--特集--

 

日本におけるディベートの普及について(その1)

 

 

[編集:安井省侍郎]

 

  1950年代から英語のディベート大会が継続的に開催されるようになって以来、日本におけるディベートの普及には様々な努力がなされてきましたが、特に、日本語によるディベート教育は、十分に普及されてきたとは言いがたい状況にありました。

  しかしながら、ここ数年、ディベート甲子園の開催などにより、日本語によるディベート教育の普及にもめざましいものがあります。それとともに、従来、大学生の英語サークルによって行われてきた形態のディベートのみならず、様々な形式、形態、目的をもったディベート活動が行われるようになってきました。残念ながら、これらの中には偏ったディベート観と教育内容を持つものもあります。

  本特集では、@ここ数年、あるいは過去数十年にわたるディベートの普及活動を振り返ること、A諸外国におけるディベート教育・研究の動向を調査すること、B日本国内で現在行われているディベート教育活動を調査することなどにより、あるべき今後のディベート教育とその普及の姿を探っていきます。

  今回は、第1回として、大学生に対するディベート教育、あるいはディベート教育に関する研究の第一線で活躍されている、大学教員の方々を中心に、寄稿を頂きました。本特集に対して、ご意見等ございましたら、ご遠慮無くsyasui@st.rim.or.jpあてお寄せ下さい。


時代が要請するディベートの能力

クリティカル・シンキングとしてのディベート教育

 

鈴木 健

 

ディベートが日本に紹介されてたのは、議会制民主政治の実践を目指して福沢諭吉が明治6(1873)年に「討論」と訳語を当てて、三田演説会で訓練をおこなった時にまでさかのぼる。「議会におけるディベート」は、政策論争による「対立」を通して、国民に対する「説明」をおこない、公平で責任ある「結論」を出すための、民主主義に不可欠なプロセスである。こうしたディベートの重要性が認識された上で、なんのために、どのようにしてディベートが教えられるべきかという議論がなされてもよいのではないかと、つねづね感じてきた。実際、日本では、教育ディベート活動の実態報告やその効果についての啓蒙が社会的に、まだまだ必要である。

そこで過去十数年間にわたって日米の大学でディベート教育に関わってきた者として、以下に日本の教育ディベート活動の現状と可能性について論じさせていただくことにする。

 

なぜディベートが注目されるのか

 

近年、なぜ「ディベート」という言葉が日本でも認知され、社会的に注目されるようになってきたのであろうか。つまり、今、なぜ時代が日本人にディベートを学ぶことを要請しているかの理由である。その背景には、国際化、高度情報化、そして資本主義の成熟化がある、と考えられる。

第1の国際化であるが、冷戦構造の中でおこなってきた政策構造の枠組みの崩壊によって、国際的舞台での日本の自主的意志判断や価値判断を求められるようになった。くわえて、あまり議論に依存せずに物事を決めるという「外からわかりにくい日本型の政策決定」が、海外で日本の信頼性を損ねることが多くなってきたからである。そもそも「議論をおこなう」前提が、日本人と欧米人では異なっている。つねに宗教的、人種的、思想的に異なった人々との共同生活、あるいは共生、を余儀なくされてきた欧米人には、自己主張をすることで自らの立場を明らかにすることが恒常的に求められてきた。欧米人にとっては、立場の異なる者同士が「対立」するの当然のことであり、そこが問題解決のスタートとなる。そして、十分に議論を尽くして「説明」を受けた上での、「結論」にしこりを残さずに従うことは、社会的な了解事項となっている。

それに対して、人々の宗教的、人種的、教育的な均一性の高い日本社会では、「出る釘は打たれる」ということわざもあるように、お互いの立場を思いやって波風を立てないことが最優先されてきた。その結果、しばしば年長者に判断を一任したり、過去からの慣習が盲目的に信奉されることにもつながった。しかし、戦後世代やその次の世代が日本社会の中心的役割を果たすようになり、日本人の伝統的なコミュニケーションのスタイルとは異なった「ディベート」という考え方が、ようやく人々に受け入れられやすくなった。教育ディベートは、日本人がこうした国際社会の期待に応えて、自分の意見を積極的に述べたり、反論することができるようになるための、最適な訓練である。

第2に高度情報社会の到来により、情報を収集・整理するだけでなく、情報を戦略的に活用できるような人材が必要とされるようになった。これはある問題を総合的かつ多角的に分析できる能力が、求められるなったことを意味する。たとえば、近年話題になった「複雑系」であるが、こうした分析方法は長年にわたり政策ディベート学者たちの重要な研究対象であった。複雑系とは、一言で言えば、ニューヨーク株式市場の大暴落やソビエト連邦の崩壊といった複雑な事象が、「どのようなシステムがからみあって発生したのかを知ることで説明しようとする考え方」である。それに対して、1980年代以降の競技形式のディベートは、シナリオを呼ばれる「複雑なプロセスを経た、間接的な利益と不利益の比較に基づく政策決定の手段としてのディベートをとらえる考え方」に基づいて発展してきた。

もちろん、こうした考え方にはルーツがあり、エンゲルスは遺稿『自然弁証法』の中で、「人間の労働による自然の変化は予想外の結果をもたらすことが往々にしてある」と記している。たとえば、メソポタミア・ギリシャ・小アジアの国々で耕地獲得のために森林開拓した人々は「今日の荒廃」を予想しておらず、アルプスのイタリア人は南側の森林伐採が「アルプスの牧牛を根絶やしにしてしまう」とは気付かず、欧州にジャガイモを伝えた人々は「同時に腺病を伝えた」とは知らなかったのである。さらに、60年代に入ってシステム理論を信奉する学者たちが、特定の連鎖段階を抜きだすことは不可能でも、「ひとつのシステムに生じた変化は、他のシステムに予測可能な影響を生み出す」ことを指摘した。特に、こうした考え方は、一度に多くの政策によって複合的な問題解決を求められる近代の公共政策の分野で重要性を増したのである。

