試合後のコメント 

北野 宏明


決勝戦に残られたディベーターの方、ご苦労様でした。いくつか手短にコメントさせていただきたいと思います。

その前に、この会場の中で、ディベートを経験なさった方ってどれくらいいらっしゃるんでしょうか?(ぱらぱらと手が挙がる)…半分くらい…、それ以外の方はディベートは始めてですか。今日始めてディベートを御覧になる方ってどれくらいいらっしゃいます?(何人かの手が挙がる)

今回の決勝戦のディベートは、途中までかなり質の高いものだったと言えると思います。途中からかなり議論が崩壊してきまして、一方的な展開になってしまいましたが…。

まず全体的に、議論の流れ、というか、スピーチ毎にちょっとコメントさせていただきますと、今回の試合の流れにおいては、肯定側の肯定側の第一立論の内容がかなり決定的な要素を持っていたと思います。

なぜかと言いますと、他の、私がジャッジした予選の二試合ではですね、厚生省の判定基準を使って、さらに、心臓移植を行う、というのが典型的なパターンだったんですね。で、これに関しては実はいろいろ力な否定側の議論というのがあります。

今回の決勝戦での肯定側は、これを避けまして、(脳死判定の基準として)厚生省の判定基準に加えて、脳血流検査を(プランに)入れている点が非常に違うんですね。で、この脳血流検査を入れることによって、実は脳死でない患者を脳死だと誤認してしまう、という議論に対して釘をさしている、ということです。

脳血流検査を入れることによって、その問題をクリアしています。特に、脳死の論題の場合はですね、厚生省基準で肯定側の議論を作った場合はほとんど勝ち目がない、というか、かなり苦しい議論の展開になるんですね。

で、否定側の議論というのは、立花隆さんの「脳死」、「脳死再論」と「脳死臨調批判」といった文献に書いてある話を中心にして、厚生省の基準が間違った基準である、というかなり強い議論を展開することになってくるんです。

で、それをどうクリアするか、というところで、肯定側も立花さんの議論を汲みまして、立花さんは、脳血流検査とか、聴性反応とかの検査を入れれば、まあいいだろう、という議論を展開しているわけです。

否定側の議論を考慮に入れた肯定側の検査基準だ、ということですね。これがかなり肯定側に有利に使われている。

それと(肯定側立論の特徴の)もう一つは、肝臓にした、というところですね。これが実はかなり有利なんですね。

なぜかというと、ところどころでてきましたが、慶応大学の近藤さんの議論、というのがあって、これが実は、(移植を受ける患者の)5年生存率は(移植をせずに)放っておいてもあまり変わらない、というのがあるんですが、この人の議論は、基本的に心臓に関するものが多いんですね。

ところが肯定側は肝臓の話をしているので、実は、否定側の議論がかみ合わないんです。だから、間接的な推論をしなければならない。

で、肯定側はそれに対して、あと、数カ月で死んでしまうような患者に対して80%が5年延命、という、肝臓に対して、非常に具体的な議論をしている。こういう点が、他の今までに出ていた多くの議論と違うところで、かなりいいところだと思います。

それと、プレゼンテーションは全体によかったと思います。

第一否定立論に関しては、たとえば、予想不利益とかですね、たとえば植物状態の人までに、(脳死判定が)拡大してしまう、とか、将来的にどんどん弱者切り捨てになる…これは、若干スペキュレイティヴ、といいますか、断片的な話であって、問題は、実際には政府はどういう手段をもってこういうことが行われているか、というところなんですけどね。

で、これに関しては、肯定側の第二立論で、非常に具体的に8つの反論で、完全に息の根を止めた、ということが言えると思います。

で、それと、否定側は第一否定立論のところでは、5年生存率の話であるとか、感染症の話で、非常に強力なアタックを展開していたのですが、これも残念ながら第二肯定立論で、基本的には反論されてしまった、という状況だと思います。

