--特集--

 

日本におけるディベートの普及について(その3)

 

 

[編集:安井省侍郎]
 

  1950年代から英語のディベート大会が継続的に開催されるようになって以来、日本におけるディベートの普及には様々な努力がなされてきましたが、特に、日本語によるディベート教育は、十分に普及されてきたとは言いがたい状況にありました。

しかしながら、ここ数年、ディベート甲子園の開催などにより、日本語によるディベート教育の普及にもめざましいものがあります。それとともに、従来、大学生の英語サークルによって行われてきた形態のディベートのみならず、様々な形式、形態、目的をもったディベート活動が行われるようになってきました。しかし、何のために、どのようなディベートを普及するのか、ということについては共通了解が得られていないようです。

本特集では、(1)何のためにディベートを普及するのか、(2)どのようなディベートを普及すべきなのか、を中心として、(3)ここ数年、あるいは過去数十年にわたるディベートの普及活動を振り返ること、(4)諸外国におけるディベート教育・研究の動向を調査すること、(5)日本国内で現在行われているディベート教育活動を調査することなどにより、あるべき今後のディベート教育とその普及の姿を探っていきます。

今回は、前号に引き続く第3回として、ディベート教育、あるいはディベート教育に関する研究の第一線で活躍されている方々を中心に寄稿を頂きました。

 


レトリックとディベートの政治的本質:倫理批評実践

 

柿田秀樹

 

 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第6巻のなかで真理に関わる知識を5つの種類に大別した*1 。直知(nous)、学(episteme)、智慧(sophia)、賢慮(phronesis)、技術(techne)の5つである。ディベートの知識はこの知識の体系の中では技術に当たるものである*2 。ディベートは議論法(argumentation)というレトリック技術が要求されるスピーチ活動である。ディベートの際にディベーターはそのレトリックの技術を駆使して、ジャッジの説得に励むのである。自分の主張を正当化し持論を支持してもらうために、ディベーターはただ主張を言い放つのではなく、例えば証拠を参照し、理由づけ等を行うのである。さらに相手の議論の反駁を繰り広げるのに、彼らは相手方の理由づけに対抗する論理性の矛盾などから相手の主張を切り崩していくのであろう。このような知識が行使されるディベートはしばしば政策論争や法定論争という形式をとるのであろうが、言説を使用する活動である限りにおいて、その技術の適用の可能性は無限定であるように理解されている*3 。

 私の今回の主張はディベートの技術性に対する倫理的疑問に起因する。技術の適用に限定がないのは危険である。例えば、クローンという科学技術は優秀な民族や種族を残す可能性を探る優勢学という目的のために使われるべきではないはずである。私にはそれをクローン技術を発見した科学者当人のみが批難されるべきものだとは必ずしも思えないのである。反対に、クローン技術が商業用臓器生産のような人間の生活向上以外の目的の為に使用することができることに疑問も感じず、その技術を濫用する科学者や政治家の社会的な特権階級を許し、誤ったクローン技術使用をディベートのような民主主義的な手段で食い止めることができない市民の甘い倫理観に問題があるように感じられるのである。

 類推的に語るならば、クローン技術の非倫理的使用が問題であるのと同様に、ディベート技術の使用目的の判断は学習者個人に委ねられるべきものではないのである。それは学習者に必ず併設して教育者が教えるべきものであり、彼らの自己判断力を前提とすることはできないのである。私はディベートの使用に関する倫理的な規定は技術の修得と同様、又はそれ以上の価値を置いて学生に教えなくてはいけないものであると信じている。技術にはいつも倫理規定が必要となる。つまり、ディベートは技術であるが故に、その使用には必ず処方箋が必要とされるのである。処方箋はディベートがレトリックの活動であることを認識させ、その言語行為が政治的であることを理解させるのであり、それ故にディベート技術の学習にはレトリック批評の教育の徹底が必然的に伴うべきなのである。

 ディベートが歴史上最も盛んであったであろう古代ギリシャ時代の市民とは政治活動をする人間であった*4 。彼らの社会生活は実践(praxis)と呼ばれ、その政治性は観想(theoria)の領域とは区別されていたのである。実践は理論とは全く違う領域に属すものであり、それは社会的・文化的活動であるが故に常に政治的である*5 。実践とはポリス (polis) で生きることであり、政治 (poli-tics) に関与することである。「政治的であるということは、ポリスで生活するということであり、ポリスで生活するということは、すべてが力と暴力によらず、言葉と説得によって決定されるという意味であった」*6 。その意味において実践は優れて政治的であり、ポリス社会のアテネへの使節団の訪問 (sightseeing) を語源とする理論とは一線を画すのである。つまり、市民とは政治に携わる人々であり、彼らは政治的活動の為に生活していたのである。さらに現代のように政治と経済の結びつきが密接ではなかった古代ギリシャでは、経済活動(家政術)は政治の一部ではなかった*7 。政治は私的領域である家政(oikos)と対比され、本来その領域は実践の公的領域に従属しているのである。むしろ経済活動は私的領域で行われるべき活動であり、公的領域では純粋に政治活動としてディベートが行われていたのである。

