形で議論がなされるのであれば、倫理上の問題は生じ
ないと思います。私のメールが議論に水を差したのであれば申し訳ないと思い
ますが、このような方向で「国益」の議論が行われることこそ、まさに私が期
待していたことです。
 
 
>憲法の学説でも、一定の範囲内で外国人の人権享有主体性には制限があると
>の見方が有力です。〔間違いがありましたらご指摘下さい。)しかし、それは
>別に外国人の人権に価値がないからではなく、日本という国家の役割として、
>日本人の人権と外国人の人権の扱いが異なる場合があるということに過ぎませ
>ん。
 
(ここからは内容に関する議論ですが)、S.Sさんの考え方は理解できます
が、そこから「日本政府は外国人の生命よりも日本人の生命を重要視すべき
だ」という結論を導き出すことについては、疑問があります。たしかに、参政
権やある種の社会保障について、外国人と日本人で異なる取り扱いをすること
には合理性はあるでしょう。しかし、生命についてまでそういえるかどうか。
 
例えば、家が火事になって人が中に閉じ込められているとします。その人を救
出するには、消防士の生命の危険が伴うかもしれません。このような状況下
で、日本の消防士は、外国人が閉じ込められている場合と、日本人が閉じ込め
られている場合とで、態度を変えるべきでしょうか?
 
ちなみに、憲法上の学説では、外国人の人権共有主体性を認めるのが圧倒的通
説であり、最高裁判例(最判昭和53.10.4)の立場でもあります。参政権、社
会権を外国人に認めるかについては諸説ありますが、自由権は、その性質上、
外国人にも基本的に保障すべきということについて、ほぼ合意されています。
 
 
◆◇ H.I
 
 
 

 
Date: Fri, 16 Apr 99 01:44:26 JST
Subject: [JDA :5703] citizen's life
 
H.I様、ほかみなさま
 
S.Yです。
 
国外での日本政府の役割について
 
今回のプロポは外交なので、H.Iさんの日本国内での火事の話は、ちょっと話
が違うと思いますので、国外での日本政府の機能について、議論のネタとして
実態を述べたいと思います。
 
 
---------------------------------
 
○ 国外での邦人の安全を最優先する実態について
 
状況によりますが、他国で暴動等が起きた場合等、実際に邦人が生命の危機に
あるとき、日本政府は、邦人の保護を最優先し、暴動で現地の人がいくら死の
うが、とりあえずの処置として日本人を退去させます。
日本の自衛隊機も、邦人を保護するために派遣されます。大使館も、保護する
のは、あくまで邦人です。近隣諸国の場合は、難民を受け入れる場合もありま
すが、少なくとも積極的にそこの現地の住民を救出したりはしません。
 
また、日本は、さまざまな援助を行っていますが、日本人の生命の危険がある
場合には、すぐ要員を引き上げます。どのような援助の価値(飢餓、暴動、虐
殺)がある場合であってもです。
 
これは、S.Sさんが述べたように、国民の生命の保護という日本政府の設置目
的からくる結論であるのと同時に、国外における日本人の活動は、あくまでそ
の国政府の支配下で行われなければならず、日本人の安全の確保しか日本の主
権が及ばない(内政干渉は極力さける)、という事情もあります。
 
-------------------------------------
 
ちなみに、政府だけでなく、国連などの国際機関であっても事情は同じです。
国連も、コソボでアルバニア人が虐殺されていているにもかかわらず高等弁務
官事務所の要員を撤退させました。国連においても、国連職員の安全の確保が
最優先になるわけです。
 
-----------------------------------
 
国外で、自国の国民の生命に確実な損害を与えることが予想される行為が問題
なく正当化されるのは、自国や友好国が侵略されたときとか、邦人の救出、保
護等、安全保障上必要な場合で、この場合は国家の主権の発動として、軍隊が
対応するのが普通です。
 
-------------------------------
 
では、邦人の危険がある場合には、いっさい普遍的価値に基づく行動は行わな
いのか、というと、そういうことはありません。日本の場合は、基本的に文民
しか派遣しませんので、派遣された要員の安全を確保しつつ活動する、という
ことをしています。
 
国連も、暴動や内戦があって要員に危険がある場合は、十分な防御能力を持つ
軍隊を国連防護軍や平和維持軍として派遣し、その保護下で文民を活動させて
います。
 
つまり、基本的に、要員の安全は確保されている、という前提の元に援助等を
実施することで、「邦人の保護」という政府の自己目的との合致を図りつつ、
内戦や虐殺の予防という「普遍的価値」のために活動している、ということです。
 
<後略>
 
 
S.Y
 

 
Date: Tue, 20 Apr 99 00:27:09 JST
Subject: [JDA :5721] Re: National interest
 
こんばんは、H.Iです。
 
しばらくメールを読まないうちに、さらに議論が進んでいたようです。K.Nさ
んのように国益を中心に外交政策を考える立場も十分説得力があると思います
が、私自身の考察を深めるために、「国家がどのように行為すべきかという当
為の問題」について、もう少し意見を述べさせて頂きたいと思います。
 
 
1.国益中心主義について
 
国家の存立目的はその構成員たる国民の利益の増進にあるとし、「国民の利益
を増進するか」という観点から、外交政策の当為を考える立場です。K.Nさん
が[JDA:5708]で述べられていたことを徹底すれば、この立場となると思いま
す。
 
これは明快かつ説得力のある立場だと思いますが、対外援助・国際貢献の位置
づけについては、疑問が残ります。国民の利益の増進という場合、生命の保護
のみならず財産の維持・増加も当然含むことになります。その一方、対外援助
・国際貢献には、通常「財政的な負担」が伴います。とすると「対外援助・国
際貢献の日本国民への影響が財政負担だけでメリットがない場合は、外国に与
える利益がどれほど大きくても実施すべきではない」という結論もありえるこ
とになります。
 
さすがにこの結論は、K.Nさんも支持されないと思います。財政負担を伴う対
外援助・国際貢献を国益中心主義の立場から正当化するには、K.Nさんが
[JDA:5708]で述べるような、
 
>暇なら救ってあげてもよいでしょう。昨今、国際的な交流も盛んになってい
>るので、ある程度の国際協力は義務でしょうし。
 
という程度では不十分で、対外援助・国際貢献が日本の「国益」を増進するこ
とを論証する必要があるのではないでしょうか。そのような論証も可能かもし
れませんが、少なくとも、今までのMLの議論では示されていないように思い
ます。
 
なお、S.Yさんの「階層的価値観」とは「外交政策は、自国と自国民に損害を
与えない範囲で行う」ものだそうですが、「損害」の要件をシビアに捉え、国
民の財政的な負担も含むと解すれば(そう考えるのが論理的だと思います)、
国益中心主義と同じ結論となるのではないかと思います。
 
 
2.国益優先主義について
 
あるいは、K.Nさんは、1.のような徹底した立場ではなく、外国の利益も考慮
するが、それよりも自国の利益を優先するという考え方なのかもしれません。
これは、バランス感覚に優れた立場ですが、ディベートにおける利益衡量の基
準として用いることができるかという疑問があります。
 
例えば、400億円の日本の財政負担の援助で、発展途上国にに600億円相当の援
助効果をあげられるとした場合、日本は援助すべきか否か。国益優先主義から
は、なんらかの基準を設定しない限り答えは出ません。仮に基準を設定したと
しても(例:日本の利益は外国の利益の2倍に評価する)、その決め方には恣
意性が避けられないように思います。
 
