--特集-- 日本におけるディベートの普及について(その2) [編集:安井省侍郎] 1950年代から英語のディベート大会が継続的に開催されるようになって以来、日本におけるディベートの普及には様々な努力がなされてきましたが、特に、日本語によるディベート教育は、十分に普及されてきたとは言いがたい状況にありました。
しかしながら、ここ数年、ディベート甲子園の開催などにより、日本語によるディベート教育の普及にもめざましいものがあります。それとともに、従来、大学生の英語サークルによって行われてきた形態のディベートのみならず、様々な形式、形態、目的をもったディベート活動が行われるようになってきました。残念ながら、これらの中には偏ったディベート観と教育内容を持つものもあります。
本特集では、@ここ数年、あるいは過去数十年にわたるディベートの普及活動を振り返ること、A諸外国におけるディベート教育・研究の動向を調査すること、B日本国内で現在行われているディベート教育活動を調査することなどにより、あるべき今後のディベート教育とその普及の姿を探っていきます。
今回は、前回に引き続く第2回として、大学生に対するディベート教育、あるいはディベート教育に関する研究の第一線で活躍されている、大学教員の方々を中心に、寄稿を頂きました。本稿に対するご意見等ございましたら、jda@kt.rim.or.jpまでお寄せ下さい。
日本における「ディベート」の「発明」と「普及」---その歴史的・社会学的な反省 ---
矢野 善郎
「日本におけるディベートの普及」という主題について,私は,ディベート教育者かつ社会学者として,前号での諸先生方とはかなり異なった切り口で語ってみたいと思います。
私は,昨年1998年6月のアムステルダムでの国際アーギュメンテーション学会で「日本におけるディベート教育の導入」と題して行った報告してきました。何を隠そう,このエッセイもその報告を基にしたものなのですが,私はその報告の準備のために,「ディベート」に関して出版された本を調べようと国会図書館に何日もこもり,数十冊「ディベート」解説書の類を読みあさりました。その図書館ごもりの結果,私が「発見」し,アムスで報告してきたのは次の驚くべきことがらです。
「ディベート」は,1970年代中頃に日本で「発明」された。
何をたわけたことをと思われるかもしれせんが,ここでは別に「ジンギスカン・義経同一人説」まがいのことを書こうとしているわけではありませんのでご安心ください。ここで「発明」されたと主張しているのは,「ディベート」というカタカナ言葉についてなのです。
もっとも,これは,単に「ディベート」というカタカナ言葉が日本で初めて用いられるようになったのが1970年代中頃だ,という程度のことを述べたいのではありません。このエッセイで主張したいのは,「ディベート」というカタカナ言葉が1970年代中頃になって日本で「発明」つまり「創作」された言葉であるにすぎず,しかも少なくとも英語のモdebate''と同義語とはいえないほど特殊な使われ方をされることも多いのに,それが今日ではモMadeinJapan''された言葉であるということすら忘れられるほどに広まってしまっているということなのです。
このことを詳しくみていく前に,あらかじめ述べておきますと,これを述べるのは,単に「ディベート」という言葉の定義をめぐる言葉遊びがしたいからではありません。今日広く通用している「ディベート」というカタカナ言葉と,それについての様々な根拠のない物語について反省しないままだと,本当に意味のある〈ディベート=討論〉が日本で普及することにとって害悪をもたらしかねず,残念なことに,すでにそうした害悪がもたらされつつある―こうしたことに警鐘をうながし,本当に意味のある〈ディベート=討論〉の教育と,〈ディベート=討論〉による教育とを,日本で普及させていくための一助としたいからなのです。
1. 「ディベート」というカタカナ言葉の「発明」
さて,国会図書館に登録された書籍に関する検索システムに登録された書籍の中で,「ディベート」というカタカナ言葉を書名に持ち,「ディベート」を解説した本を数えてみると,91年から97年の7年間だけで51冊もの本がありました。[注:この数は,昨年6月の時点での数であり,国会図書館の検索に引っかかった分から選り分けただけなので,実際にはもっと多数の本や教科書が出版されていることでしょう。]
ですが,この「ディベート」本の出版ブームは,もちろんそんなに長いこと続いている訳ではありません。国会図書館にあるものの中で「ディベート」という言葉を書名に含む本で最も古いものは,1970年代中頃になって初めて登場します。一部の方には言うまでもないことでしょうが,そうした本が登場するのは,松本道弘氏による一連の著作が登場して以降なのです。[注:とりわけ『知的対決の論理― 日本人にディベートができるか』(朝日出版社,1975年)以降。]