 ディベート技術の使用条件の社会的整備として、その普及は健全な市民(public)の育成に責任を伴うはずである。つまり、真の意味での市民教育が必要とされる。しかし、本来市民に教育されるべき知識は技術ではなく、賢慮である。賢慮は「人間にとっての諸般の善と悪にかんしての、ことわりを具えて真を失わない実践可能の状態」であり、その価値判断は「どのようなものごとが『よく生きる』(エウ・ゼーン)ということのためにいいか」 *8についての社会文化的知識なのである。よく生きるとはポリス社会でよく生きることであり、その達成されるべき目的は社会的な故に普遍性を前提とせず、偶然性の中で確実性を作っていく正しい選択をする能力とされるのである*9 。選択にはいつでも政治性が伴い、その政治性から逃れようとすることが最も政治的であることに気付くべきである*10 。従って、市民社会の実践とは公的な領域での(普遍性を前提としない)偶然性を察知する賢慮に導かれた文化的背景を考慮にいれた判断を下す政治的/社会的行為のことであると結論づけられる。

 このような賢慮の性質は政治から距離をおく振りをしている行為に批判的にならざるを得ない。それどころか、ポストモダンの条件に支配された現代社会では技術批判の為の政治知識の果たす役割は以前にも増して重要な位置を占めている。現代の科学(学としての知識)は技術との結合によって現代社会を支配する原理となっている。藤沢は次のように現代の技術を批判する:

 

しかし制作知 [poiesis] としての技術はいま、そのような行為知 [praxis] を徹底的に排除した観想(理論)知 [theoria] としての科学と直接合体し、かくて、観想(理論)知が“客観的”に観きわめた対象改変の可能性は、人間にとってのその最終的な価値(よし悪し)をじっくり考察されるより一足先に、直ちにそのまま新製品へと現実化されることになる*11 。

 

科学技術の発展は我々の生活に経済的な豊かさと潤いを与えた一方で、その“客観性”という思想的原理が我々の思考に影響を与え、現実を作り出している。そのような客観的(とされている)現実は政治的な価値判断を仰ぐことなく、絶対的な真理として社会に受容されているのである。しかしたとえどんなに客観的な真理に基づいてクローン技術が安全に存在しているとしても、最近東京農業大学で発生した研究指針の逸脱を犯しての人間と牛の細胞融合を利用しての生命操作のような帰結が待ち受けているのならば、その真理と帰結は区別され価値判断を仰がなければならない。客観的真理であるという正当性によって生命操作を社会的に承認することは倫理的及び政治的には許されることではないのである。技術の社会的受容は倫理的批評から逃れることはできないのである。

 藤沢は知識の政治性と技術性の位置関係を的確に捉えている:「もともと制作知 [技術] とは、アリストテレスも正当に認定しているように、本来、行為知 [賢慮] によって支配されるべきものであった。作られる物はそれ自体が目的ではなく、何かのために作られるのであるが、その点についてのよし悪しを人間の「幸福」(エウプラクシアー=よく為すこと)という究極の目的に照らして考察するのが、行為知としての思慮にほかならないからである」*12 。思慮は技術に優先する。思慮が技術を支配するのであって、技術は思慮を支配してはいけないのである。

 この賢慮と技術の位置関係を維持してきたのは文学部のような人文主義の伝統である。人文主義の伝統は教養に支えられた知識を実学よりも優先させる*13 。つまり、大学では、英会話学校で学習するのとは違い、英語学習のために英語技能を教授しているのではない。多くの文学部(特に英米文学科)では学生が英語という手段を用いてできることが専門性を構成するのであり、それ故に形式よりも質料を重んじるのは当然である*14 。その研究の主たる中心は伝統的には理論、歴史、及び批評になるのであろう。技術的知識の習得は大学のような高等教育機関では研究の前提であり、私にはそれ自体には専門性としての知識的価値を見い出すことは難しい。

 それ故に、現状では私はディベートを大学3、4年次履修の専門課程では講義していない。私の担当するコミュニケーション演習とコミュニケーション特講(共に専門課程の必修科目)では学生はレトリック批評を学んでいる。ここでのレトリック批評とは社会批評であり、実践としてのテクストの政治性を批評することを学習するのである。様々なテクストに内在する象徴の政治性を批判的に解釈していくことが主なテーマとなる。ディベートのテクストが社会の一部として存在する以上、ディベートにおけるレトリックの行使はいつでも批判の中心的主題になり得るのである*15 。公的なテクストの社会批評を実際に行うことは高等教育機関での専門の学習であり、賢慮を行使する判断力の向上を実践させるのである。