ディベートに参加する学生は、国内と外国の文献の調査をおこない、それをファイルに整理して、試合で引用できる形にしておく。また、彼らは、専門家の分析や新聞・学術雑誌などの調査によって、どのようなプロセスでシナリオが発生・展開するかを証明しようとするだけではなく、他の専門家が結論に同意しているか、あるいは現状が提示された内容と矛盾していないかを検証しようとする。私は、過去に日本と米国で千試合以上のディベートを審査したが、「ある米国の政策変更が、複雑なプロセスを経て、日米間の貿易戦争、北朝鮮の核武装、国内の人種対立の激化などにつながるというシナリオ」が否定側の不利益として、あるいは「これらのシナリオを防ぐこと」が肯定側の利益として、しばしば議論されてきた。これは、通常の学校教育では学生がけっして経験できない、高度な政策決定の訓練となっていた。

第3の理由が、日本社会における資本主義の成熟化である。高度経済成長の時代には、すべての人々の生活水準が上昇し、「先進国に追いつき追い越せ」という目標がはっきり見えていた。しかし、現在では、具体的かつすべてに人々に望ましい目標の設定がむずかしくなっており、既得権の維持に社会全体が傾きがちである。さらに、安定成長時代から、バブル経済後の不況を経て、国と地方の財政が危機的状態を迎えている今日の日本では、世代、性別、個人の価値観などにより、社会が分断されてしまっている。

たとえば、将来のために現状の年金の受給額を減らすことは、高齢者の世代の目にはとんでもないことに映るし、掛け金を大幅にあげていくことは、若い世代の不利益となる。雇用均等を完全実施して、女子学生の就職面での不利をなくすことは、男子学生には受け入れがたい。あるいは、与党の政策決定のプロセスが明らかにされることなしに、住宅金融専門会社の損失に税金がつぎこまれることには多くの国民が反発する。こうした状況では、ある政策的立場について自然と機が熟して「国民的合意」が形成されることなど、百年河清を待つに等しい。逆に、時間をかければかけるほど反対勢力の声が大きくなって、新たな政治プログラムの実行はむずかしくなる。ある問題を解決することは新たな問題を立てることであり、われわれに必要なのは、最善の複数の選択肢の組み合わせを公の議論によってできるだけ早く決定することである。

皆が自分の立場からだけ発言するならば、多くの問題が先送りされて自分にとって不利益なことでもあえて着手しようという決定がされにくくなる。自己の主張にとらわれ、自分が賛成できない議論の「可能性」を否定するならば、そこには最善の政策決定をおこなうとする態度が最初から放棄されていると言わざるをえない。

実際、日本人は「議論によって結論を出すこと」に懐疑的である。民主主義を艱難辛苦のすえに獲得した国々と違い、戦後に外国から押しつけられて日本には、それを「すくなくとも現存する最善の政治制度」とする楽観主義はない。議論によって物事を決めると、提案に反対した側に不満を残すことになりやすい。公正なプロセスを踏んだ上で決定された内容には、不満があっても従うのが民主主義のルールである。そうでなければ、決定がいつまでも「権威」を持つことがない。「不言実行」が現代日本において死語になったように、「慎重居士」は問題の先送りと同義語になりつつある。住専や国鉄累積債務問題は、問題の先送りによって事態を悪化させ、若い世代や次の世代に禍根を残した。

ただし、国民が自分に不利なことでも必要なら我慢することを覚えなければ、政治家も真剣に政策を論じることなどできないのは当然である。「あなたが主観的には反対でも客観的には賛成の立場もあり、苦い薬だが現状ではこれが最善の処置」と人々に知らすことができるのが、「政策決定の手段としてのディベート」の最大の利点なのである。自分の意見の殻を出られない人のことを英語では「知的視野狭窄」(intellectualtonnel vision)と呼ぶが、ディベート教育こそが最適の防衛手段である。

ディベートの試合に勝利しようと思えば、論理的展開力の優劣のみによって、審査員を説得しようとすることはありえない。提示された資料の量と質、構築されたケース、そして議論の際のコミュニケーションのすべてが審査されて、肯定側と否定側の双方が比較検討されて勝敗が決定する。審査員の多くは、長年ディベート活動に関わってきており、議論の内容と理論に専門的知識を持っている。しかし、彼らは全力を尽くして自分の偏見や利害を排除して、「提示された議論が筋の通ったものであったか」と「効果的に議論の説明がなされたか」の2点にのみ基づいて審査をおこなおうと努力している。ディベートが「考える態度を育成する教育活動」であり、自分が多くのことを学んだと信じるからこそ、多くのディベートに参加した人々が卒業後も、ディベート会場に審査員として足を運ぶのである。

 

まとめ

 

普段、大学で教えていると、「批判的な思考法」が身についていないために、自分の意見がなかったり他人の意見に簡単に同調してしまう学生が驚くほど多い。近年、一般大衆や教育者の間で日本語ディベートが脚光を浴びているが、日本人の性質と取り巻く環境の両方が変わりつつあると痛感させられる。たとえば、『国語教育』(明治書院)では「自分の考えを筋道立てて話す訓練」や「論点をはっきりさせて議論を進めるための訓練」としてのディベートの特集が、繰り返し組まれている。同時に、地方公共団体や語学学校主催による「話題性の高い社会問題を議論する場」としての日本語ディベート大会や、多くの企業が新入社員に「柔軟な発想を身につけさせるための訓練」としてのディベート研修を導入している。

このようにして、ディベート教育は日本でだんだんと根付きつつある。ディベートは、日本社会の活性化や、伝統的な社会を短期間に変革するための特効薬ではないかも知れない。しかし、総合的なコミュニケーション活動としてのディベートの重要性が、正しく認識されないならば、今後、時代の要請に日本が応えていくことはできないであろう。