 
3.私の立場について
 
私の立場は、日本の利益も外国の利益も平等に考えようというものです(普遍
主義というべきでしょうか?)。この立場では「国益」をどのように評価する
かが問題となります。私としても、考え方がまとまっていない部分が多いので
すが、K.Nさん、S.Yさんのご指摘について、今考えている範囲内でできる限
りご回答したいと思います。
 
(1) 前に「燃えている家に閉じ込められている人を消防士が助ける場合、閉じ
込められている人が日本人と外国人の場合で、取り扱いに差を設けるべきか」
という問題を提起しました。これに対してK.Nさんから「日本が火事の場合は
平等に扱うべきとしても、外国で火事が起きている場合も同じように考えるべ
きか」というご指摘がありました。
 
外国を統治しているのはその国の政府であり、その国において問題に対応でき
る限り、日本が出ていく必要性はないと思います。友人に困っていても、その
人が自力で解決しようとしている場合は、すぐ助けずに様子を見守ることもあ
るでしょうから。
 
しかし、その国において適切な対応が取れない事態になった場合(例:その国
の政府から支援要請があった場合や国自体が崩壊している場合)には、効果と
コストを考慮に入れつつ、何らかの支援を検討すべきだと思います。
 
 
(2) S.Yさんから「対外支援において、日本人スタッフの安全に危険が生じる
ような事態では、どのような援助の価値があってもスタッフを引き上げる」と
いう指摘がありました。
 
私もこのような対応は妥当だと思います。日本政府はスタッフの安全を確保す
る義務を負っていますので、このような場合のスタッフの引き上げはやむを得
ないでしょう。将来的な援助スタッフの確保まで視野に入れれば、普遍的な利
益衡量の見地からも、この対応は正当化できると思います。
 
他方、派遣されたのが自衛隊であった場合、または他国の軍隊であった場合に
は、引き上げではなく、現地にとどまって支援を続けるという選択が妥当な場
合もあると思います。
 
 
(3) K.Nさんから「日本政府が、日本人と外国人のどちらかしか救えない場
合、平等を標榜する以上、日本人だけを救うことをどう正当化するか」という
指摘がありました。
 
仮に「日本人50人と外国人50人のどちらかしか救えない場合、どちらを救うべ
きか」と問われた場合、私の立場からは「回答不能」ということになるのでは
ないかと思います。もちろん、実際には日本政府は日本人を助けることになる
でしょうが、これは事実の問題であって、当為の問題ではないのではないか
と考えています。
 
 
4.ジャッジとしての判断について
 
山中さんから、この問題をジャッジとして判断するにあたっては「ジャッジ
は、自分のフィロソフィーの中で暫定的なスタンスを明示しておいて、あとは
ディベーターの議論にまかせるべきではないか」という意見がありました。
 
私もそう思います。試合で議論されない場合、議論されたが決着がつかない場
合には、ジャッジは自らのフィロソフィーで示した立場にしたがって判断する
ことになると思いますが、ディベーターから合理的かつ倫理的な基準に反しな
い立場が示された場合は、ジャッジは自らの立場に固執すべきではないと思い
ます。
 
上で述べたように私は普遍主義の立場ですが、ジャッジとして試合に望む場合
には、合理的な説明を伴って「国益中心主義」が提示されれば、それにした
がって判断することに異議はありません。
 
 
以上、ご意見があればお聞かせ下さい。
 
----------------------------------
◆◇ H.I
 

 
Date: Tue, 20 Apr 99 19:34:11 JST
Subject: [JDA :5724] government's responsibility
 
H.I様
 
S.Yです。
 
前回のメールで、H.Iさんも、「日本政府はスタッフの安全を確保する義務を負
っている」ことを前提にした普遍的価値観ということがわかりました。基本的に、
私と同じ立場でしょう。
 
 
> (2) S.Yさんから「対外支援において、日本人スタッフの安全に危険が生じる
> ような事態では、どのような援助の価値があってもスタッフを引き上げる」と
> いう指摘がありました。
>
> 私もこのような対応は妥当だと思います。日本政府はスタッフの安全を確保す
> る義務を負っていますので、このような場合のスタッフの引き上げはやむを得
> ないでしょう。将来的な援助スタッフの確保まで視野に入れれば、普遍的な利
> 益衡量の見地からも、この対応は正当化できると思います。
 
 
なお、将来的な援助スタッフの確保に影響があるというのも、援助スタッフとい
うものは、日本政府が自分の身を守ってくれることを前提に仕事をするというこ
とで、これも普遍的価値観に基づくnet-benefitでは正当化できないでしょう。
 
----------------------------
 
ただ、いままでのH.Iさんの立場は、そうではなかったと思います。
H.Iさんは、自国民と他国民を区別しないことを提唱されていたと思います。
 
であるなら、援助要員の最優先のひきあげというオプションは取り得ないと思い
ます。取りあえず、最も生命に危険のある人から救っていくのが優先順位でしょう。
援助スタッフはむしろ最後になるのでは?
 
「日本政府はスタッフの安全を確保する義務を負っている」
ということと、H.Iさんのいう普遍的価値観に基づくnet-benefitによる判断は矛
盾する気がします。
 
--------------------------
 
 
> 仮に「日本人50人と外国人50人のどちらかしか救えない場合、どちらを救うべ
> きか」と問われた場合、私の立場からは「回答不能」ということになるのでは
> ないかと思います。もちろん、実際には日本政府は日本人を助けることになる
> でしょうが、これは事実の問題であって、当為の問題ではないのではないか
> と考えています。
 
どうも奇妙な結論ですね。
 
事実と当為を分け、事実(この場合は日本政府の設置目的)を無視した議論とい
うのは、単なる空論にすぎず、ディベートの目的としては適切でないと思います。
 
この奇妙な結論は、H.Iさんが無理に普遍的価値に基づくnet-benefit「のみ」に
よってある政策が望ましいか否かを判断しようとしているから導き出されると思い
ます。
 
普遍的価値に基づくnet-beifitからみたらある政策が行われる「べき」という結
論が出ても、主体である日本政府の機能として、実施するべきでなかったりする
ことはたくさんあります。邦人の保護、というものもその制約の一つでしょう。
 
普遍的価値に基づくnet-benefitから、民間企業が利益を社会福祉事業に寄付する
「べき」であったとしても、それによって企業が倒産することは、株式会社とい
う性質上、株主利益に反し、許されない、ということも同じでしょう。
 
また、国ではなく地方がやるべきであったり、民間に委ねるべきという主体の選
択も重要な課題でしょう。
 
従来から、ディベートでは、これらのように、普遍的な価値観によるnet-benefit
のみならず、主体の性格の違いまで視野におき、最も適切な主体の選択も含め、
より広い視野で議論してきましたし、今後もそうあるべきでしょう。
 
その意味では、命題を肯定する「べき」か否かの判断は、普遍的価値観によるnet-benefitのみではなく、それ以外の要素も考慮に入れ、主体の種類の違いを
考慮するのが適切であろうし、これまでもそうであったと思います。
 