もっとも,本の題名として,カタカナ言葉の「ディベート」が用いられていないだけで,もちろん「討論」の解説書が出版されていなかったわけではありません。また日本で出版された英語の教科書で書名にモdebate''という英語が入ったものならば,もっと前から見つかります。興味のある方は国会図書館などでみることができますが,たとえば戦後すぐの40年代後半や50年代にも,今日的な目から見ても大変に立派な内容の「討論」の解説書は出版されています。それらは今なら「ディベート」の解説書として出版されているはずです。そして言うまでもなく60年代,70年代前半を通しても「討論」に関する本は出版されてきました。
だが松本道弘氏の著作が画期的だったのは,あえて「討論」という漢熟語を使わず,それとは異なったものであることを強調しつつ,「ディベート」というカタカナ言葉を用いたことなのです。そしてそれこそがカタカナ言葉としての,「ディベート」が「発明」された瞬間でもありました。松本道弘氏の著作で主張されたことの特徴は,日本には「討論」はあっても,欧米での「ディベート」と呼べるようなものはないということでした。そして氏によれば,今後の日本人に必要なのは,日本の伝統的なコミュニケーションである「腹芸」にすぎない「討論」とは全く異質である,白黒にこだわった「ディベート」であると主張したことでした。そして「ディベート」というカタカナ言葉が日本で今日あるまでに普及したきっかけが氏の著作によってもたらされたことには,ほとんど疑いの余地はありません。
一方でそれより古い本をみますと,国会図書館にある限りではありますが,このような「ディベート」対「討論(日本的な議論)」という二項対立は見つかりません。それどころか,「討論(debate)」などといった表記で,「討論」という言葉が明示的にモdebate''の訳語として使われる場合も多く,少なくとも「ディベート」というカタカナ言葉とは区別なく使われているのです。
ところが,1970年代後半以降は「討論」を書名に用いた本と内容としてはさして変わらないものでも,書名に「ディベート」というカタカナ言葉を用いる場合の方が明らかに多くなります。[注:例えば,国会図書館で登録されている本で言えば,同じ91年から97年の7年間に題名に「討論」という漢熟語が付く本は17冊です。]
そして,松本道弘氏の「発明」以降,「ディベート」の普及を目指すにしても,「ディベート」の普及に反対するにしても,「ディベート」というものが日本にはかって存在しなかった異質なものであるという物語を真に受けた解説や批判が主流になっていくのです。
2. 創られた二項対立
ところで社会学を学んでいると,実際には大して古くもないものが,あたかも長い「伝統」のように人々の間で通用してしまうという現象がまま起こりうることを教えられます。これは社会学の例ではないですが,日本の国技・伝統として語られている相撲での仕切の様式なども,実はラジオ・テレビ放送が始まって以降に,その放送時間にきっちり合い,しかも視聴者が退屈しないようにと整備されていったものだそうです。私などは相撲が江戸時代(またはそれ以前)から続いているという先入観をもっていたので,それを何かの本で読むまでは,てっきり仕切のテンポや様式なども古い神道的な儀式かなんかだと思っていました。
社会学では,主にナショナリズム研究などで研究されていることですが,こうした実際には新しい「伝統」の中でも,特に民族意識の高揚などのために半ば自覚的に(近代になって)創作された「伝統」を,「創られた伝統」と呼んでいます。これらは,時にはポジティブな意味で,つまりある民族が帰るべき「故郷」を指し示すために,また時にはネガティブな意味で,つまりある民族が脱却しなくてはいけない「過去の悪弊」を指し示すための物語として創られてきました。[注:なお興味をお持ちの方に紹介しておきますと,このエッセイのヒントになった「元ネタ」は,私の「上司」の一人にあたる吉野耕作氏の『文化ナショナリズムの社会学』(名古屋大学出版会,1997年)にあります。吉野氏の著作では,様々な「日本人論」が鮮やかに分析されているのですが,その一環として1975年の松本道弘氏の「腹芸」論なども取り上げられています。]
こうした視点で見るとき,カタカナ言葉での「ディベート」の対立語として創作された「討論」ないしは「日本の伝統的なコミュニケーション」は,ネガティブな意味での「創られた伝統」と似たようなロジックをとっていることに気づきます。つまり「ディベート」は,「日本(人)の伝統的なコミュニケーション」というネガティブな伝統にとってかわるべきものとして,二項対立的に創作されたカタカナ言葉なのです。