(すずき たけし 茨城大学助教授 JDA副会長)

 


「あれからもう24年…」

 

松本 茂

 

私が初めてディベートの試合に出場したのが1975年6月。もうすでに24年近く前になります。今の現役ディベーターがまだ生まれていなかったというから,自分でも驚いてしまいます。その後,ディベートから足を洗えず,学部卒業後もマサチューセッツ大学のディベート・プログラムに参画し,帰国後は日本ディベート協会(JDA),全国教室ディベート連盟(NADE),日本社会人ディベート連盟(JBDF),東京学生ディベート連盟(TIDL)の役員や顧問としてディベート活動と関わってきました。この24年の間に日本のディベート界も山あり谷あり…。

ここへきて日本語ディベートが大流行。さて英語ディベートのほうはというと,学校の英語教育へ徐々にですが浸透しているものの,いわゆるトーナメント・ディベートは参加校数は減少の一途のようで寂しい限り。それに代わって,パーラメンタリー・ディベートが人気を博しているようですが,そのレベルに関しては疑問視する向きも…。

私自身は上記の団体の活動と授業以外では,つぎのような普及・啓蒙活動を行っています。

まず,東海大学が抱える付属高校15校の教員を対象とした「日本語ディベート研修」がそのひとつです。(1)前期と後期ごとに計4〜5回(各回2時間)で完結するディベート講座で,研究所がある代々木校舎で開催しています。この講座では,ディベート教育のねらい,ディベートの基礎的な概念,ディベート指導の留意点などの講義と,インフォーマルなディベート活動の実践が主な内容。(2)春と夏に山中湖セミナーハウスで2泊3日のディベート合宿。この合宿では,2つの論題を用いてディベートの実践と審査方法を学習。(3)各付属高校の教員研修会(その学校の全教員が参加する)でのディベート研修。3〜4時間を使って,ディベートの基礎を学習したうえで,簡単なディベートを体験してもらいます。これまでに4校で実施しました。以上が付属高校を対象とした活動ですが,これまでに国語,国語表現,現代文明論,現代社会,HRなどにおいてディベートが活用されるようになりました。また,4月に静岡県の2校を統合して新たにできる付属翔洋高校では「ディベート」が選択科目として採用されることになりました。さらに2000年には「東海大学付属・学園ディベート大会」を開催することもほぼ決定されました。

もう一つの活動は,日本貿易振興会(JETRO)が発足させたディベート普及研究委員会に委員長として参画していることです。JDA会員の西部さんも委員として出席されています。日本の企業におけるディベート研修の在り方について研究を行い,モデル・プログラムを作成して発表する予定です。順調にいけば1999年度中には報告書を作成する予定です。

以上が,現在取り組んでいる主な普及・啓蒙活動です。こんな調子なので,当分ディベートからは足を洗えそうもありません。

(まつもと しげる 東海大学教育研究所教授 JDA専務理事)

 


ディベート普及の現段階

 

二杉孝司

 

小学校・中学校・高校の教室にディベートを普及する上で、いま考えるべきと思う問題を私なりに整理してみたい。

 

1)まず、現状についてである。授業研究の中で、ディベートが広く関心を持たれるようになったのは、およそ1990年前後のことである。もちろん、早くからディベートに取り組んでいた教師はいたのだろうが、ディベートに特に関わりのなかった教師、あるいはそもそもディベートの存在を知らなかった教師がディベートを始めるようになったのは、この時期のことである。教育雑誌にディベートの特集が組まれ、1992年の岡本明人『授業ディベート入門』(明治図書)をはじめとして、1993年の川本信正・藤森裕治『教室ディベートハンドブック』(『月刊国語教育』増刊、東京法令)、佐藤喜久雄『中学高校教師のための教室ディベート入門』(創択社)と単行本の刊行が相継いだ。このような教室ディベートへの着目は、松本道弘氏らのビジネス研修におけるディベートの広がりや、現行学習指導要領の国語における音声言語の重視などが大きな影響を与えたのだと思う。私自身も、この時期に、やや遅れて「授業研究の新しい動向」として、ディベートに注目するようになった。

我田引水を承知で言えば、こうした動向の中で全国教室ディベート連盟が1996年に結成され、教室ディベートの実践も順調な広がりを見せている。しかし、この数年の教室ディベートの実践に問題がないわけではない。象徴的に言えば、「ディベートもどき」ということばが生まれたことである。教室ディベートの水準の低さを馬鹿にするような文脈で使われることばと思われるだろうが、そうではない。このことばは、ディベートに対する教育実践の主体性・独自性を擁護するために使われているのである。たとえば、「私は、小学校・中学校の教育現場では、『本物のディベート』はいらないと思う。/しっかりと論理的思考力、論理的表現力を培う、討論の授業、『ディベートもどき』の授業で十分なのである」と言われたりする。「ディベートもどきが、なぜ悪い」という具合である。

もちろん、授業でディベートを行う以上、授業のためにディベートを行うのであって、ディベート普及のために授業を利用するのではない。しかし、ディベートの特質を持たなければ、それが教育実践上どんなに有意義なものであっても、それはディベートではない。極端な場合、教室を賛成派と反対派に分けて討論を行っても、それをディベートと言うことはできない。ディベートに対する誤解と混乱を生むだけである。もちろんディベートの特質が何かに検討の余地はある。しかし、教室ディベートと「本物ディベート」を対置してしまっては教室ディベートに発展はない。「ディベートもどき」という発想は、ディベート持つの豊かな教育可能性を狭め、ディベートを陳腐で魅力のないものにしてしまったようだ。教室ディベートに熱心であった教師たちの一部には、いまディベートに一頃ほどの熱がないように見えるが、その大きな要因は「ディベートもどき」という発想にあったように思う。