命題の主体というのは、そのように機能するために存在すると思います。
 
 
-----------------------
 
H.Iさんの指摘に対する回答
 
 
> なお、S.Yさんの「階層的価値観」とは「外交政策は、自国と自国民に損害を
> 与えない範囲で行う」ものだそうですが、「損害」の要件をシビアに捉え、国
> 民の財政的な負担も含むと解すれば(そう考えるのが論理的だと思います)、
> 国益中心主義と同じ結論となるのではないかと思います。
 
 
H.Iさんが「日本政府は日本人の安全を確保する義務を負っている」という立場
なら、同じ問いに対してH.Iさんにも答えていただきたいですが、私からの回答
としては、
 
 
国家の自国保護の責務と、普遍的価値観によるnet-benefitは、「次元が違う」
ということです。
 
「外交政策は、自国と自国民に損害を与えない範囲で行う」という制限は、国家の
自国保護の責務の一例として提示したものですが、どこまでを損害と見なすかは、
国家がどこまで自国保護の責務を負っているかによります。
 
財政的な側面まで、自国保護の責務として要請される国家なら、損害でしょうし、
そうみなさない国家ならそうではないでしょう。
 
注意すべきは、国家の自国保護の責務は、普遍的価値観に基づくnet-benefitから
みて望ましい政策に対しても免除されないということです。
 
どの程度を国家の責務とみなし、それと普遍的価値のある政策とのかねあいを判断
するためには、普遍的価値に基づく世界の福祉の増進に当たり、各国政府がどのよ
うな役割を果たすべきなのか、邦人保護の義務を負う日本政府が行う海外への援助
として、どの程度まで日本国民の理解がえられるか、ということによって判断す
る問題でしょう。
 
 
 
 
S.Y
 

 
Date: Tue, 20 Apr 99 21:48:25 JST
Subject: [JDA :5725] governmental responsibility[2]
 
H.I様
 
 
前回のメールでは、普遍的価値に基づくnet-benfitと私の立場の違いを中心に説明し
て、国益中心的価値観に基づくnet-benefitとの違いについてあまりふれなかったの
で、その点について補足します。
 
理由づけは、同じで、「国家の責務」と、国益中心的価値観に基づくnet-benefitは
、次元が違うということです。
 
国益中心的価値観によるnet-benefitなら、侵略も正当化し得ると思いますが、以前
のメールで述べたとおり、これは許されません。
 
「国民に損害を与えない」ことを国家の責務の例示として使っていたので誤解された
と思いますが、国家の責務は、「他国の主権を侵さない」というものもあり、多岐に
わたります。
 
どのような価値観に基づくnet-benefitにおいて望ましい政策であっても、国家の責
務に矛盾する政策は認められないということで、次元が違うということです。
 
 
企業でもおなじでしょう。自社に大きな利益をもたらすことであっても、違法な行為
はできないように、net-benefitという費用対効果のチェックのほかに、合法法人と
しての株式会社としての制約が別次元であるわけです。
 
 
国益中心主義と、国家の責務の範囲内での外交、というのは、このように意味が違い
ます。
 
 
S.Y
 

 
Date: Thu, 22 Apr 99 00:07:14 JST
Subject: [JDA :5729] RE: government's responsibility
 
こんばんは、H.Iです。
 
「国家の責務」を強調するS.Yさんの意見(当初の主張と大きく変わった気が
するのは私だけでしょうか?)は、これまで議論されてきた功利主義ではな
く、規範主義的なアプローチを取るものと思います。
 
このような立場からの主張のポイントも分からなくはないですが、私の立場
(普遍的功利主義)に対する批判は、誤解に基づいている点も多いように思い
ます。まず、この点を簡単に説明し、ついでS.Yさんの意見について述べるこ
ととします。
 
1.S.Yさんからの批判について
 
(1) S.Yさんは「自国民と他国民を区別しないという普遍的功利主義を前提と
すると、生命の危険のある(外国)人を救うべきであり、援助スタッフの引き上
げは正当化できない」と述べています。
 
しかし、そうでもないと思いますよ。義務順守の必要性を功利主義の立場から
説明することも可能でしょう。仮にその場で50人助けることができたとして
も、日本政府が定められた労働条件に違反して、一般の援助スタッフを危険に
さらすことで、援助スタッフを引受ける人が減り、将来の援助に支障を来たす
ようになれば、将来助けることができる人が500人減るかもしれませんから。
 
(2) 次に、私が
 
「仮に「日本人50人と外国人50人のどちらかしか救えない場合、どちらを救う
べきか」と問われた場合、私の立場からは「回答不能」ということになるので
はないかと思います。もちろん、実際には日本政府は日本人を助けることにな
るでしょうが、これは事実の問題であって、当為の問題ではないのではないか
と考えています。」
 
と述べた点に対して、事実と当為を分け、事実(この場合は日本政府の設置目
的)を無視した議論は適切でないとし、このような「奇妙な結論」が生じるの
は、普遍的価値に基づく利益衡量「のみ」によってある政策が望ましいか否か
を判断しようとしているからである、と指摘しています。
 
しかし、この部分は、多分に誤解に基づくものだと思います。後半部分を次の
ように次のように言い換えれば、趣旨がご理解いただけるでしょう。
 
「もちろん、実際にこのような局面が生じれば、日本政府は日本人を助けるこ
とが予想されます。しかし、日本政府がそのような行動を取ることが『予想さ
れる』からといって、日本政府がそのような行動をとる『べき』であるとはい
えません。」
 
ちなみに、事実(〜である)と当為(〜すべし)を分けて議論するのは当然の
ことですよ。まあ、本当は、S.Yさんが言いたかったのは「日本政府の設置目
的を無視すべきではない」ということなのでしょうが、前も述べたように、日
本政府が「日本人を保護する義務がある」からといって、「外国人に優先して
日本人を保護する義務がある」とは論理的に導き出されません。
 
 
2. 規範主義的アプローチについて
 
「国家の責務」という視点から外交政策を捉える考え方は、なかなか面白いと
思います。ただし、現時点のS.Yさんの主張については、2つの疑問点があり
ます。
 
(1) 「国家の責務」の不明確さ
 
例えば「日本政府が2000億円の支出をすれば、20万人の北朝鮮の人の生活水準
を恒久的に改善することができる」という政策の是非が争われたとします。
 
この場合、普遍的な功利主義の立場では、「2000億円の支出」という負担と、
「北朝鮮人の生活水準の向上」という利益の比較衡量により決することになり
ます。おそらく、実施すべきという結論が出るでしょう。
 
また、国益中心主義(一国功利主義)の立場では、「北朝鮮人の生活水準の向
上」は「日本の国益」と直接結び付かないとして考慮の対象から外され、それ
によって生じる「日本のメリット」(他国との協調の促進、国際社会での地位
の向上等)と、2000億円の支出という「日本の負担」との比較衡量によって決
することになるものと思われます。
 
一方、普遍的な価値観に立ちつつ国家の責務を協調するS.Yさんの立場では、
「北朝鮮人の生活水準の向上」も考慮されるのでしょうが、それが「国家の責
務」に反すれば、実施すべきではないということになります。
 
しかし、肝心の「国家の責務」の内容については、S.Yさんの説明は、「どこ
までを損害と見なすかは、国家がどこまで自国保護の責務を負っているかによ
ります。財政的な側面まで、自国保護の責務として要請される国家なら、損害
でしょうし、そうみなさない国家ならそうではないでしょう。」というあいま
いなものにとどまっています。
 
