第1回JDA秋期ディベート大会に関しての、参加者、見学者、ジャッジ等からの寄稿 安井省侍郎 

日本ディベート協会(JDA)は、アカデミック・ディベート普及活動の一環として、様々な層の方が参加・交流できるような大会を実現すること、また、従来主に英語で行われていたアカデミック・ディベートを母語(日本語)で行うことにより、参加者の方がより正確なアーギュメンテーションの理解、構築を行える大会を実現することを目的として、従来毎年3月に開催していた大会に加え、第1回JDA秋期ディベート大会を開催しました。幸い、20チームの参加があり、所期の目的は達成されたと考えています。

本稿では、本大会に参加されたディベーター、ジャッジ、見学者、運営スタッフから幅広く本大会の感想を集めました。本大会の発展に当たって、示唆に富んだ意見が集まっており、運営に反映できるものは反映していきたいと考えています。

なお、本大会のより詳細な結果、入賞者の写真、A部門決勝戦の映像、音声を、別ページで公開しています。是非御覧下さい。                 

    (やすい しょうじろう JDA理事)

 


JDA秋期ディベート大会を振り返って

 

安藤 温敏(参加者:A部門優勝)

 

今回の大会では、かなり以前から準備を進めることができ、証拠資料も十分集まり、状況的には申し分なかった。それにも関わらず、試合そのものがあまり満足のいくものとはならず、何とか優勝はさせていただいたものの、どうにも後味が良くない。その原因は、と考えると、このプロポジションの議論として、どの様なものがふさわしいか、という根本的な部分で判断を誤ったせいではないか、と思い当たった。

大会の準備を始めた当初は、基礎的な文献を熟読し、日本の税制について、仕組みと基本的な数字(所得税率の段階とか、税額、といったもの)を頭に入れることから始めた。そして、一通りの知識がついたところで、アイデア出しを行い、税制に関して、どの様な議論が考えられるか、網羅的にリストアップした。ここまでは非常にうまく行った。実際の試合でも、こうした基礎知識は、相手の議論の前提条件を見抜き、自分の議論との比較を行う際に大いに役立ち、単なるブリーフの読み合いとは一線を画したディベートが展開できたと思う。

問題はここからで、アイデア出しを行った段階で、ケースや、DAのカギとなる立場として、「景気回復」という問題を選んでしまったことが、失敗の始まりだった。

「景気回復」を選択した背景としては、当時税制が語られるコンテクストとして、経済問題が量的に圧倒的多数だったこと、解決性に関して言及している資料が比較的多く見つかったことがあった。しかしながら、実際に資料集めを始めると、新聞からだけでも実に膨大な量となってしまい、情報に追われる様になってしまった。一時期は、新聞記事を拾って、切り張りしてブリーフを作る、というだけで一日終わってしまうこともあり、これでずいぶん時間を空費したように思う。

また、資料の量が多い割には、本当に質の高い議論は少なく、なかなかケースやDAとしてまとまらなかった。あまりに多くの人がそれぞれ好き勝手にまちまちなことを(それも大した根拠もなく)書いているため、何を作っても容易に反論ができてしまう、という状態だった。

さらに、税制の変更だけで解決するには、経済の仕組みはあまりに複雑過ぎるため、所謂PMA議論が数多く出てきてしまい、議論の質の低下や、Organizationの複雑化・わかりにくさに通じてしまったのではないか。

この失敗は、我々のチームだけの話ではなく、ほとんどの出場チーム(そして、現在このプロポジションでディベートを行っているESSの学生たちでさえ)にも当てはまるのではないだろうか。実際、私が対戦したチームは全て、ケースとして経済問題を扱っていた。もし、決勝戦でこちらが肯定側を引いていたら、かなり悲惨な試合になったに違いない。

この様な失敗をしないためには、やはり最初のアイデア出しの段階で、経済問題を扱うことの危険性に気づくとともに、税制問題の本質とは何か、もっとじっくり考えるべきだったように思う。

では、実際にはどんな議論が良かったのか、後知恵ながら考えると、今期のプロポジションについては、税制からよりダイレクトに結び付く議論の方が、展開しやすいのではないだろうか。例えば、水平的公平と垂直的公平の比較や、徴税の目的としての所得再分配の是非といったあたりや、脱税問題などを提出することで、より質の高い(論点がクリアな、ディベートとして聞いていておもしろい)議論ができたのではないかと思われる。

この文章が載ったニューズレターが発行される時は、まだシーズン途中であろうから、この文章が少しでもディベーター諸氏の役に立てば幸いである。

最後に、理事であるにも関わらず大会への参加を許して下さったJDAの方々、特にマネジメントに尽力してくれた安井氏、飯田氏その他の方々、パートナーとして一緒に出場してくれた友末さん、そして、プレパの効率化に大いに貢献してくれた私の妻に感謝している。今後も、マネジメントや、ディベーター等、色々な形でディベートに関わっていきたい。

(あんどう あつとし, 日本ディベート協会理事,キヤノン勤務)

 


「ご趣味は?」「(日本語)ディベートです!?」

 

友末優子(参加者:A部門優勝)

 

趣味は何ですか?ときかれて「ディベート」と答える人は、全国のディベーター及び元ディベーターの中にいったい何人いるのでしょうか?社会に出ると趣味をもつ大切さ、趣味を通じての人間関係の重要さに改めて気がつくのですが、ジャッジという形態も含めディベートという活動を続けている人は非常に少ないのが現状です。殆どのディベーターは大学時代、授業よりも、アルバイトよりも、遊びよりも何よりもディベートに時間と体力と気力をつぎ込んでいたと思うのですが…。いったいどうして…。

ディベートの醍醐味は、ジャッジや観戦もいいですが、やはり実際にディベートをすることにあるのではないでしょうか。日本語ディベート大会はブランクの長い、そして社会人として忙しい日々を送っていらっしゃるであろうディベーター諸氏にとって、必ず有益な体験になります。ただし英語より日本語ディベートの方が簡単だからといいたいわけではありません。理由は以下の通りです。

社会に出てディベートというスキルを発揮する場合、殆どの人は英語でなく「日本語」を用います。今回日本語ディベートを体験して気付いたのですが、英語と日本語で全く同じロジックを展開しても受けとられ方が違う場合が多々あります。日本語にユニークな説得力のある説明付けや理由付けというものも存在します。言葉遣いにも注意が必要です。このように日本語ディベートには、大学時代に身につけたある種特殊なスキルを日常の業務活動にリンクさせる、という橋渡し効果があると感じました。

また同様のことが日本語ディベートを主にやっているディベーター諸氏にも言えるので、たまには英語でディベートしてみるのもお勧めです。テニスのようにとまではいかないでしょうが、老若男女が気軽に楽しめる趣味として、日本語ディベートがこれからどんどん発展していく可能性は充分あると思います。