ここで、私たちは次のことに留意すべきである。すなわち、授業研究の動向に敏感で研究熱心な教師たちは、一度はディベートの洗礼を受けたということである。その中で、ディベートを始めなかった(続けなかった)教師には、様々な理由があるだろう。たとえば、そもそもディベートを誤解している、やってみたけどうまくいかなかった、等々である。しかし、確かなことは、そして重要なことは、彼らがディベートを知っていると思っていることである。このような教師にディベートをもう一度すすめようと思えば、一度目とは違った形で、ディベートの教育的な意味とその指導法を丁寧に明らかにすることが必要になるだろう。ある意味では、一度目より難しいことである。

 

2)この点に関連して、JDA秋季大会を特集した本通信第十三巻第3号の、田中政紀氏「大会を終えて」と瀧本哲史「『普及』に向けてのディベートの提供価値・ポジショニング」の議論が、私には興味深かった。お二人の議論を全国教室ディベート連盟のいくつかの会議でも紹介したのだが、その要点は次のことである。

田中氏は「今回感じたのは、ファーストデリバリーに違和感を感じるaudienceの方が多かったという事です」と言う(ちなみに田中氏のスピーチは早口な私も驚く程度に速かった)。そして、いくつかの限定をつけてのことだが、「自分たちの議論の信用性を強化するためにより多くの論拠・証拠を示すことは一般社会でも有効な事であり、そのためにファーストデリバリーにを用いるのであれば」、「むしろ目的の達成のために有用なものであるとも言えます」と言うのである。連盟にとっても早口問題は一貫した争点であって、こう言われてすぐに合意ができるわけではないが、これは正論であろう。確かに、ディベートは、一般的にスピーチ能力の向上を目的とするものではない。要するに、ディベートの目的・教育的意義をどうとらえるのかという問題なのだが、この点が瀧本氏の議論につながっていく。

瀧本氏は、「ディベートがありとあらゆる要素を含んでいるかのような幻想を早めに払拭して、expectationcontrol をはかる」べきだと言う。「具体的には、『argumentation教育』というコンセプトをわかりやすく表現してそのユニークさで競合と差別化を図りつつ、その限界を示すことで予め顧客を絞る」というのである(ただし、これは「一つの方向」であって、瀧本氏はもう一つの方向も示している)。

 

3)私は、ディベートを普及する上で、ディベートの教育的意義をまずは絞り込んで明らかにする必要があると思う。すなわち、ディベートが討論もしくは議論の訓練の場であることを何よりも明らかにするべきであると思う。これまでディベートには、様々な期待が寄せられてきた。そして、私たちも相手の期待に応じて、ディベートの様々な教育的な意義を語ってきた。たとえば、リサーチ能力の向上、わかりやすいく話す技術、チームワークの養成、等々である。これらは、間違いではないにせよ、ディベートの本質的な意義を示すものではない。そして、過剰な期待がディベートに失望させた、ということもなかったとは言えない。これに対して、討論もしくは議論の訓練は、ディベート本来のものである。もちろん、議論の訓練は、反論の指導など他の方法では不可能だと言うことはないだろう。しかし確かなことは、今日の学校で議論の訓練がきわめて不十分であり、その訓練にこそディベートは最も力を発揮するということである。

もちろん、通常の授業でも、討論は頻繁に行われている。しかし、その多くはかみ合った討論とは言いがたい。かみあった討論がなされる場合も、それは特別な場合を除き、教師の巧みな議論の整理の中で行われるものであった。だから「討論の指導は高段の芸」などと言われてもきた。ディベートは、違う。ディベートという形式で討論を行えば、学習者自身の力でかみあった討論を行うことができる。議論の構造を学習者自身が理解しながら討論を行うことができ、議論をメタ的に認知できるから、討論の技術を身につけることができる。教師が議論を整理することがなくても、自ら議論を整理できるようになるのである。ディベートの教育的な意義はこの点にある。

とはいえ、議論の文化を広めることそのものが私たちの課題だから、このように言うだけでディベートの意義が多くの人に伝わるかどうかは心もとない。そういう意味では、ディベートに接近する多様なアプローチ(わかりやすい話し方もリサーチの能力も)を用意することも必要だろう。

 

4)昨年の7月に教育課程審議会の答申が出され、11月には新しい学習指導要領も公表された。2002年からは、新しい教育課程が始まる(高校は2003年開始)。その新しい教育課程について、答申は「多くの知識を教え込むことになりがちであった教育の基調を転換し、学習者である幼児児童生徒の立場に立って、幼児児童生徒に自ら学び自ら考える力を育成することを重視した教育を行うことは極めて重要なことである」と言う。ディベートということばこそ出てこないものの、全体としてきわめてディベートに整合的であって、ディベートを行うことが適切な場が随所にある。具体的に、2つのことを指摘しよう。

第1に、国語の授業である。国語の改善について、答申は、「互いの立場や考えを尊重して言葉で伝え合う能力を育成すること」に重点を置き、従来の「文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方」を改めると言う。「自分の考えをもち、論理的に意見を述べる能力、目的や場面などに応じて適切に表現する能力」などを育てることを、重視すると言うのである。これは、国語の授業の大改革である。そして、「言葉で伝え合う能力」「論理的に意見を述べる能力」を育成するために、ディベートは、大いに役割を果たすことができる。

第2に、新教育課程の大眼目たる「総合的な学習の時間」である。「総合的な学習の時間」は、まったく新しい試みで「例えば国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題、児童生徒の興味・関心に基づく課題、地域や学校の特色に応じた課題など」を学習課題とする学習である。そして、「情報の集め方、調べ方、まとめ方、報告や発表・討論の仕方などの学び方」をを学ぶことが期待されている。「国際理解、情報、環境、福祉・健康など」は論題の宝庫であるし、「情報の集め方」や「発表・討論の仕方」などは、ディベートが最も強みを発揮できる。だから、この時間は、極端に言えば、ディベートだけでも十分にその目的を達成できるとも言える。それに、「総合的な学習の時間」には、目標が示されていない(だから教科ではない)。教師の自由裁量に委ねられているのである。ディベートに取り組む教師にとって、指導の時間を確保することが大問題であった。しかし、この時間なら、心置きなくディベートに時間を割くことができる。