で、ここで、審査員はどう考えるかというと…私はずっと後ろの方で見てましたけど、大体審査員と同じ様な感覚でいつも見てますが…そうするとですね、肯定側は大体ちゃんとした強い議論が最初の立論で出てきている。それで、第一否定立論で、予想不利益であるとか、問題解決性のアタックとか出てきて、おもしろい試合になるな、という感じがするわけですね。ここまでは非常によかった。

で、肯定側第二立論は、否定側第一立論の議論を全て、完全に反論していると言っていいと思います。そうすると、否定側は、このままでは勝てない、というのが非常に明確になっているわけですね。で、ジャッジがどう見るかというと、ここで、どういう新たな展開を第二否定立論で模索するのか、というところが焦点になるわけですね。

で、もし、私が否定立論とするならば、ここまでの第一否定立論の議論は全部捨てて、全く新しい議論を6分間展開したと思います。

ここまでの段階で、長年の経験から言って、申し訳ないんですが、たぶんこの議論は反論しても勝てない、というのが私の印象ですね。

要するに、第一否定立論と第二肯定立論の議論の強さを比べた感じ、完全に第二肯定立論の方が強い。これは、第二否定立論や、その他の反駁で、いくら否定側が立て直そうとしても、たぶん立ち直らないだろう、というのが、第二肯定立論を聞き終わった後の私の感想なんですね。

そうすると、否定側は、これを無理に立て直すか、ここまでの議論を全部捨てて新しい議論を出していくか、どちらかの選択を…まあ、そのミックスもありますけど…迫られるんじゃないかな、という感じがします。

ところが、今日の否定側はそれをやらなかったわけですね。最初の議論をずっと展開していく、という戦略をとっていた。これがどう出たか、というのは、御覧になってわかると思います。

それとですね、途中で、反対尋問があるんですが、ここで、第二否定立論が終わった後の肯定側からの、否定側に対する反対尋問というのは、非常に見事なものであったと思います。肯定側の反対尋問はかなり強かったんですが、特に、ここはですね、80%は助かるんですね、ということを徹底的に押していったわけです。これは非常に有効な議論で、解決可能性の議論が最後までキーになってくるんですね。つまり、第二否定立論で新しい議論が出されなかった、特に、予想不利益について全く触れていないんですね。そうすると否定側は、問題解決可能性全てに命をかけてくる、というのはこれは明白になってくるわけです。

そうすると、問題解決可能性がどうか、というのは、肯定側は数カ月で死んでしまうはずの人が80%5年延命率を得る、というこのカード一枚に全てを頼ることになります。ということは、反対尋問で…直接相手と言葉を交わすここの所で、相手にこの80%延命率を認めさせる、ということが、最大の使命となってくるわけですね。

ということで、その、反対尋問のところで、これにかなりの時間を割いて、80%は認めるんですね、ということを徹底的に突いていって、これを否定側に認めさせた、と。これがこの試合でかなり大きな分岐点になるんですね。

で、この後、否定側というのは、この80%に関しては認めざるを得なくなってくるわけです。

ところが否定側は、そこでしか勝負できない。だけど、反対尋問でそれを認めてしまっている、そういう状況に追い込まれていった、というのが試合の流れです。

ですから、全体的な流れを見ていくと、どこで否定側は勝ちにいくか、肯定側はどこで反駁していくか…、そうすると、否定側は、ここしか残れないな、というところを見ると、今度はそこを反論できないように、事前にそこのところの息の根を止めに行く、という作戦に、肯定側はいった、という感じがします。

それと、第一肯定反駁(1AR)なんですが、ここではですね、肯定側はたぶん勝ちが見えたと思うんです。そういう風に感じた、というのがスピーチに出ていまして、ちょっと流してしまった、と。これはやはりもっと徹底的に息の根を止めるようなスピーチをして欲しかったな、という気がします。