 対照的に、私がディベートを講義し学生に実践させているのは2年次の教養課程時の一部で履修可能なスピーチ・インプルーブメント又は基礎演習(共に学科の選択専門科目)である。教養課程時の学生には技術としてのディベートは優れたコミュニケーション・スキル、及び専門課程時への準備段階としての思考力の養成に役立つはずである。ディベートの技術の有効性は、アメリカ・日本を問わず、数多くの優秀な卒業生を生み出している事実をみれば一目瞭然であろう。その政策決定の思考技術は批判的な判断力の導きによって言説的表現能力を増加させるであろう。確かに技術の必要性から逃れることは現代社会では不可能である。私はディベートの技術が有効ではないと主張しているのではない。そのような実践をマニュアルのように繰り返すことが可能であると信じることにこそ、落とし穴が待っているのである。

 私がディベート活動に従事する際に注意を払うことは、この技術性に対する倫理的な態度である。「ディベートは技術である」、この事実が忘れ去られてしまう時、ディベートは危険な怪物として現れて来ざるを得ない。この倫理的(それ故に政治的)主張は、その活動の中心からの距離は別にして、ディベートコミュニティーに10年以上住み続けてきた私の社会的自己批判としてこの私論の読者には受け取ってもらうべきであろう。ディベートを単純に技術として教えることへの危険性は、そこに表裏一体にある批評の可能性を無視させることになる。ディベートの技術の有効性だけに注目が集まり、社会的な影響を無視しその普及を歓迎する風潮に、私が本来批判的思考能力を養う為のディベート活動に多かれ少なかれ携わる者であるが故に憂いを感じるのである。ディベートの技術の万能性を信じる事こそ自己に最も批判的思考能力を欠落している態度であろう。

(かきた ひでき 青山学院大学 JDA会員)

 

 

脚注

*1 アリストテレス『ニコマコス倫理学』1139b-1145a。

*2 二杉はディベートを教育活動の一環として捉えた上で、その理論が技術であると主張している:「ディベートという形式で討論を行えば、学習者自身の力でかみあった討論を行うことができる。議論の構造を学習者自身が理解しながら討論を行うことができ、議論をメタ的に認知できるから、討論の技術を身につけることができる。教師が議論を整理することがなくても、自ら議論を整理できるようになるのである。ディベートの教育的な意義はこの点にある」。この引用の出典は次のJDAのウェッブサイトを参照のこと: 二杉孝司「ディベート普及の現段階」インターネット・ホームページhttp://www.kt.rim.or.jp/~jda/article/prevail.htm.アクセス:11月11日。

*3 北岡(1995年)は「ディベートは、知を創造するための方法であり技術」であると述べ、その技術は教育をつうじて高いコミュニケーション能力の開発に貢献すると断言する(16頁)。その技術を利用することが必要であるのは、「ディベートは否応なしに世界標準の道具」なのであり、「普通の日本人は習得せざるをえない能力であり技術である」が故である(北岡、1993年:22頁)。技術と能力開発が直接的に結合可能であるのは、技術が産業に結びつくことを要求する資本主義の言説を何の懐疑も持たずに鵜呑みにしている査証であり、それこそがディベートの掲げる批判精神を裏切るものであろう。以下の文献を参照のこと。北岡俊明 『ディベート入門』 日本経済新聞社、1995年;北岡俊明 『ディベート論争の技術』 明日香出版社、1993年。

*4 ハンナ・アレント(志水速雄訳) 『人間の条件』 ちくま書房、1995年。特に第2章「公的領域と私的領域」を参照のこと。

*5 同書46-48頁。

*6  同書47頁。

*7 故にアリストテレスは次のように述べる:「家政術は独裁政治であるのに(なぜならすべての家は一人の者によって支配されるからである)、国政術 [政治家の術] は自由で互いに等しき者たちの支配であるからである」(アリストテレス『政治学』1255b)。

*8 アリストテレス『ニコマコス倫理学』1140b。

*9 賢慮と実践及びレトリックの関係については以下の文献を参照のこと:Maurice Charland. "Finding a Horizon and Telos: The Challenge to Critical Rhetoric," Quarterly Journal of Speech 77 (1991): 71-74.

*10  政治がレトリック的選択の恣意性であることは以下を参照のこと:Philip Wander. "Marxism, Post-Colonialism, and Rhetorical Contextualizaioin," Quarterly Journal of Speech 82 (1996): 402-35.