このような新しい教育課程に向けての準備はすでに始まっている。その中で、ディベートに対する期待は高まっていくことだろう。過剰な期待も含めて、である。こういう意味で、これからの1・2年は、ディベート普及の正念場である、と私は思う。

5)全国教室ディベート連盟は、発足後やっと3年を数えた未熟な組織である。しかし、ようやくに支部組織も整い、昨年は、ディベート甲子園の予選大会を全国9地区で開催し、中学64校・高校88校の参加を得ることができた。ディベート甲子園を通してディベートの魅力を全国の教師や生徒に示すことができたことは、教室ディベートの普及にとってきわめて大きな意味を持っていると思う。これからは、ディベート甲子園の参加校の一層の拡大とともに、生徒たちの試合の内容の向上を図るべく指導に力を入れたい。そして何よりも、文字どおりの教室ディベート、つまり授業の中でのディベートの研究と発展に、そして教室ディベートの広がりをめざして努力していきたい。

 

これまでもJDAの会員諸氏には、連盟の活動に数々のご支援をいただいた。心からお礼を申し上げるとともに、これからも一層の支援をお願いしたい。

(ふたすぎ たかし、金城学園大学教授、全国教室ディベート連盟理事長)

 


大学におけるディベート教育紹介

 

井上奈良彦

 

本稿では、筆者が九州大学でここ数年開講している(もしくは開講予定の)ディベート関連の科目について簡単に紹介する。ほとんどの科目についてはインターネットでシラバスを公開しているので、私のホームページ(http://www.rc.kyushu-u.ac.jp/-inouen/)を参照されたい。筆者は主たる所属として言語文化部で外国語科目の英語を教えるとともに、協力講座である大学院比較社会文化研究科の異文化コミュニケーション講座で言語コミュニケーション論などを担当し、関連の修士論文・博士論文の指導も行っている。また、非常勤で留学生センターの授業も受け持っている。

 

1.英語現在九州大学では学部卒業の必要要件となる外国語科目の中にはディベートの指導を明記したものはないが、筆者は大部分の英語科目でディベートを実施している。科目によって若干指導方針は違うが、以下にその平均的な概要を紹介する。

ここでは議論の準備に中心を置いて、口頭でのやりとりとしてのディベートは最後に原稿を元にして発表を行うという「台本読みディベート」(scripteddebate)とでも呼ぶべきものを実施している。

通常、対戦チーム同士で第1立論の原稿を交換して第2立論を準備させ、さらに時間的な余裕があれば反駁のスピーチも事前に準備交換するように学生に勧めている。その場でつたないスピーチをするよりは、事前に十分時間をかけて内容・構成ともによいものを目指すという考え方である。(正直なところは、このやり方でやっと最後まで英語でスピーチができるという状態であることが多い。)

英語教育関係者の多くにとってディベートは口頭で議論を戦わせるというイメージがある。高等学校の「オーラルコミュニケーションC」という科目の中にディベートが含まれているのが端的な例である。しかし、JDAの関係者ならそれは偏った見方であり、ディベートは総合的な議論の訓練を行う活動であることに異論はないであろう。論題の分析、資料収集、論点の準備、などをふまえた上で口頭でのやりとりとしてのディベートが成立している。

1学期約15週程度で週1回の授業計画の概要を示すと以下のようになる。教科書は自筆の本の準備中の原稿をハンドアウトとして使っている。

 

1. Topic: Introduction (What is debate? Why do we debate?).Activity: Watching a debate on video. Homework: Read Chapters 1 and2.

2. Topic: Format and Proposition. Activity: Making up groups.Homework: Make a list of several possible topics for debate.ReadChapter 3.

3. Topic: Analysis of Proposition (Defining terms and findingissues) Activity: Deciding the debate proposition. Homework: ReadChapter 4.Propositions

(1) Japan should abolish death penalty. (Groups 1, 2, 4, 5, 10,11, 12)

(2) Japan should prohibit further construction of atomic powerplants. (Groups: 6, 7, 8, 9 )

4. Topic: Proof (Basics in Argumentation). Activity: Exercises onargumentation. Homework: Read Chapter 5.

5. Topic: Research (Finding evidence). Activity: Research via theInternet. Homework: Make a list of references on the chosen topic(Due in 2 weeks).Read Chapter 6.

6. Topic: Affirmative and Negative Cases. Activity: Brainstormingon the chosen topic. Homework: Read Chapter 7.Prepare outlines ofpossible affirmative and negative cases (Group).

7. Topic: Refutation and Rebuttal.Taking notes (Flowsheets).Activity: Practicing refutation. Homework: Prepare for the 1stAffirmative and Negative Constructive speeches.

8. Topic: Writing and Presenting Speeches. Activity: Working onspeeches in groups. Homework: Write the 1st Affirmative and NegativeConstructive speeches (Group).Read Chapters 9 and 10.

9. Topic: Cross-examination. Evaluating debate. Activity:Practicing cross-examination. [optional] Homework: Prepare fordebates (cross-examination, 2nd constructive speeches, andrebuttals).

10. Extra day for preparation.Further exchange of speeches.

11. Debate 1 & Debate 2.

12. Debate 3 & Debate 4.

13. Debate 5 & Debate 6

14. Course Evaluation. Submit the 2nd Affirmative and NegativeConstructive speeches (Group).Submit the individual file(Individual).