私などは80年代後半からディベートにたずさわるようになったので,カタカナ言葉の「ディベート」が「発明」された以後の世代です。そして,このエッセイの読者のほとんども,「発明」以後に「ディベート」に触れた方がほとんどでしょう。だからにわかには信じられないかもしれませんが,「ディベートと討論は違う」,また「日本にはディベートは存在しなかった」などというものの言い方は,ほんの二十数年前に初めて創作された「物語」にすぎないのです。
もっともこう書くと,「私はアメリカ人のことをよく知っているが,やはり日本人は総じてディベートが下手だ」と筋違いの反論をする方もいるでしょう。だがそれは今回の話とは全く関係ありませんし,細かい点はともかく私もさほど異論はないです。ここで述べたいのは,カタカナ言葉として語られる「ディベート」が日本に異質なものであるというような物語(言説)が登場したのは,実は古いことではないということなのです。
ではこの物語が,日本に与えた影響はどのようなものなのでしょうか。
3. 「ディベート」というカタカナ言葉とその物語の諸影響-
日本における討論教育の普及にとって,「ディベート」というカタカナ言葉とそれにまつわる物語の「発明」が,今までのところはたしてきた功績を否定できる者は誰もいないと思われます。もちろんその普及には,多くの人々の様々な意志と努力が関わっており,それだけが普及に貢献したわけではありません。だが「ディベート」というカタカナ言葉が発明されず,「討論」と呼ばれたままで,しかも「日本の伝統的なコミュニケーション」などと対照的に語られて宣伝されてこなかったとしたら,今日,全国的な高校「ディベート」大会などが開かれるほどまでに,「ディベート」という言葉が普及するきっかけは与えられなかったと思われます。
だが,そうであったとしても,「ディベート」というカタカナ言葉とその物語の発明に,肯定的な評価ばかりを与えることはできません。それどころか,今後の日本で本当に意味のある〈ディベート=討論〉教育を普及させていく上では,こうした物語などは,主に二つの悪影響を与えていくと考えられるのです。
一つ目の影響は,「ディベート」が,日本の日常的なコミュニケーションとは異質なものであるという物語のために,それが日常社会での優れた〈ディベート=討論〉とも無縁のものであるかのように教えられたり,学習されたりする傾向の一因となっているということです。
最近のディベート大会などで,「ディベート」とは「エビデンス」なる文章を読み上げ,早口でまくし立てる言葉のゲームのことであるかのように考えて試合に臨んでいるとおぼしき大学生や高校生のディベーターの惨状を観て,眉をしかめたことのある方は,私だけではないでしょう。しかし「ディベート」が,日本の日常的なコミュニケーションとは異質なものだという物語を真に受けた指導者が書いた教科書・解説書には,確かに「エビデンス」なるものを用いて相手を圧倒することが,「ディベート」であるかのように書いてあるものが,国会図書館に所蔵されているものだけでも多数と呼べるほどにあるのです。かの大学生や高校生たちが,「ディベート」を,そうした教科書のとおりに続けていったとしても,全く不思議はないのです。
そしてそれとも関連しますが,「ディベート」というカタカナ言葉とその物語が持つ第二の悪影響として,「ディベート」という言葉が恣意的,言うならば政治的に用いられているような事態が生じており,そしてそれにともない「ディベート教育」そのものへの反発が生じてしまっているということがあげられます。
私が去年「ディベート」の解説書数十冊に目を通して確信したのですが,「ディベート」という言葉は,著者によって好きなように定義されています。もちろん「ディベート」の解説書と称して,賄賂の送り方の解説をしている本まではないですが,「ディベート」本全てに共通する点を見つけることは全く不可能なほどに,本によって「ディベート」の定義も力点も違っております。少なくとも言えることは,「ディベート」というカタカナ言葉は,たぶん英語ネイティブから観たら奇妙に感じるほど英語のモdebate''とは全く関係なく用いられている場合も多数あるということです。もはや「ディベート」とモdebate''とは別の言葉と言ってもいいかもしれないのです。