これでは「国家の責務」というマジックワードを持ち出しても、具体的な政策
の是非の判断にはほとんど役に立ちません。S.Yさんの議論を有益なものにす
るためには、この概念の内容を詰める必要がありそうです。
 
(2) 「国家の責務」の決定方法
 
S.Yさんは「国家の責務」の決定方法について、次のように述べています。
 
「どの程度を国家の責務とみなし、それと普遍的価値のある政策とのかねあい
を判断するためには、普遍的価値に基づく世界の福祉の増進に当たり、各国政
府がどのような役割を果たすべきなのか、邦人保護の義務を負う日本政府が行
う海外への援助として、どの程度まで日本国民の理解がえられるか、というこ
とによって判断する問題でしょう。」
 
言いたいことはわかりますが、ここまで様々な(場合によっては対立する)諸
要素を「国家の責務」の決定にあたって考慮するとなると、「国家の責務」の
決定にあたって、実質的に普遍的価値に基づく利益衡量を行っているのとほと
んど変わらないのではないかと思います。
 
これでは、「国家の責務」を普遍的な利益衡量に優先させるという、S.Yさん
の主張のセールスポイントが生かされないのではないでは?S.Yさんの主張を
貫徹しようとするなら、「国家の責務」の要素を単純化し、アプリオリに決定
する必要があるように思います。
 
この立場について、さらに突っ込んだ意見を述べるのは、それからでも遅くな
いでしょう。
 
 
◆◇ H.I
 

 
 
Date: Thu, 22 Apr 99 20:30:36 JST
Subject: [JDA :5730] Government should be responsible for her citizen.
 
H.I様
 
多岐にわたる議論が展開されていますが、重要な点に絞ってお答えします。
 
 
> 「国家の責務」を強調するS.Yさんの意見(当初の主張と大きく変わった気が
> するのは私だけでしょうか?)は、これまで議論されてきた功利主義ではな
> く、規範主義的なアプローチを取るものと思います。
 
違います。規範主義的に施策の候補をスクリーニングした上で、功利主義的な判
断で態度を決定するということです。ですから、「階層的」(次元が違うという
意味)な価値観なわけです。この主張はなんら変わっておりません。
 
 
> 「もちろん、実際にこのような局面が生じれば、日本政府は日本人を助けるこ
> とが予想されます。しかし、日本政府がそのような行動を取ることが『予想さ
> れる』からといって、日本政府がそのような行動をとる『べき』であるとはい
> えません。」
> ちなみに、事実(〜である)と当為(〜すべし)を分けて議論するのは当然の
> ことですよ。
 
では、こういいましょう。
 
一般的価値観として、生命の危険にさらされている外国人を助ける「べき」であ
ったとしても、邦人の保護を責務とする日本政府は、日本人の死者を出してまで
外国人を救助する「べきではない」でしょう。
 
例を民間企業にとれば、一般的に福祉事業に利益を寄付す「べき」であるが、株
主利益を最優先すべき株式会社は、株主利益を損なう場合にまで寄付す「べきで
はない」でしょう。
 
 
つまり、国家の責務は、「ある主体にとってはすべきでない」施策のスクリーニン
グとしての機能を果たし、この意味に置いて、日本政府や、株式会社の責務は、事
実の問題ではなく、当為の問題として捉えざるをえないわけです。
 
 
私の整理では、H.Iさんのいう普遍的価値観というのは、主語のない一般論とし
ての「べき」であり、ディベートの論題で問われるのは、主語のある「べき」だ
と思います。
 
つまり、H.Iさんは、「一般的に○○すべき」か否かに対しての判断を示してい
るのみであって、「日本政府が○○を行うべき」かどうかの判断を示していない
ことになります。
 
 
そして、「ある主体にとって行うべきか否か」の判断は、国家の責務を無視して
は不可能であるということになります。
 
 
以上の理解から、H.Iさんの主張を書き替えると、
 
「一般的な価値観からいうと、日本人と外国人のどちらを優先すべきあるかどう
かは不明であるが、日本政府としては外国人を優先するべきとはいえない」という
ことで政策に制約がかかり、両方見殺しにするよりは、日本人を優先的に救うべき
である、という結論になるでしょう。
 
 
> (2) 「国家の責務」の決定方法
>
> 言いたいことはわかりますが、ここまで様々な(場合によっては対立する)諸
> 要素を「国家の責務」の決定にあたって考慮するとなると、「国家の責務」の
> 決定にあたって、実質的に普遍的価値に基づく利益衡量を行っているのとほと
> んど変わらないのではないかと思います。
 
明確に違います。
 
普遍的価値観に基づく比較考量で、net-beneficialであるという事実は、その政
策を日本政府の外交政策としてとるべきか否かの判断においては、単なる「一要
素」にすぎません。国家の責務と「比較考量によると望ましいという事実」を比
較する際には、比較考量の手法は使えません。あくまで、国家の責務優先です。
(外交政策は国家の責務の範囲内で、ということ)
 
次元が異なるというのは、こういうことです。
 
 
次に、H.Iさんの御指摘の国家の責務の定義についてですが、
 
国家の責務は、国によって、また時代によって異なるもので、明確に定義するこ
とはできませんし、すべきでもありません。それは、そのときどきの国民が、国
に対して何を求めるのかによって異なるのです。
 
経済活動のみならず、国民の安全さえ市場経済に委ねようという過激なアメリカ、
経済活動の非常に細部にまで政府が介入するフランス、世界平和のために寄与す
ることを希求する憲法を持っている日本、全体主義に対して戦うことを責務とし
て憲法に規定しているドイツ、社会主義革命の完遂を責務とする中国など、国家
と国民の関係、国家の責務は国によって多種多様であり、同じ国でも時代によっ
て変わっていきます。
 
ですから、ディベートにおいても、命題の主語となっている国が、いったいどの
ような国家の責務を負っているのか、国民は国家に何を求めてるのかをよく考え
てみる必要があるでしょう。
 
「単純な功利主義的な比較考量で外交政策はきまらないということをよく認識し、
国家の責務を視野に入れたディベートをする」、ということが私の立場のセール
スポイントです。
 
 
S.Y
 

 
Date: Thu, 22 Apr 99 22:52:46 JST
Subject: [JDA :5732] RE: Government should be responsible
 
こんばんは、H.Iです。
 
S.Yさんの考え方は、抽象論ではありうるのかもしれませんが、実際の適用に
なるといろいろ難しい点が多そうです。
 
1.S.Yさんの考え方は「規範主義的に施策の候補をスクリーニングした上で、
功利主義的な判断で態度を決定するということ」だそうです(もう少し簡単な
言葉を使ってもらえるとありがたいのですけど…)。要は、考えうる対外政策
のうち「国家の責務」に合致しないものは除外し、合致するものの中から、最
も利益(net-benefit)が大きいものを選ぶということですね。
 
しかし、S.Yさんによれば、「国家の責務」とは「国によって、また時代に
よって異なるもので、明確に定義することはできませんし、すべきでも」ない
のだそうです。明確に定義できない「国家の責務」を用いてどのようにしてス
クリーニングするのか、疑問の残るところです。
 
 
2.あるいは、S.Yさんは、国家の責務の範囲(外延)は示せなくても、その要
素を取り出すことはできると考えているのかもしれません。これまでのメール
から見ると、少なくとも「自国民の生命の保護」は、国家の責務にあたるとS.Y
さんは考えているようです。
 
しかし、「自国民の生命の保護」に限っても、話はそれほど簡単ではないよう
に思います。私の疑問を列挙してみます。
 
(a) 自国民の生命の保護が責務なら、生命の危険のあるような国際貢献は避け
るべきということになります。PKOへの参加、紛争後の地雷や機雷の除去
は一切行うべきではない、と言えるでしょうか?このような活動を行っている
国も多数ありますが、これらはすべて「国家の責務」を無視しているのでしょ
うか?
 