最後にバベルの関係者の方をはじめ、大会の運営に当たった皆様にお礼申し上げます。春の日本語ディベート大会にもたくさんの方々に来ていただけると期待しております。

(追加)タイトルに対して私自身の答えです。趣味の欄には書きませんが、特技の欄には「華道」と並べてしっかり「ディベート」と書いています。

(ともすえ ゆうこ 筑波大学大学院環境科学研究科修士課程1年)

 


大会を終えて

 

田中正紀(参加者:A部門)

 

今回感じたのは,ファーストデリバリーに違和感を感じるaudienceの方が多かったという事です。確かに一般の方には聞き取れない速さでスピーチを行うことは、一見好ましくないことのように思えます。しかし、ディベートの目的が「現実社会に通用するアーギュメンテーション能力の向上」であるとしても、それは、「一般人に理解不能な速さのスピーチをする」事を必ずしも否定しないと思います。

勿論、相手のドロップを誘うべく多くの議論を出す事を目的とするファーストデリバリーは百害あって一利なしなのは言うまでもありません。しかし自分達の議論の信用性を強化するためにより多くの論拠・証拠を示す事は一般社会でも有効な事であり、そのためにファーストデリバリーを用いるのであれば、前述したディベートの目的になんら反するものではないし、むしろ目的達成のために有用なものであるとも言えます。(勿論、ジャッジが理解できないようなファーストデリバリーは否定されるべきです。)

決勝戦は残念ながら負けてしまいましたが、安藤さん、友末さんという大先輩と戦えた事を嬉しく思います。私にこのような機会を与えてくれたJDAの方々に感謝します。

(たなか まさき 慶應義塾討論会)

 


JDA大会に参加しての意見

 

加藤 宏(参加者:A部門)

 

1 JDAの大会は、広く社会に開かれていることにその特色があり、大会自体の目標設定も、「ディベートの普及を目指す」、というところに強く力点が置かれているはず。もしそうであるとすれば、特に決勝戦(予選もだが)は、あまりディベートを知らない観客の皆さんが、「面白そう!」、「これなら私にもできる」、「やる価値がある」といった印象を持つようなものであることが望ましい、と感じる。

2 そのためには、JDAの大会では、一般に分からないディベート用語は禁止するとか、まともにはメモできないようなスピードのスピーチ(ポイント)はとらない、とかの、いくつかのローカル・ルールを採用してもよいのではないかと感じる。

3 ちなみに、現状のままでは、大学のESS的なディベートを展開する相手に対抗するためには、基本的に、同じような方法で対抗するしか方法がない(負けまいと思うと、そうせざるを得ない。)という問題がある。

4 なお、ここで問題にしている「コミュニケーション責任」という観点からいうと、A部門で優勝したチーム、特に安藤さんのスタイルは、社会人がディベートをしようとする際の、一つの模範を示しているのではないかと思う。あのようなスタイルが定着するような、何らかのルール造りをJDAの大会でにおいて進めてはどうか、というのが、申しあげたいポイントである。

(かとう ひろし JICAディベート研究会)


 

大会を振り返って

 

篠 智彰(参加者:B部門優勝)

 

昨年ちょっとしたきっかけから、高校対抗の日本語ディベートの練習試合や大会にジャッジとして招いて頂く機会が何回かありました。その中で創価高校雄弁会の皆さんには熱心にコメントを求められたり、あるいはクラブ内での練習試合のジャッジを依頼されたりしました。今年も依頼に応じて数回創価高校に足を運びましたが、彼らのディベート活動に対する情熱こそが私にそうさせたのかもしれません。

さて、その創価高校で練習試合のジャッジしているとき、どちらがどう言い出したか忘れましたが、3年生の大石君と組んでこの大会に出ようという話になりました。大会一カ月前になり、正直なところ、この話は自然消滅だろうと思っていたところ、彼から「出ましょう」という電話がありました。彼の情熱を無にするわけにはいかず、自分のためにも出る決心をしました。こうした経緯で社会人と受験生という非常にまれなチームができたわけです。

創価高校は、一年生チーム、現役を引退した三年生やOBチームなど20人前後が参加し、結局B部門参加チームの大半を占めていたのではないでしょうか。大会の一週間前には創価高校の部員の前で練習試合を2試合やりました。JDA大会の「傾向と対策」なるミーティングも企画し、定常争点形式の分析法やカウンタープランの紹介をしました。長期的な視野に立って私たちはどういうディベートを目指すべきかという話もしました(自分がそういうディベートをできるようになりたいという願望でもある。残念ながらそういう理想のディベートはなかなかできない)。

大会当日には創価高校一年生チームとディベートを楽しむことができました。今回の秋の日本語ディベート大会は、創価高校の部員にとっては、大会前のリサーチ、ブレーンストーミング、プラクティスといったディベート活動の9割を占める「準備」に対する非常によいモーティベーションになったと思います。

試合内容に関しては非常に厳しい批判、特に肯定側のスピーチ内容に関しては「詭弁である」という断罪さえ受けました。このような印象を与えてしまったのは、分析をよりよいものに練り直してゆく時間的余裕がなく、アイデア的な議論の状態で試合に臨んでしまったことによります。スピーチが速いという指摘も受けました。もっと議論の数を絞り込むべきでした。安楽死を論ずる肯定側としては、自分の死に方を自分で決める権利があり、安楽死はそれに当てはまるのだ、という本質的な議論をもっと前面に押し出すスピーチにすれば聴衆を満足させるディベートになったかもしれません。

お粗末な試合内容をもってディベート大会、あるいはディベート活動は役にたたない、という判断はできないと思います。ジャッジ、指導者が目指すべきディベートの姿(これがお粗末であってはならない)に近づくにはどうしたらよいかという具体的なアドバイスを与えること(詭弁だと断定することではない)、各ディベーターが目指すべきディベートの姿に近づくように一生懸命努力をしてゆくこと、つまり問題点はあってもそれを改善してゆこうという意識さえあれば、それは健全なディベートコミュニティであり、ディベートは高校生や大学生が情熱を注いでやる価値のある実りある活動であるといえるのではないでしょうか。

(しの ともあき 東芝勤務)

 


JDA秋期ディベート大会とOne-Dayディベート・セミナーに参加して

 

藤咲多恵子 (参加者:B部門)

 

私たちはB部門に出場した。パートナーは大学院時代の同級生の秋葉由紀さんである。チーム名はCAFE105、これは大学院時代によく論文の指導を受けたコーヒーショップの名前である。あの時のようにがんばろう、という意味でこの名前にした。

B部門の論題は「日本は積極的安楽死を法的に認めるべきである」であった。夏のディベート甲子園の高校生論題と同じだったので、出場者は高校生が多かった。社会人はもう1チームにいらした篠さんで、経験豊富な方である。

結果は1勝1敗であった。対戦相手はどちらも高校生であったが、とても技術が高かった。私など反駁では頭が真っ白になってしまった。力量不足を認識するばかりである。

また、二人で7月のOne-Dayディベート・セミナーにも参加した。このセミナーは大会との橋渡しという趣旨もあった。実際にB部門の論題を使って練習試合をしたおかげで議論を組み立てる際のヒントをたくさん得ることができた。