*11 藤沢令夫 「実践と観想」 『新岩波講座 哲学10』 岩波書店、1985年。33頁。

*12 同書32-33頁。

*13 この場合の教養としての知識には技術の対応物としての学、智慧、及び賢慮を含む。しかし、藤沢とアリストテレスの議論に倣うならば、技術を支配し批評していくのは学でも智慧でもなく、政治性を伴う賢慮なのである。それは賢慮が専門性を伴った知識であり、現代のポストモダンの社会的文脈では賢慮は特に高等教育での主題となるべきものなのである。この賢慮を中心に据えた人文主義の伝統はイソクラテス及びキケロの流れを直接汲むものである。それ故に、広川(1990年)は以下のように人文主義を支持する:「ここに言われる『人間性にふさわしい学芸』は、文学・修辞学・歴史・哲学をその内容とするものであった。ここでの哲学は、プラトン・アカディメイアの実践する精緻な数学的・論理的形而上学ではなく、キケロにとって、それはむしろ広く人間の行為あるいは人間社会にかかわる道徳(哲)学であり政治(哲)学を意味した。(中略)弁論・修辞術が人間と野獣を区別する言語能力を最高度に発達させ、人間を未開から文明の状態へと高める原動力となった . . . と語るキケロは、すでにみた、教養のもうひとつの伝統イソクラテス的な修辞学的教養の正しい継承者なのである。キケロの『人間性にふさわしい学芸』の内実は、したがってこれを総じていえば、文学的・修辞学的教養とみることができるだろう。(中略)イソクラテスはここで、世の一般の弁論・修辞家、ソフィストとははっきり異なって、技術としての弁論・修辞術を練磨することをかならずしも第一義とせず、むしろ人間教育・教養に向かって、人びとの品性を高め徳を涵養することを真の目的とし、この点を世に宣明している」(広川洋一 『ギリシャ人の教育ー教養とはなにかー』 岩波書店、1990年。39-41頁)。

*14 つまり、技術の習得とは何よりも形式の学習である。形式としての議論方法の学習は質料を伴わないため、どんな目的でディベートを学習するかを自問する必要がないのである。しかし、形式と質料が本来分離できないにも関わらず、議論に本質的な質料を伴わないのであるならば、その倫理性を問えるようになることこそが重要なのであろう。以上の立場をある程度踏まえた上で、「ゲーム形式」としてのディベートを批評した矢野(1996年)を参照のこと:矢野善郎 「コミュニケーション形式としての<ディベート>」 『スピーチ・コミュニケーション教育 第9号』 (1996年):1-8頁。

*15 ディベート活動を社会批評として捉えて検討された文献として以下の論文を参照の事。Satoru Aonuma, "Argument Criticism: A Materialist Perspective," Communication Association of Japan Annual Convention, Tokyo. June. 1990.

 

 


 

ディベートの国語科教育学的意義

 

望月善次

 

A.はじめに

 

 現在の日本においてディベートは普及すべき意義を有している。

以下,この主張の元に,筆者の専攻する国語科教育学の立場から,「形式性(明示性:発達論)」,「ゲーム性」,「調査性」,「両面性」,「異文化性」の五点から(許された誌面も考慮して)結論的に論じたいと思う。

 

B.筆者の立場

 

 筆者は,国語科教育学徒として,より具体的に言えば,石川啄木の短歌を中心とした詩歌教育研究と国語科教師の養成・研修を視野に入れた国語科教師教育研究とに志している者である。

 したがって,ディベートそれ自身を主要研究テーマとする狭義のディベート研究者ではない。また,授業者としての関わりも,「ディベート」を含んだ講義名称を有する講義を担当していたり,講義の内容全てが,ディベートのみを直接の講義対象とする講義を担当しているわけでもない。現在のところ,通年の「国語科教育学演習」という講義の中で,ディベートを扱っているに過ぎない者である。〔なお,この講義の概要については,既に先般のニューズ・レターに報告している。〕

 しかし,この講義の3分2又は,4分の3以上は,ディベートを対象としているから,ディベートを対象としての講義時間は,「短くはない」とも言えるであろう。

 また,日本国語教育学会岩手支部会の支部長として,上條晴夫(『授業づくりネットワーク』編集長)・大内善一(秋田大学教育学部教授=当時)両氏を招いて「ディベート入門講座」〔盛岡市西部公民館,1996・6・30〕を開催しているし,その他においては,当時学校長をしていた岩手大学教育学部附属中学校が,東北地区代表として,第2回ディベート甲子園〔1997・8〕に出場させて戴いたという御縁もあった。

 いずれにしても,筆者のディベートに関する知見は,こうした狭い体験を出るものではないことを記しておこう。

 

 C.現代日本文化におけるディベートの意義五点

 