「ディベート」というカタカナ言葉のこうした恣意的な定義を招いた背景には,「ディベート」が日本の社会とは異質なものであるという物語が広まってしまったことが間違いなくあると思われます。今の日本の「ディベート」の解説本には,ほとんど例外なく「ディベート」の定義についての序章がついています。だが,それは「ディベート」が「討論」と呼ばれていた時代の解説本では,全くといっていいほどみられないことです。もちろん,本の内容にたいして差があるわけでは実はないのです。違いがあるのは,「ディベート」なるものが日本には異質なものであるという物語を信じているか,信じていないかの差だと思われます。異質なものだという物語の信者は,異質であるが故に好き勝手に「定義」をしてでも,日本人にその違いを教えなくてはならないと考えて,そうした序章を書くようになっているのでしょう。[注:これを証するように,アメリカのモdebate''の教科書では,モdebate''の定義についての序章などをもうけることはほとんどありません。そこではモdebate''は身近なものであり,定義の必要などないと考えられているのでしょう。アメリカの教科書では,大体の場合,モdebate''を何故学ぶのかという記述からはじめます。]
さて「ディベート」というカタカナ言葉の恣意的な定義が数的に膨れ上がるとともに,近年目に付くようになったのは,「ディベート」という言葉を最も狭義な意味での「政治的」なプロバガンダに利用するという論者が登場してきたという現象です。例えば自称「ディベート指導者」の本の中には,「韓国とディベートする」と称して,韓国人が感情的で論理的な議論ができない民族だと述べ,彼らに対抗するには論理的な「ディベート」が有効だなどと主張するような「トンデモ本」の類まで実在しています。
米国のモdebate''の教科書などでは,ほぼ例外なく,モdebate''は民主主義教育の一環として語られ,そこでは他の人の意見にも真摯になり寛容になるということが学習目標に挙げられています。日本では,それとは全く対照的に,排外主義・独善主義を貫くための能力を磨くものとして「ディベート」が定義され,解説される場合が登場するようになっているのです。
その結果,残念なことに,極めて健全な討論を行い,広い意味ではもっとも討論の教育に熱心だった日本の教育者の中には,「ディベート教育」そのものに懐疑をむけるものまででてきてしまっています。確かにそうした懐疑や反発には,既存の「ディベート教育」への無理解があります。つまり「ディベート教育」に関わる人間は,宗教教団のスポークスマンになった者や,矮小なナショナリズムの持ち主だけではありません。それとは正反対に,他者(それも「日本人」に限らない他者)と真摯に意見を交え,より柔軟でかつ強靱な判断を下していけるような,討議的な社会人が育ってほしいと望み,日本で〈ディベート=討論〉を学び・教えている先生方も多いと確信しています。
とはいえ,「ディベート」をチープな金儲けや,自らの歴史観・宗教観の宣伝に使用する人々がいることは紛れもない事実です。「ディベート教育」への懸念や反発は,残念ながら,まったく根拠のないことではないのです。
4. 結語:「ディベート」を反省する視座の必要性
では,こうした歴史・社会学的な分析に従い,今後あるべき「ディベート教育」を構想する際に,私たちがとるべき道は何なのでしょうか。
ありがちな発想としては,本来の英語のモdebate''に戻るべきだというものがあります。つまりマガイ物でない「本物」の(authenticな)モdebate''にたちもどるべきだというものです。しかしこれも少しでも英語のモdebate''や英語圏の生活にふれたことがある人間なら,それほど簡単ではないことは一目瞭然でしょう。英語ではモdebate''なる言葉は,ハード・ロックの歌詞にも登場するほどありふれた言葉です。そして大学・高校教育一つとっても,様々な形式のモdebate''が行われています。そのどれが「本物」なのか,どういった特徴を持った使い方をすれば「本物」であるのか,それを見分けるには,逆説的なことですが,何が「本物」であるのか,あらかじめ答えが分かっていなければならないのです。
またより重要なことですが,仮に「本物」の英語のモdebate''なるものがありそれが見つかったとしても,だからといってそれが価値ある物だという保証は全くないのです。「本物」や「本場のもの」にこだわるのは,往々にして全く生産的ではありません。では私たちは,代わりにどのような「ディベート」を探し求めるべきなのでしょうか。私はヒントはむしろ身の回りにこそ転がっていると思います。
言うまでもないことですが,私自身を含め,「ディベート教育」に携わる大学・高校教師や,自称「ディベート指導者」,そしてそれらに指導を受けた「ディベーター」などより,遙かに健全で,おそらくは本当に意味のある〈ディベート=討論〉を行う能力を持った方は,会社や大学を筆頭として社会に多数います。そして,その方々は,特に「ディベート」教育を受けていない場合も多いです。そしてそういう方は,日本においても,間違いなく1970年代中頃より前から,それも戦前から(そして文献などから察する限りでは,恐らくは江戸時代以前にも)たくさんいたのです。
私たち研究者や指導者や学習者が,本当に意味のある〈ディベート=討論〉の普及を目指すのなら,このことを謙虚に受け止めるべきなのです。〈ディベート教育〉が目指すべきなのは,日本の日常的なコミュニケーションから切り離された,異質な議論のスタイルやゲームを普及させることでは,決してありません。