しかし、このセミナーに出ただけですぐに大会に出ようという人(特に社会人)はまだ少ないのではないだろうか。セミナーでご一緒した方から「よく出場しましたねえ。」と言われてしまった。 

それでも会場にはセミナーの参加者が何人か見学に来ていた。論題に馴染みがあるので、聞いていて内容がよくわかったのではないだろうか。このような人たちが関心を持ち続けていつか大会に出てくれるとよいと思う。

最後になりましたが、運営スタッフの皆様、多くのアドバイスをくださった松本茂先生、ヘルパーを引き受けてくださったフラナガンみちよさんに感謝申し上げます。どうもありがとうございました。                (ふじさく たえこ)

 


JDA秋期日本語大会観戦記

 

筑田 周一(コーチ)

 

8月。ディベート甲子園が終わった段階で、生徒達にこの大会のことを話しました。今年の6月から始めたばかりの1年生たちが、もっとディベートの勉強をしたいと乗り気になっていました。高2でも、ディベート甲子園に出場できなかった生徒が出たいということで、高1、2チーム、高2、1チームが参加することになりました。

ありがたかったのは、B論題をディベート甲子園の論題と同じにしていただけたことです。夏休み中、日程が詰まっていて、あまり指導できなかったので、十分リサーチしている論題を使っていただけたことは指導の上で助かりました。

さて、当日。ヘルパーとして第1試合をお手伝させていただきました。肯定側が創価高校の1年生女子4人のチーム。昨年中学の部でディベート甲子園関東大会、全国大会と参加していた顔なじみの面々でした。かたや否定側はなんと篠さんと大石君の優勝候補チーム。どんな試合になるのか、タイムキーパーをしながらわくわくしていました。

ディベート甲子園の時に比べると、肯定側の立論は議論が随分整理されたなという印象を持ちました。タイムキーパーをしていたためにフローシートは取っていなかったのですが、スピードも聞き取りやすく、十分内容を把握することができました。

否定側の二人の方はさすがに慣れている、というか、貫録十分でした。しかし、肯定側も練習試合などである程度否定側の議論を知っていたということもあって、かなりいい議論をしていました。惜しむらくは、肯定側第1反駁が時間を有効に使えなかったところでしょうか。もし、あそこでもう一歩突っ込んだ議論ができていたら、大番狂わせも起こったかもしれません。そのくらい肯定側の健闘が印象に残った試合でした。

午後になって2試合目は、ヘルパーをしなくてもいいということでしたので、女子聖の1年生チームの一方を見に行きました。相手はまた創価高校。こちらもまた1年生で、今度は男子チームでした。このチームには、去年DOS(DEBATEOPENSPACE)主催の日本語ディベート大会で、私と決勝戦を戦った小栗君がいるので楽しみにしていました。

結果は肯定側創価高校の勝ち。うちの生徒達は、昨日見つけたという新しい免疫療法の証拠資料にこだわりすぎて、議論の全体が見えなくなっていたみたいです。

しかし、創価の試合を観るたびに感心するのは、ある程度経験を積んだ人は立論に回って、経験の浅い人に反駁をさせて鍛えている点です。これは来年も侮れないな、という思いを強くしました。(そういえばこの試合、タイムキーパーをしていた青年が、タイマーも持っていないし、準備時間に読書をしようとしていたのにはちょっとむっとしました。)

2試合が終り、女子聖3チームの戦績は、4勝2敗でした。肯定側は3チームとも勝利、否定側で1勝2敗と苦戦しました。練習をしているときから、この立論はまだ改善の必要ありとみんなで言っていたので1勝できただけでも収穫かなと思っていました。

ところが2勝した高1チームが決勝へ進出、しかも否定側ということでかなりあせりました。当の2人もだいぶうろたえたようです。動揺しているうちに決勝戦になり、しかも相手の立論がメリットデメリット比較方式とは違う形で立論を行なってきたので、ますます混乱してしまったようです。できれば決勝戦までにもう30分でも時間がいただけたらと思いました。

決勝戦では特に第2反駁がうまく返せなかったことで、本人は試合後涙ぐんでいました。しかし、ジャッジが予想外に2票も投票していただけたことと、バロットシートの丁寧なコメントに大変勇気づけられていました。今回出場するに当たっても、このバロットシートのコメントを楽しみにしておりましたので、各ジャッジの皆さんの丁寧な対応に、顧問としてもありがたいことと感謝しております。

またA論題の決勝戦を観戦させていただき、安藤さん、友末さんの否定側のスピーチに圧倒されました。生徒達も自分達もあんなディベートをしてみたいという目標ができたようです。特に友末さん。同じ女性として多いにあこがれるところがあったようです。

また春には是非、B論題をディベート甲子園の論題でやっていただきたいと願っております。今度は私も出場して勉強させていただこうと張り切っております。

(ちくだ しゅういち 女子聖学院高校教員)

 


感想

 

二杉孝司(見学者)

 

JDAの皆様には、ディベート甲子園などでお世話になっています。私、全国教室ディベート連盟の理事長をしておりまして、この3月、JDAに入れていただきました。今後ともよろしくお願いいたします。そんなわけで、秋季大会も、ディベート甲子園を念頭に置きながら見ていました。以下、秋季大会の感想です。

第1に、証拠資料の使い方に感心させられました。

A部門の決勝で、肯定側が否定側の証拠資料を(しつこいと思えるほど)丹念に検討して、反駁していた姿がとてもつよく印象に残りました。両チームとも、準備時間には、必ず相手側のエビデンスカードを受けとっていました。

当然のことなのでしょうが、証拠資料の重要性を思い知らされました。中学生・高校生にとっては、証拠資料の活用が大きな課題です。1行しかなかったり、証拠資料を読んで終わりだったり、それほどでなくても、証拠資料が的確に使われ議論を強化するものになかなかなりません。ディベート甲子園の課題を改めて自覚させられました。

第2に、B部門のフォーマットについてです。

これは、言わばディベート甲子園のフォーマットの改良版で、肯定側第1反駁が1分長いことが特徴です。予選・決勝と3試合を見た印象は、強いチームはこの1分を有効に使うが、使いこなせないチームもあるという、当たり前のことです。しかし、ディベート甲子園を見直す手がかりには十分になりました。もう一つの相違は、準備時間の長さです。これは、はっきりしています。長い方がゆとりがあっていいですね。大会運営は多少きつくなりますが、ディベート甲子園も真似をしたいと思います。準備時間に、証拠資料のやりとりもさせたいですし。