たとえば、肝臓が5年のどうのこうの、というところがありましたね。

否定側は確かに不利な状況ですが、まだ完全には死にきっていないようなところがあって、それに対してやっぱり若干流した返しをしてしまっている、と。

これはやっぱり危険なんです。ディベートは最後まで息の根を止めるというスピーチをしていただけたらもっとおもしろかったんではないかと思います。何かちょっと寸止めのような…寸止めを推薦しているディベートの提唱者もいますが…やはりここは息の根を止めて欲しかった、という感じになります。

大体そういう細かい議論があるんですが、じゃあですね、ここで、もし否定側に立ったときにはどうしたらいいか、という話が出てくると思うんですね。

これ(今回の肯定側立論)は肯定立論としてはかなりいい議論だったと思います。で、ぱっと聞いたときに僕もこれはどうしたらいいかな、と、ちょっと困った。普通のやりかたではこれは潰せないな、と。

普通だったら、脳死の判定基準のところでかなりいじめられるわけですね。ところが、そこはうまくクリアされている、と。完全ではないけど、ある程度クリアされている、ということになると、これはですね、立花隆さんの最近の議論で、視床下部の一部だけ残ったところを含めて、それでもまだ生きているんではないか、という議論があるんですね。

で、そこら辺まで持って来ちゃって、実は本当の脳死なんかないんだ、要するに、全部脳が死ぬときには…身体の機能が全部停止してしまって、それだったらもう心臓も動かない状態だ、と。心停止とほとんどイコールの状態までなる、と。脳死というのはものすごく、思っているよりも、遅い段階でくるんだ、という風な議論を出してきて、それなら心臓停止と同じであるから、心臓停止後の心臓停止後の移植と、死体肝の移植と同じ結果にしかならないというところまで持ってくれば、否定側は…そういう風な議論が可能かどうか分からないんですけれども…そういう証拠を集めることをしてみる、であるとか、判定基準はいいんだけれども、お医者さんが間違った判定…ミスジャッジメント…をしてしまう、であるとか、または悪意を持っているであるとか…ま、悪意を持っている、というのは(脳死の判断や、移植の実行において)3人でローテーションを組む(と、プランで言っている)からちょっと難しいでしょうけれども、それでもそういう風なお医者さんが、慣れないとか、いろんな理由で、間違った判定や悪意をもった判定をする可能性はゼロではないんで、そういうところから切って行くわけですね。

そうすると、肯定側の救える人数というのは、数十人、ということで、これは早い段階から妥協してしまったところなんですね。これはどこで妥協しているかというと、第二肯定立論でいったん認めてしまっているんですね、数十人、というところは。

そうすると、数十人救える、ということなのだけれど、ところが、間違った判定というのが、数十人以上行われている、という可能性がある、と。たとえば、7千人くらい誤診断の可能性があるわけですから…。そうすると、実際には脳死でないはずの人が脳死と判定されるというリスクが大きい、という議論に持っていく、という可能性はあります。

ま、そういういろいろな議論が…今回否定側は最初に出した議論をそのまま継続することを選んだわけですが…これが一つのスタイルではなくて、第二否定立論で新しいことができる形である、と思います。

で、そのときには肯定側はまたかなり違う展開をしてこないといけなくなってくる、ということである、と思います。

時間もないんで、ここで質問等を、受けたいと思います。

コメント後の質疑応答




松本:はい、今のコメントの内容だけでなくても結構ですので、何かご質問がありましたら、手を挙げてください。

観客1:今日始めてディベートというものを見学しました。それでですね、論題が、「日本政府は脳死した提供者からの臓器移植を合法化すべきである」ということですが、でも、聞いていますと、合法化した場合の問題点よりは、臓器移植そのものの是非を論じていたように思えたんですけれども、合法化イコール臓器移植の推進ではないと思うんですが…たとえば、自分が肝臓を患っていて臓器移植をすれば助かるとしても、哲学や職業に基づいて臓器移植を受けない、ということもあると思うんですね。その辺の価値の議論はないんですか?