もちろん勘違いしないでほしいのですが,これは日本には日本人にあるべき本来の討論や,固有の美しい伝統的なコミュニケーションの形式があるなどという馬鹿げた回帰主義を唱えたいのではありません。むしろ完全に逆です。意味のある〈ディベート=討論〉は,アメリカにも日本にも,その他世界中でも,完全な形では実現したことはないというのが,私の確信です。それは私たちが,試行錯誤しながら常に探し求めていかなくてはいけないものでしょう。
その際,本当に意味のある〈ディベート=討論〉の普及にたずさわる研究者や指導者が行うべきなのは,本当に意味のある〈ディベート=討論〉とは何なのかを常に反省することです。つまり自らの「ディベート」に関する立場を「アメリカで修行を積んだ」とか「ディベート道何段」などと権威化することなく,研究・教育に携わることなのです。すなわち,日本そして世界中の日常社会で行われてきた優れた議論とは何なのかを様々な場面から分析し,それが優れているのは何故なのかを考えること。そして,そうした優れた〈ディベート=討論〉が一部の人だけでなく,できるだけ多くの人にできるだけ多くの機会に行われるように,より効果的な訓練・教授方法を常に模索し,それを明確な言葉で伝えていくこと,なのです。
その際に,今までに創作された「ディベート」や「日本の伝統的なコミュニケーション」に関する「物語」ほど役に立たないものはないのです。それらは歴史的な事実をふまえないばかりか,上でみたように,日常社会と切り離された空疎な「ディベート」を生む一因となっているでしょうし,翻って「ディベート」への無用の反発を呼ぶ原因にもなっています。そして何よりも,本当に意味のある〈ディベート=討論〉とは何なのかを常に反省していく視座を閉ざしてしまう危険をよりもたらしやすくしているのです。
なおくれぐれも念を押しますが,これは「JDA以外の全てのディベート団体は,ディベートを誤解している」などの,「ディベート」をめぐる皮相なヘゲモニー争いのための宣伝などではありません。指摘するまでもないですが,他ならぬJDAの理事が書いたディベートの教科書の中の複数にも,「ディベート」と「日本の伝統的なコミュニケーション」を対置した図式にのっとった記述は多数散見されます。それだけ,「ディベート」というカタカナ言葉について創作された物語は勢いを持って受け入れられているのです。
もちろん,日本とアメリカの〈ディベート=討論〉に関する観念や習慣には文化的と呼べるほどに違いがあります。だが違いがあるとしても,それは「日本・米国のコミュニケーション形式」などと粗雑に一くくりにできるものではないのです。そのようなチープな物語を捨て,より実際的・プラグマティックに反省するならば,私たちが意味のある〈ディベート=討論〉を構想していく際に,アメリカなどから学ぶべきことがあるならば,それがどこにあるのかは見えてきやすくなるでしょう。
例えば,確かに現時点では,組織だった教育のメソッドとしてのモdebate''は,米国などの中学・高校・大学の授業・講義に比べれば,日本ではまだ乏しいでしょう。だが,そうした差を「伝統」などの物語に解消してしまってはいけないのです。私が米国で聞いたところでは,米国のモdebate''教育も長い「伝統」として常に存在したものではなく,主に普及したのは実は第二次大戦後のことにすぎず,それも何人もの教育者のたゆまぬ努力によってなされたものなのです。それは,何人もの個人の意志と格闘により,まさに現在も進行している試みなのです。
「グローバル化」などのチープな標語とは裏腹に,「民族」や「伝統」などにことつけた様々な物語は,今日にあっても,私たちの思考や判断が健全に展開することを邪魔しています。「ディベート」という1970年代中頃に発明されたカタカナ言葉とそれにまつわる物語は,今まではそれなりに意味を持ったかもしれません。だが本当に意味のある〈ディベート=討論〉が今後日本で普及するために,そうした物語が役に立つことはほとんどないと言えるでしょう。
(やの よしろう 東京大学助手(社会学) JDA理事)
日本の学校教育へのディベートの普及について −特に「総合的な学習の時間」との関連において− 藤川大祐
私は、大学で教職課程科目を中心に教えている教員です。専門は教育方法で、討論形式の授業のあり方などを研究してきました。また、全国教室ディベート連盟の東海支部長として、中学生・高校生のディベート大会を運営し、学校教育へのディベートの普及に取り組んでいます。本稿では、教育研究者の立場から、日本の学校教育へのディベートの普及について、近く導入される「総合的な学習の時間」との関連を中心に書かせていただきます。
1.「総合的な学習の時間」とは?
