1.7 ディベートで必要となる能力や技術を身につける意義は?

 


「弁論術は、弁証術における推論がそうであるように、相反する主張のいずれについても説得することが必要とされているからである。だがそれは、相反することの両方を説得することを目指しているのでなく(なぜなら悪いことは説得すべきでないから)、事の真相がどうであるかを見落とすことのないためであり、また、他の誰かが議論の扱いを正しく行っていないときには、われわれが直接にそれに反論できることを目的としているのである。」(アリストテレス、「弁論術」1335a



(1) ディベートの技術を獲得する意義

 ディベートの技術を獲得する意義は何でしょうか。ディベートの技術は、ともすれば詭弁や不要な対立をあおるもので、学ぶべきものではないという批判があります。

このような批判に対し、おそらく、世界で最初に「弁論術」というジャンルを構築したアリストテレスは、上のようにその「術」を修得する必要性をのべています。

アリストテレスは、ディベートの技術は、あくまで、

@多面的角度から検討することにより、事実を見落としたり、誤解したりしないようにすること

A詭弁を弄する者や、筋の通らない議論に反論し、正しい結論へ導くこと

を主眼として用いるのだ、と説いています。ディベートを学ぶことにより、より正しい判断を行える人材を育てることができるのです。以下、具体的にみていきましょう。

(2) 物事を多面的に見る必要性


先生は、「日本は、終身雇用制度をやめるべきだ」という論題について、賛成と反対の立場から発言をさせました。太郎君は、賛成の立場から、「年功序列は組織を硬直化させ、活力を失わせる」と発言しました。先生は、「終身雇用と、年功序列は違うよ。成果主義を取り入れた終身雇用も可能だから」と説明しました。「じゃあ、終身雇用だから、やめたいときにやめられなくて困る」というと、先生は、「終身雇用は別に奴隷制度じゃないから、やめたいときはいつでもやめられるんだよ」とまた説明しました。太郎君は、「そうか。それなら終身雇用は、労働者の生活を安定させる」といいました。次郎君は、反対の立場から、「終身雇用は、不要な人材を解雇できないので、効率的な経営を阻害する」と発言しました。先生は、「そうだね、終身雇用というのは、労働者を定年まで解雇しない制度で、メリットもデメリットもそこから発生するんだ」と説明しました…

物事を理解するためには、複数の側面から検討することが大切です。上の例のように、良い面と悪い面から検討するのも一つのやり方です。このやり方で、例のように誤解や間違いをただすことができますし、抽象的な「終身雇用制」のどこがポイントなのかがわかってきます。

 どのような判断を下すにせよ、判断の根拠となることを正しく認識することは必要不可欠なことです。もちろん、正しく認識したからといって、正しい判断が得られるとは限りませんが、最低限、認識誤りによる判断ミスは防ぐことができます。

ディベートでは、複数の視点を持つ発言者によって、論題について多面的な分析がなされ、その上で第三者や複数の関係者が判断を下します。このように、ディベートの技術を学び、実践することにより、意思決定における認識の誤りを防ぐことができます。

(3) 詭弁や筋の通らない議論への反論の必要性

 社会問題となった宗教団体の幹部がディベート教育を受けた者であったことから、ディベートの能力を身につけることはむしろ社会に災厄をもたらす、という批判もあります。この批判は、そもそも、「弁論術」としてディベート能力の教育訓練が始まった頃からあるものですが、ディベートの能力や技術を悪用し、真実をねじ曲げてしまう「詭弁」への警戒感は根強くあります。

 詭弁は、意図的に真実をねじ曲げることを目的にしています。詭弁を見過ごすことは、正しい判断のためには致命的なことです。また、意図はないにせよ、内部に矛盾や誤りを含んだ議論をそのまま見過ごすことも、正しい判断の阻害要因となります。

しかし、筋の通らない議論に対して、どう筋が通らないのかを適切に指摘することはかなり高度な訓練を積まなければ難しく、詭弁に対する反論はさらに難しい場合があります。このため、正しい判断を行うために詭弁を排除するためには、高度なディベート能力が必要とされるのです。できるだけ多くの人が詭弁を見抜ける能力を持つことにより、詭弁も通りにくくなり、適切な判断ができる社会が実現できるでしょう。

 なお、いかなる技術も、悪用すれば凶器となります。高度な技術であればなおさらです。このため、高い技術を学ぶものには、高い倫理観が求められます。アリストテレスの「悪いことは説得すべきでないから」という倫理性を忘れず、ディベートを学んでいただきたいと思います。

(4) 教育ディベートへの懸念について

 教育ディベートについては、批判もあります。代表的な批判に対する簡単な考え方をまとめておきます。

ア 批判するばかりの人間を育てる

 「何事にも批判的で、文句ばかりいう子供を育てるのではないか」という批判については、そもそも、どのような組織であっても国家であっても、健全な批判は正しい意志決定を行うために、また民主的な意志決定を行うために必要不可欠なものです。批判を許さない社会や組織は全体主義的であり、健全な意志決定を阻害しやすく、人権の侵害につながりやすいと言えるでしょう。

 また、適切なディベートの訓練を受けた者は、批判する必要があることとそうでないことをすばやく見分ける能力を身につけますので、無駄な批判や反対のための反対はむしろ少なくなるはずです。

イ 自分の意見と異なる主張をさせるのは自我を破壊する

 「自分の意見と違うことを主張させることは自我を破壊する」という懸念については、ます、議論に使用する論題が、慎重に検討された抽象的かつ甲乙つけがたい公共的なものに限定されており、思想や信条など、人格に大きな影響を与える主張を強制することを避けていることを理解する必要があります。

 また、公共的な論題についての自分の持論というべき問題についても、一度ディベートの遡上に載せることで、より一層その問題についての理解が深まることにもなります。一度教育ディベートに参加した人からは、自分のスタンスとは異なるスタンスをとることで、相手側の主張の論拠がよく理解でき、論題に対する自分自身の考え方が深まった、という感想がよく聞かれます。



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