第3に、臼井氏の試合解説です。

ディベート甲子園では、ディベートを知らない人がたくさん見にきます。こういう人に、ディベートを楽しんでもらい、ディベートの魅力を知ってもらうために、「解説があるといいね」と話していました。スポーツの中継だって、実況放送や解説者がいるのですから。しかし、ディベートの場合、声をかぶせることはできないわけで、どうしようかと考えていました。そうしたら、なんと臼井氏が準備時間に解説を始めるではありませんか。これには驚くとともに、意を強くしました。フローをとってない人にも、試合の流れがよく分かったと思います。欲を言えば、もっとその時点での形勢などを話せば面白いのでしょうが、「このターンアラウンドはきついぞ。さあ、否定側はどうする」と言うわけにもいかないのでしょうね。この大会を見習って、連盟でも少し工夫してみようと思います。

(ふたすぎ たかし 全国教室ディベート連盟理事長)

 


「普及」に向けてのディベートの提供価値・ポジショニング

 

瀧本哲史(見学者)

 

アカデミックディベートの目標は何かということについて、多少議論の余地があるが、「argumentation教育」であることについては、とりあえず、異論はないだろう。

一方、「ESSを中心としたアカデミックディベート」以外の「一般の人々」がディベートに期待するものは、コミュニケーション能力(この中での重点の置き方は様々。それこそ「アイコンタクト」とかの人もいる)だったり、論題についての深い理解であったり、意思決定であったりする。(もちろん、「一般の人々」と言っても、ディベートというコンセプトに関心があるくらいだから、世の中一般の人と比べるとずいぶん違うことを理解しておく必要がある。)

しかし、アイコンタクト、ボイスコントロールと言ったソフトスキルはもちろんこと、文章の構造化といったハードスキルを学ぶには、他の方法もあるしそちらの方がより効率的である。まして、論題に関する理解なり政策決定や問題解決のためのスキルを身につけるのであればディベートという特殊なアウトプット形態に向けた試み以外のものもある。

ディベートにかけられる人的・時間的資源が限られてくると(社会人なら言うまでもなく、大学生についても大学の教育の強化、ダブルスクールの普及)、結局非常に中途半端なものが出来てしまう可能性が高い。

その端的な例が、JDA秋期大会であった。A論題決勝が最も典型的だったが、ディベートとしても出来が良かったかについては争いうるがとりあえず、argumentationになってた。しかしながら、税制に関する議論としては、かなり問題があったし、コミュニケーションという観点からすると世の中で一般的ではない「一般の人々」からも反発を買うものではなかっただろうか。

もちろん、ここで実際にはほとんど見られない「イデアとしてのディベート」を語ることで反論する人もいるだろう。しかし、現に決勝でも「お客様にお見せできる」ものではなかったし、会場から厳しいコメントがあった。。

結局のところ、現実的には現状の方向性で「紹介」するというのは普及上あまり賢い方法とは思えない。

一つの方向は、ディベートがありとあらゆる要素を含んでいるかのような幻想を早めに払拭して、expectationcontrolをはかることである。具体的には、「argumentation教育」というコンセプトをわかりやすく表現してそのユニークさで競合と差別化を図りつつ、その限界を示すことで、予め顧客層を絞るという方向性である。この方法がたぶんもっとも正統なのであろう。しかし、この方向性でどれくらいの規模がとれるのかはわからない。

あるいは、「一般の人」が望んでいるものを効率的に学ぶ方法がディベートの外にあるのであれば、そのベストプラクティスをディベートに持ち込んでしまうという方法もありうるだろう。

オペレーショナルな改善も可能である。例えば、シーズンはじめにディベートをしにくい論題で「紹介」を目的にした大会を開くべきかという問いである。論題を工夫するなり、時期を工夫する余地がある。この点でB論題の方が比較的スムーズに言ったのは、納得がいく。B論題は、8月に中高生向けの日本語ディベート大会「ディベート甲子園」と同じであり、準備や試合経験が十分にあった大会出場者が多かったということであろう。

本稿を機に、ディベートの提供価値なり、ポジショニングについて議論が深まることを期待する。

(たきもと てつふみ)

 


1ジャッジの”観戦”記

 

古宅 文衛(ジャッジ)

 

参加者、運営、観客の方々、大変おつかれさまでした。私は予選2試合、決勝とジャッジを行ったのですが、それなりにおもしろいものでした。当日の様子や試合をジャッジしながら考えていたこと、感想などについて書いていきたいと思います。

朝早く、眠気と戦いながらやっと会場に到着。入口で偶然篠さんと遭遇。”今日ジャッジやるんすか?”、”いやあ高校生と一緒にB部門にでるんだよ〜”という会話に、この反則じじい、と頭をかすめたのですが、まあそれはおいといて、いつもなかなか活動的でよいと思います(意味不明な文章ですがいちおうフォローしてます)。

会場は小さなエレベーターが2つ、これで試合会場へ移動する、というので、こりゃあ試合前かなり混雑するな、と思ってたのですが、やっぱりすごいことになってました。”こっちに階段があるの知ってるぜ”という某ジャッジについていき、階段入り口のドアの鍵をあけて上の階へいくとそこのドアには鍵が。下のドア鍵あけたときにこの結末は簡単に予想できたはずなのにその時その場にいたジャッジ数名、全員気づいてなかったのは間抜けですね。”ディベート以前にもっと基本的な能力に問題ないのか?”というのは某ジャッジのコメント。

予選1試合目はCAFE105−河童のマーチの対戦を審査しました。B部門ということで、論題は安楽死。以前、似たような論題でディベートを行ったことのある私には懐かしい感がありますが、単なるコスト・ベネフィットでは考えられないテーマはやっぱり難しいものがありますね。逆にその辺でどんな試合、議論を展開してくれるか楽しみなものはありますが。

試合そのものは分析の深い議論の応酬にはもの足りなかったかな。簡単な話のアウトラインだけで議論を進めていくのではなく、そのアウトラインを深めていきながら相手の議論もたたいていくというステップへつなげるようなコメントはできないか、などと考えていましたが、なかなか難しかったな、というのが実感です。それにしても各チームのディベーターはきちんとコメントに耳を傾けてくれたのは、コメントし甲斐があるというものです。

予選2試合目はA部門の春の大会マネージメントチーム−O'Jeans。このO'Jeansのチーム名は絶対にオジンsに違いない、という私の予想はあたってますよねえ、加藤さん(冗談だって)。まあ複数形での表記は若干協議する必要ありそうですが(だから加藤さん冗談ですってば)。

この試合はすごかった。全部の試合みてた訳では無いのは当然ですが、それでもこの試合は今日一番レベルの高い試合だったのでは、と思います。事実上これが決勝だったと思えるような試合でした。細かい分析と大胆な(本当に大胆だった)はったりが混ざり、ロジックへの攻撃と再構築、相手の議論との比較、効率的な役割分担等、実力あるディベーター同士が試合に勝つために試合をしている、というのはやっぱりすごい。試合の判定を下す立場でこのようなスリルを味わうのはジャッジの最高の楽しみですね。そういえば最近そういう試合あんましないな・・

で、A部門の決勝。予選2試合目でみた春の大会マネージメントチームに挑むのはKeioDebateSquad。何があったか知らないが田中、この試合なんだか妙に過激になってないか?