 「国語科教育学演習」において,ディベートを対象とするのは,これを対象とすることが,現代日本文化にとってきわめて有益なことだと信ずるからである。かつて,「討論」という枠組みの中で,しかも結論的にではあったが,「ディベートは,その形式性(明示性),ゲーム性によって今後一層若い世代に浸透して行くことであろう。」〔望月善次「(提言『討論の授業 〜問題点と課題)『討論』の吟味と提案五つ〜自身の体験に引き寄せながら〜」,日本言語技術教育学会編『言語技術教育』第7号(明治図書,1998・4)p.88。〕と記したことがあったが,本論においては,「形式性(明示性:発達論への展望)」,「ゲーム性」,「調査性」,「両面性」,「異文化性」の五点から,その主張の骨格だと考える部分を中心とした考察を加えることとしたい。

 

 D.「形式性(明示性:発達論への展望)」

 

 ディベートの有する意義の第一は,その形式性にある。その形式が分かりやすいのである。例えば,「ディベート甲子園」の例でいえば,「立論,質疑(反対尋問),第一反駁,第二反駁」というステージの明確さである。このステージの明確さは,例えば,「立論」中の「哲学(基本的理念),定義,発生過程,メリット(デメリット),重要性(深刻性)」等の明確さにも支えられいる。

 教授・学習の立場から言えば,「進歩の過程や程度」を示しやすいということになる。つまり,「発達論」が存在するのである。

 

 E.ゲーム性

 

 ディベートには,判定があり,勝敗がある。この勝敗が,それに関わる者に真剣さと熱中とを生むのである。筆者は小・中学校段階において,二つの側に分かれて行う討論のみを行い,この勝敗の部分を曖昧にする一見ディベート風の「ディベートもどき」が行われることもあることを知っているが,こうした実践は,ディベートの重要な側面を知らぬ者のそれだと考えてい

る。

 勝敗こそが,ケーム性の中核なのであり,これを欠落させては,ディベートの重要な側面が欠落することになるのである。

 

 

 F.調査性

 

 ディベートは,或る面からすれば,資料の勝負でもある。上述した,ゲーム性が,この面での真剣さも促進する。ディベートが学校教育において有する意義は,この面においても無視出来ぬものがあろう。

 但し,香西秀信〔『「論争」と「詭弁」〜レトリックのための弁明〜』(丸善,1999・7)〕が示唆しているように,ディベートにおける資料の決定性を,どうした程度に止めるのがよいのかという考察は,今後の課題であると言ってよかろう。

 

 G.両面性

 

 ディベートの重要な側面は,肯定側・否定側が固定されていず,両者の位置が変わり得る両面性にもある。「物事には,両面がある。」というテーマは,ディベートにおいては,理念的にのみ存在するのではない。こうした<両面的な考察過程を経て,結論を出す。>という方法は,もっともっと日本文化の日常の中にも取り入れられてしかるべきである。

 

 H.異文化性(鏡的役割)

 

 ディベートが現代の日本にとって有効なのは,その異文化性にもあろう。物事を明示することを嫌う側面のある伝統的日本文化からすれば,ディベートの明示性には,違和感を感じる人も少なくない実態は,当然として存在する。

 もちろん,明示的文化が優れていて,曖昧的文化が劣っているなどいうことはない。河合隼雄の「二つよいこと,さてないものよ。」を引くまでもなかろう。それぞれの文化は,それぞれの歴史を背負い,かけがえのなさを有しているのである。

 しかし,もう一度ディベートに引きつけて言えば,ディベートから感じる違和感によって,伝統的日本文化が有している側面が浮かび上がってくるのである。このディベートの持つ「鏡的役割」が,捨て難いのである。

 

 

 I.おわりに

 

 本小論は,狭義のディベート研究者ではない,一人の国語科教育学徒として,「ディベートの現代日本文化に有する意義」について,「形式性(明示性:発達論)」,「ゲーム性」,「調査性」,「両面性」,「異文化性」の五点から結論的に論じたものである。

 整理し直してみて,改めて,「形式性(明示性:発達論)」,「ゲーム性」,「調査性」,「両面性」,「異文化性」の五つは,それ自身,ディベートの意義に関して,常識を出るものではないことを思うが,この五つが,現在の筆者の考える「日本文化におけるディベートの意義」であることも事実である。この五つを核として現在の実践を行いつつあるのだということを率直に記しておこう。

 なお,筆者の住まいする岩手県においては,ディベートの普及は,遅れている。その大きな原因は,端的に言って指導者の不足である。指導者の不足への解決をも展望した主張である「教師ディベート甲子園」の実現と共に今後,その普及に心掛けたいと思っていることも付け加えておこう。

 

.(もちづき よしつぐ 岩手大学教育学部国語科

Email mochi@iwate-u.ac.jp )


ディベート研修について

 

 

西部 直樹

 

 私は、企業、公官庁、地方自治体職員に対して年間60回ほどのディベート研修をしている。日数にすると年間約120日になる。この研修の数は、私が企業研修に携わってから約10年間、多少の増減はあるがほぼ変わらない。およそ週に一回、どこかの企業、官庁、あるいは地方自治体でディベートの研修をしている。私の経験から企業研修(公務員研修も含まれる)では、ディベートはどのように行われているのかを紹介したい。