 

評価は途中の提出物とディベートでの口頭発表、最後のファイル提出(授業の記録や授業外の活動のメモなど)に基づいて行っている。学生からの評価は、訳読などの授業と異なり大学生の知的興味を満たすものであるとが好評である反面、消化不良になっていることを伺わせる不満が多い。授業外での作業の量など1単位の外国語科目としてどの程度要求できるか私自身も躊躇しているところである。

 

2.Debating Skills九州大学では卒業要件の単位とは関係なく誰でも履修できる外国語科目として「特別履修課程」と呼ばれるものがあり、英語についてはスキル別に能力別のクラスを提供し、プレースメントテストを実施して受講生を振り分けている。その中の上級科目の一つにDebatingSkillsという科目を開講している時がある。受講生は学部の2、3年生以上から大学院生、時には助手や職員もいる。日本人が中心だが、留学生も受講している。ある時はインドネシアの留学生で母国の英語系の学校でディベートをやっていたとのことで、英語もディベート(パーラメンタリースタイル)もものすごく上手であった。受講生の英語能力はプレースメントテストのおかげで一定水準が確保できるが、出席が不規則になりがちなのでチーム編成やディベート対戦予定を立てるのに苦労する。

この科目では資料調査やスピーチ原稿の準備よりは、口頭でのディベートの試合に重点を置いていることが多い。一つにはこの科目がスピーキングの上級コースと位置づけられているからであり、もう一つは学生の出席が不規則なため一学期間を通した積み上げができにくいからである。授業の方法の一つは、2回を単位として、1回目にトピックに関連する英文雑誌記事などを配り内容理解と論題の設定を行う。グループに分かれてディスカッションをさせたり、ディベートの準備をさせる。2回目の授業で簡単なディベートを行う。学期の後半では、3、4回の授業を用いてスピーチの準備や添削を行うこともある。全体として一学期間に数個の異なる論題を用いる。

なお、この授業科目は、カリキュラムの変更により数年のうちになくなるはずである。代わりに、後述する外国語コミュニケーションコースの「ディベート」が全学的に解放される予定である。

 

3.JTW

JTWとはJapan in Today'sWorldという名の留学生向けに1年間英語で授業を受けて日本のことが学べるようにしたプログラムである。授業は日本人学生も受講することができ、私は、Debate:Controversies in Today'sJapanという科目を開講し、日本人学生と留学生がチームを作ったり対戦することで交流できることを目指している。基本的には英語科目と同じような授業計画を使っているが、英語のレベルは高いのでいわゆるディベートらしくなる。

アメリカ人の学生もかなり来るので、今までに学校でディベートの授業を受けたか尋ねるのだが、ほとんどの学生は未経験である。高校でディベートの授業があっても負担が大きいので受講する学生は少ないという声もあった。

 

4.言語コミュニケーション論

これは大学院の修士課程の科目であり、学期によって談話分析、パブリックスピーキングの理論と実践、議論とディベートの理論と実践などを取り上げている。ディベートの場合は、実践重視の学期ではおおよそ学部の英語の授業と同じような授業計画を用いている。理論重視の場合は、アメリカのテキストを輪読したりもした。ディベートは日本語でも英語でも実施したことがある。

私の理想としては談話分析などは別の科目にして、この科目はパブリックスピーキングとディベートを交互に取り上げ、ディベートの指導者を養成したいのだが実状は中途半端である。大学院生の中には修士論文、博士論文でディベートの分析やディベート指導検討を取り上げている者がいる。

 

5.英語ディベート演習I & II

これは1999年度入学の学生から副専攻として提供される「外国語コミュニケーションコース」の英語コースの中に設けられる科目である。全体で20単位のコースを修了すると副専攻としての修了証が与えられる。科目単位で受講することも可能である。ディベートについては私も担当する予定である。内容の詳細は決まっていないが、現在の英語科目の授業計画を元にしながら、より高度なものを目指したいと考えている。学生の英語力や動機も強いはずなので、それなりの負担に耐えてくれる学生が受講すると期待している。

 

6.SCS

単発の試みであるが、名古屋大学との間でSCS(スペースコラボレーションシステム)と呼ばれる衛星通信を使っディベートの授業を行ったことがある。1997年の後期に、当初は私の授業と名古屋大学杉浦助教授の英語授業との間で学生にディベートをさせる予定であった。結局、私の授業時間割の関係で、杉浦先生の授業に私が衛星を通じて数回参加して論題の選定を手伝ったり、学生の用意した肯定側立論に対して反対尋問を行ったりした。最終的に名古屋大学の受講生のチームと九州大学のESSのチームの間で一度だけ衛星を通じてディベートを行った。論題は、Resolved:That American bases should be removed out of Okinawa.

 

以上、私は様々な授業でディベートを指導し、試行錯誤を繰り返している段階である。スピーチを交換させて台本を作ってディベートをさせるというのは限られた英語力などの限界の中でディベートのやり方を学び総合的な議論の過程を学ぶという一定の成果をあげている。ただ、最後の発表としてのディベートは物足りなさを感じざるを得ない。

(いのうえ ならひこ 九州大学助教授 JDA会長)

 


 

神田外語大学「日本語ディベート」の紹介

 

臼井直人

 

はじめに

私が大学対抗英語ディベート大会のジャッジを始めた1980年代中期、よく先輩ジャッジとこんなことを冗談として話していました。「いつか日本でもアメリカの様に大学の授業にディベートが導入されて、我々が講師となって教えられたらさぞかし楽しいでしょうね。」まだESSの活動としての英語ディベートが中心であった当時のディベート界においては、これが「冗談」であり、あくまで空想の世界の話でありました。その後、様々な人々の努力によって大学や高校中学、ひいては小学校にさえディベートがクラス活動として、また授業科目として行われるようになったことは、ディベートの日本における普及の一例として注目されるべきでしょう。

どのような活動であっても、それが教育手段として使われる場合、そこには必ず「それを使って、どのような教育効果を期待するか」という「教育目標」が存在します。そして今後ディベート活動が教育手段としてさらに普及していくためには、それを使って教育を行う人が、いったいどういう目的でディベートを行うのか、活動のゴールは何であるのかをしっかり認識することが必要であると考えます。