(b) 湾岸戦争時には、日本は多国籍軍への多額の経済支出をしたものの、生命
の危険を伴う任務は行わず、他の国から「日本は一国平和主義で、紛争解決の
ために金は出しても、危険なことはしない、わがままな国だ」と非難を浴びま
した。この非難は、どのように考えるべきでしょうか?
 
(c) ディベートで、肯定側が外国人を救うための対外援助の実施を主張し、否
定側は対外援助の実施により、経済が悪化して失業者が増え、失業者の中から
自殺者が出ると主張しました。「失業者の自殺」という不利益がほんのわずか
でも残れば、肯定側の利益の大きさにかかわらず、ジャッジは否定側に投票す
べきでしょうか?
 
 
3.「自国民の生命の保護」以外の分野になると、話はもっと難しくなります。
以前私は、「国家の責務」論からは、国民に多額の経済負担のかかる対外援助
は実施すべきでないのか、という疑問を呈しましたが、S.Yさんからは「国に
よって違う」という回答があったのみでした。では、日本の場合はどうなので
しょうか?そして、その根拠は?
 
 
4.さらに、「国家の責務」に合致する行為か否かを明確に分けることも難しい
場合があります。これは、S.Yさんの挙げた民間企業の例で考えてみましょ
う。S.Yさんは、次のように述べています。
 
>例を民間企業にとれば、一般的に福祉事業に利益を寄付す「べき」である
>が、株主利益を最優先すべき株式会社は、株主利益を損なう場合にまで寄付す
>「べきではない」でしょう。
 
福祉事業への利益の寄付は、会社の財産を減少させる(利益から寄付すれば配
当可能原資を減少させる)という意味で、ほんのわずかであっても「株主利益
を損なう」行為です。株主利益には、単なる配当額のみならず、会社の経営状
態も含まれることは、お分かりでしょう。
 
S.Yさんの立場からは、福祉事業への利益の寄付は、一切すべきではないとい
う結論になるのでしょうか。「一定額以上の寄付」がすべきでないなら、どこ
で線を引くべきでしょうか?
 
 
5.当為において主体を考慮しようというS.Yさんの考え方は理解できるのです
が、上記の問題が解決されない限り、少なくともディベートへの適用は難しい
のではないかと思います。
 
その他、S.Yさんの考え方については、「国家の責務」の検討方法についての
疑問もありますが、長くなるのでこれは次の機会にまわします。
 
 
◆◇ H.I
 

 
 
Date: Fri, 23 Apr 99 15:14:51 JST
Subject: [JDA :5735] Re: Government should be responsible
 
>H.IさんとS.Yさんの議論、なかなか白熱して面白いです。
>
 
でもちょっとポイントを外しているところもある気が。
 
 
S.Yさんの主張で最も重要だが全然説明されていない点は、国家の責務とやらがいか
に正当化されるのかという点ですね。時代に応じて、国によって、その外延的内容が
違うのは当然でしょうが、<国家の責務>とされていることが、なぜ当為を構成する
規範として働くのか、この点が全然説明されていない。説明されるべき点が最初から
前提されています。
 
現実の政府の行動原理の釈明としてならあれでいいのかもしれませんが。(でも、そ
れだと、当為を考える上ではあくまで参考にしかならない)
ディベートで政府が為すべきことを考慮する上で<国家の責務>を考えるべきだと言
っているのだから、それだけでは多分ないのでしょうから。
 
 
これについては、K.Nさんは、一種のprudentialismで考えているようですね(ミッ
ション論)。
 
 
 
それから、皆さん共通に言えることですが、国家の行為を功利主義に基づかせる場合
に、その対象は何なのか(誰にとっての最大幸福か)が曖昧になっていることがとき
としてあるように思われます。
 
 
因に、「普遍的価値に基づく」という最初の頃使用された分かったようで意味不明の
フレーズは実は「世界の人々にとっての最大幸福」という意味らしいと最近判明して
きたみたいですが。
 
 
 

 
Date: Fri, 23 Apr 99 16:44:54 JST
Subject: [JDA :5737] Re: Government should be responsible
 
S.Sです。横から口を出すようで恐縮ですが。。
 
><国家の責務>とされていることが、なぜ当為を構成する
>規範として働くのか
 
Should(べき)という言葉の通常の語感からすれば、義務を果たすということイコー
ル〜すべきであると言う風に言えるのではないかと思うのですが、違うのでしょう
か。Shouldの語感についてはNativeでないので自信を持って言えませんが、「〜べ
き」については責務とほぼ同じである気がします。(何が責務であるかという点は別
の論点として)
 
 
>因に、「普遍的価値に基づく」という最初の頃使用された分かったようで意味不明の
>フレーズは実は「世界の人々にとっての最大幸福」という意味らしいと最近判明して
>きたみたいですが。
>
「ゴキブリでも実験動物でもなく」世界の「人々」にとっての最大幸福という点が私
にはちょっと引っかかります。その正当化はカントでしょうか?
 
ちなみに、「普遍的価値に基づく」立場からみると、
1.日本政府の公害規制政策によって日本企業が発展途上国に公害を輸出し、発展途
上国の人々が生命・身体に被害を与えた・場合と、
2.日本政府や日本企業に全く関係なく、当該国(又は第3国)の政策の失敗により
公害が起こり、発展途上国の人々が生命・身体に被害を与えた・場合で、被害者の数
が同じだとすれば、
1と2ではインパクトは同じであって、日本政府は同様に救済するべきだということ
になるのでしょうか。
私は2の場合も救済するべきが、1の場合の方がより救済すべき度合いが高いと思う
のですが、いかがでしょうか。
 
 

 
Date: Fri, 23 Apr 99 17:27:11 JST
Subject: [JDA :5738] Re:  Government should be responsible
 
>><国家の責務>とされていることが、なぜ当為を構成する
>>規範として働くのか
>
>Should(べき)という言葉の通常の語感からすれば、義務を果たすということイコ
ー
>ル〜すべきであると言う風に言えるのではないかと思うのですが、違うのでしょう
>か。Shouldの語感についてはNativeでないので自信を持って言えませんが、「〜べ
 
書き方が誤解を招いたようですね。
 
「<国家の責務>とされていること」は、なぜ当為を構成するのか。
 
とすべきでしたね。あるいは、もっと明確に書いて、
 
<国家の責務>とはどのようにして規定され、そのように規定することはどのように
正当化されるのか。
 
とすべきだったでしょう。
 
 
 
>「ゴキブリでも実験動物でもなく」世界の「人々」にとっての最大幸福という点が私
>にはちょっと引っかかります。その正当化はカントでしょうか?
>
 
他の人が「普遍的価値」で何を考えているかは知りませんが、ベンサムでも、ミルで
も、功利主義では、人間の幸福のことしか考えられてこなかったと思います。
 
動物どうこうというのは、(多分に、生態学等の自然科学での変化と、我々の自然環
境そのものの変化に伴う)極最近の発想でしょう−仏教的世界観は別です。
 
 
 