 企業研修のOff-JTでディベートは行われている。教育を受ける対象者は、企業によって様々であり、その研修目的、受講動機も様々である。現在企業が置かれている状況は厳しいものがあり、そのためディベート教育は、以前とは違った意味を持ちはじめている。

 

企業研修でのディベート

 

 企業内教育の方法には、大きく二つある。OJT(On the Job Training)とOff-JT(Off the Job Training)である。OJTとは、仕事をしながら上司や先輩などから受ける教育のことである。Off-JTとは、職場、仕事を離れて、会議室や研修施設に集まり受ける教育のことである。ディベート研修は、後者のOff-JTで行われている。私がディベート研修をする場合、研修の期間は通常2日間である。時間は、朝の9時から午後5時まで、昼食時間を除いて1日7時間、計14時間かけている。この二日間で、ディベート説明から試合まで行う。対象者や目的によっては、1日の場合もあり、逆に最長21日間(大学の授業時間数にすれば、3年分くらいか)する場合もある。ディベート研修の対象者は様々である。階層としては、新入社員(入社前研修ということもある)から、中堅(入社5〜10年)、新任幹部社員(いわゆる課長職に相当するクラス)、そして、経営役員(社長も含む)まで。職種も、営業職から事務、スタッフ部門、技術職まで。対象者が様々なのは、企業の経営方針、人材育成の方針によって、どの時点でディベート研修を受けるかが違うからである。

 ディベート研修の目的も、これも様々である。「議論の技術を身につける」「論理的思考能力とコミュニケーションスキルを修得する」「テーマ(論題)に関する知識を身につける」「チームワーク、仲間意識を醸成する」まで。自治体などの研修では、これ以外に「問題解決能力の修得」「政策形成能力の基礎の修得」もある。

 

 階層別研修から自由応募型へ、そして全社員必修

 

 ディベート研修の形態は、この10年でかなり変わってきた。対象の階層、職種にも広がりがでてきた。それは、企業研修の形態そのものが大きく変わってきたためである。

 私が講師をやりはじめた10年ほど前は、階層別、強制参加の形態がほとんどであった。階層別、強制参加とは、入社後一定の年数がたったので、あるいは役職に就いたので、その年次、あるいは役職者を強制的に集めて、一定の研修を受けさせる、というものである。その研修の一つとしてディベートがあった。ある年次、ある役職には、ディベートで培われる能力が必要だと思われていたのだろう。

 しかし、最近はこのような階層別、強制参加の形態はごくわずかになってきた。代わりに増えたのが、自由応募型である。自由応募型というのは、人事部あるいは人材開発部などの研修担当セクションが、幾つかの研修メニューを用意し、社員はそのメニューの中から受けたいものを受ける、という形態である。そのメニューの一つとしてディベートが入っている。これは、現在の企業のあり方が変わってきたからなのだろう。これまでの年功序列、終身雇用といった形態がとれなくなり、代わりに年俸制、成果主義、目標管理制度などが取り入れられつつある。また、組織の階層もフラット化が進んでいる。一般的な平社員、主任、係長、課長、次長、部長、取締役……のピラミッド型の組織は、なくなりつつある。

 つまり、仕事に必要な能力、スキルは、会社が社員に対し一斉に強制的に身につけさせる方向から、仕事に必要な能力なりスキルなりを持っているかをもって評価する、という姿勢になってきたのである。もう少し平たくいうと、今までは、この階層、この役職には、これこれの能力、知識が必要である、だから研修をして身につけましょう、と会社が用意してくれていた。それが、この仕事なりをするためには、これこれの能力が必要である、それらの能力、知識を持っている人を雇います、あるいは評価します、だから、能力なりスキルなりは、自分で身につけて下さい、に変わってきたのである。

 企業の変化は、内部にとどまらず外部も、企業を取り巻く環境も変化している。それがディベート教育を取り入れる要因になっている。

 幾つかの例を挙げてみよう。例えば、営業職について、これまでの営業には「人柄で売る」という面があった。「彼だから買う」とかいうものである。「そこをなんとか、私に免じて」といって話が通ることもあったのだ。しかし、今はこのような「おつきあい」的な営業は通らない。あるメーカーの営業教育担当者は、「人柄で売る時代は終わったのです。これからは、自社製品の適切な説明、ニーズの把握と分析、提案能力が問われるのです」と、営業スタイルが「情的」なものから「論理的なもの」に変化したと語っていた。

 それまで営業とか対外折衝と無縁と思われていた職種が、営業的作業を担うようになってきている。例えば、SE(System Engineer)は、これまでは社内での作業のみと思われてきたが、今では営業担当者とともに取引先に出向いてシステムの説明をすることが求められるようになってきた。つまり、SEでありながら、営業職と同じ能力が求められることになってしまったのだ。