すでに新聞報道などでご承知の方も多いと思いますが、2002年度より、公立の小学校・中学校・高校などで、「学校5日制」が完全導入され、毎週土曜日が休校となります。これに合わせて、小中学校では2002年度から、高校などでは2003年度から、新しい学習指導要領が施行されます(新しい学習指導要領はすでに公にされています)。
この新しい学習指導要領の目玉の一つが、「総合的な学習の時間」の導入です。たとえば、小学校学習指導要領においては、「総合的な学習の時間においては,各学校は,地域や学校,児童の実態等に応じて,横断的・総合的な学習や児童の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行うものとする」と定められています。「総合的な学習の時間」では、従来の各教科では行いにくかった横断的・総合的な学習などを行うことになっているわけです。小学校3年から高校までの各学年で、年間100時間強ずつの時間がとられることになっています。
2.「総合的な学習の時間」の要点
この「総合的な学習の時間」の要点を、ディベートに関わりがあるところを中心にまとめると、次のようになります。
1)問題解決の能力・資質を育てることが求められる。2)「学び方やものの考え方」を身につけさせることが求められる。3)調査・発表・討論なども含めた体験的活動を積極的に取り入れることが求められる。
これらの要点を見ると、「総合的な学習の時間」において、ディベートが重要な役割を占めうることがわかります。資料の調べ方、議論のし方、わかりやすい話し方、丁寧に聴く力、問題を整理する力など、ディベートで身につけることのできる力は、どれも2)で言われている「学び方やものの考え方」に含まれるものと言えるでしょう。3)では、「討論」ということも言われています。もちろん、1)で言われているような問題解決の能力・資質は、ディベートを行うことで育まれると考えてよいでしょう。
3.ディベートの基本を教える時間の確保
これまで、学校の授業でディベートを教えるためには、そのための時間をどう確保するかということが深刻な問題になっていました。国語では話し合い活動が内容に入っているとは言え、ディベートの基本を一通り教えるための時間を確保するにはやりくりが必要でした。まして、中学・高校で国語担当以外(社会科、家庭科など)の教師がディベートを教えるには、かなり無理をする必要がありました。
しかし、「総合的な学習の時間」を活用することにすれば、ディベートの基本を教える時間の確保は容易です。すでに、小学生向け、中高生向けのワークシートなども発売されていますから、「総合的な学習の時間」の一部分はディベート指導と割り切ってしまうことができます。ディベートで子どもたちの学習技能を高めておけば、その後のさまざまな活動でそうした技能が発揮されることにもなります。小学校中学年対象でも、たとえば次のような形で15時間から20時間くらいかけてディベートを教えることができます(このプランは、二杉孝司編『小学校学習指導要領解説と授業づくりのアイデア』学事出版、に書いたものの一つです)。
<1>ブレーンストーミング「学校を楽しくするためには、何をするべきか」という課題で、子どもたちにアイデアを考えさせる。子どもたちには、アイデア記入用のワークシートを使わせる。ワークシートには、提案名と提案理由を書けるようにしておく。提案理由は箇条書きで書けるようにする。子どもたちのアイデアを交流し、疑問や批判も出させる。ここでは、わかりやすい発言の仕方、メモの取り方、質問の仕方、批判の仕方など、ディベートの諸技術を教えながら進める。
<2>全校アンケートブレーンストーミングをもとに、全校児童へのアンケートを準備する。アンケートでは、ブレーンストーミングで出た意見への賛否、ブレーンストーミングで話題になった事実があるかどうか、他によいアイデアがあるかといったことを入れる。質問によって答えが偏ることがないかどうかというような、社会調査の基本的な技術に関わるチェックも行う。全校児童に対してアンケートを実施する。アンケートを実施する際には、子どもたちが分担して各教室に行き、趣旨を説明させる。アンケート結果は、担当者を決めてコンピュータで集計させる。また、これをもとに簡単なグラフを作成させるなどの情報教育も行う。
<3>論題決定ブレーンストーミングやアンケートの結果を踏まえて、最も有力な案が何かを議論させる。最も有力な案について、その是非をディベートさせるためだ。ただし、いくら議論してもここで1つに収束させるのは難しいだろうから、最後は多数決で決定する。
<4>ディベート入門ディベートについて入門講座的なことを行う。この中で、実際の論題で試合を行う。
<5>提言のまとめと発表ディベートまでの一連の活動を踏まえて、クラスとしての提言をまとめ、広告の形式にして全校に発表する。
4.ディベートの普及のために