>ちなみに、「普遍的価値に基づく」立場からみると、
>1.日本政府の公害規制政策によって日本企業が発展途上国に公害を輸出し、発展途
>上国の人々が生命・身体に被害を与えた・場合と、
>2.日本政府や日本企業に全く関係なく、当該国(又は第3国)の政策の失敗により
>公害が起こり、発展途上国の人々が生命・身体に被害を与えた・場合で、被害者の数
>が同じだとすれば、
>1と2ではインパクトは同じであって、日本政府は同様に救済するべきだということ
>になるのでしょうか。
>私は2の場合も救済するべきが、1の場合の方がより救済すべき度合いが高いと思う
>のですが、いかがでしょうか。
>
 
この場合は、「普遍的価値」に、「世界の人の幸福の最適化」に加えて、「行為責任
についての規範の遵守」といったものが入っているのでしょう。
 
この場合でも明らかなように、「普遍的価値」と言うだけではほとんど意味がない訳
です。それが何であるかが示されないと。
功利主義的な倫理も、カント的な普遍的倫理法則に従う倫理も、「普遍的価値に従
う」という言葉で一緒にされてしまいかねません。
 
それを示さないで、議論しても混乱するだけです。
 
 
Y.K
 

 
Date: Fri, 23 Apr 99 21:32:10 JST
Subject: [JDA :5739] Re: Government should be responsible
 
この話は少し fundamental なところに引き戻した方がいいと考えていました。
 
>因に、「普遍的価値に基づく」という最初の頃使用された分かったようで意味
不明のフレーズは実は「世界の人々にとっての最大幸福」という意味らしいと最
近判明してきたみたいですが。
 
最初の頃に、「普遍的価値に基づいて判断する(ならば日本人も外国人も平等に
扱うべきだ)」という議論が登場したときに思ったことですが:
 
価値観 code of values, system of values が普遍的でも、価値 value は人に
よって、行動主体によってそれぞれ異なるのは、あまりにも当たり前の話です。
「人命」を普遍的な価値と考える私にとって、見ず知らずの人の命と、自分の命
とでは明らかに自分の命が大切です(それどころか自分の命を見ず知らずの人間
のために犠牲にしないことが倫理的だと考えます)。
 
そう考えると、このお話は国家の行動規範についての議論以前の論争ではないで
しょうか。
 
国家の責務についての議論は重要かもしれませんが、その前に価値の概念をきち
んと理解しないと、思わぬ袋小路に入りかねません。価値と聞いたらまず考えて
ください。誰にとっての価値なのか? 政策の当為はその後の議論です。
 
# 短い文章で説明できませんが、価値がおしなべて相対的だと言っているのでは
# ありません(ある種の価値は絶対です)。行動主体を離れた価値はありえない
# ということを指摘しています。
 
いかがでしょうか。(当たり前すぎる?)
 
Y.T
 
 

 
Date: Mon, 26 Apr 99 20:24:26 JST
Subject: [JDA :5743] responsibility,  value, ethics
 
 
S.Yです。
 
いろいろ指摘がでておりますが、主要なものにお答えします。
 
--------------
 
まず、Y.Tさん、
 
>価値観 code of values, system of values が普遍的でも、価値 value は人に
>よって、行動主体によってそれぞれ異なるのは、あまりにも当たり前の話です。
>「人命」を普遍的な価値と考える私にとって、見ず知らずの人の命と、自分の命
>とでは明らかに自分の命が大切です(それどころか自分の命を見ず知らずの人間
>のために犠牲にしないことが倫理的だと考えます)。
 
そうでしょうか?
 
自分の命が自分にとって一番大事なのは理解できるとして、だからといって自分の
命を最優先する「行為」が常に正当化される(倫理的である)とは全く言えません。
 
少なくとも、救命ボートに人を乗せるとき、病人、老人、子供、女性を先に乗せる
のが倫理的であって、屈強な男が先に乗り込むことは非倫理的であるとされるよう
に、自分の生命を常に優先させることが倫理的であると社会的に合意されていると
は思いません。
 
むしろ、キリスト教的、仏教的倫理観によれば、見ず知らずの人のために自らを犠
牲にすることの方が倫理的とされることが多いと思います。
 
さらに、個人のレベルでは「自分の命」が自分にとって一番大事だという話が通じ
たとしても、国家レベル、特に外交の場においては、「他国人の生命」より「自国
人の生命」の方が「価値がある」とは到底言えないでしょう。生命の価値が国籍に
依存する根拠は薄弱と言わざるを得ません。この議論は、H.Iさんが最高裁の判例
もあげつつ展開しているところですので、そちらを参照下さい。
 
 
------------------
 
次に、Y.Kさん、
 
><国家の責務>とはどのようにして規定され、そのように規定することはどのように
>正当化されるのか。
 
 
国家の責務は、国民が、国家に履行することを求めるものとして定めるものです。
 
 
そもそも国民が無政府状態でなく、国家という枠組みの中で生きることを選択している
のは、国家になんらかの役割、責務を果たすことを求めているからに他なりません。そ
の対価として、納税等の義務を甘受しているわけです。
 
言ってみれば、国家は、国民から付託を受けた責務を履行することによってのみ、その
存在を正当化し得るのです。ですから、国家にとって、国家の責務を履行することは最
優先なわけです。
 
規定のプロセスはいろいろあるでしょうが、一般的には国民の代表である国会が決める
ことで、成文の国家の責務の代表例としては、憲法が挙げられるでしょう。
 
-----------------------------------
 
最後に、H.Iさん、
 
> 1.S.Yさんの考え方は「規範主義的に施策の候補をスクリーニングした上で、
> 功利主義的な判断で態度を決定するということ」だそうです(もう少し簡単な
> 言葉を使ってもらえるとありがたいのですけど…)。要は、考えうる対外政策
> のうち「国家の責務」に合致しないものは除外し、合致するものの中から、最
> も利益(net-benefit)が大きいものを選ぶということですね。
 
 
「国家の責務に合致しないものを除外」ではなくて、「国家の責務と矛盾する、
あるいはその履行を阻害するものを除外」です。必ずしも合致する必要はあり
ません。
 
 
>しかし、S.Yさんによれば、「国家の責務」とは「国によって、また時代に
>よって異なるもので、明確に定義することはできませんし、すべきでも」ない
>のだそうです。明確に定義できない「国家の責務」を用いてどのようにしてス
>クリーニングするのか、疑問の残るところです。
> 5.当為において主体を考慮しようというS.Yさんの考え方は理解できるのです
> が、上記の問題が解決されない限り、少なくともディベートへの適用は難しい
> のではないかと思います。
 
 
そうでしょうか?
 
 国家の責務、というのは、国によって、時代によって違いますし、このメーリ
ングリストで議論しても、万人が認めるほどに確定するマターではないと思いま
す。国家の責務とは何かということも含めディべートしていく、ということで十
分ではないでしょうか?
 