 このような環境の変化に対応するためには、これまであまり省みられることがなかった基礎能力が必要となる。基礎能力、コミュニケーションのスキルである。特に論理的コミュニケーションスキルである。そのためディベートが能力開発の技法として取り入れられているのだ。

 多くの企業が外部環境の変化に対応するために、内部組織を変更してきた。社員もその変化に対応するために、ディベート教育を選択する機会が増えてきた。この変化は、この数年のことではあるが、まだ「劇的」というほどではない。企業中には、「劇的」に組織内部、外部の環境が変わったので、社員の能力を一気に引き上げようと取り組んでいるところもある。その一環として、ディベートを全社員必修としたところもある。

 例えば、それまで日本企業だったところが、外資との提携、合併などによって、外資系企業となった会社がある。これまでの「そこのところをよろしく」とか「今まで、そうしてきましたので」と、曖昧なあるいは暗に察しを求めるコミュニケーションスタイルで通じていたものが、「そこのところ、とは何か。よろしくとは、何をどうよろしくするのか」と問われるようになってしまった。これまでのやり方では、コミュニケーションが成り立たない。それで、全社員にディベートを受けさせることにした、というところもある。

 このように、ディベート教育は、企業を取り巻く環境、企業内の環境の変化により、研修の形態、位置づけを変えながらも、スキル研修の方法として取り入れられている。

 

ディベート研修の量

 

 これまでは質的な変化についてだったが、量的にはどうなのだろうか。残念ながら、客観的データがないので、おおよそのことしかわからない。

 私個人の仕事量自体は、余り変化してはいない。それは、一個人が請け負える研修の数に、自ずと限界があるからだ。個人的には、十年一日のごとく毎週ディベート研修をしている状態である。客観的なデータはないかと思うのだが、ディベート研修を採用している企業の数についての統計データは、残念ながらない。企業研修に関しては、幾つかの大手研修機関の調査結果はある。しかし、ディベート研修だけを取り出して調査項目とされていないので、実態はつかみにくいのだ。

 ただ、ディベート研修のニーズは増えている。研修会社でディベート研修を取り扱っているところが増えているし、ディベート研修をおこなう研修講師の数も増えているからだ。

 企業研修専門誌(どんな業界にでも専門の雑誌はある)には、企業向けの公開講座や講師の紹介が載っている。それを見ると、数年前にはほとんど「ディベート研修」は載っていなかった。しかし、今年などは毎月どこかで「ディベートの公開講座」は開かれ、講師も十数人はいることがわかる。それだけのニーズがあるということだ。

 企業内教育で、ディベート研修のニーズは高まっているが、まだ課題も多い。例えば、二日間で身に付くものなのか、研修後の効果測定はどうするか、等々。それらについては、また機会があったら述べることにしたい。

(にしべ なおき N&Sラーニング代表 JDA会員)

 

 


 

一分間ディベート

 

 

田村 洋一

 

この小文は、ひとりの競技ディベート経験者から世界中にいる多くの競技ディベート経験者へのメッセージである。

私は学校を卒業して以来、職業としてディベート教育に携わったことはない。ときどき依頼に応じて大会の審査員を務める程度である。しかし、競技ディベートから学んだ技術や思考法は日々実践・応用している。そしてときどき人に聞かれることがある。「田村さんのアプローチはどこで身につけたものですか。やはりビジネススクールですか。それともコンサルティングの手法ですか」 私は相手の関心の所在を測りながら答える。「どちらもありますが、合理的意思決定に関する基本的な考え方は競技ディベートで学びました」 もし相手がこの答に更なる関心を持ってくれれば、そのあと何時間でもお話ができる。ディベートとは単に議論に勝つための技術ではないのか。なぜディベートが意思決定手法を身につけるのに役立つのか。ディベートにはどんな種類があるのか。実際のディベートを観戦するにはどうしたらいいか。もし今からディベートを学ぼうと思ったらどうしたらいいのか... 首尾よくお話ができたときには、ディベートを詭弁術だと思っていた相手の誤解も解くこともできる。

 

ディベートを「見せる」には

 

「してみせて、言ってきかせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かぬ」という言葉がある。ディベートの普及についても当てはまるのではないか。いくら言葉を連ねて辻説法を行っても、関心のない向きには無意味である。まず見ること。そして理解し、経験すること。さらに経験から一定の成果を実感すること。このサイクルを生むことができれば、ディベートの賛同者は層を増し、その実践的価値も高まるだろう。