試合自体はまあこんなところでしょう、という感想でしょうか。主語、述語のよくわからない短い議論を乱発するより、じっくり1つを説明したほうがわかりやすかった試合でした。この試合がそういう性質をもってたのか、日本語だからなのか、といった原因はよくわかりませんけど。ジャッジが全員否定側にいれたのは妥当な判定だと思うのですが、観客の方々はどのような判定をしてたんでしょうかねえ。

あとはレセプション、2次会(at市ヶ谷)という毎度なじみのパターンでした。ディベーターってアルコールがはいってもやっぱりディベーターなのですねえ。ただ、社会人が集まって議論していると、自分たちの仕事で考えた場合とか、どうディベート技術が適応できるかといった実践的な話題が多くでてくるのが学生時代に比べると新鮮なところでしょうか。

以上、つらつら書きました。まだまだ参加者もジャッジもディベートのレベルを上げていくことが必要ですね。観戦記になってるんだかなってないんだかわかりませんが、当日の楽しさや知的好奇心を刺激する思いを伝えられてたらいいんですけど。 

(ふるたく ぶんえい 日本総研勤務)

 


第1回JDA秋期ディベート大会観戦記

 

梶原建二(ジャッジ)

 

9月13日に第1回のJDA秋期日本語ディベート大会が開催された。本大会の意義などは、おそらく他の方が書かれるだろうから、ここでは、私がジャッジをした2試合(決勝戦は除く)の議論を簡単に紹介し、より深く議論するための糧としたい。なお、あくまでも、私のフローシートを元に書き起こしたものであり、多少ディベーターの主張と違うところがあるかもしれないことをお断りしておく。

 

第1試合「日本は、積極的安楽死を法的に認めるべきである。」

第1試合は、肯定側「創価雄弁会C(岡野・山田・高橋・前田)」、否定側「大石・篠チーム」で行われた。肯定側は、以下の議論を提出した。

メリット1「肉体的・精神的苦痛の除去」

メリット2「家族の負担の解消」

否定側は、以下の議論を提出した。

前提「積極的安楽死は絶対的悪である」

デメリット「弱者切り捨て」

 

この試合の良かったところは、勝敗の判断の基準をディベーターが提出したことである。以下のような感じであったと記憶している。「人の命を守るということは普遍的倫理であり、この倫理を犯す肯定側のプランは絶対に認められません。」

否定側は、上記の前提をこの試合の勝敗の判断の基準として主張したのである。そして、そのことは、どんなメリットよりも優先されるべきことを主張した。ディベートの経験が少ない段階では、なかなか思い付かない議論だが、物事の価値的側面は、意思決定をする際の不可欠の要素であり、重要な議論と言えるだろう。なお、本試合の勝敗は、否定側(大石・篠チーム)の勝ちと判断した。

 

第2試合「日本政府は、個人に課される直接税の累進性を大幅に緩和すべきである。」

第2試合は、肯定側「HW(笛木・三浦)」、否定側「早稲田大学Debate&Discussion(山中・西井)」で行われた。肯定側は、以下の議論を提出した。

基本理念「税金は、憲法の法の下の平等に基づき、公平であるべき」

肯定する理由1「税金の不公正の解消」

肯定する理由2「税金の不明確さ(の解消)」

否定側は、以下の議論を提出した。

デメリット1「政治不信の発生」

デメリット2「経済格差の構造化」

デメリット3「経済の悪化」

デメリット4「国際社会への適応ができなくなる」

デメリット5「人間性の喪失」

 

本試合は、否定側(早稲田大学Debate&Discussion)の勝ちと判断した。私の講評・判定に続き、ディベーターとの質疑に移った。そこで以下の質問があった。

「現在の景気状況のもとで深刻化するであろうデメリット(経済の悪化)は、論題を否定する理由となるのか」

これは、大変面白い質問だと思った。政府のそもそもの役割や、税金の役割などに対するあるイメージが頭にあっての質問なのだろう。私は、ある政策が提案された時に、その政策が実際に実行される環境のなかで発生するであろうデメリットは当然、論題を否定する理由となると考えた。ただし、この場合、ディベーターが注意すべきなのは、別のところにあると思われる。つまり、第1試合のところで述べたように、自分達の主張がいかなる理由で(例えば、優先順位やメリットの量的側面)否定側の主張を上回るのかを、ジャッジに向かって、説得的に主張することであろう。

以上、2試合を勝敗の理由中心ではなく、議論内容で印象的であった点を中心に振り返った。それぞれに、議論がかみ合い、ディベートとして見ごたえのある試合だったと思う。

(かじわら けんじ 全国教室ディベート連盟理事)

 


日本語ディベートを観戦して

 

中島克宏(ジャッジ)

 

JDA主催の第一回秋季日本語ディベートのジャッジをさせて頂きました。まずは関係者・参加者の方々大変お疲れ様でした。観客も多く、日本語ディベートへの期待が窺知できたことが何よりでした。以下に観戦した際に感じたことを取り留めなく書き連ねてみました。

1.マーケティングとしての側面

日本語ディベートの最大のメリットは、参加者・聴衆ともに英語能力の制約=参入障壁から解放され、愛好者の潜在的な裾野が広がることだと思います。現実にESS以外の参加が殆どだったことからも、この試みの意義が感じられます。将来的に知名度が更に高まり、参加者が増えることを期待します。逆に言えば、ESSからの参加はもっとあって然るべきかもしれませんが、英語大会のタイトなスケジュールや、既に英語をベースにリサーチを済ましてしまっている現状に鑑みれば、構造的になかなか増え難い要素もあり、開催時期の工夫の余地はあるにしても、まずはそれ以外の団体・サークルにマーケティングをフォーカスする開き直りも必要なのかもしれません。

更にESSのOB層がESS以外の母体へコーチに行ったり、練習試合のジャッジに招かれたりするルートが太くなってくれば、更に望ましい。JDAがその触媒となることも是非ご検討頂ければありがたい。

2.試合内容・水準

第二のメリットとしては、参加者のリサーチ負担を、日本語ソースの英訳を省くことで効率化し、より深いリサーチに時間を割けること、また試合内容としても、対戦相手の主張の理解度が高まることから、議論のクラッシュが増加する教育的効果が期待できます。

但し、今般大会で試合レベルが飛躍的に向上したかと言えば、それほどでもなくて、特にA部門は新プロポのシーズン始めだったこともあってか、内容としてはやや不満が残りました。この意味からも開催時期についてはJDAに再考をお願いしたい。特に日本語ディベートの大会数がまだ少ない現段階に於いて、限られた機会で観衆の失望を招いてしまえば、PRとしては逆効果ともなりかねません。

反面、高校生の部はシ−ズンが煮詰まってきた時期でもあり、試合水準は総じて高いものがありました。反駁にはまだ課題が残りますが、少なくとも立論は完成度の高いものが多かったように思います。