 具体的には、ディベートの中で、何が国家の責務としてふさわしいか、という
議論をし、最も説得力のある議論を採用すればよいでしょう。
 
単純なnet-benefitがディベートだと思いこんでいる人には、より広い議論の舞台を
与えられるでしょう。
 
逆に、国家の責務をアプリオリに設定しないとディベートできないという考え方
が理解できません。
 
 
 
----------------------------------
 
以下参考
 
 
ということで、以下のH.Iさんの御質問はまさにディベートの論題として格好の
材料のわけで、私がここで個人的にお答えする意味はあまりないのですが、参考
までに個人的考えを述べましょう。もちろん、これが万人にとっての国家の責務
ということではむろんありません。
 
 
> (a) 自国民の生命の保護が責務なら、生命の危険のあるような国際貢献は避け
> るべきということになります。PKOへの参加、紛争後の地雷や機雷の除去
> は一切行うべきではない、と言えるでしょうか?このような活動を行っている
> 国も多数ありますが、これらはすべて「国家の責務」を無視しているのでしょ
> うか?
> (b) 湾岸戦争時には、日本は多国籍軍への多額の経済支出をしたものの、生命
> の危険を伴う任務は行わず、他の国から「日本は一国平和主義で、紛争解決の
> ために金は出しても、危険なことはしない、わがままな国だ」と非難を浴びま
> した。この非難は、どのように考えるべきでしょうか?
 
 これらについては、自国民の保護、というより、日本が国際紛争解決の手段と
して戦争を放棄するという憲法(国家の責務の一形態)を持っていることが大き
いでしょう。湾岸戦争も戦争ですから、それに参加するのはもちろん、その周辺
に自衛隊を派遣するのさえ、憲法にふれる可能性が高いということです。PKOに
ついても同じです。これについては、御存知のとおり諸説あります。
 
 諸外国は、このような憲法を持っていないので、国益の保護その他の理由で軍
隊を派遣し、戦争することができます。国家の責務が違うということです。また、
地雷の除去等については、各国とも要員の安全確保を前提にして行っていると思
います。
 
 
> (c) ディベートで、肯定側が外国人を救うための対外援助の実施を主張し、否
> 定側は対外援助の実施により、経済が悪化して失業者が増え、失業者の中から
> 自殺者が出ると主張しました。「失業者の自殺」という不利益がほんのわずか
> でも残れば、肯定側の利益の大きさにかかわらず、ジャッジは否定側に投票す
> べきでしょうか?
 
資本主義市場経済においては、経済状況に対する国家の責務、というのはあいま
いですね。政府が経済をコントロールすべきでない、という意見も強いですし、
実質的にコントロールできないということもあります。少なくとも、経済状況に
対して国が全面的に責任を負う、ということはないことは確かです。
 
結果的に発生した失業者の救済は、使用者と国家の共通の責務だとは思いますが、
それにも程度があるでしょう。失業者の自殺という極めてプライベートなことま
で使用者や国家が責任持つ必要あるんでしょうか?個人的にはないと思いますし、
判例にもないと思いますが、いかがでしょう。
 
> 3.「自国民の生命の保護」以外の分野になると、話はもっと難しくなります。
> 以前私は、「国家の責務」論からは、国民に多額の経済負担のかかる対外援助
> は実施すべきでないのか、という疑問を呈しましたが、S.Yさんからは「国に
> よって違う」という回答があったのみでした。では、日本の場合はどうなので
> しょうか?そして、その根拠は?
 
 これも、経済状況に対する国家の責務の程度によるでしょう。また、日本の場
合、世界平和に名誉ある地位をしめたい、という憲法前文があり、国民一般から
も、援助は平和的な国際貢献の重要な手段としてある程度理解も得られています
から、経済状態に余裕があれば、多少の経済への影響に対する国家の責務は免除
される、という感じだと思います。
 もちろん、援助はNGOなど民間機関にまかせ、国は手を引くべきだ、という議
論も活発ですね。アメリカはこの考え方でODAをどんどん減らしてます。
 
 
> S.Yさんの立場からは、福祉事業への利益の寄付は、一切すべきではないとい
> う結論になるのでしょうか。「一定額以上の寄付」がすべきでないなら、どこ
> で線を引くべきでしょうか?
 
 株式会社の所有者たる株主の考え方によって、その会社の財務状態によって
「取締役の責務」が違いますから、一般的には答えられません。株主代表訴訟や
株主総会に耐えきれるかという判断だと思いますが、昨今の株主利益最優先の風
潮では、一切すべきでないという結論も十分あり得るでしょう。寄付する場合で
も、会社の知名度があがるとか、地域住民対策とか、株主に利益が還元できると
説明できないと難しいのでは?
 
 
 
S.Y
 

 
Date: Tue, 27 Apr 99 23:03:19 JST
Subject: [JDA :5746] Re: Government should be responsible
 
こんにちは、H.Iです。
この話もそろそろ潮時だと思いますので、これまで述べたことを簡単にまと
め、最近のご指摘にも触れようと思います。
 
1.これまでディベートで「当為」を考える場合には、主に「世界の人々の最大
幸福」という観点から利益衡量を行い、日本人も外国人も平等に扱われてきま
した。これに対し、「日本政府」という行動主体を考慮して「当為」を考えよ
うという提案がなされ、その具体的内容として、例えば「日本人の利益を外国
人に優先して扱う」ことが主張されてきました。
 
私は「日本政府」という主体を考慮して「当為」を考えることには賛成です。
しかし、「日本人の利益を外国人に優先して扱う」という提案については、疑
問を払拭することができません。
 
MLの投稿をみる限り「日本人の利益を外国人に優先して扱う」という考え方
に共感する人は結構いるようです。この考え方の人が指摘する(あるいは念頭
において論じる)のは、決まって「日本人と外国人の生命のどちらかしか助け
られないとしたら、日本政府は日本人を助けるべきだ」という例です。
 
この結論が妥当なのか私は疑問を感じますが、その点はさて置きます。むしろ
問題なのは、このような現実にありそうもない特殊な事例における価値判断を
安易に一般化して、すべての外交政策の「当為」の判断に用いようとする傾向
です。
 
日本人の利益を優先するとしたら、日本に負担が伴う国際貢献、対外援助はす
べて否定すべきなのか、肯定すべき場合があるとすればどういう場合なのか、
それと日本人の利益とはどのような関係に立つのか、このような疑問に対し
て、納得のいく説明をされた人は、いまだにいないようです。
 
これらの点が十分に検討され、説得力のある答えをだせるなら別ですが、そう
でなければ「一国功利主義」を未成熟のままディベートに持ち込むことは、か
えって有害ではないかと考えざるを得ません。
 
確かに、「日本政府」という主体を考慮するならば、「世界の人々の最大幸
福」という観点からの利益衡量のみにより当為を判断することが適切なのか疑
問はあります。しかし、そうであっても、未成熟な「一国功利主義」を導入す
るよりは、はるかにましであると思います。
 
 
2.次に最近のいくつかのご意見、ご指摘について触れます。
 
(1) Y.Tさんからは「誰にとっての価値かを考えるべきだ」というご指摘があ
りました。これに対して「日本政府にとっての価値である」と答えれば、「一
国功利主義」に傾くかもしれません。
 
しかし、日本政府の当為を考えるときは「日本政府にとっての価値」を考える
というのは論理的な帰結なのか、外国人の価値観から日本政府の当為を考える
こともありうるのではないか、そもそも価値は人によって異なる「べき」もの
なのかという疑問もありますので、なかなか簡単には答えられません。あるい
は、「日本人、外国人が共通に有するべき価値観を想定している」という答え
もありうるのかもしれません。
 