北野:まずですね、脳死状態で臓器移植をしたいと思う人、したくない人、というのは、肯定側の政策案の中で、じつは、生前の意志表示によって行われる、というのが、3番目の条項にあります。そこで、それに、じゃあ何人が賛同するか、というところは確かに議論になります。

今回は、そこは議論の中心争点にはなりませんでしたけど、実は一度(議論に)なっています。脳死からの死体肝(移植)は、やりたい人がすごく少ない、っていうのが否定側からでてきているのですが…、その後大きな議論にはならなかったんですが、これは、別の試合の展開であるならば、かなり大きな議論になるところです。

というのは、こういう証拠資料があります。「普通に、元気なときのアンケート調査であるならば、善意を見せて、(臓器を提供しても)良いという。家族もまあ、良いという、と。ところが、いざ肉親が脳死になると、ほとんど嫌だ、と意見が変わる」という調査資料があるんですね。

そういう議論がでてきた場合に、(臓器提供者の)数がどのように変わるか、というのは非常に大きな争点になってきます。

それと、脳死イコール臓器移植ではないんですが、ただ臓器移植がなくて脳死だけ認めても、ほとんど政策上の利益はないんですね。ですから、なぜ脳死を死という形で合法化するかというと、一つは、死の概念の問題もありますが、やはりその後で、じゃあそれで、政策として国民にどういう利益がもたらされるか、ということを考えた場合には、臓器移植が脳死者から可能になるから救える、という風なところに持ってこないと、政策を採る意義、というのが主張できない。そう言うようなところなんですが…よろしいでしょうか。

観客2:この大会は資料制限を設けていないよね?

北野:はい?

観客2:資料制限はつけていないんでしょ?

北野:資料制限は…

観客2:資料を、自由に双方が持ってきてやる、と。そうすると、議論が確立せん、と。かみ合わなくなってくる場面がでてくると思う。場所(大会)によっては、資料を制限して、全く同じ資料を両者が出す、それによって戦わせる、というところがある。今、相撲をやっているとする。相撲の一つのルール、枠の中で戦うとかみ合ってくる。

資料制限をつけている場合と、つけてない場合の(議論が)かみ合うか、かみ合わないか、という問題点がでてくる。ここ(JDA日本語ディベート大会)の場合は資料制限を持っていない。従って、論議がかみ合わなくなってくる。そういう点が心配だ。その点は会場によって違う。主催者側の…資料制限をやるべき場合とやらない場合とがある。それをどう思っているのか?

北野:資料制限は、原則として行いません。基本的に議論がかみ合うかどうかは、資料を制限しているかどうかではなくて、議論をしている議論者の能力による場合が大きい、というのが経験的に分かっています。それと、資料を自分で調べるということは調査能力という非常に重要なものと関係しますから、あらかじめ与えられた資料でやるのでは、ディベートの本質的な能力を開発することにならない、と考えています。

観客3:肯定側否定側の共通の論点1、論点2というのは、前もって互いに決められた論点を…(議論の筋道があらかじめ)決められていたように思ったんですけれども…。

北野:決めてないです。

観客3:そうですか。お互いに同じ資料を持っておられて、それに基づいて、何か紙を持ってやっておられたように見えたんですが…

北野:その論点1、というのは、肯定側がまず論点1としてこのようなことを言います、論点2としてこのような…、という、(肯定側立論の内容に)対応して、相手の論点1に対して我々はこう思います、というのが否定側からでてきていますけれども、実際相手が何を言うか、お互いが何を言うか、というのは、全然打ち合わせなしです。トーナメントですから、打ち合わせしたら試合にならないんで、全く打ち合わせなしで、やっています。

