国民の司法参加の論題に寄せて

安井省侍郎



 「陪審制度」には,「権利」としての側面と,「義務」という側面がある。政府の司法制度改革審議会が現在進めている議論では,陪審制度は,新たに国民に「義務」を課す,という側面を前面に押し出していない(少なくとも報告書でははっきりしない)。陪審制度を巡る議論では,陪審制度が原告,被告にとって「権利」足り得るのか,一般国民にとって,受容すべき「義務」になり得るのか,という観点からの議論が重要である。

 米国在住の私に,“Summon for Jury Duty”という葉書が届いていたのは去年の11月のことだった。読んでみると,「あなたは陪審員として招集されたので,いついつに裁判所に出頭せよ」,というものだった。さらに読むと,「この招集を無視すると,規定により処罰されます」とまで書いてあり,外国人も陪審員の義務があるのか?と正直驚いた。しかも指定された日時がテスト(私は今,米国の大学院に留学中。)と重なっており,困った。同封されていた説明書を読んで,米国市民以外は義務を免除される規定を見つけ,返信用葉書にその旨記載し,送り返したところ,折り返し,「あなたは米国市民ではないので,陪審員の義務を免除します」ときちんと返事が来た。

 そう,陪審は被告から見れば「権利」であっても,一般市民から見ると「義務」なのである。陪審員は,各郡ごとの選挙登録名簿,身分証明書や自動車免許証の名簿から無作為抽出される。学生であろうと,弁護士であろうと一切関係ない。友達や教授達も,ときどき,「今日は陪審員だから」,と授業を休んでいるのに何度か遭遇した。期日の変更はできるが,招集そのものから逃れることはできない。招集されたらあきらめて行くしかないのである。多い人だと,2年間で4回も招集されたことがあるとも聞いた。結構な負担である。

 米国人は裁判がとても好きである。テレビでは,毎日 “citizen’s court”という番組がやっていて,実際に司法資格を持った人が裁判官になり,テレビで裁判をやっている。争いの内容は,200ドル貸したけれど返してくれない,とか,ルームメートが部屋代を払ってくれないとか,本物の裁判には費用がもったいないからかけられないが,本人達にとっては大事なのであろう事件が扱われている。この番組では,判決は口頭でなされる。その「裁き」をみんながエンターテインメントとしてみているわけである。当然,評判の良い裁判官とそうでない裁判官がでてきて,人気のある裁判官はゴールデンタイムに割り当てられたりする。人気のある裁判官の1人は若い女性で,まるでNDTのジャッジのように早口で判決を述べるが,判断は私が見ていても明晰で,NDTの出身者ではないかと疑ってしまう。Cable TVのチャンネルには,“Court Channel”というものがあり,日本と違い,法廷にテレビカメラの持ち込みが許されているので,こちらは本物の裁判を実況中継したりしている。こちらは時間がかかるので,編集されていたりする。

 米国人はなぜこんなに裁判が好きなのか,という理由について,複数の友人から以下のような説明を聞いた。アメリカはイギリスの圧政から独立したので,まず,行政を信じない。イギリスでは市民の代表である議会を信じるが,その議会によって決められた各種の植民地法令で苦しめられた米国人は,議会も信じない。では何を信じるかというと,自分自身を信じる,というのである。さらに,誰の援助もなく,自らの手でアメリカを開拓した市民達は,行政も,議会も,開拓の過程で,必要に応じて作っただけで,自分の権利義務に関わる重要な決定を行政や議会に任せるつもりは全くない。この点,何千年も支配階級と被支配階級という形で「統治」されてきたヨーロッパやアジアの市民とは根本的に考え方が違うのである。当然,争いが起きた場合は,行政や議会には頼らず,決闘で勝負をつけるか,裁判で決着をつけるのである。

 陪審制は,この米国の歴史から見れば,必然といえるかもしれない。行政や議会を信じないのであれば,市民の争いを裁くのは,行政官である職業裁判官ではなく,市民でなければならない。原告,被告にとって,陪審員が「権利」であるのはそのためであろう。職業裁判官の方が陪審制より良い,と考えていれば,陪審制は行使すべき「権利」には当然ならないからである。

 今,政府の司法制度改革審議会は,市民が判決に何らかの形で関わる制度を導入しようとしているが,完全に市民が裁判での事実認定をになう,すっきりとした陪審制度を導入しようと言う動きはない。陪審制度が導入されない根底には,職業裁判官よりも,陪審員の方が信用できる,とは日本国民が考えていないことがある。個人的には,陪審制と職業裁判官による裁判のどちらを選択するか,と問われれば,私は職業裁判官を選択するであろう。わたしにとって,陪審制度は行使したくなる「権利」ではないのである。当然,陪審員の「義務」を負うのもできれば避けたいのが本音だ。

 この歴史的国家観の違いを無視して,職業裁判官による弊害をあげつらい,それを防止するためには国民が裁判に関わる必要がある,という司法制度改革審議会の論理の展開は,国民の意識から乖離している気がしてならない。職業裁判官による弊害が存在するのも事実ではあるが,それは裁判官の研修なり,専門家の裁判の参加でかなりの部分改善できる。ただ弊害を取り除くために,一般市民に新たな「義務」を課すべきなのであろうか。一般国民の裁判への参加を国民に義務づける以上,そこにはもっと積極的な理由,「国民が裁判に参加しなければ実現できない価値」が必要であろう。職業裁判官を信じ,職業裁判官による厳格な判決を望む大多数の日本国民にとって,そのような理由が果たして存在するのか,あるいは陪審制を「権利」として見なせるのか,疑問を持たざるを得ない。

 陪審制度は「義務」なのである,という認識をきちんと持ち,それに見合うだけの何かが得られるのか,という観点からの議論がこの問題では必要不可欠であると思う。しかし,それは政府の司法制度改革審議会では十分になされていないのが現状である。今回の論題を巡るディベートでは,義務を課される国民の一人として,是非この観点に踏み込んだ議論をしていただきたいと思う。

[J.D.A.理事 厚生労働省勤務,ハーバード大学公衆衛生学大学院修士課程在学]


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