特にディベートの場合、「勝敗」という競争原理がからみます。これはディベートの中で「議論を起こさせるきっかけ」「活動への動機付け」など有用な意味を持ちますが、特に「負ける」ということを学生に体験させるのは、精神的ショックを与える、プライドを傷つけるなどのリスクを伴います。その際に教育者はなぜこのような活動をするのか、「勝ち/負け」ということを学生はどのように理解すればいいのかを説明する必要があるのです。

私は1997年度より神田外語大学非常勤講師として、「日本語ディベート」というクラスを担当しています。ここではこのクラスの概要を説明し、どのような目的でこのクラスが運営されているか、その1例を紹介したいと思います。

 

この授業の位置付けと目標

神田外語大学における「日本語ディベート」は、週1日180分(90分授業2コマ)で毎年前期(4月から7月迄)に開講されます。このクラスは共通研究科目のひとつとして、どの学部(英米語学科、韓国語学科、中国語学科、スペイン語学科)に所属している学生でも1年次2年次に履修することができます。よって、私はこの授業を学校のすべての科目の中で、特に「大学生であれば誰もが学校生活で必要となる能力および思考法を身につけるきっかけを与える場」であると位置付け、以下の4つの目標をおいています。

 

1.リサーチの仕方を学ぶ

大学の授業では、自分の力で資料収集し、それをまとめて自分の意見を構成することが要求されます。そのために図書館の使い方や参考資料の検索の仕方などになれておく必要があります。この授業では、証拠資料を事前に用意して行うディベート「フォーマルディベート」を行うことで、学生はリサーチを体験することが出来ます。

また事前に「リサーチの仕方」と題し、ある論題で1からリサーチをしなければならない場合を想定して、「どのようにすれば効率良くリサーチが進むか」というテーマでグループディスカッションを行い、リサーチの手順(Primaryresearchからmainresearchへすすむなど)や、書籍、雑誌、新聞、インターネットなどの資料がどのような種類の情報を得るために役にたつかなどを考えます。

 

2.基本的な議論の構成を学ぶ

大学の授業では、各種レポートなどを作成する時など、情報を簡潔かつ効果的にまとめることが要求されます。この授業ではディベートにおける立論作成などを通じて、だいたいどのような論理的文章作成の時にも応用が効く基本的は議論構成法を学びます。マクロ的3要素(Introduction,Body, Conclusion)、アーギュメントの3要素(claim, data,warrant)から、signposting/numberingなどのレトリックなどを実践を通じて学んでいきます。

ディベートの実践では、特にフォーマルディベートの際に「アドバンテージ1:冤罪による国家の殺人を防止します。小論点a:現在、死刑裁判は裁判官の恣意的な判断によってその判決が下されます」というように、明確に論点、signpostingなどを言うように指導しています。また「主張」とそれを裏付ける「証拠資料」との区別を意識して喋るように指導しています。これは学生が誤解しないように、「日常生活における議論ではこのような形式ばった表現は使わないけれど、これは論理の流れを明確に意識の中に植え付けて、今後何かを書く時などに自由に論理の流れが使えるようにするためのトレーニングです」と説明するようにしています。

 

3.批判的思考を身につける

大学の授業では、既存の理論や社会通念などに対し客観的立場からそれらを見直し、新たなよりよい考えを創造していくことが要求されます。この授業ではフォーマルディベートにおいて一つのトピックについて、各チーム肯定側否定側の両方の立場でディベートできるようにプログラムしています。一つのテーマを両面からリサーチすることによって、トピックの賛否両論を批判的に考え、整理し、そこからオリジナルの議論を導き出すように指導しています。また授業1回を「批判的思考とはなにか」というテーマで行っています。

ここでは映画やドラマの1シーンや新聞記事などにあらわれる様々な文化ステレオタイプや性差別などを学生のグループディスカッションを通じて見抜いていくなどの活動を通じて、より実生活に近い形で批判的思考を体験し、その大切さを理解するようにしています。これにより今まで自分が持っていた考えをもう一度別の立場から見直すチャンスが与えられ、認識を新たにする学生もいるようです。

 

4.プレゼンテ−テョン能力の向上

大学では自分でリサーチしたレポートを他の学生の前で口頭で発表することが要求されます。特に神田外語大学ではこのような形式の授業が多いです。この授業では、それまであまり人前でしゃべったことがない人でも、話すことの恐怖感やディベートに対する難しさを感じさせないようにプレゼンテーションの練習ができるように、以下の様に段階的に授業を組んであります。

 

a.自己紹介

第1回目の授業では、一人づつ全員の前で自己紹介をします。これは「人前でとにかく何かしゃべることを体験する」ことが目標になっています。指導する点は「1.大きな声でハッキリとしゃべる。2.聴衆の方を向いてしゃべる」の2点だけです。これらは、簡単なようですがパブリックスピーキングではもっとも大切なことなので、まずはこれだけを気をつけるように指導します。自己PRに対して、簡単な質議応答の時間を設けてお互いに知り合うことで、クラスの絆を作っていきます。

 

b.「ディベートとはなにか」

引き続き第1回目の授業で「ディベートの行い方」についてレクチャーします。そしてこの場で特に力を入れているのは「ディベートとはどういうコミュニケーション形態なのか」について、グループディスカッションして考えることです。ディベートはよく「言葉のボクシング」であるなど、2者の「戦い」であるようなイメージで語られることがあります。また巷ではビジネス交渉のためのディベートということで、様々なディベート書が売られていますが、そこでのディベートの考え方は「大学における教育手段としてのディベート」としてふさわしくないものがあります。よってこの授業では次の2つの「ディベートの定義」を比較しながら、この授業におけるディベートの目的を考えます。

(1)「議論・討論能力」とは、一対一であろうと、一対多数であろうと、どんな状況においても議論し討論し論争して、勝つことはあっても決して負けない能力のことである。 (北岡俊明(1990) ディベート能力の時代 産能大学出版部p.4)