以上のように、「総合的な学習の時間」にディベートはよく合っていますが、「総合的な学習の時間」でディベートが当たり前のように行われるためには、いくつかの課題があると考えられます。最後に、そうした課題として二つのことを述べます。第一は、受験にどう関わるかということです。授業などでディベートを扱うと、子どもたちにとっては授業以外の時間での負担が大きくなります。資料を調べたり、立論や反駁の準備をしたりすることは、どうしても授業以外の自主的な学習に委ねられる部分が大きくなるでしょう。子どもたち本人はそうした学習を楽しんで行うかもしれませんが、親など周囲がどう考えるかは微妙です。「ディベートは受験に直接役に立たないからほどほどにしなさい」と言うような親がけっこういるようです。
たしかに、高校受験や大学受験では、断片的な知識をたくさんもっていることが求められるということがあります。入学試験のあり方が変わることは必要でしょう。ただ、すでに小論文や面接を課す高校・大学は多くなっており、今後、推薦入試の比重が高まるにつれてますますこの傾向は強まると考えられます。「ディベートは直接受験に役立つ」という状況が生じつつあるわけです。
実際、受験指導の一環としてディベートを取り入れている高校もあります。本来、受験という目先のことだけでなく、その後の学生生活や社会人としての生活でディベートは役に立つはずですが、「受験に役立つ」ということがディベート普及の追い風になるのなら、それはそれでもいいと私は思います。第二は、教師がディベートにどう関わるかということです。ディベートを扱うようになると、教師もディベートの考え方に巻き込まれることになります。
たとえば、ディベートでは相手の主張に対して「なぜそう言えるのですか?」と根拠を尋ねることがありますが、ディベートを学ぶと教師の説明に対して子どもたちがいちいち「なぜそう言えるのですか?」と尋ねるという状況が生じかねません。私は、子どもたちがこのように根拠を尋ねるのは、むしろよいことだと思います。教師が自らの権威で何となく話していたのが、根拠を意識して話すようになり、正確で深い話ができるようになるでしょう。しかし、これまで権威に頼って話してきた教師にとっては、根拠を意識しながら話すことは大きな負担になる可能性があります。
こうしたことのために、ディベートの導入に二の足を踏む教師が多くなる可能性があります。このような教師の側の問題は、簡単には解決できるものではないでしょう。しかし、そうであればなおさら、教師に対してディベートを普及していくことが重要だということになります。時間はかかるでしょうが、教師たちにディベートの力をつけてもらうことが学校へのディベートの普及にとっては非常に重要だということになります。
(ふじかわ だいすけ 金城学院大学現代文化学部 JDA会員)
ディベート普及について 青沼 智
巷では「ディベートを手段」としてディベート以外のものを教える、といったことが大分浸透してきているようです。古くは英語教育への導入がありますし、また最近はディベートを通して数学を教える、理科の実験の授業でディベートを行う、ディベートを使って学生・生徒の偏向した歴史観を変える、ディベートをビジネス交渉トレーニングの一環として行う、などです。
他にも様々な形で取り組んでいられる先生方はいらっしゃるでしょう。そしてこのようにディベートを教授法として使うことはすばらしいことだと思います。ただ私たちディベートを指導/普及する立場に立つものはディベートそのものそしてそれを教えることについてももっと時間を使って考えるべきなのでないでしょうか。私たちはディベートを教授法として実践されている諸先生方のための「リソース」として、ディベートについてについて勉強・研究をし、ディベートの専門家にならなくてはいけないと思います。
ディベートを教えることとディベートを使って何か他のものを教えることはこれからも共存していくことでしょう。そしてそのためにも私たちはディベートについての専門的な知識を持つ者として、まともなディベートをまともに教えることが出来なければならないと思います。そしてその上でディベートを「メソッド」として教育の現場に導入されている諸先生方と密に連絡を取り合って、ディベート教育の普及に取り組むことが必要なのではないでしょうか。
あともうひとつ。現時点においてディベート(教育)の普及を語る上でいわゆる「大義名分」はあまり必要ではないと私は考えます。ディベート科目の受講者にはまずとにかくディベートという形式のコミュニケーション活動を経験してもらい、そこでの経験をどう自分の社会生活に取り入れることができるかを自身に考えてもらう。ディベートで学んだ様々なことが全く役に立たない社会(生活)など有り得るのか、といった逆の見方から自分を取り巻く社会環境/情勢について考えてもらう(あるいはこういったことを「ディベート」してもらってもいいでしょう)。
「議会民主制」だの「XX主義」だの「時代が希求する」だのといったbigwordsはとりあえず「かっこ=()」に括っておいて、担当教員はあくまでもディベートそのものを教えることのみに集中する。そして受講者は「ディベートを手段」として捕らえるのではなくディベートそのものを学ぶことに徹する。あまり肩ひじを張らずにこんな「軽い」感じでディベート教育/教育ディベートの目的を設定してもよいのではないでしょうか。ディベートを行うことの意義は時代や社会状況からくるのではなく、あくまでも活動事体から引き出していくべきものだと思います。つまり「いつ」「どこ」であってもディベートを行う「大義名分」はあるのです。そしてそのためにも私たち自身がディベートそのものについて日々考える態度が重要になってくるのです。