一般の人にとって、実際のディベートを観る機会は少ない。ディベート甲子園などの活動のおかげで以前よりも広く知られてきたとはいえ、わざわざ試合を観戦するのは既に競技ディベートに関心の高い人達に限られる。もちろん、既に関心のある人達に対して学習や実践の場を提供することは極めて重要だ。「観てみたい」「やってみたい」という人に対して、セミナーや大会という形で応じるのは有効だし、今後も強化すべき努力である。

しかし、ディベートを「見る」ためには必ずしも試合を観戦しなくてもよい、というのが私の主張である。ディベートは何より、ある論題について論理的な是非を問う知的作業である。論題は、国家の運営、企業の経営、個人の人生についてなど、自由に立てることができる。競技ディベート経験者の皆さんは、日々の意思決定にディベート的アプローチを応用しているだろうか。

多くの皆さんがご承知の通り、ディベートのコミュニケーション形態は極めて特殊である。聞き手の感情や個人的状況を一切考慮せず、客観的証拠と論理によって主張を組み立て、言葉で伝えていく。伝える際に感情を交えることもあるが、それはほとんど結果を左右しない。ジャッジの記録したフローに残った議論と証拠のみに基づいて判定が下される。

一般の社会生活において、こんなアカデミックなコミュニケーションはほとんど存在しない。それどころか、ほとんどの事柄は感情や旧習や政治的圧力によって決定される。ではディベートは無意味か、というとそうではない。だからこそ、ディベートによって培われる、批判的思考力や客観性が力を発揮するのである。

 

一分間ディベート

 

日々の生活におけるディベート思考の応用は、まず自分自身の意思決定から始めるのがよいだろう。自らの行動について論題を立てる。論題について、その是非を問う論点を洗い出す。それぞれが正しいと考えられる仮説を立てる。実際にどちらが正しいか、客観的情報を分析する。そしてその内容を1分間で説明できる程度に凝縮するのである。最初は、肯定側か否定側の立論に相当する内容でよい。技術的にはひとりでディベートができるが、特定の論点や証拠資料について議論できる相手がいればなおさらよい。そして最終反駁の内容を1分間に凝縮する。最後はジャッジの判定事由に相当する内容を1分間に凝縮する。

議論の分析や情報収集が完全である必要はない。時間をかけずにやるため、不完全なのは当然である。しかし、論点を整理し、判定事由をまとめることで、意思決定内容の全貌を把握するようになる。それによって、状況や考えが変わった際に、自らの行動を改めることが容易にできるのである。

これに習熟したら、周囲の人を巻き込んだ意思決定にこれを応用する。感情や政治が問題であれば、それ自体を論題に組み込んでしまえばよい。仮説の構築や検証には周囲の人の考えを取り込む。その過程で「同志」が生まれれば、ぜひその人達に論題の立て方や検証プロセスにも参加してもらうとよい。最終的に合理的意思決定に至らなくてもよしとする。何が論点か、なぜ合理的判断が通らなかったかを理解できれば、必ず次のステップに繋がるからである。

ディベート的アプローチの長所は、思考を集中させやすいことだ。何のために議論しているか、何のために調査・分析しているか、目的が明確であるため、分析過多や議論のための議論に陥らないで済む。また、関連するすべての情報や仮説に意味が与えられるため、惰性で行動することが少なくなる。知識や情報が不足していても、自分の立場について自信が持てる。何があれば自信が確信に変わるかを理解しているからである。

こうした知的作業を私は1分間ディベートと位置づけて、競技ディベート経験者の皆さんにお薦めしたい。容易に実践可能なディベートの応用方法である。おそらくディベートの価値を再発見する経験となるだろう。ディベートの価値は、スピーチが上手くなったり、議論が強くなったりするだけにとどまらない。論理、感情、政治を理解し、現状を変革するための実践的な道具ともなりうるのである。「どうしたらいいんだろう?」という難問に直面したとき、そこで立ちすくんではならない。とりあえず論題を立ててみる。論点に分解してみる。判定事由を整理してみる。そしてひとから訊ねられたら、最終的な答はわからなくても、1分間で議論の要諦を述べることができる。ディベートにおける調査・分析、立論・反駁、さらに審査を経験した皆さんには明日からでも実践できるはずである。

 

おわりに

 

ふだん仕事が忙しくてディベート普及活動に時間が割けない皆さん。ディベート会場に来なくてもディベートはできるし、「私はディベートを知っています」と宣伝しなくても、日々の実践によって人を惹きつけることはできるのです。困難な局面で迅速に分析を行う。仮説を打ち立て、検証する。大量の資料や論点を短時間に処理して、判定を下す。判定事由を論理的に整理して他人に伝える... あなたの実践が優れた成果を生んだり、他人の注目を集めたときは、未経験者にディベートを紹介するチャンスです。

「あなたのアプローチはどこで学んだのですか。私も学べますか?」

まず1分間で答えてみてください。

 

(たむら よういち JDA理事 )

 

 

  


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