松本:今、紙、と言われたのはたぶん、最初にスピーチが終わった段階で否定側が肯定側のスピーチを見せてもらっている、ということですね。

トーナメントの場合には、相手の使っている資料とか、スピーチの原稿とかを貸してもらえる、という慣習があるんですね。この大会ではその慣習をOKとしている、ということです。まあ、小さな社会人の大会なんかでは、相手の使った証拠資料を見せてもらうことを禁止している大会もある、ということです。

観客4:今日始めてディベートを見させていただいて…二試合しか見ていないんですけれども…両方とも、否定側の方がですね、肯定側の、「こういう風にやったらできるじゃない、臓器移植できるじゃない」という議論に対して、「いや、こういう理由の場合はこれだからダメだよ、これはダメよ、これはダメよ…」と、いちいち受け取るような感じになっている、と。

私の少ない知識の中では、臓器移植の前には必ず倫理感の問題、というのがでていますね、まあ、新聞の方でも騒がれている、と。

で、言ってみればですね、肯定側の方にとっては、技術水準もあるんだし、実際に助けたい、助かりたい、という人もいるんだから、それは心情として、なぜやっちゃいけないの、ということで、かなり強いような気がします。最初の論題として。

そういったときに、どうして否定側の方がですね、信念とか、倫理観に近いようなもの、精神性に近いようなところで、何か一つ土台みたいなものをドンと入れなのか?これには何か理由があるのでしょうか?

北野:それは否定側が(倫理観や、精神面の)追求を利用しなかっただけだと思うんですが…そういうのを議論してはいけないということはなくて、政策のレベルで…これは国の政策の議論をしていますから…政策レベルで、そういう倫理観であるとか、価値観であるとかがあるからこういう政策を採るべきでない、という議論を、否定側が打ち立てることができれば、それはもう、議論して全く構わないです。今日我々が見た限りでは、そういうことを利用してなかった、ということです。

観客5:小学校の教師をしております。今日のこととは直接関係ないんですが、小学校のディベートというのをやるようになったんですけれども、たとえば歴史の中で…この前やったのは原爆を落としてよかったのか悪かったのかとかそういったディベートを行う場合があるんですが、
はたして、論題にふさわしいものとはどんなものでしょうか?…子供達にふさわしい論題とは…歴史的事実論題とかは扱って良いものだろうか…その辺をちょっと教えていただきたいのですが…。

北野:そうですね、確か、アメリカの高校なんかでも希にやってたんですが、…やれなくはないんですが、結構難しいかな、と言う気がしますが…どうでしょう、松本先生の方が教育現場に近いんで…

松本:指導する先生に何らかの意図があってやる場合はよくないと思うんですね。なにか、一つの歴史観をご自身が持っていて、それを教え込むための道具としてディベートを使う、というのはまずいと思うんです。ですから、フェアな立場で、(ディベートを)利用でなくやる、ということが、まず第一条件だと思います。

第二条件として、やはり、心情的にどちらかの側に近づいているような場合には、最初にやるディベートとしては向いていないんではないかな、という気がします。

ですから、小学生に(ディベート教育を)やる場合には、特に、論題の選び方には注意された方が良いんではないかな、と思います。

他にもあるんじゃないかな。他にもっと良い論題があれば、そちらを採用された方がいいと思います。

北野:あと、ディベートはやっぱり意識決定の一つのプロセス、という側面が大きいですから、昔どうだったか、というのは、ある程度は(ディベートを)やれると思うんですけど、これからどうするべきか、みたいな話の方がわかりやすい、というか、効果的ですね。よりイマジネーションが刺激される。

ある段階で、そうすべきだったかどうか、というのは(ディベート)可能ではありますけれども、ただ、事実として、そうなってしまったという現実が一つありますから、そこのところでどれだけクリエイティヴなディベートができるか、という問題はあると思います。

松本:時間になってしまったので、申し訳ありませんが、この辺にさせていただきます。ありがとうございました。(拍手)

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