3.日本語使用時の様式美

日本語使用時のデメリットとして想定していたのが、英語と違って日本語の話言葉だと多少バタ臭い、たどたどしい印象が目に付くのではないか、というものでした。英語はフランス語ほどではないにしても、聞いていると流れるようなリズム感を感じることがありますが、日本語で音楽のようなうっとりするスピーチというのは余り聞きません。

音楽云々は冗談としても、雄弁会系統とはまた一味違ったディベート特有の説得感ある語り口を、今後は多少研究・追求してもよいのではないでしょうか。それはまた日本語ディベートファンを獲得する力強い武器ともなることでしょう。

(なかじま かつひろ 日本興業銀行勤務)

 


JDA秋期ディベート大会のジャッジを終えて

 

小野 剛(ジャッジ)

 

私がジャッジをした試合は、予選二試合、決勝ともに A部門(安楽死)でした。また、三試合とも高校生ディベータが一人はいる試合でした。今年はディベート甲子園には行っていないのですが、議論の面でもスピーチの面でも、明らかに進歩している様子がうかがえました。死の自己決定権や、判例の持つ実行性など、難しい論点に対しても自分の頭で考えた議論をぶつける姿勢に好感を持ちました。

観客ですが、この時期のイベントとしてはかなりの数の観客が集まっていて、ディベートに対する関心の高さを感じます。

私の学生時代の様に、ディベート活動が ESSの一部で行われていた時とはずいぶん様変わりをしたという印象を新たにしました。決勝後の質疑応答をみても、ディベート活動の意義を「マニア」ではない人々にもどう訴えていくか、非常に重要になってきたといえるでしょう。

論題についてひとこと。B部門の論題設定には、もう一工夫が必要だった気がします。

特に多くの肯定側が、「現状では判例によってのみ安楽死が認められている」というアナリシスを提出して、その上でプランにより立法化を行うという戦略を取っていました。この場合、肯定側/否定側の間で「安楽死を認めることの是非」が争点にならずに、「立法化によって対処することの是非」が争点となる危険性が非常に高いといえます。

特に決勝戦では、肯定側のケースは上記のような戦略を発展させて、非常にクレバーな作り方をしていました。それに対して否定側が、自分のスタンスをうまく作ることができなかったといえます。また、疼痛医療の存在をどう評価するか、という議論でも、肯定側と否定側の間で明確な争点を作ることができなかったうらみが残ります。

もちろん、立法化の是非を論点として、議論に深みのあるディベートの試合を作ることはできたでしょう。安楽死そのものの是非を問うかわりに、裁判所の判断によって事後的に処理をするのか、それとも安楽死を立法化するかわりに厳密な基準を設けて事前的な処理するのか、という政策の実現手段にかかわる議論をすることは、双方の準備が整っていれば、よいディベートとなりえたはずです。

ただそれであれば、「法的に認める」ではなく「立法により合法化すべきである」などの一歩踏み込んだワーディングが必要であったといえます。このように論点を明確化して、医療関係者をどの程度まで信頼すべきなのか、また医療技術の進歩による変化にどの程度まで対応できるのか、という観点で比較すれば、肯定側と否定側の政策の差異を際立たせることができるでしょう。

シーズン開始前とはいえ、B部門(所得税の累進性緩和)への参加者がもっと多ければ良かったなと思います。プロポ委員長としてこの命題の策定にかかわった関係から。ディベーターがこの命題をどう料理するか楽しみにしていました。来年からは、英語サークルからも、もっと積極的な参加を期待します。

いろいろと勝手なことを書き連ねてしまいましたが、最後に、マネージの労を執ってくれた安井夫妻、飯田さん、その他関係者の皆さん、お疲れ様でした。

(おの つよし JDA理事 ソニー勤務)

 


思考訓練としてのディベート

日本語ディベート参加者の方々へのメッセージ

 

佐藤義典(ジャッジ)

 

今回の日本語ディベートにジャッジとして参加させていただいて、感じたことをのべさせていただきます。今回は、ディベートのエキスパートの方々ではなく、まだ発展途上にあるかた、日本語ディベートにこれから参加しようか、と考えていらっしゃるレベルの方を対象にしています。

私は、ディベートにユニークな教育的意義としては、「自ら考える習慣・能力を養うこと」だと考えています。情報の流通量が幾何級数的に増加している現在、ともすれば情報に埋もれ、どこかで得た情報=自らの意見となってしまいがちだということを自らの反省も含めて感じています。

今回の日本語ディベートのような試みは、そういった状況の中で非常に意欲的な試みだと思いますし、参加された方々の得られたものは極めて大きいものだったと思います。

ディベートで、議論を組み立てていくというプロセスは、基本的には、仮説を立て、それを検証していくことを強制します。その意味で、ディベートという活動は、自立的な思考能力の育成に非常に効果的だと考えています。相手の反論を予測し、それに耐えうる立論を組てて、自らのシナリオをスピーチしていくプロセスは、与えられた情報を縦横無尽に活用し、消化していくことだからです。

そのなかでも、いくつかのレベルが考えられますが、レベルごとに、今回の日本語ディベートで出来ていたこと、もう少し努力を要すること、を僭越ながらアドバイスさせていただきたいと思います。

 

レベル1:相手の議論を局所的に反論する

 

これは、相手の立論の非論理的な部分、証明の弱い部分について攻撃をしかけていく、ということです。

これについては、ほとんどの参加者が無意識のうちに行っていました。その意味で、ある一定のレベルに達しているディベーターが多かったと思います。しかし、相手の議論のどこが一番弱い部分なのか、そして、自分たちの議論で一番強い部分はどこなのか、もっと考えていけばさらに伸びていくでしょう。

どうすればよいかというと、相手の議論を聞いた時点で、まず、直感的に「????? 何か変だぞ」と思った部分をもう一度見直してみましょう。自らの常識に照らし合わせて、おかしいと思った部分は、大抵はジャッジも同じように感じているはずです。そして、なぜおかしいのか、どの程度おかしいのか、分析していく練習を行っていきましょう。

これを日常的に行っていくとさらに良いでしょう。新聞の社説なんかを読んでも、無茶苦茶な論理展開をしている場合が多々あります。そのような部分を読んだら、「ここはどのように攻撃していけば崩れるのか?」と考えるのです。これを繰り返していくと、他人の意見を無条件に受け入れる、ということは起こらないはずです。

 

レベル2:自らの議論を強固に組み上げていく

 

これは、自らの議論を、客観的なデータ・証拠をもとに、論理的に一貫したものにしていく、ということです。

これについては、初級・上級ともに、出来ているチームはあまり多くありませんでした。議論が多分に感情的であったり、データによるサポートがなかったり、論理の飛躍が見られるケースが相当多く見受けられました。

どうすればよいかというと、自分の議論を、相手がどのように反論してくるか、自分が相手側だったらどのように反論していくか、というシミュレーションを数多く行って行きましょう。これは、相手の議論の弱い部分を見つける練習にもなります。