(2)ディベートというのは、基本的に一つの論題に対して賛成側と反対側に分かれて、中立的な第三者、これは大抵の場合、意志決定権を持つ人間ですが、その第三者を説得していく討論のスタイルをいいます。(北野宏明(1995) ディベート術入門 東京:ごま書房p.22)

(1)の定義では「第3者」という存在が見えませんので、このクラスのめざすディベートにはふさわしくありません。「ディベートは相手の議論と自分の議論を比較しながら、第3者を論理的に説得していくコミュニケーションである」という認識をこの定義の比較から確認しておきます。

 

c.Role Playing Debate

この授業で学生がまず最初に行うdebateが、このRole PlayingDebateとよばれる活動です。この活動の目的は「とにかく反論を楽しむこと」のみです。ゲーム感覚なトピックを用いて、とくに議論の構成などを気にせず、相手の意見を反論することを楽しみながら「反論」という言葉の否定的なイメージをとっていくことが目的の即興ディベートです。

昨年度のテーマは'Titanic: The Ship ofFools'と題して、「今沈もうとしているタイタニック号にBillClintonとマイクロソフト社長BillGatesが乗っています。救命ボートには残り1名しか乗れず、どちらが乗るべきであるかを救命ボートの船長に説得しなければならなくなった」という場面を設定して、2チームにClinton、Gatesの役になってもらい、船長というジャッジを前にディベートを行いました。「反論を楽しむ」ことが主眼なので、試合フォーマットも各チームが交互に話すだけで、概念的に理解しにくい、いわゆるnegativeblockなどは省略しています。内容的にゲーム感覚であっても、必ず「ジャッジ」という第3者を置くフォーマットになっています。

またディベートの初心者はよく、ジャッジの方を見ずに、相手側のディベーターに向かって感情的な口調で話をしてしまうことがありますが、ここではあくまでジャッジの方を向いて冷静に話をするように指導します。また相手側の議論に言及する時も、「あなた方の議論は」ではなく「否定側(肯定側)の議論は」と言うように指導しています。これらを通じて「ディベートは2者の単なる口論ではなく、第3者の説得のためにやるんだ」ということに、自然に理解していくようにしています。学生の中にはBillGatesという人があまりなじみがないという意見もあり、これは改善点のひとつでした。

しかし議論の内容も決してただのお遊びにならず、世界の軍事リーダーとしてのClintonの役割、西暦2000年問題や世界のコンピュータ事情のカギを握るGatesとの比較という、しっかりとした内容のディベートが行われました。

 

d.即興ディベート

次になるべく身近なトピックを使って即興ディベートを行います。この活動の目的は、「基本的な議論の構成を体験を通じて学ぶ」ことです。ディベートを行う前に、フォーマルディベートの試合フォーマット、肯定側・否定側議論の構成法、アーギュメントの基本的構成を教えます。そして、そのフォーマルディベートのフォーマットにのっとり、リサーチなしでもできる簡単なポリシーディベートを行います。「日本はバレンタインデーを廃止すべきである」などは大学生なら簡単にできますし、千葉県の幕張にキャンパスがある学校なので「神田外語大学を東京23区内に移転すべきである」なども身近で扱いやすいものでした。このようなトピックを通じて、議論の内容を学んだ構成法を用いて論理的に構成するように指導します。

 

e.フォーマルディベート

そして最後にまとめとして「日本は死刑を廃止すべきである」という論題で、リサーチをして行う本格的なディベートを行います。このトピックは「基本的人権」「憲法」など、大学生が常識として知っておくべき内容が含まれています。普通の社会科の授業で講議をすると興味をもってくれない学生たちも、自分でリサーチして議論するところからこれらのテーマにも自然に興味を持っていくようです。肯定側否定側の両方のディベートを数週間にわたってやるので、各チーム、別のチームのディベートを見てそこでの議論を参考にしてさらにリサーチを進めるようで、週が進むにつれて大変議論に深まりが見られてきます。そしてこのころになるとスピーチもしっかりと聴衆の方を向いて、力強くかつ冷静に議論をする学生も多くなってきます。教師が教える以上のことをお互いに知らず知らずのうちに学びあっているようでもありました。

 

おわりに

この授業は半期完結の授業であり、完全にディベートの理論の理解したり自由にディベートができるようになるまではいきませんし、それはこの授業の目標ではありません。またこの授業はあくまで「大学生としての知的生活に必要な大切な能力や考え方をつけるきっかけを提供する」のが目的であり、国際ビジネスパーソンや政治家や弁護士になるため、ましてやトーナメントディベーターになるための技術を教えているわけではありません。

しかし学生たちはこの授業で体験したことを、他の授業や学校外で自分なりに工夫しながら使っているようです。日本語ディベートが終わると、9月からの後期には「日本語プレゼンテーション」というスピーチを中心とした授業があり、ディベートを履修した学生が履修することがあります。そこでも学生たちは堂々と聴衆の目の前で、しっかりとしたリサーチに基づいたスピーチを披露してくれます。ディベートを通じて学んだことを次のステップに向けて自主的に活用しようという意識のあらわれであると思います。

神田外語大学は語学系の大学であり、もともとコミュニケーションに興味のある学生が多いので、ディベートのクラスが成功しやすいということもあります。よって同じことが他の大学で必ずしも可能であるとは限らないでしょう。しかし、ある教育目標を達成するにあたり、ディベート的な考え方をその学校の実情に応じて導入することで、現在様々な学校で模索されている学生参加型の授業を行う可能性もうまれると思います。

中学校の国語や社会科の授業にディベートを取り入れる試みもその一環でしょう。そしてその教育目標に即して適切なフィードバックや説明を随時してあげられれば、これからもディベートという活動が誤解や恐怖心を生むことなく学生たちの間に広く受け入れられていくのではないでしょうか。

(うすい なおと 愛国学園大学講師 JDA理事)

 

  

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