 
(2) S.Sさんからは、「日本政府の政策に基づかずに外国に被害が発生した場
合と、日本政府の政策が原因で外国に被害が発生した場合とでは、後者の方が
より救済すべき度合が高いのではないか」というご意見がありました。
 
これは重要なポイントだと思います。後者の方がより救済すべき度合が高いと
すれば、単なる利益衡量ではなく、行為責任について考えていくことが必要に
なるかもしれません。「一国功利主義」ではなく、このあたりに「主体を考慮
した当為」を考えるヒントがありそうです。
 
 
(3) 「階層的価値観」を主張するS.Yさんからは、「国家の責務とは一義的に
決められるものではなく、ディベートの中で議論すればよい」という意見があ
りました。[JDA:5691]では、S.Yさんは国益に関して「国民の生命と繁栄に損
害を与えないという条件がある」と説明していましたが、最近のメールでは
「国家の責務」については、それと異なることもあるとされるようです
([JDA:5743]では、S.Yさんは自国民の生命の保護を絶対視していません)。
 
しかし、「国家の責務」の基礎的な概念すら不明確なままにディベートの議論
に委ねるようでは、果たして、ディベートの中で議論して決まるのかという疑
問が残ります。
 
 
----------------------------------
◆◇ H.I 
 

 
 
Date: Wed, 28 Apr 99 00:27:54 JST
Subject: [JDA :5747] Re: Government should be responsible
 
>MLの投稿をみる限り「日本人の利益を外国人に優先して扱う」という考え方
>に共感する人は結構いるようです。この考え方の人が指摘する(あるいは念頭
>において論じる)のは、決まって「日本人と外国人の生命のどちらかしか助け
>られないとしたら、日本政府は日本人を助けるべきだ」という例です。
>
>この結論が妥当なのか私は疑問を感じますが、その点はさて置きます。むしろ
>問題なのは、このような現実にありそうもない特殊な事例における価値判断を
>安易に一般化して、すべての外交政策の「当為」の判断に用いようとする傾向
>です。
 
私はH.Iさんと同種の問題意識を持っていながら、逆の結論に達しています。
 
特殊ケースを一般化してルールにするのには問題があります。その意味で、「ど
ちらかしか助けられなかったらどちらを助けるのか」と救命ボート倫理的判断を
迫り、そこから原理原則を導くやり方は疑ってしかるべきだと思います。
 
ではそういう特殊な状況でないとき、N国政府は自国民も外国人も「平等に」扱
うべきだと言えるでしょうか。私はむしろ、特殊でない、通常の状況においてこ
そ「平等扱い」などありえない、と言っていいと思います。いくつかの具体的な
国家の責務の遂行において、その対象がN国人であって外国人でないのは極めて
明らかです。
 
更に言えば、「国際貢献、対外援助」などは、通常の国家の責務から考えると、
特殊ケースとも言えます。居住外国人のケースもそうかもしれません。
 
「N国人と外国人の生命のどちらかしか助けられないとしたら、N国政府はN国
人を助けるべきだ」とは必ずしもいえない。しかし、二者択一を迫られるような
特殊ケースではない、通常の状況では、N国政府はN国人の利益を守る責務があ
る。というレベルのことは確認しておくべきだと思います。
 
Y.T 
 
PS 本来論理的にはS.Yさんご指摘の疑問にお答えすべきですが、時間の都合
   上あとにします。
 

 
Date: Thu, 6 May 99 19:44:18 JST
Subject: [JDA :5757] citizen, governmental responsibility
 
H.I様、Y.T様
 
 
総括的に、2点だけ述べたいと思います。
 
 
まず、国家が責務を負う「人民」について
 
日本国内の外国人と、日本国外の外国人を同一視した議論があるようですが、国家
の責務という観点からみると、両者は非常に異なります。
 
日本という国家の構成員としては、日本国民のみならず、日本国内に滞在する外国人
も含まれます。これらの外国人に対して、どのような権利を与えるのか、という問題
は議論の必要な問題でしょう。
 
ただし、単純に考えて、合法的に受け入れて納税等の義務を課す以上、日本国民に準
じた取り扱いをするのは当然であろうと思います。現在行われている議論でも、合法
的に滞在している外国人に認めない権利は公民権(地方選挙の投票権は認めよ、とい
う意見もある)や、公務員の受験資格(地方公務員は、意思決定に係わらない者以外
は受け入れ可能)といったものに限定するという取り扱いが大勢を占めています。
 
 現時点の取り扱いでも、保護行政機関にせよ、医者にせよ、消防士にせよ、警察に
せよ、いちいち国籍で差別したりはしてません。彼らの頭にあるのは、困っている人、
生命に危険のある人を助けるということだけです。
 
 さらに、永住権を持った外国人と、日本人の違いは何か、と問われると、あまりき
ちんとした返答が出来ないのが現状で、公民権の付与をも含めた議論が今後は活発に
行われるのではないでしょうか。
 
 
 
 一方、外国に居住する外国人に対しては、これまた当然ながら、日本国政府は、基
本的に責務を負っていないというのが一般的であろうと思います。
 
 
政策の価値ということはともかく、国家の責務という観点からは、両者の違いは明確
に区別して議論する必要があると思います。
 
 
-------------------------
 
つぎに、国家の責務と国民の生命について
 
 
 国家の責務の最も基本的なものとして、国民の生命を守るということがあるのは間
違いないと思います。多くの場合、国家の責務としてはこれが最優先されるでしょう。
ただしこれは、絶対に国民を危険にさらさないということを意味しません。
 
日本が侵略されたときは、自衛隊は自らの危険を省みず、戦わなければなりません。
黙って侵略されるよりも戦った方が結果的に国民の生命と繁栄を守れるからです。こ
れは、5691にも「防衛」ということばで出てきてます。
 
 さらにもう一つ。
 
 国家は、国民の生命に全面的に責任があるわけではありません。
 
 国民の安全と繁栄を守ることが国家の責務であるとしても、一人一人のプライベー
トにまで立ち入ることはできません。人権の尊重も国家の責務だからです。国家が出
来ることは、国家の安全と繁栄を守るための制度や機関等の枠組みを構築することだ
けです。自殺したい人もいるでしょうし、危険な行為をしたい人もいるでしょう。危
険なところに援助にNGOとして援助に行きたい、それも結構でしょう。国家としては、
その選択を権利として尊重せざるを得ないと言うことです。
 
 ですから、「国家の責任が問われる国民の死亡」というのは、制度、機関の対応に
過失があった場合や、国家公務員として直接指揮命令下にあった場合など、かなり限
定されたものです。この辺は、行政訴訟でよく行われる議論です。失業による自殺に、
国家の責任が問われることはまずないということはそういうことです。
 
 さらに、援助のように、国の要請によって国民を派遣する場合にあっても、全面的
に要員の生命を守る義務はありません。国に求められるのは、要員の安全を守るため
に適切な措置を講じたか、ということであり、例えば本人の不注意での死亡や、予測
不能な犯罪等に巻き込まれた場合などは、労働者の救済という観点からの補償はあっ
ても、国としての責任を問われることはないでしょう。
 
 
S.Y
 
 
 
 

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