中学・高校の「ディベート甲子園」が盛り上がりを見せ、また大学においても「ディベート形式」の科目が増えつつあるのは大変喜ばしいことです。私たちはこのような状況を単なる「流行」に終わらせてはなりません。ディベートについての専門的な知識を持つ者として何ができるかそして何をすべきか、私たちは一個人としてまたJDA会員としてこれからも考えていくべきではないでしょうか。
(あおぬま さとる、神田外語大学講師 JDA理事)
ディベートはビジネスに役に立つか 飯田浩隆
「ディベートは本当にビジネスに役に立つのか。取引先との交渉はwin-winを目指さなければ成立しないが、ディベートはwin-loseにしかならないのではないか。」先日、ある人からこんな意見を聞きました。
近年、ビジネスにおけるディベートの効用を説く本が書店に並び、新入社員研修にディベートを取り入れている会社も少なくないと聞きます。しかし、現在のところ、これらの「ディベート研修」は多分に流行的な要素が強く、その意義が十分に理解された上で導入されているのかは疑問です。また、ディベートを紹介する本の中には、会社内の会議や取引先との交渉に「ディベート」を用いることを薦めるものもあります。ディベートは本当にビジネスに役に立つのかという意見が出てくるのも、むしろ当然かもしれません。
ディベートはそのままビジネスに使えるものではないことは、上記の指摘の通りだと思います。ディベートとは、論題に対して肯定側と否定側に分かれ、中立的な第三者(審判)を説得する討論のスタイルをいいます(北野宏明「ディベート術入門」22頁ごま書房)。しかし、ビジネスの場において説得すべきなのは、第三者である審判ではなく「相手方」ですから、求められる議論の方法も異なります。
交渉においては、勝つか負けるかのサバイバル・ゲームを行うのではなく、双方が共通してお互いに利益になるいくつかの選択肢を考え出し、利害の対立を解消する客観的な基準を用いて、双方が納得できるものを探求することが重要であると言われます(フィッシャー&ユーリー「ハーバード流交渉術」34頁知的生き方文庫)。会議における「議論」も、誰の意見が最も優れているかを競うのではなく、参加者が意見を出し合ってベストの結論を導き出すことを目的とします。「ディベート」のテクニックを用いて取引先を論破しても注文は取れませんし、会議の場において他の参加者をすべて論破しても良い結論が得られないことは明らかです。会社内の会議や取引先との交渉に「ディベート」を用いることができるとする考え方については、「ディベート」と「交渉」や「会議における議論」との相違点を十分に認識していないのではないかという疑問があります。
では、ディベートはビジネスに役に立たないものでしょうか。私は、「ディベートに勝つためのテクニック」ではなく、「ディベートに勝つための思考法」言い換えれば、ディベートで学ぶ情報の分析、処理能力こそが、ビジネスに役に立つものであると思います。政策ディベートでは、肯定側の政策と否定側の政策のどちらを取るべきかが争われますが、そこでは、互いに自己の政策の利点を主張する一方で、相手方の政策の欠点を指摘し、最終的にはそれぞれの利点と欠点を比較して結論を出そうとします。このような情報の分析、処理の思考プロセスは、「勝敗」という枠を外せば、会議にそのまま応用できます。例えば、会議においては、結論を得るための複数の選択肢を挙げ、その利点と欠点を指摘し、それらを比較して判断することにより、効率的により良い結論を得ることができます。取引先との交渉でも、事前にお互いの立場の強みと弱み、考えられる選択肢を検討しておき、交渉の場における自己の主張・相手方の主張を冷静に分析できれば、より良い合意に達する可能性が高まるでしょう。
このような情報の分析、処理能力は、ディベートを経験しなくても学ぶことができるという人もいます。しかし、私は、これらの能力を深く身につけるためには、ディベートを行うことが最も効率的であると思います。人の思考はついつい一面的になりがちであり、様々な分析も議論がなければ、それ以上深められずに止まってしまいます。ディベートでは、お互いに異なる立場から議論をたたかわせることによって分析や思考をより深めていくことができますし、さらに、肯定側と否定側の両方の立場でディベートすることにより、多面的な分析能力を身につけることもできます。
日本のビジネス社会にディベートが広まっていくかどうかは、その意義が十分に理解されるかにかかっているのではないかと思います。もし、ディベートが、単に「議論のテクニック」としてしか理解されないのであれば、今日の「ディベート研修」の隆盛も一過性の流行に終わる可能性が高いでしょう。他方、ディベートによって得られる「情報の分析、処理能力」理解が進むのであれば、アーギュメンテーション教育としてのディベートがビジネス社会に取り入れられ、ビジネスにおける意思決定の合理化、効率化に資することも期待できるのではないでしょうか。
(いいだひろたか 株式会社日立製作所勤務 JDA理事
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