これを、例えばレポートを書いたり、プレゼンテーションなどのときにも行うようにすれば、自らの主張がより説得力を持つものになっていきます。

 

レベル3:相手の反論を予測し、それに対しての戦略を試合前に組み立てていく

 

これは、例えば肯定側に立った場合、否定側の提出するであろうデメリット・不利益などを事前に予測して、それをあらかじめ封じ込められるようなプラン・メリットをテニスをするときも、野球でバッティングをするときも、相手のボールが次にどこに飛んでくるかを予測することは当然のように行うでしょう。出していく、ということです。

これができていたチーム、というかやろうとする意思の見受けられたチームは、上級のファイナルに残ったチームだけです。これができればかなりのレベルに達しているはずです。

どうすればいいかというと、自らのスピーチの理想像を試合前に(ここがポイント)を描いておくことです。そして、相手の立場にたって同じことをします。その自分がつくった相手の理想像を打ち砕くには、自らはどのようにすればいいか、では、それに対して相手がどう対応してくるか、ということを延々とシミュレーションしていくのです。

いずれのレベルにおいても、ポイントは「自ら考える」ということです。日本語ディベートに参加された方々は、それだけでも様々な「考える」機会を得られたことと思います。参加されたことのない方も、次の機会には、ぜひ参加されることを「考えて」みてはいかがですか?(さとう よしのり,ワーナーランバート勤務)

 


競技ディベートの目指すもの

-JDA日本語ディベート大会について -

 

田村 洋一(ジャッジ)

 

今回の日本語ディベート大会については、その企画・運営、大会内容を好意的に評価する声がある一方で、批判や反省もなされている。予選から決勝の試合において審査・講評を行ったジャッジのひとりとして、批判や反省についてひとこと述べたいと思う。

批判には主に2種類ある。ディベートのstyleに関するものと、contentsに関するものである。「早口でわからない」「わかりやすく話してほしい」など、ディベートのstyleに対する苦情や感想は、競技ディベートに馴染みの薄い観客から寄せられることが多い。

一方、「議論や分析が表面的だ」「なぜ詭弁を弄するのか」など、ディベートのcontentsに関する批判は、「一般」観衆はもとより、競技ディベート経験者からも寄せられた。なかには、低レベルの試合を一般の人に見せることで「こんなものか」とディベートが軽んじられてしまうのではないか、と懸念を表明する人もいる。

実際の試合内容がどの程度良かったか、悪かったかについて、ここで再度講評はしない。優れたスピーチもあったし、大幅な改善が望まれる局面もあった。見る人の期待度によって、「非常に勉強になった」という感想もあれば、「こんなものか」と言う人もいるのだろう。ここで述べたいのは、styleやcontents以上に重要な要素についてである。それは競技ディベートのmethodだ。

ディベートにおける主役はディベーターである。スピーチ時間、肯定側・否定側の役割、立論時間に争点をすべて提出すること、といった基本的な取り決めは存在するが、どんなstyleで、どんなcontentsを論じるかはディベーター次第。ジャッジは意思決定を行うものとして、公平で客観的な関わり方を求められるが、決められた論題のもとで具体的に何を議論するか、決めるのはディベーターたちである。

Contentsに関する批判の中に、「本質的でない議論をしている」「分析がお粗末だ」「ディベートで議論するよりも、学校で勉強する内容の方が優れている」というものがある。これらは、個々の試合内容に対する反省としては、重く受けとめるべきである。ディベートは、現実問題についての理解や洞察を試合の中で表現するものであり、単なる言葉の遊びではないからだ。

しかし、contentsがいかに重要であっても、それはディベートの全てではない。ディベートは合理的な意思決定に関する学習プロセスである。ディベーターは、問題領域の調査・分析から自分の理解を作り上げ、それを試合で戦わせ、意思決定に結びつけていく。そのプロセスの中で洞察を得て、methodを発見する。ディベーターが何を学べるか。これが競技ディベートの眼目ではないだろうか。

Contentsやstyleも大切である。「一般の」観衆にアピールすることも必要だろう。PRの方法としては、上級者による模範試合をやるべきかもしれない。しかし、ディベートのmethodを多くの人に経験してもらう試みとしては、日本語(母国語)によるディベート大会が大きな役割を果たすだろうと考えている。

(たむらよういち。1987年上智大学卒業。1993年バージニア大学ビジネススクール卒業。日本ディベート協会理事。現在、ジェミニ・コンサルティング・ジャパン勤務)

 


第1回JDA秋期ディベート大会の感想

 

臼井直人(運営スタッフ)

 

去る9月13日、日本ディベート協会主催第1回秋期ディベート大会が開催されました。この大会は、最近の日本語ディベートの人気の高まりを反映するかのごとく、参加者そして聴衆も含めて非常に沢山の方に足を運んでいただき、主催者の一人としてたいへん光栄に思いました。私はこの大会に主に大会運営者として参加したために、残念ながら沢山試合を見学もしくは審査する機会がなかったのですが、決勝戦の司会および試合の解説という役で AB両部門の決勝戦を見ることができました。この第1回秋期大会では、今後の日本語ディベートの発展の為に考えなくてはならないいくつかのテーマを示していたように思われますので、それを簡単にまとめてみたいと思います。

まず最初に大会参加者の多様化があげられます。B部門では全国教室ディベート連盟のディベート甲子園高校生の部の論題、「日本は積極的安楽死を法的に認めるべきである」が採用されたせいもあってか、会場には制服姿の学生さんの姿が多く見受けられました。一方、大学生や社会人参加者もあり、日本におけるディベート活動の参加者の広がりが見られました。

従来ディベートは大学の英会話サークルの1活動としてや、なにやらビジネスで成功するための「詭弁屋養成」の怪しい活動のようなイメージがもたれていたように思われます。しかし教育活動としてのディベートは、密室の中で行われる「議論の専門家養成」のような狭いものでは決してなく、だれもが気軽に行うことで人前でスピーチをする力をつけたり、ニュースや社会の様々な問題に対して関心を高め、積極的に考え自分の意見をもつ力をつけるための活動であるべきだと思います。

このような学生と社会人が混在して行われるディベート大会は、ディベート活動が盛んに行われているアメリカにもないものです。そのような意味で、今回の大会の1部門で安楽死のトピックを採用したのは、よいアイデアであったようです。これからもこのようは日本語ディベート大会が様々な工夫をしていくことで、さらにディベート人口の多様化や増加に貢献していくことができればよいと思います。

次に、日本語ディベートにおけるコミュニケーションの問題について述べたいと思います。本大会決勝戦の後には、観客からの質議の時間が設けられていましたが、そこで多かった質問は、ディベーターの試合中のコミュニケーションについてのものでした。簡単に言ってしまえば、「スピーチが観客にわかりづらい」というものです。決勝戦には5人の審査員に加えて、一般の観客の方が多数おられました。そして一部のディベーターのスピーチが審査員にはわかるかも知れないが、一般の観客にはわかりずらいのではないか、またそのようなスピーチをディベートではすべきかというのが、その主な質問の内容であったと思います。

この質問に対し、1人のディベーターは「それは大会の主旨による」、すなわち「一般の聴衆を対象にやるディベートと、ディベートの専門家が審査員をするディベートでは、スピーチスタイルは異なってくる」と答えていました。確かに一般の聴衆とディベートやトピックについて熟知した審査員に対してでは、議論の説明の仕方などが異なってくることは確かだと思いますが、その両者が混在している場合、果たして今回のようなコミュニケーションスタイルをとるべきであったかは、再考を要すると思います。また、今回の決勝戦について言えば、聴衆の違いといった単純な問題であったかは疑問です。

特にA部門の決勝戦で気がついたことをいくつかあげてみましょう。よく「喋る速度が速すぎてわからない」という意見が聞かれますが、この決勝戦に関して言えば、喋る速度よりも「内容の伝わりやすさ」に問題があったようです。

ディベートのスピーチにおいて内容の伝わりやすさを決定する要素はいくつかありますが、まずスピーチの構成があげられます。肯定側の第2立論などでは、否定側の出した不利益の議論に反論するために多数の細かい議論を散らすことがあります。しかし10以上の細かい議論を出していても、それが有機的につながっておらずバラバラしていたりすると、結局何が言いたいのかわからなくなってしまうなどの問題が起ります。また簡潔に速く喋ることにばかり集中してその一つ一つの議論の説明が十分になされなかった場合、内容は伝わらなくなるでしょう。これらのことは大学英会話サークルの英語ディベートに、非常に良く見られる問題です。

次に「言葉遣い」の問題があります。英語ディベートではより多くの内容をなるべく簡潔に言うために、省略したり短い言葉で説明したりすることがありますが、それを英語でするのとまったく同じ形で日本語ディベートに持ち込むと、言っている内容がわからなくなります。今回の肯定側第1立論は、いきなり「計画。」という一言で始まりました。私もノートをとりながら聞いていて、「いったい何のことだろう」と戸惑いました。どうやら英語ディベートで行われる"(affirmative)plan"の日本語訳だと気がついた頃には、その「計画」の内容は半分終わっていました。その他にもいわゆる"turnaround"議論を「反転」などと言っていました。

このように今回の決勝戦には、スピーチの構成や言葉遣いの両面で、英語ディベートをただ日本語に「直訳」しただけというスピーチがいくつか見られました。特にスピーチの構成に関して言えば、構成の悪さが英語から自分の第一言語にすり変わっているだけで、英語ディベートと全く同じようにわからないものだとわかりました。そのようなスピーチは一般の観客はもちろん、ディベートの訓練を積んだ審査員にもとてもわかりづらいものです。一般の観客の方達はただ聞くのをやめてしまえばいいのですからまだ良いですが、審査員はそれでもなんとか何を言っているのかを考えて我慢して聞かなくてはならない分、大変苦労をしているわけです。そのような状況に聴衆を追い込んでしまったら、やはり「大会の主旨うんぬん」の前に「コミュニケーションの責任を果たしていないのではないか」という疑問がわいても当然と言わざるを得ません。

構成の問題については、これはどのような言語でディベートを行っても生じる問題なので、さらにディベートにおけるコミュニケーションの問題として各ディベーターが注意すべきでしょう。一方、言語の問題については、「計画。」よりは「肯定側のプランを提示します。」などでよいと思うし、「反転」などと言わずに、普通に「肯定側のプランはむしろ、経済には良い影響を与えます」のような普通のクレームを使えば良いと思います。Turnaroundという言葉はもともと'turn the tablesaround'という実際に英語にある表現から来ていますが、「反転」には「劣勢から優勢に逆転する」という直接の意味はないので、いきなり「反転!」などと言われると、大変奇異な感じがして聴衆を戸惑わしてしまいます。日本語ディベートだからといって、あまり「日本語」という概念にとらわれず、「自分の普段使っている言葉」でディベートをやると考えれば良いのではないでしょうか。

来年の3月にはまた春の大会が開催される予定です。これからも大会とともに日本語ディベートがさらに発展していくことを願ってやみません。

(うすい なおと, JDA理事, 愛国学園大学講師)

 


第一回JDA秋季ディベート大会を終えて

 

飯田 浩隆(運営スタッフ)

 

「秋にもディベート大会をやろう」理事の安井君の発案で動き出したJDA秋季ディベート大会。私もスタッフとして運営に参加させて頂きました。当日はA/B両部門あわせて20チームの参加があり、盛況のうちに終了したことは何よりです。会場を提供して頂いた株式会社バベル、ジャッジの方々、その他運営に協力して頂いた方々に厚く御礼申し上げたいと思います。

近年ディベートは社会的にも注目を集めるようになりました。学校の授業でディベートを取り入れたり、会社の研修の一環としてディベートを行うところも多いと聞きます。しかし、実際に試合という形でディベートを実践できる場はあまり多くないのが現状です。ディベートの理論を学んだり、練習をしてみることも必要ですが、大会に出場して真剣勝負の試合を行うことこそディベートの大きな醍醐味です。真剣勝負だからこそ、勝っても負けても得られるものは大きいでしょう。私自身も、かつてJDAのディベート大会に出場し、とても楽しく貴重な経験をさせて頂きました。(そのときのパートナーは、何を隠そう、今回大会運営の中心となってくれた理事の安井君です。)大会に参加された方、見学された方が同じように感じて頂ければいいですね。

JDAの大会の特長は、オープンな大会であることだと思います。現在、ディベート活動をしている団体はいくつかありますが、それぞれ用いている論題や試合形式(フォーマット)が異なるせいか、それぞれの団体で大会を開催しても、参加者が「内輪」の人に限られがちです。今回の大会では、高校生から社会人まで幅広い方々に参加して頂けたことは、ディベート界の交流を図る意味でもとても良いことだと思います。私自身も、試合後のレセプションでは、大会に参加された方、見学に来られた方々とお話する機会があり、とても楽しく過ごさせて頂きました。

もっとも、今後もより多くの人が参加しやすいようにするためには、大会の論題や試合形式についてもまだまだ検討しなければいけないところもあるかもしれません。今大会では「直接税の累進性の緩和」「積極的安楽死の法制化」という論題を用いましたが、これはディベート・サークルの学生が半年かけて議論していくための論題であって、本格的な議論をするためには相当突っ込んだリサーチが必要とされます。準備の時間がなかなか取れない社会人の方や、ディベートを始めたばかりの方が参加しやすいようにするためには、もっと簡単な論題を用いることも考えてもよいでしょう。

JDA秋季ディベート大会はまだ始まったばかりです。今後ともより多くの方々にディベートの楽しさを知って頂く場となるよう、皆さんのご協力をお願いしたいと思います。ともに、JDAのディベート大会を育てて行きましょう。

(いいだ ひろたか, JDA理事, 日立製作所勤務)

 

 

 

  

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